マタイによる福音書619-34節 「第一に求めるもの」

アウトライン

1A 対比において 19−24
   1B 蓄え 19−21
   2B 見ているもの 22−23
   3B 仕えているもの 24
2A 優先において 25−34
   1B 神の被造物 25−30
      1C 空の鳥 25−27
      2C 野のゆり 28−30
   2B 命令 31−34
      1C 思い煩わない 31−32
      2C 神の国と義の追求  33
      3C 明日への心配の無用 34

本文

 マタイによる福音書6章を開いてください。今日は後半部分、19節から学びたいと思います。私たちは今、イエス様の山上の垂訓を学んでいますが、これは御国の中に生きる人々の姿です。イエス様は、当時のユダヤ人が考えていた義と、御国における義を比べておられます。律法学者やパリサイ人が教えていたものが、彼らが義であると考えていたものです。けれども、イエス様が教えられる義は、極端にまで異なるものでした。

 前回、6章前半においては、良い行ないにおいてさえ、その心が正しくなければ神からの報いがないことを教えられました。そこで大事だったのは、「天におられる父からの報い」です。父なる神との親しい交わりのゆえ、この方を愛するがゆえ、良い行ないをします。人相手ではない、ということです。したがって、人から離れて隠れたところで行なっているところでも同じことができているかを試してみなさい、ということを言われます。人に見られなくても、施しをすることができているか?祈りがたった独りでも豊かになっているか?そして断食も、人々にそれが知られなくても喜んで行なっているかどうか、ということです。

 そして後半は、極めて大切な話題に入ります。それは「世の富」についてです。御国の中に入る者たちにとって、この世界にある富とどのように向き合うのかは、たくさん考えていかなければいけない話題です。私は、信仰を持ってから少しとまどったのは、教会で語られる献金のことでした。信仰というのは、永遠の命のことであったり、愛や平安、喜びのことではないのか?なぜ、世において汚れた金のことを教会の中で聞かなければいけないのか?と思いました。

 これはむしろ、極めて不健全な見方であることを信仰が成長するにしたがって分かってきました。なぜなら、この世にあるものは全て悪いもので、目に見えないものだけが善であるという二元論になっていることに気づいたからです。主はもともと、アダムに対して被造物を支配しなさいと命じられました。この世にあるものを管理することによって、神のかたちである人の存在意義があるのです。食べること、結婚すること、商売をすること、学校に行くことなど、これらの日常生活を神にふさわしい管理をすることによって、この地上に生きている神の目的を果たすことができ、また御国を相続するにふさわしい者にしていくのです。

 ある牧師は、イエス様は天国のことよりもお金のことをもっと多く話された、と言っていました。私は数えたことがないので分からないのですが、もしお金が信仰に関わりなければ、イエス様はそこまで話されなかったはずです。

 ここの個所を一言でいうならば、「優先順位」です。イエス様の話は一つになっていて、結論が33節に出ています。「神の国をその義をまず第一に求めなさい。」富を求めてはいけないということではありません。それはいま話したように、富を悪とすることです。そうではなく、どちらを第一にしていくのかという優先順位の問題です。

1A 対比において 19−24
1B 蓄え 19−21
19
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 初めに、「どこに蓄えるのか」ということをイエス様は話しておられます。地上にあるものは朽ちるけれども、天においては朽ちたり、消えていくことはないことを話しておられます。使徒ペテロは言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:4

 ここでイエス様は、地上に蓄えをしてはならない、ということを話しておられるのではありません。むしろ地上にある財産を自分のために蓄えているのか、それとも御国のために蓄えているのかという話をしておられます。

 ルカ16章において、イエス様は不正の管理人の話をしました。彼は主人の財産を乱費したので、主人は彼から管理の仕事を取り上げようとしています。失業したらどうしよう?と彼は思いました。それで、彼は主人の財産で金を借りている債務者らのところに行き、債務書に書いてある額をなんと低い額に書き直させたのです。最後までひどい管理人です。なぜ彼がそんなことをしたのでしょうか?首にされた後に、自分に好意を持ってくれる人を作るためです。そして、できるならその人たちから仕事を見つけてもらえるかもしれないと思いました。恩を売ったのです。

 そしてなんと主人は、この不正の管理人をほめました!その不正のことではなく、彼が将来のことを考えて賢く今の財産を用いたからです。そして、イエス様はこう言われました。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(9節)」この世においてでさえ、将来のために今の財産をどのように運用すればよいかを考えます。それならなおさらのこと、神の御国のためにこの世の富を賢く運用していきなさい、ということであります。

