マタイによる福音書517-48節 「律法学者とパリサイ人にまさる義」

アウトライン

1A 律法と預言者の成就 17−20
2A イエスの義 21−48
   1B 殺人 21−26
   2B 姦淫 27−32
   3B 誓い 33−37
   4B 復讐 38−42
   5B 敵 43−48

本文

 私たちは今、主が宣言された御国の福音を呼んでいます。5章から7章までが、ガリラヤ湖の山腹で主が教えられたこと、しばしば「山上の垂訓」と呼ばれますが、それを呼んでいます。前回は、八つの幸い「八福」を学びました。「心の貧しい者は幸いである」という宣言から始まった部分です。これを頭で理解しないください、まさに主は私たちをご自分の御国の中に招き入れてくださっています。心の貧しさを今、抱くように招き入れてくださっています。

 当時のユダヤ人は、神の律法について、また神の預言について熱心にその義を待ち望んでいたにも関わらず、何かボタンの掛け違いのようなことをしていました。世界は異邦人であるローマが支配しています。それに対する鬱積がありました。そして熱心に神の義を求めていましたが、互いに言い争うようになり、また義を宣べ伝えているようで、自分自身は罪の中に陥ったりしていました。また生ぬるくなり、礼拝や献身が形式的なものになりました。けれども、外側の神の国の到来だけは求めていたのです。実に、今の時代の私たちも陥っている過ちです!そこに必要なのは悔い改めでした。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから。」とイエス様は宣べ伝えました。

 かつてバプテスマのヨハネは、「私は水でバプテスマを授けているが、その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(3:11」と宣べました。さらに、その火は消えることのない火であり、地獄の火を感じさせるものです。今日読んでいくところは、まさにその聖めの火を感じるようなところです。徹底的な心の貧しさを呼び起こし、真の悔い改めへ導くようなものです。そして、イエスに倣っていく者、イエスご自身を主としていく者として呼ばれる声を聞くところです。巷で言われているような、当時であれば律法学者やパリサイ人が教えているような「義」ではなく、まったく新しい考えの、革命的な義であります。

1A 律法と預言者の成就 17−20
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

 イエス様は、はっきりと「わたしは律法や預言者を成就するために来た」と宣言されています。律法や預言者というのは旧約聖書全体のことを指しています。これからイエス様が語られることは、あまりにもこれまでユダヤ人の間で語られていた義とは異なるため、その過激にも聞こえる律法の解釈に、彼らは全く新しい教えであると誤解する懼れがありました。しかしむしろ、それは正反対であり、当時、正統性をもって語っていた律法学者やパリサイ人らが語っている義が、人間の都合によって律法が再解釈されたものであり、神が律法を与えられた意図と外れていたのです。

 イエス様はここから712節まで、律法を語られます。712節でまとめておられますが、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」と言われました。そして次に広い門は滅びに至り、偽預言者に気をつけよ、と言われているのです。律法学者やパリサイ人の語っている義に安住しているのであれば、必ず滅びる。そして彼らは偽預言者である、ということを語られているのです。

 イエス様の教えは、難しいものではありません。極めて分かり易いもので、おっしゃりたい点を時には極端な例によって語られます。ここでは律法と預言はすべて神からのものであり、残りなく実現することを、「一点一画でも決して廃れない」と語られています。ヘブル語の文字は、その一点や一画が少し位置がずれるだけで、別の文字になり、そして別の単語になってしまうので気をつけなければいけませんが、それらのことは決して起こらずに成就すると言われました。

 しかし当時は、そうした一点一画に焦点を合わせた者たちは、「パリサイ派」と呼ばれるユダヤ教の一派の人たちであると考えられていました。パリサイ派の起源は、バビロン捕囚後の帰還民にさかのぼります。エズラ記とネヘミヤ記を読めば良いです。彼らはバビロンにおいて、モーセの律法を守らなかったためにこのように捕囚の身となったのだと痛切に感じました。それで、モーセの律法を字義的に解釈し、それをそのまま実行することの必要性を感じていました。例えば、イスラエル人と異邦人との結婚を非常に悲しみ、痛みをもって離婚させています。そして律法の朗読が行なわれました。それを行なった学者の一人がエズラなのですが、そこから「律法学者」の職務が生まれました。

