マタイによる福音書4章 「キリスト公生涯の幕開け」


アウトライン

1A  イエスの試み
  1B  御霊の導き
  2B  悪魔による試み
    1C  石からパン
    2C  飛び降り
    3C  サタン礼拝
2A  イエス宣教の開始
  1B  ガリラヤへの移住
    1C  ヨハネの幽閉
    2C  預言の成就
    3C  説教の開始
  2B  弟子の召命
    1C  ペテロとアンデレ
    2C  ヤコブとヨハネ
  3B  群衆への働き
    1C  教えと説教といやし
    2C  群集の追従  

本文

 今日はマタイによる福音書4章を学びます。この章のテーマは、「キリスト公生涯の幕開け」です。

この章は、マタイの福音書全体の中でも、大きな分岐点になります。というのは、キリストの働きの開始が書かれているからです。今まで私たちは、キリストが実際の活動を始められる前のことを学びました。イエス・キリストのルーツが1章に書かれており、2章と3章では、イエス・キリストの現れについて書かれていました。2章では、キリストがこの世に現れたこと、つまり誕生について述べられており。3章では、キリストが人々の前に公に現れたことについて述べられています。ですから1章から3章までは、キリストの実際の活動の準備と言えるでしょう。

まず、私たち自身がキリストを迎え入れる準備が必要でした。その準備は礼拝であり、悔い改めです。礼拝については、東方の博士たちはイエスをユダヤ人の王として拝みました。悔い改めについては、多くの人がヨハネの説教により悔い改めました。そして実は、前回からキリストご自身の準備を学んでいます。それは、ヨハネのバプテスマを受けられたことです。キリストは、キリストに従う者たちの模範となられました。けれども、もう一つ準備が必要でした。それは悪魔からの試みです。今日はその部分を学びます。

1A  イエスの試み
 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

 私たちが、イエスが悪魔からの誘惑を受けられたことを聞くとき、神の御子である方が、なぜ誘惑されなければならないか、という疑問が出てきます。キリストに罪があったのでしょうか。パウロの言葉を借りれば、「絶対にそんなことはありません。」イエスが試みを受けられた目的が、ヘブル人への手紙2章と3章に明言されています。まず2章17節を見て下さい。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

キリストは、「あわれみ深い忠実な大祭司」と呼ばれています。祭司とは、神と人との間の仲介の役割をはたす人物です。人の前では神の代表者であり、神の御前には人の代表をします。ところで、神と人との間には大きな隔たりがあります。無限の神と有限の人との間に、また、聖なる神と汚れた人間の間には、大きな隔たりがあるのです。ヨブはこう叫びました。「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」

神と人との架け橋になるような、仲裁者が存在しないのです。そこで祭司は、その仲裁の役割を果たしました。民が動物の捧げものを捧げるときに手助けをし、彼らに代わって聖所の中に入りました。ところが、祭司も人間にしかすぎなかったので、完全な橋渡しになることはできません。日本人の葬式でも、お坊さんがお経を唱えますが、それは、人々に代わって死後の霊界との交渉を行っているのです。すなわち、祭司の役割と似ていますが、無論、神と人との橋渡しにはなっていません。祭司自身も、無限の神、聖なる神と隔たりがあります。

 それでは、もし、神であり、かつ人である存在がいたらどうなるでしょうか。完全に神であるが、完全に人間でもある存在です。完全に神であるから、罪をおかさず、汚れもなく、聖なる神を完全に代表します。また完全に人間であるから、人間の弱さを理解して、私たちに同情出来ます。つまり、祭司の役割を完全に執り行うことができるのです。実は、イエス・キリストがその祭司です。それゆえに、「あわれみ深い忠実な大祭司」と呼ばれているのです。そして、「試み」と言うのは、人間の肉の弱さのゆえに経験することですが、イエス・キリストも経験されたのです。

 次にヘブル書4章15、16節も読みましょう。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。ここでは、「罪は犯されませんでしたが」と付記されています。キリストは、悪魔からの試みを受けたからといって、罪を持っておられたのではありません。けれども、私たちの肉体の弱さによって受ける誘惑を、十分に理解されておられるのです。こうして、イエスが試みをうけられたのは、人間の弱さを身にまとうためだったのです。

1B  御霊の導き
 それではマタイ4章に戻りましょう。1節には、「御霊に導かれて」と書かれています。誘惑の発祥は悪魔でしたが、それを導かれたのは御霊でした。3章の16節において、水から上がられたイエスに御霊が下られたのを見ることができます。そして御父が、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と仰せになりました。つまり、イエスが神の御子としての働きをスタートしようとされていたのです。けれども、今説明しましたように、イエス・キリストは神の御子でありますが、尚且つ人間であられました。人間の弱さを同情して、おりにかなった助けをすることができるようになるために、イエスの上に下られた御霊が悪魔の試みを受けるように導かれたのです。

