マタイによる福音書7章13-29節 「二つの道」

アウトライン

1A 二つの門 13−14
2A 二つの実 15−23
   1B 偽預言者の見分け 15−20
   2B 「主よ、主よ」と呼ぶ者 21−23
3A 二つの家 24−29
   1B 洪水 24−27
   2B 権威ある言葉 28−29

本文

 マタイによる福音書713節から読みます。ついに山上の垂訓の終わりに来ました。ここからは、言わば「最後の招き」になります。これまでイエス様が教えられたことに対して、私たちが応答しなければならないことを教えます。

1A 二つの門 13−14
13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 イエス様は、これから二つの道について話します。あるいは「二つだけの選択」と言ってもよいでしょう。今読んだところでは、二つの門について話しておられます。次に15節からは、二つの実、良い実を結ぶ者と悪い実を結ぶ者の二つを話しています。さらに24節以降には、二人の家を建てる者の話をされます。つまり、「あなたの前には御国に入るために二つの道があり、あなたは選ばなければいけないのだ。」ということを話しておられます。

 かつて、「私のような預言者があなたがたに与えられる」とモーセは預言しましたが、モーセも最後の説教である申命記において、このように民に訴えかけました。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30:19」いのちの道か死の道、祝福の道か呪いの道、この二つしかなく、それをあなたが選び取るのだということです。選ばないでいる状態、中間の状態はありません。そしてイエス様ご自身が、聖書の最後、黙示録の最後で、このように人を二つに分けておられます。「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(黙示22:11」不正を行ないたいのなら、どうぞそのようにしなさい。けれども聖なるものを選び取りたいのなら、あなたはますます聖なる者とされる、ということです。

 この世界には二つしか国がありません。天の御国、あるいは神の国と、暗闇の国、悪魔の国です。パウロがコロサイの教会の人にこう言いました。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(1:13」そして使徒ヨハネはこう言っています。「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19」私たちは、人々についてその人がどこに所属しているかについて、三種類以上の区別をしています。政治であれば、保守、中道、そして革新というように。けれども、神の目から見たときには、ご自分の国の市民なのか、サタンの支配のままにされているのかの二つだけです。

 伝道者グレッグ・ローリーが回心した時、彼の高校に来た若いヒッピーの伝道者がこう言いました。「あなたは、イエスの味方か、あるいは敵である。」グレッグは驚きました。自分はイエスに敵対しているなど思いもよりませんでした。けれども、イエスに自分を明け渡していないのであれば、そのままイエスに敵対していることであることを悟ったのです。私たちは救われているか救われていないかのどちらかしかありません。また、御霊に満たされているか、肉に従っているか、御言葉に反発しているか、それとも従順にしたがっているか、どちらかでしかありません。

 どこかで私たちは中間を作りたいと願っています。そして、どの程度、主に従えているかというグラフを作りたがっています。この人は、十パーセントイエス様に従っているけれども、あの人は三十パーセントイエス様に従っている。最近オウム真理教の特集番組がありましたが、どこまでの霊的段階に達成したかという階級制度があります。そういうものは一切、神の前ではありません。そして私たちは、「これはすることができない。他の面で努力しますから、それで補っていきます。」といいたくなります。けれども、つねに私たちは決断をするのです。決断は、その人の力で行なう能力ではないのです。むしろ自分の強い意志を落として、主の意志に明け渡す行為です。

 そして、ここ「狭い門から入りなさい」というイエス様の命令は、天の御国に入るための義という話の中で仰っていることです。パリサイ人と律法学者の義にまさるものではなければ、天の御国に入れませんと言われたのと同じ内容で話しておられます。つまり、イエス・キリストにある神の義、まことの義を受け入れることなく、ありのままの自分で何とか正しいと見せることのできるように解釈していた、ということです。自分を変えることなく、表向き変えているように装うことができるように彼らは教えていました。もちろん、極めて厳格な教えの解釈をしていました。けれども実は、私たちの肉を殺してしまうようなものではなく、むしろ肉から出るうぬぼれや高ぶりを放置したままでやっていくことのできる解釈だったのです。だから、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」とイエス様は言われました。

 そしてイエス様は、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と強調しておられます。私たちの思いの中では、どうしても多くの人がいのちの道に入っていくと信じたいです。それで、多くの人たちが行なっていることによっても救われるという解釈へと変えていってしまいます。けれども聖書を見れば、いのちの道を選び取る人は「残された者」と預言書では呼ばれていますが、極めて少数の一部の者たちだけなのです。約束の地に入ろうと強く勧めたのは、十二人のイスラエル人の中でカレブとヨシュアだけでした。バビロンによって滅ぼされそうになっているエルサレムで、唯一、バビロンに服して命を得なさいと説いたのがエレミヤでした。他の預言者は、ユダヤ人が願っているようにバビロンに反抗すること教えていたのです。