 ですから当時で見れば、彼らこそが律法の義を体現している人々です。けれどもイエス様は、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と言われました。聞いていた弟子たちは目が点になったことでしょう。けれども事実そうだったのです。私たちはとかく、自分たちの属している群れや団体が正しいと思っています。すばらしい教えがあるので、そこにいる人々も義人だと思っています。しかし、そこに見える人間模様は私たちに悔い改めを迫ります。だれも完全に到達している人などおらず、へりくだりと憐れみによって成熟へと向かわなければならないのです。

2A イエスの義 21−48
1B 殺人 21−26
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 イエス様は、「昔の人々」という言葉を使われています。パリサイ人たちが持っている口伝律法のことです。時代を経て、モーセの律法に書かれていることはこのような意味であると解釈するものが掟となっていきました。けれどもイエス様は、「わたしはあなたがたに言います」と「わたしは」を強調されています。ここには、単に律法が私たちの守り行う道徳律ではないことを示しています。「わたしこそが律法の完成した姿であり、わたしを受け入れなさい。」という意味合いが込められています。この方こそが神の義を体現した方なのです。

 「殺してはならない」というのは、当然ながら十戒の中の一つにあります。そして人を殺したら、その人は裁きにかけられて、自分自身が殺されなければいけません。これ自体は間違いではありません。けれどもイエス様は、神が「殺してはならない」と命じられた時に、単なる外側の行ないを戒めたものではないことを教えておられます。私たちのあり方、人間のあり方が、他者を殺す方向に動いてはならないことを戒められたのです。

 カインがアベルを殺した時に、その前に彼はどうなっていましたか?怒って、下を向いていました。神はカインに「あなたは罪を治めなければならない。」と言われましたが、怒りとねたみ、憎しみが殺意に発展して、そして実際の行動に移させるのです。けれども、当時の律法学者とパリサイ人は、そうした内面のことはないがしろにしていました。人が怒ったり、ねたんだり、争うことはあまりにも当たり前で、それを否んではやってられないと思っていたのです。けれども、イエス様はその核心部分をそのまま語られました。

 イエス様は遠くにいる人々に怒ってはならないことを教えておられません。「兄弟」と呼ばれています。つまり身近にいる人々です。しかも、同じ神を信じている人たちであります。遠くの人は愛せても、身近な人はなかなか愛せません。だから、そのことをかえって避けてしまうのが私たちの性質ですが、イエス様は「兄弟に『能なし』と言う者は、最高議会に引き渡される」「『馬鹿』と言う者はゲヘナに投げ込まれる。」と言われています。

 最高議会とは最終的な裁判のことです。最後の審判のことです。そしてゲヘナとは、もともとは「ヒノムの谷」という意味でした。エルサレムの町の南を走っている谷ですが、そこで幼い子をいけにえに捧げる偶像礼拝が行われていました。ユダの王ヨシヤが宗教改革を断行し、そのいけにえをやめさせ、そこをゴミ捨て場に変えました(2列王23:10)。それからゴミ焼却の火が立ち上っていたのです。その様子が、死後に永遠の滅びとして与えられる所である地獄をよく表わしていたのです。

 いかがですか、これからさらにイエス様の律法の教えがありますが、私はここを読んだだけでも「地獄の火」を感じました。自分は救われないことを感じました。兄弟を恨むという罪が示されるからです。パリサイ人や律法学者のように、何とかして自分の力で神の国に入ろうということは全くできないことを知りました。ただ徹底的に悔い改めて、神の憐れみにすがり、キリストが成し遂げてくださった罪の贖いに走っていくしかできないことを知りました。