 大事なのは、21節です。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」いくら霊的な装いをしていても、口から出てくる言葉がいかに主を愛して、主に仕えているか、そのような霊的な事柄であっても、その人のお金の使い方が賢くなければ、その人は主に目を向けていないことになります。具体的に自分の財を何に用いているのかを見ることによって、その人の心がどこにあるかを知ることができます。ある牧師は良いことを言いました。「献金や支援金の効用は、祈りが真剣になることだ。ある宣教師や教会奉仕者のために祈ると言っても、心がともなっていないことがよくあるが、その人を金銭面で支援すれば本当に祈る。」

2B 見ているもの 22−23
22
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

 「からだのあかりは目です」というのは分かりづらい表現ですが、「自分の見ているものによって生活が支配される」ということを要は言っています。私たちの体のどこかが不自由であっても、もし目が不自由であれば全身を見ることはできません。全身が暗くなります。同じように、私たちが目で見ているものが富であれば、私たちの生活全般が富になってしまう、ということです。これは再び、富を見るなということではありません。そうであったら、金融関係に勤めている人や会計士は働けなくなってしまいます!そうではなく、自分のため、あるいは自分たちのためだけに富を見ていくということです。

 そして「あなたのうちの光が暗ければ」とイエス様は言われていますが、体の外側についている目が見えないことによって体全体が見えなくなるのだから、体の内側にある心が暗くなってしまっていたら、いったい生活はどれだけ暗くなるだろうか?ということです。私たちの心次第で、今の生活がどうなるのを決定づけるのだ、ということです。

3B 仕えているもの 24
24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 「どこに蓄えているか」、そして「何を見ているのか」に引き続き、「何に仕えているのか」を考えなければいけません。ここに出てくる「富」は、当時、異邦人によって神として拝まれていたマモンのことです。金銭は、私たちが神に仕えていないかぎり、私たちを神のように支配することになります。金銭を使っているのではなく、金銭に使われてしまうのです。自分が金を管理しているのではなく、金が自分を支配するのです。そこから脱却するには、神に仕えることだけが解決です。

2A 優先において 25−34
 そしてイエス様は、思い煩うことについてたくさんのことを語られています。

1B 神の被造物 25−30
1C 空の鳥 25−27
25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

 ここからの個所で数多く出てくる言葉は、「より」です。「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなもの」です。頭で考えれば、当然、命と食べ物であれば、命が大切に決まっています。「食べ物がなければ命が続かないではないか。」と反論するかもしれませんが、命のために食べ物を取るのであって、食べ物のために自分の生活を送っているのではありません。けれども、私たちが神を信じていない人々に「何のために生きていますか?」と尋ねれば、答えることができません。どうやって食べていけばよいのか、どこに住むか、何を着ようかという以上の生きている意味を見出すことができないのです。

 今話したように、私たちは神か富かのどちらかに仕えています。神を信じていないと、命よりも食べ物のほうが大切になります。体よりも着る物のほうが大事になります。食べ物や着る物のほうに、気を寄せているのです。この気を寄せている状態をイエス様は「心配する」と言われています。食べることを考えるな、何を着るか考えるな、ということではありません。

 日本においてなぜ人々が神とキリストを信じないのか、という議論があります。そしてなぜ、こんなにも自殺者が多いのだろうか?という疑問もあります。この二つは密接に関わっています。この自分をどのように生かしていくのかということに気を使いすぎて、そこにすべてのことを養ってくださる神の余地がないのです。自分の命のために、どこで働くのか、何をすべきなのかを考えていたはずなのに、その仕事のことで、自分が取り組んでいることのほうに気を寄せて、それで自らの命を絶つのです。これはキリストの弟子に対してイエス様が語られている言葉ですから、私たちに対してもイエス様は語られています。私たちは思い煩いという敵との戦いの中に生きています。

26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 イエス様は二つの例を挙げられます。一つが空の鳥で、食べることについての例えです。もう一つが野の花のことについてで、着ることについての例えです。空の鳥についてですが、「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めること」とイエス様は言われます。これは人間が食べていくために行なっている活動です。これらのことをしていないけれども、空の鳥は現に生きています。

 なぜか?それは神が養っていておられるからです。神が生かしておられるのです。ここが根本的な真理です。イエス様は、「心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができるのか」と言われています。命については、すべて神の御手の中にあります。種まきや刈り入れ、倉に納めることは、人間の営みによりますが、命については人間の作為によってどうすることもできません。けれども不思議なことに、人間は自分の作為によって、自分の頑張りによって、神が定めておられること、神が掌握しておられることを変えることができると思っているのです。

 そしてイエス様は、わざと空の鳥の例を使われています。空の鳥よりも神によって造られた人間のほうがはるかに優れています。神にとって大切な存在です。空の鳥でさえ神がそのように養っておられるのだから、ましてや人は神に養われないことが、しかもキリストの弟子となり、神の子供にさせられている者たちが養われないことなどない、と言っておられるのです。

