マタイによる福音書7章1-12節 「律法のまとめ」

アウトライン

1A 裁いてはならない 1−6
2A 求めなさい 7−11
3A 黄金律 12

本文

 マタイによる福音書7章を開いてください。私たちは山上の垂訓の最後を読みます。イエス様は、天の御国に入る者の幸いから語られ、そしてパリサイ人と律法学者の義にまさる義を教えられました。それは、私たちがどうしても避けて通ってしまう肉を殺してしまうところの義です。内なる変革をイエス様は求めておられます。

 その変革は、罪を避けることのみならず、善行と呼ばれているものの中であっても同じであることをイエス様は教えられました。人に見られるのではなく、天の父からの報いとして行うことです。そして、もう一つ御国において大切な要素は「富」です。この世における富と神の国とは密接につながっていることを私たちは前回学びました。神を第一とすることにより、富を管理していかなければいけないことを学びました。

1A 裁いてはならない 1−6
 そして御国の福音について、もう一つ大切な要素があります。それは「裁き」です。1 さばいてはいけません。さばかれないためです。2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 この世における富が、それが私たちを支配してしまうので気をつけなければいけないのに対して、裁きは私たちが自らを支配者にしようとする欲求の表れになっています。この欲望は、アダムが罪を犯すところにさかのぼります。彼らは神が正しい方であられ、この方が命じられることをただ行うことこよって、神のかたちに造られた代理者としてこの地上に生きることができました。けれども、蛇が誘惑したのは、善悪の知識の木からの実を取って食べることです。自分自身が善悪の判断をしたい、神を義とするのではなく、自分自身が義の基準になり、それで何が善であり悪であるかを判断したいという欲望によって、アダムはその実を食べたのです。神のみが判断される方、裁き主であられるのに、自分が裁きの座に着きたいという欲望を持っています。

 神の御子であられるイエスご自身でさえ、そのような裁きは行なわれませんでした。「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。(ヨハネ5:30」御父から聞くことだけに徹し、その裁きによって判断しておられたので、その裁きは正しかったのです。

 私たちは二つの過ちを犯します。一つは神を裁くことです。初めて神やキリストについての話を聞くときに、「神が存在するなら、なぜこのような悪いことが起こるのか。」と判断します。それは裏返せば、「私であれば、そんなことはしない。」と言っているに等しいです。つまり、自分の方が神よりも賢いことを宣言しているに他なりません。この課題に取り組んでいる書物がヨブ記です。神は嵐の中で現れて、ヨブにこう言われました。「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。(ヨブ40:8」神は全能であり、そして全知であられるのに、あたかも自分のほうが起こっている事象について知恵と知識を持っていると私たちはどうしても思ってしまいます。けれども神のみが義なる方であり、私たちはこの方に服するのです。

 もう一つの私たちの過ちは、他人を裁くことです。神の律法というのは、根本的に自分自身に与えられたものです。神のかたちに造られた者は、神に申し開きする存在であります。ところが不思議なことに、私たちは自分自身に御言葉を当てはめないまま、他の人々に御言葉を当てはめていきます。自分を素通りして他人に当てはめるのです。それを行なうことのできる方は、唯一、神だけです。けれども、私たちが自分を度外視して他の人に当てはめていく時に、自分は神の役を演じていることになります。神と同じ位置に自分を置いているのです。

 パウロがローマ人への手紙2章でこのことを取り扱っています。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。 (ローマ2:1」神ではないのに、神のように振舞うと即座に自己矛盾に陥ります。自分が他人を裁いているその量りが、そのまま自分に当てはまるのです。イエス様が2節で、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と仰っているとおりになります。

 世界的に有名になった漫画、そしてアニメ化、映画化もされた「デス・ノート」という物語があります。そこには東大法学部で法律を勉強している青年が、裁判で刑に処せられることなく世にのさばっている悪者を見て、法律の限界を感じていました。けれども、死神から一冊のノートを渡されます。それは、そのノートに人の名前を書けばその人は心臓麻痺で死ぬことになります。彼は社会的に悪者とされている人物、法律で裁かれることなくのさばっている者たちを、名前を書いて殺し始めます。けれども、そのやり方に同意できない者たちをも彼は名前を書き込んで殺すのです。それで国際警察が動き始めました。初動はFBIが動きましたが、捜査官をそのノートに名前を記載することによって次々に殺しました。そして最後は、このやり方が好きでなかった自分の恋人まで死に至らしめます。不正に憤慨していた者がそのまま同じ不正に染まっていったのです。