 使徒パウロは、バリバリのパリサイ派でした。彼は自分のことについて、「律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:6」と言い切りました。高慢でも何でもなく、事実そうだったのでしょう。けれども彼はイエス・キリストに出会いました。そしてイエス様が教えられた律法の意図を知りました。そこでこう言っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。(ローマ7:14」人間的には非の打ち所のない者を、罪の下に売られている者にせしめたイエス様は、まさに霊的革命家です。

5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。5:26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

 イエス様は、人間関係のわだかまりについて、最優先の注意を払うことを教えておられます。それが実に礼拝より優るものであることを極端な例をもって教えておられます。「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき」とありますが、それはエルサレムの神殿で行なうことです。今、教えておられるのはガリラヤにおいてであります。ガリラヤ地方のユダヤ人にとって、エルサレムで礼拝を捧げるのは往復で一週間かかります。行きで三日、帰りで三日です。せっかく携えてきた牛や羊やその往復の一週間近くの間、どうすれば良いのでしょうか?つまり、そのようなことをしないように、人間関係の不和について和解の一歩を最優先させなさい、ということです。

2B 姦淫 27−32
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

 「姦淫をしてはならない」という戒めも、もちろん十戒の中にあります。しかし、やはりパリサイ人や律法学者の間でさえ、妥協がありました。それは心に思い浮かぶ情欲です。姦淫という行為には至らなくても、思いの中で姦淫の行為をしたいと願うのです。

 イエス様はここで、その思いを無慈悲に切り取ってしまいなさいと教えておられます。ここで「右の目をえぐり出しなさい。」「右の手を切り取ってしまいなさい」というのは、極端な例を挙げて要点を明らかにするためです。初代教父でオリゲネスという人はこの御言葉を見て、文字通り去勢しました。けれども残念なことに、去勢した後も汚らわしい思いは頭から離れなかったそうです。それよりも、先ほどの「和解を最優先にしなさい」という教えと同じく、「つまずきになるものを取り除くことを最優先しなさい。」ということを教えておられます。

 ここで気をつけなければいけないのは、「見る」という動詞です。「続けて見る」というような意味になっています。私たちが目で見て、それに衝動を感じることをイエス様はここで語っておられるのではありません。その衝動に自分の意志を合わせて、その思いを頭にとどませることを話しておられます。宗教改革者マルチン・ルターは上手な説明をしました。「鳥が私の頭の上を飛ぶのは防げないが、鳥が私の頭に巣を作るのは防ぐことが出来る。

 イエス様は人間を知っておられました。この世は、「適当に楽しむことは、心身の健康にも良い。」と教えます。過度に不品行に陥ることは避けるべきだが、多少は楽しまないと、と教えます。いいえ、人間は一粒の種が心に落とされると、それは増殖し、自分の思いを蝕むのです。ですから、「姦淫するな」という戒めを神がシナイ山で与えられた時には、人のすべてを造られた神は、その思いにおいても姦淫をしないよう願っておられたのです。

5:31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

 覚えていますか、申命記の学びでモーセが離婚状について教えました。結婚と離婚、そして再婚については、新約聖書の中において多くの箇所で取り扱われています。あまりにも多くの離婚が今日あるので、私たち教会がどのようにこの問題を対処すればよいのか分からない程です。具体的には、「不貞以外の理由で」という意味がどういうことなのかについて議論があります。けれども、ここでイエス様が語られたかったのは、離婚をしてもよい条件についてではなく、むしろ「男と女は一体となった」という神の御心です。

 そして興味深いことに、離婚についての戒めが、情欲を燃やしてはならないという戒めと、次に「誓ってはならない」という戒めに挟まれていることに注目すべきだと思います。なぜ離婚に至るのか?その二つの大きな理由が「不品行」と「真実を語らない」だからです。私たちが思いの中で、情欲を許した生活を送っていれば、それが次第に夫婦間の愛に亀裂が走っていきます。また、一生、いっしょにいることを誓います、と言ったことについて、その言葉の重さを考えずに気軽に自分の気持ちに合わせて動いていれば、結婚に亀裂が走ります。おそらく数多くの離婚は、この二つの戒めを守っていれば、かなりの数がしなくても良かったと思われます。