2B  悪魔による試み
 それでは、実際の試みの部分を見ていきましょう。

1C  石からパン
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

 悪魔の最初の試みは、お腹が空いておられるイエスが、石をパンになるように命じる事でした。石をパンに変えることは、私たちには誘惑になりませんが、というのも、私たちは石をパンに変えようがないからです。けれども、イエスには試みでした。悪魔も言っています。「あなたが神の子なら。」と。イエスは神の御子なのですから、すべてのことをお出来になります。全能の方です。けれども、その力を自分の食欲のために、つまり肉の欲のために用いなさい、とサタンはほのめかしています。イエスがこの世に来られた目的は、人々に光を与えるためです。盲目の人が目を開き、悪霊につかれている人が解放され、罪に縛られている人が自由になることでした。人々の必要のために、ご自分の力を用いていくのであって、ご自分の必要のためではありません。したがって、石をパンに変えることは出来ましたが、それは神の律法に反する事でした。

 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 イエスは、「書いてある。」と言われています。聖書からの引用です。イエスはみことばをもって誘惑に抵抗されました。私たちも同じようにして誘惑に抵抗する事が出来ます。ヤコブは言いました。「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。 (1:21)」

 みことばによって、わたしたちは自分たちの魂を悪から救い出すことができるのです。そして、イエスが即座にみことばを引用されましたが、誘惑の場面においてすぐにみことばを引用できるように、みことばを心に蓄えていかなければなりません。必要な時に、聖霊がそれを思い起こさせてくださいます。引用されたみことばは、「パンだけで生きるのではなく、神のみことばによって生きる。」というものです。わたしたちが、肉体だけで生きるのはでは十分ではなく、神のみことばに従って生きなければいけないことを示しています。肉体を食物によって養うように、神のみことばによってわたしたちの霊を養う必要があります。

2C  飛び降り
 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

 悪魔は、一度誘惑するだけでは済みませんでした。別の分野において、イエスを試しています。同じようにわたしたちに対しても、悪魔は一回では引き下がりません。わたしたちは、とかく一つの誘惑に打ち勝つと、「バンザイ!」とばかりに喜んでしまいますが、そのとき悪魔は、他の種類の誘惑をすでに始めているのです。ですから、いつも思いと心を見張っていなければなりません。

 パンを石に変える誘惑の次は、神殿の頂から身を投げてみる誘惑です。これもわたしたちにとっては誘惑ではありませんね。けれども悪魔は再び、「あなたが神の子なら。」と言っています。神の御子であるがゆえの誘惑です。イエスは山上の垂訓の中で、「エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。(5:23)」と言われました。このエルサレムが聖なる都です。聖書は、王であるメシヤがエルサレムに来られて、その神殿からイスラエルと世界を支配されることを、一貫して語っています。イエスが、まさにそのメシヤなのです。ですから、神殿の頂から、身を投ずる事によって、イエスはご自分の威光を人々に見せびらかすことも出来ました。イエスは神の御子ですから、天使が味方について、イエスを落ちて死なないようにすることは当然出来ます。ですから、この種の誘惑は、プライドあるいは自慢に訴えかけているものです。自分の立場、権利、能力など、自分の生活について自慢する事は、神の律法に反する事です。

 また、悪魔が神のみことばを用いてイエスを試していることに気付いてください。イエスが神のみことばを盾にされたので、今度は神の御言葉を矛にしてイエスに攻撃しました。けれども、イエスの対応に注目して下さい。「イエスは言われた。『あなたの神である主を試みてはならない。』 とも書いてある。」

 イエスは、「とも書いてある。」と言われて、再びみことばをもって抵抗されました。わたしたちが聖書を読むときに、ただ一つのことばに基づいて教理や教義を作り出す傾向があります。けれども、聖書はつねに全体として見ていかなければなりません。バランスが必要です。また、「主を試す。」というのは、神の約束が実行されるために、故意に危険を犯すことを言います。例えば、イエス様が「信じる人々には次のようなしるしが伴ないます。蛇をつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けない。(マルコ16:16−17)」といわれましたが。ある人々は、輪をつくって蛇を手渡す儀式を行ったり、有毒な薬を飲む教義をつくったりしています。けれども、それは主を試す事であります。主を試みてはいけません。