 私たちは、人の命を与えるだけでなく取ることも神のみが行なうことができることを知っています。同じように人を裁くことも、神のみが行なうことであることを知る必要があります。

 そしてイエス様は、パリサイ人と律法学者の義よりまさった義を話しておられることを思い出してください。一般の人々も他人をさばく量りによって、自らを裁きの中に入れてしまっているのですが、教師たちは自分自身が神の命令を行なわないで教えることによって、自らを裁いていることをパウロは続けて教えています。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。(ローマ2:21-23

 けれども、次が大事なのですが、これは判断そのものをしてはいけない、ということではありません。多くの人が「さばいてはいけない」という戒めを読んで、そのように判断します。そうではありません。先ほどのイエス様の言葉をもう一度読みます。「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。(ヨハネ5:30」イエス様は裁きを行なわなかったのではなく、自分で裁きを行なわなかったということです。父の御心を求めていたので、その裁きは正しかったのです。

 神が、それぞれの人にご自分の裁きの権威を任せておられます。例えば、国であれば、その権威を神はゆだねられ、悪が広がるのを抑制するために用いておられます。ですから神は、私たちキリスト者に、王や上に立つ人たちのためにとりなし、祈りなさいと命じておられます。神ご自身がその人たちに知恵を与え、みこころを行なわせておられるからです。また親も同じように子に対して神から権威が付与されています。もし「さばいてはいけない」ということが判断することを禁じているのであれば、子を教育することまでが罪になってしまいます。現に、子供の権利と称して、子供に善悪を教えることが間違っているとまで言う人々がいます。違いますね、親は神から来る知恵によって子供をしつける義務があるのです。

 そして、霊的には私たちキリスト者には、聖書という神の啓示があります。この啓示をもって、物事を判断するように命じられています。神の御言葉、そして良心に働かれている御霊の導きによって、私たちは善悪の判断をします。神から任された御言葉をそのようにして管理しているのです。

 最近、ある方から「こんなことを言っている人がいるんだけれども。」という相談を受けました。「古代神道にはキリスト教の名残があり、神道の中に福音を見出すことができると言っている人がいるが、そうは思えないのですが。」という内容でした。私は既にロゴスのホームページに、その問題を取り上げていますのでそこを紹介しました。その人は、その発言をした人にそれを見せたようです。そうしたら答えが、「混合宗教などと言って、裁いてはいけないですね。すべては愛ですよ。」というものだったそうです。

 私がここで、「そんなことを言っている人は地獄行だ。」などと断定したら、確かに私は裁くという罪を犯しているでしょう。けれども、私は、第二テモテ4章を引用して、人々が自分に都合の良いように、教師たちを寄せ集めて、真理から離れるという箇所を教えました。これは、イエス様が禁じておられる裁きではありません。むしろ、そのような時代になっていることを教える義務がキリスト者、また聖書を教える者には課せられているのです。

 そして私たちは、同じように主に仕えている働き人について、その意見に同意できないからといって裁くこともしてはいけないと戒められています。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:4-5

 主を礼拝する日について、安息日が大切であると考える人がいた一方で、そうではないと考える人々もいました。パウロは、キリストにあって安息が実現したのでどの日も同じだと考えていましたが、そのような意見を持っていなくても、主のしもべであり、自分が裁く立場にいないことを明らかにしました。同意できないことがあります。また罪であるとまで考えられることもあります。では、私はその人自身を神の前に立たせて罪に定めることができるのでしょうか?いいえ、決してできません。

3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 イエス様は、一般的な裁きについての問題から、信仰の兄弟の間における裁きの問題を語っておられます。ここでイエス様が語られているのは、兄弟の目の中の塵を取り除いてはいけない、ということではありません。6節を読めば、「取り除くことができます」とイエス様は言われています。教会の中においては、いろいろな奉仕があります。互いに励まし、勧め合い、慰め合い、仕え合います。互いに忍耐して、へりくだり、御霊の一致を保ちます。そして何よりも、互いに愛し合いなさいというイエス様の命令があります。

 そしてさらに、互いに訓戒しなさいという命令もあります。それから「戒めなさい」という命令もあります。もし私たちが訓戒すること、戒めることを行なっているのに、それが「裁いている」という咎を受けるのであれば、使徒たちが教会に対して行いなさいと命じている奉仕、訓戒や戒め、また叱責は矛盾していることになります。そうではありません、これらのことは行なわなければいけません。