3B 誓い 33−37
5:33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。5:35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。5:37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

 「誓い」についても、旧約聖書を学んでいる私たちは何度も目にしてきました。イエス様はここで過激にも「決して誓ってはいけません。」と言われています。これは背景に、「あまりにも数多くの果たされていない誓いがある」ということです。私たちが決意したことについて、自分が話したことについて、それを無効にするような行為を後でしたことはないでしょうか?それが偽りの誓いになります。当時もそれが横行していたのです。ですから、イエス様は「そのような言葉であれば、言わないほうが良い。」という意味で、「決して誓ってはなりません。」と言われています。

 当時の人々は、天に向かって誓ったり、地に対して、またエルサレムの神殿に対して誓ったり、また自分の頭に対して誓ったりしました。自分よりも上位の存在にかけて誓います。けれども、それらはみな神聖なものです。天には神がおられ、地は神の足台であり、エルサレムには王なる神が住まわれています。そして、頭の毛もそれは神がそれをいつ白髪にするか定めることができる部分です。

 そして「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と戒めておられます。つまり、よく考えた上で実行する部分だけを私たちは答えれば良いのであり、軽々しい言葉を慎むべきであるということです。けれども、どれだけ私たちは言葉で失敗することでしょうか?その一言で信頼を失ってしまうことは分かっていても、つい言ってしまいます。悔い改めが必要です。

4B 復讐 38−42
5:38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

 これもまた過激です。「目には目で、歯には歯で」という戒めも、私たちは旧約の中でたくさん目にしました。けれども、これは司法における公正を教える言葉であることを私たちは学びました。窃盗罪を犯した者が、死刑によって殺されることはありません。あくまでも自分が行ったことにふさわしい対価で、その罰を受けます。それが「目には目、歯には歯」の意味する所です。ところが私たち人間は不思議なもので、何とかして自分の行っていることを正当化できるようなものに飛びつき、自分の都合に合わせて解釈します。当時はこれを、復讐しなさいという言葉として解釈していたのです。

 そしてイエス様の過激な言葉が始まります。「右の頬を打つような者は、左の頬も向けなさい。」と言われます。私たちの世界には、あまりもの多くの不正があります。不正義があります。その悪に対してふさわしい正義が執行されていません。その鬱積した思いがあります。当時のユダヤ人の人たちも同じだったのです。

 けれども、イエス様は新しい形での正義を打ち出されました。それは、攻撃的なまでに相手に柔和さを示すことです。不正や不義に単に我慢することではありません。自分がその人の支配を受けることに怨念が鬱積していきます。普通なら仕返しをすることによってそれを晴らします。けれども、イエス様はそれを晴らす方法を教えておられるのです。「ならば左の頬を打たれなさい」ということです。このことによって、相手が、自分が支配する手段を失うことになり、対等になることができます。そして相手が自分のした悪を恥じらうようになるかもしれません。

 そしてそれが暴力ではなく、法的な暴力、つまり法廷の場で告訴されている時も同じであるということです。もし相手が自分の下着まで取るような額を告訴しているのであれば、そこで下着を脱ぐだけでなく、上着も与えてしまいなさいということです。このことで告訴している者が恥じ入ることになります。さらに、「一ミリオン」というは約1.5キロですが、ローマ兵士は荷物を運んでいる時、誰にでもそれを持たせる強制力を持っていました。ただし一ミリオンだけという制限がありました。そこで、二ミリオン歩いてみせるのです。そうすれば、その兵士は顔を歪めることでしょう。このことが上官に知れたら大変なことになる・・・とかえってうろたえると思います。