3C  サタン礼拝
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

 次は、すべての国々とその栄華を得るために、悪魔を崇拝する誘惑です。これもまた、イエスにとって激しい試みでした。というのは、イエスが地上に来られた目的は、世界を神のものに贖う、つまり買い戻す事だからです。神が天と地とを造られたとき、神は人に生きものを支配する権利をゆだねられました。ところが最初の人アダムは、神に対して不従順になり、悪魔の言う事に従い、悪魔の奴隷となってしまいました。そこでアダムは、地に対する支配を悪魔に委譲してしまったのです。それからこの世界は、悪魔の支配下に入りました。確かにイエスも悪魔を、ヨハネの福音書で、「この世を支配するもの」と呼ばれています。ですから、この世に起こる災害や、戦争や、悲劇を見て、「神は愛なら、なんでそんなことを赦されるのか。」と非難するのは間違っています。この世は悪魔の支配下にあるがゆえに、そうした悲劇や悪がはびこっているのです。

 イエスは、この世を悪魔から神のもとに贖うために、この世に来られました。けれども、イエスは尊い代価を払って、世を神とご自分のものにしなければならなかったのです。ご自分のいのちという尊い代価を支払わなければなりませんでした。ペテロの手紙第一1章18節には、こう書かれています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです。」ですから、イエスは十字架という苦しみを通して、全世界をご自分にものとしなければならなかったのです。ところが悪魔は、そんな苦しみを通らなくても、すぐにあなたのものになるよ、といったのです。

 わたしたちにも同じような誘惑があります。悪魔がイエスに国々の栄華を見せたように、彼はわたしたちにも目の欲に訴えかけます。目の前にあること、すぐに得られる結果を見せて、「日々自分の十字架を負って」といわれたイエスの言葉を気にしなくてもいい、と誘い込みます。けれども、キリストに従う道は、まず患難であり、次に忍耐であり、そして練られた品性、希望なのです。わたしたちは、信仰の戦いを絶え間なく続けていかなければなりません。

 イエスは言われました。「引き下がれ。サタン。『あなたの神である主を拝み、種にだけ使えよ。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを離れて行き、実よ、御使いたちが近づいてきて使えた。

 こうしてイエスは、試みに打ち勝ちました。キリストを信じる者は、同じように悪魔の誘惑に打ち勝つ事ができます。なぜなら、その人はキリストによって罪の力から解放されているからです。パウロはローマ書6章において、こう言っています。17節です。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心方服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」わたしたちは、神に服従することにより、罪を犯さなくてもよくなりました。そこでヤコブはこう言っています。「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7)」

2A  イエス宣教の開始
 こうしてイエスは、実際の活動を始められる前に、バプテスマと悪魔からの試みをもって準備をされました。この準備はとても大切であり、今から読む実際の活動に生かされているのを見ることが出来ます。

1B  ガリラヤへの移住
 ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。

 イエスは、ガリラヤのカペナウムと言う町に移り住まわれました。この福音書を続けて読むと、ガリラヤがイエスの活動の中心地になっていることがわかります。

1C  ヨハネの幽閉
 ここでイエスが、ヨハネが捕らえられたことを聞いてガリラヤに移られたことに注目してください。前回学びましたように、ヨハネは主の道をまっすぐにする先駆者として来ました。したがって、ヨハネからイエスに宣教がバトンタッチされる必要があったのです。ヨハネが実際の活動ができなくなるまで、いたって大きなことは行われませんでした。この受け継ぎは、イエスがヨハネのバプテスマを受けられたことにも現れています。ヨハネの行っていることにご自分も参与される事によって、ヨハネの宣教の引継ぎを行われたのです。

2C  預言の成就
 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

 イエスがガリラヤに移られた理由がここに書かれています。つまり、預言を成就するためです。そしてガリラヤの様子がここに描かれています。「異邦人のガリラヤ」と言われているように、異邦人の多いところでした。したがって、異教的な影響の大きいところだったのでしょう。婚前交渉、不倫、中絶、盗み、うそ、偶像崇拝など、神の律法に反することが当たり前のように行われていたに違いありません。ですから、ここにかかれているとおり、人々は暗闇の中に座っており、死と死の影にすわっていたのです。

 ところが、キリストは、そうした暗闇の中に光として住まわれました。ソロモンは、「生は暗闇の中に住む、と仰せられました。(1列8:12)」と言っています。キリストは、罪と汚れと絶望の、ど真ん中に来られたのです。王がどこかに行く時は、普通、その地域の代表的なところを訪問し、そこはきれいに整頓されます。一般の人々と、その日常生活とはかけ離れたところに存在します。けれども、キリストの場合は反対です。この王は、何の飾り気もない、暗闇に住む人々の真っ只中に来られたのです。