 しかし、一つの大きな原則があります。それは、愛をもって、柔和に行うことです。そして何よりも、自分自身がその命令を行なうことによって、模範を示すことによって教える、ということです。つまり、言い換えれば自分自身をまず初めに戒め、吟味し、自分自身が神の権威の中にへりくだることなのです。他者を戒めることは、自分自身を戒め、正していくことに他なりません。ですから、教える、訓戒する、戒めるという働きは難儀なものです。なぜなら、まず自分自身を変えるということが要求されるからです。親が子供を教えることに難しさを感じる、きちんと教育ができないという背後には、自分自身がその教えていることを行なっていないという後ろめたさがあるからです。教育というのは、自分自身が神の前に出て、自分自身が神からの取り扱いを受けて、その延長で教えていくことであります。

 ガラテヤ書6章に、罪に陥った兄弟に対する働きかけについてパウロがこう教えています。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:1-2

 イエス様が使われた例えが極めて興味深いです。他の兄弟の目に塵があると思って、取ろうとしたら、実は自分の目に梁があったというのです!それだけ、私たちが自分を吟味することなく他の人を助けようとするのなら、相手に見える問題の数十倍の同種類の問題を持っている、という真実があります。したがって、自分から梁を取り除く作業、つまり自分との対決が必要になります。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」キリスト者は徹底的に、それぞれが主から教えられる者たちです。

6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

 聖書に出てくる犬は、極めて否定的に使われています。豚はもちろん、汚れた動物と律法の中でみなされています。私たちが兄弟に対して、働きかけることによって、もしかしたら彼が主に立ち返るかもしれません。自分自身を吟味しながら、重荷を負って助けるべきです。けれども、福音の話を聞いても全く意を介さない人たちがいます。むしろ反対する人たちがいます。歪曲する人がいます。そういう人たちに関わる必要はない、というのがここでの教えです。

 私たちは、しばし情が入りすぎて、自分が救わなければいけないという錯覚に陥ります。「この人は可哀想だから、そして私がここにいるのだから、私でなければ助けることはできないのだ。」と思うのです。けれども、それは分からないのです。また、夫婦の中で片方がクリスチャンになった場合もそうです。自分こそが相手を救わなければいけないと思います。けれども、未信者の相手が自分の信仰を理由にして去っていくのであれば、去らせなさいとパウロは勧めました。そしてこう言っています。「なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(1コリント7:16

2A 求めなさい 7−11
 そして次は、御国の福音の中に生きる者たちにとって、大きな約束として与えられているものです。7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 私たちは祈りや願いというものを、極めて受動的に考える傾向があります。自分が行動に移したら、それはあたかも肉的ではないかと感じる人までいます。私は米国で牧会訓練校に通う準備をしていましたが、その直前にその学校自体がなくなったという知らせを受けました。けれども行きました。主が語られたのだから、何かしてくださるだろうと信じて行きました。すると、「御心ではないんじゃないですか。」という人がいました。その言葉の前提には、「行動に移すことが自分の力で行なっている。」というものがあるのです。けれども、その牧会訓練校は継続することになりました。私たちは、極めて能動的に祈り求めるべきです。行動に移しつつ、かつ助けを得るために祈っていくのです。

 ここが、極めて能動的な命令になっていることを気づいてください。初めは「求めなさい」です。次に、「捜しなさい」、それから「たたきなさい」とあります。求めながら、それを続けていくと捜すという行為になります。捜していると、それを続けていけば戸を叩くという行為になるのです。この過程で、神は必ず答えを与えてくださいます。

 イエス様は、不正の裁判官の例えを話されました。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。(ルカ18:1-7」しつこく祈ることを、神は望まれているのです。

7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 山上の垂訓において、イエス様によって紹介されている神の姿は、天の父であります。神の国とその義をまず第一に求めなさいと命じられた時も、イエス様はご自分の子どもに恵んでくださらないはずがありましょうか、と言われました。敵を愛しなさいと言われた時も、天の父は良い者にも悪い者にも雨を降らせてくださっているのだ、と言われました。ですから御国の福音は、すべて天の御父との関係です。天地万物を創造された方を私たちは父と呼ぶことのできる特権にあずかっています。

 そして、その知識に基づいて私たちは祈るのです。もう一つ、ヨハネによる福音書によりますと、同じように大胆に祈ることをイエス様が命じておられます。十字架につけられる直前の夜、ゲッセマネの園に行く途中で、イエス様は何度も何度も、ご自分の名によって父なる神にそのまま祈りなさい、父はかなえてくださると約束されました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16:23-24」そして、そこではイエス様はご自分のことを弟子たちの友であると言われました。神の御子であられる方なのに、キリストにあって神の養子となった私たちをご自分の兄弟と言われるのです。ゆえに、この方の名によって父なる神にそのまま願いを持っていくことができます。