 この命令を守ったとは決して言えませんが、私たちが以前、家を購入する時に相手を少しうろたえさせたことがあります。中古の家屋を購入しようとしたのですが、私たちは一定の価格を提示しました。相手はかなりいろいろな攻勢をかけてきました。けれどもついに合意しました。それで私たちは契約を結ぶ意図を伝えました。相手は少しびっくりしたそうです。そこからさらに価格を下げてくるのではないかと思って、それで初め身構えていたようです。元々、心で決めていた額を神様に伝えていたのでそれ以上、叩くつもりはありませんでした。

5B 敵 43−48
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 有名で、かつ過激な言葉です。ここでイエス様は、「自分たちの仲間を越えたところの神の普遍的な愛」を教えています。「自分の隣人を愛しなさい」という言葉は、レビ記に出てきましたね。イエス様も最も大切な戒めの一つとして教えられました。けれども、私たちは自分たちの仲間では愛し合うことができるけれども、その間を越えたところにある人々にまで届きません。むしろ外にいる人々を敵視することによって仲間の連帯意識を深めます。ユダヤ人は迫害を異民族から受けてきましたから、敵を憎むことによる民族主義を唱えることは簡単でした。それでユダヤ人の間で「隣人を愛して、敵を憎め」という言葉に変身していたのです。

 その考えをイエス様は粉砕されました。そのために、天の父の恵みを取り上げておられます。太陽や雨は、等しく正しい人にもそうでない人にも神は与えておられます。自然に啓示されている神の恵みは、人との関係においても惜しみなく与えられている、ということです。そしてこの神に似た者にならなければいけない、ということです。そして、兄弟を愛する、良くしてくれる人だけを愛することであれば、他の人々も同じことをしています。そこから一歩前に出て、この世界の光として輝かなければいけません。それで、自分の仲間ではない人、いや自分の働きに反対する人々に対しても、神の愛を示して、神の祝福を祈れと命じておられます。

 そして極めつけの言葉が、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」であります。私たちは「自分は義を行なっている。」という自負を持つことができません。目標が天の父ご自身なのです。まったく不足しています。ゆえに私たちは義に飢え渇くのです。自分自身に拠り頼むことができないのです。神ご自身に自分を満たしてくださるよう願うのです。

 よろしいでしょうか、これらのことについてイエス様は、私たちを神の御国から締め出すために話したのではないことに注目してください。「御国の福音」つまり、良い知らせとして語られました。もし私たちが、これらのことをイエス・キリストというお方ご自身に目を留めることがなければ、御国とはすなわちこの方ご自身の栄光なのだということを忘れていれば、良い知らせではなく、私たちを打ちのめし、痛めつけるものであり、不可能なことを可能にしなさいと言って私たちを酷使しているにか過ぎません。あるいは、適当に選り好みして、自分は守ることができそうなものだけを見つめるという、パリサイ派や律法学者と同じ過ちを犯します。

 そうではないのです、これらの律法は主ご自身が全うされました。主がこれから歩まれる道の中で、ますますそのことが明らかにされます。イエス様は最後に偽りの告発を受けられました。けれども言い返すことはしませんでした。殴られました。殴り返しませんでした。十字架につけられました。けれども彼らを罵るどころか、むしろ、「彼らの罪を赦してください。」と祈られました。そして死なれた後によみがえってくださり、主は、「あなたがたと世の終わりまで共にいます。」と言われたのです。

 だから御国の福音なのです。「私はこれらのことは行えない。自分のあり方を変えることはできないのだ。今のありのままの私でいることを神が認められれば、私は神の愛を感じる。」ではないのです!イエス・キリストが自分の心の王座に着いておられる、ということによって、自分を通してこれらの命令が実現されることによって、確かに人は神のかたちに造られたことが明らかにされていくのです。自分が変わる、ということよりも、イエス・キリストが自分のうちに生きておられるという神秘を体験するのが、ここでのイエス様のメッセージです。

 ますますイエス様の栄光を見てください。イエス様がおられるところに天の御国があります。今のみなさんにも、イエス様が迫っておられる時に、御国も迫っています。

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