 けれども人間には高慢の罪があります。神のかたちに造られたので自由意志を持っており、神と同じように計画を立てることのできる存在、知恵をもって創造的な働きをしていくことのできる存在であります。けれどもあくまでも被造物なのです。自分の命は完全に神の手の中にあるのです。ところがそれさえも、自分で何とかしようとする。これが罪なのです。

2C 野のゆり 28−30
28
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

 野のゆり、というあまりにもありふれた風景をイエス様は示されます。ここでも同じように、人間の営みは一切ありません。着物を作るために紡ぐことをしません。けれども、比較が良いですね、あの栄華を極めたソロモンよりも美しく着飾っていますね。最大の芸術家は主ご自身です。オークションで、莫大な金額で有名な画家の作品が売られていきますが、そこに描かれているものは模倣品であって、実物は神の被造物そのものなのです。そして、この野の花よりも、私たちキリストの弟子のほうを神ははるかに大切に思われています。野の花は、明日は炉に投げ込まれるかもしれない存在です。それなのにここまで着飾ってくださっているのです。

 ここでは女性が、また男性もそうかもしれませんが、着るものに気を使うなということではないことを繰り返します。化粧をするな、飾り物をつけるな、ということではありません。けれども、化粧のことで、飾り物のことに心を使い、心配というものによって肝心の心の美しさを削りとってはいないか?ということです。女性の美しさは内にあることを使徒ペテロは教えました。神が野の花に与えられた美しさ以上に、自分に神は美しさを与えておられます。

 私は大学生でクリスチャンになりましたが、クリスチャンではない学生よりも、クリスチャンのほうが綺麗な人が多いと思いました。クリスチャンではない人は、神から与えられた顔に合わせた化粧をしていないのです。ケバイのです!テレビに出てくる綺麗な人の真似をしようとします。けれども、クリスチャンの女性は神に与えられた賜物を受け入れています。賜物を受け入れているので、それに見合う服を身につけ、化粧をするのです。

2B 命令 31−34
 そしてイエス様は訓戒を与えられます。

1C 思い煩わない 31−32
31
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 食べること、飲むこと、着ることについて心配するかしないかは、神を知らない異邦人か、それとも神を父と仰いでいるキリストの弟子であるかどうかの分かれ目になります。前にイエス様は、異邦人のように言葉を繰り返して祈ってはならない、と言われました。同じように、もし私たちが何を着ようか、何を食べようかと思い悩んでいたら、礼拝者に対して無力なだけでなく、無関心な神を抱いているのと同じになってしまいます。私たちの神は天の父なのです。お父さんなのですから、必ず養ってくださいます。

2C 神の国と義の追求  33
 そして今日の個所で最も大切な言葉が次にあります。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 ここで大事なのは、先ほど話したように「まず第一に」であります。キリストの弟子になるというのは、すべてが優先順位です。父と母を敬うのですが、イエス様よりも愛するのであれば、弟子としてふさわしくありません。第一とする方を第一としないで、他のものを優先させるのが私たち人間の姿であり、それでイエス様は、「自分を捨てて、自分の十字架を負う」また「自分のいのちを憎む」という強い言葉を使われました。

 けれども、それが世捨て人となることではないのです。ここで次に大事な言葉は、「加えて」であります。私たちは「イエス様がおられたら、それが全てだ。」と熱心になるとしばしば言いますが、それは当たっていて、間違っています。例えば友達がいなくて淋しい人がいます。けれども、その人がイエス様を第一の友として生きることを始めました。そうすれば、その人はイエス様だけといっしょで他の友は誰もいないのではなく、むしろ、加えて信仰の友を神が与えてくださるのです。結婚相手を捜しているのなら、伴侶となる人を第一に求めるのではなく、イエス様を求めていれば、加えて神を愛する伴侶を神が与えてくださるのです。

3C 明日への心配の無用 34
34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 先にイエス様が引用されたソロモンですが、彼は世にあるあらゆるものを求めて、それで結論が「空の空、すべてが空しい」と言った人であります。けれどもその彼も、ここでイエス様が言われていることと同じ意見を述べています。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。(伝道者5:18

 世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物があふれるようになった社会に心の病が始まるということです。物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。日々の糧は神からの贈り物であることを実感できます。空の鳥のように、自分も養われているのだということを実感できます。けれども物が溢れているところに、私たちは物そのものに仕える誘惑が増えます。そして物に仕えているので心を思い煩い、それで心の力をすり減らすのです。

 物があること、便利なこと、安全であることが悪いことでは決してありません。それらは神からの賜物であり、感謝して受け取るべきものです。けれどもそれは同時に責任であります。絶えず選択していかなければいけません。富に仕えることなく、富に頼ることなく、ただ天の父の養いの中に生きていくことを意識して選び取っていかなければいけないのです。

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