 けれども、私たちは、この約束のようにならないと感じる時があります。願ったことがその通りにならないと感じる時があります。そのことについて、ヤコブがこう教えています。「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:2-3」初めにヤコブは、人殺しをする、あるいは争う動機を書いています。「うらやんでも手に入れることができない」からです。ですから、私たちは自分の欲するものを争いという形で得ようとします。

 次に、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」とあります。とても単純ですが、これがかなり多くの場合、そうなっているのです。そこで先ほどのイエス様の教えになるのです。願っている相手が、自分の父親だったらどうでしょうか?自分が小さな子であり、相手が父であれば、だだをこねて願うはずです。また、イエス様という最大の友人がいます。この方の名によって祈れば、ご自分の御子の名なのですから父なる神は聞いてくださいます。ところが、私たちには悪い意味での遠慮があるのです。初めから、どこかお役所に行って、決まった通りの手続きしかされないのではないか、というあきらめがあるのです。それで願いません。

 そしてもう一つ、「願っても受けられないのは、悪い動機で願うからだ」とあります。ここは大事ですね。先の二つの教え、山上の垂訓にあるここの教えと、ヨハネの福音書にあるイエス様の約束は、その前後で、たくさんの戒めの間にあります。山上の垂訓であれば、私たちが心を貧しくするところから御国に入る始まりがあります。一言でいうならば、自分自身を捨てることです。その中に生きている従順なしもべに与えられたのが、この大きく、広い約束なのです。ヨハネ伝においても、「わたしを愛するならば、わたしの戒めを守るはずです。」とあります。イエス様の命令を守っているからこそ、イエス様の友になることができ、その中で願うことがかなえられます。

 ですから二つのことを知りましょう。一つは、子どもとして大胆になるということです。私たちの神は、私たちのお父さんです。もう一つは、キリストの弟子として、キリストの命令に自分を従わせていることです。この二つのことを心に留めているならば、私たちはこのすばらしい約束の祝福にあずかることができるでしょう。

3A 黄金律 12
12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 ついに、イエス様は山上での説教をまとめられました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17」という言葉をもって、御国における義を教えられました。そしてここでまとめておられます。

 この言葉はしばしば、「黄金律」と呼ばれています。他の宗教にも存在するものであって、キリスト教にもあると言われています。けれども、イエス様が語られたことは独自性があります。他の宗教では、「自分にしてもらいたくないことを、他の人にもするな。」という否定形になっています。例えば儒教の孔子はこう唱えました。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」イスラム教のモハメットは、「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」と言いました。そして、新約聖書の背景にあるユダヤ教には、ラビの言葉で「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」とあります。けれども、イエス様の教えは肯定形です。「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。

 山上の垂訓にある、御国の福音の積極性を私たちはこれまで見てきました。自分の愛している人を愛したからと言って、それは異邦人でもできることではありませんか、とイエス様は言われました。パリサイ人と律法学者の教えは、やはり宗教だったのです。それは、いかに今の自分を守るか、という命題があります。それは自己完結している世界であり、あくまでも自分の修練によって理想に到達しようとする試みです。

 しかし、キリストの御国は異なります。これまでに無かったものを新たに生み出していくものです。まだ一度も福音を聞いたことのない人に、福音を伝えます。他の人々から見放されている人々に、キリストの愛をもって手を差し伸べます。自分の罪を捨てて、罪を行なわないという消極的なものではなく、積極的に愛を示していくという積極的なものなのです。

 エペソ4章を開いてください。25節から読みます。「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:25-29」分かりますか、嘘をつくのを止めるだけでなく、同時に真実を積極的に語っていきます。盗みをやめるだけでなく、むしろ困っている人々に施しをするために、自分の手で働くのです。悪口をやめるだけでなく、人の徳に役立つ言葉を話して、聞く人に恵みを与えるのです。

 私たちが、「これこれの罪を捨てることができた」という証しを聞くことができるのはすばらしいことです。「これこれをすることができた。」という個人の証しはすばらしいでしょう。けれども、それだけではなく、私たちの口で言わなくても、「この人は変わった」という他の人からの証言による、良い行ないによる証しを求めていきましょう。他の人に仕えていく、他の人に話しかけていく、働きかけていく、そのようにして自分が何かを行なったのではなく、私たちの他の人々への働きかけによって、キリストがそこで現れるような証しを願い求めてみましょう。

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