3C  説教の開始
 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 ここに、宣教と書かれていますが、マタイ3章1節の「教えを宣べて」と同じ原語が使われています。つまり、イエスは、バプテスマのヨハネと同じように、説教を開始されたのです。そして説教とは、前回学びましたように、「宣言する」とか「布告する」という意味があります。新聞のことを思い出して下さい。新聞にはいろいろな種類があって、「号外」というのは、新しい情報を伝達するのが目的です。そして少し時間がたって、詳しい情報が盛り込まれた記事が掲載され、さらに時間がたつと、「解説」の欄が出てます。イエスは、新聞でいう「号外」を最初に行われたのです。天の御国を宣言し、布告されました。これが9章まで続きます。そして10章以降に、天の御国のさらに詳しい説明をされています。イエスは公の活動を宣教、あるいは、説教によって開始されました。

 また、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という言葉はヨハネの説教と全く同じ言葉です。ここにおいても、ヨハネの宣教の引継ぎをかなり意識されている事がわかります。

2B  弟子の召命
 そしてイエスは弟子となる人々を召し出されています。

1C  ペテロとアンデレ
 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。

 イエスが、網を打っている猟師ペテロを召し出されています。ペテロにとって、漁は自分の誇りであり、網は自分の手の一部になっていました。それを捨てて、イエスに従いました。その後彼は、水の上を歩いているイエスに近づこうとしたり、いろいろな場面で、自分の悟りに頼らず、心を尽くして主により頼む訓練を受けたのです。けれども、彼には多くの失敗があり、使徒ヨハネの福音書によると、イエスが復活されてからペテロが漁師に戻っている場面を読むことが出来ます。彼の信仰には浮き沈みがありました。けれども、イエスが宣言されたように、彼は教会の最初の指導者になったのです。ですから、彼の能力や才能ではなく、すべては神の恵みです。

 大事なのは、イエスが呼ばれたときに応答する事です。「すぐに網を捨てて従った」とあります。そのことを示す典型的な例で、イサクの息子のヤコブがいます。彼の歩みは、人間的に見ると完全とは程遠いですが、神がリベカをとおして仰せられた、ヤコブに対する約束に従順でした。また、神の祝福をいただくことを第一としていました。彼はキリストに対し、「私はあなたを去らせません。私を祝福して下さらなければ。」と泣いて嘆願したのです。つまり、失敗はするのですが、神の御声にに応答したのです。ペテロとその兄弟アンデレは、網を捨ててイエスに従いました。

2C  ヤコブとヨハネ
 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

 ヤコブとヨハネも、ペテロとアンデレと同じようにイエスに従いました。異なる点は、舟だけでなく父も残して従ったことです。イエスは言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)」これは親を大事にしないということではありません。何を一番にするかの問題なのです。わたしたちが恋愛をする時に、いちいち、「お父さん、この人を好きになっていいですか。付き合っていいですか。」というでしょうか。イエスに従うことも同じです。両親を敬っても、イエスとわたしたちとの関係に両親は入り込めないのです。こうして、ヤコブとヨハネは舟と父を残して従いました。

3B  群衆への働き
 それでは次に群衆に対するイエスの働きを、見て行きます。

1C  教えと説教といやし
 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

 イエスの宣教は、第一に教えること、第二に宣べ伝える事、つまり説教すること、第3に病気を治す事でした。今日の教会は、説教することばかりに重点がおかれて、教えることがないがしろにされています。説教は主に不信者に対するものですが、教えは信者に対するものです。聖書が教えられていることによって、聖徒は養われて、キリストにあって成長し、奉仕の働きのために整えられていきます。また、病人のために癒しを期待して祈る事もわたしたちの宣教の一つです。

2C  群衆の追従
 この宣教の結果、大勢の群衆がイエスにつき従いました。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

 
イエスの宣教の結果、弱った人々が大勢つき従いました、わたしたちがよく考える王様の姿とは、正反対です。サタンはこの部分に反対して、「自分の腹を満たすために、あなたの力を用いなさい。」と誘い込みましたが、イエスは、弱いもの、貧しいもの、のけ者にされているもののために、ご自分の力を用いられました。わたしたちは、イエスに従うものです。わたしたちの周りに、悩んでいる人、苦しんでいる人、疲れている人はいるでしょうか。そういう人々に心を留めるのが、キリストに従う生き方です。

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