 イエス様が十字架につけられるまでに、イエス様についてきた弟子たちの多くが去り、基本的に十二人しか残らず、その十二人の中でも一人は裏切ったのです。神はもちろん、全ての人が救われることを願っておられます。門は広く開かれています。しかし、そのいのちを得るには、イエス・キリストをイエス・キリストとして受け入れなければいけません。この方を神の義として受け入れなければいけません。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。けれども、それをするためには、自分自身の否定、自分自身への絶望、自分自身の罪の恐ろしさ、忌まわしさ、これらの真実をいっしょに受け入れなければいけないのです。こうして初めていのちの道に入ることができるので、多くの人がそれを拒んでしまい、結果として多くの人が滅んでいるのです。

2A 二つの実 15−23
1B 偽預言者の見分け 15−20
15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

 イエス様は「律法と預言者」について話しておられましたが、ここでパリサイ人と律法学者も考えながら、「偽預言者」という言葉を使われています。もちろん他の人々も含めた総称です。マタイ23章でイエス様は、律法学者とパリサイ人のことを「忌まわしいものよ」あるいは「災いだ」と八度呼ばれています。そこに偽預言者の特徴がいくつか書かれています。

 一つ目は13節です。「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」彼らが神の律法を使いながら人間の義を教えていれば、それに聞き従う人たちを神の国に入らせなくしてしまいます。二つ目は14節です。「〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕」霊的な装いをしながら、実は自分の腹のため、自分の欲求のために動いている人々です。そして三つ目は15節です。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」自分自身は極めて根っこは世俗的であるのに、教えを聞いた者たちが純粋にその教えを実行しようとします。それで、ますます人を地獄にふさわしいものにしていく、ということです。

 偽預言者は「貪欲な狼」とイエス様は言われています。旧約聖書の中で、主ご自身が羊飼いであり、またイスラエルの指導者も羊飼いあるいは牧者として例えられています。その中で、エゼキエル書34章では、牧者らが羊たちを養わなければいけないのに、その羊を食べてしまっているという咎めがあります。狼と同じです。牧者の働きが、霊的な食物を与えて、その人が霊的に豊かになることを求めなければいけないのに、自分の欲を満たすために支配しているので、反対にイエス・キリストとの豊かな関係が削いでいくことを行ないます。また、羊飼いが羊たちを集めるのではなく、散らしていくことが咎められています。バビロン捕囚になったユダの民、またローマによって散らされたユダヤ人たちは、ひとえにその指導者らが彼らを養わなかったからです。

16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 「実」についての教えも、旧約聖書の中に数多く出てきます。まさに創世記の初めのエデンの園は、木から結ばれた実についての教えでした。そしてイザヤ書には、神がイスラエルを手塩にかけて育てたぶどう園の農夫のようなものなのに、イスラエルからは良いぶどうではなく、酸いぶどうができたと嘆いている預言があります(5章)。そして、「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。(7節)」とあります。

 実は、第一に時間がかかります。すぐには見えてきません。ですから表面上の振舞いだけで判断することはできず、ある程度の期間を見計らう必要があります。私たちは反対に、早まって裁いてしまう過ちも犯してしまうのですが、イエス様は、毒麦が蒔かれた畑について、しもべたちが「私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」と言ったところ、「いやいや、毒麦を集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。(マタイ13:29-30」と主人が答えた、と言われています。

 そして実は、第二に実質であります。表面的には繕うことはできるのですが、実質はどうなのか?これが問われるのです。預言者が偽預言者を見分けるには、三つの点に注目することを教えている注解がありました。一つは、「その本人」です。その人の生き方に実が結ばれているかどうかです。正しく生きているか、またへりくだりがあるか、そして忠実にその務めを果たしているか、などを見ることです。

 もう一つは、「教えていること」です。表面的に正しいことを教えているのが大事ではありません。実際の行動としてその教えを聞いて何が現れているかを調べるのです。パウロは、論争をしかけている悪い者たちが教会にはいって来た時、その問題を対処しているテモテにこのように指示しました。「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。(1テモテ1:4-5

 私がアメリカにいる時に、エホバの証人の人たちが家に訪問してきました。私は「あなたは、イエスが神の子であることを信じていますか?」と尋ねると、「もちろんです」と答えます。もし私たちが、教会で教えられている大切な教理をエホバの証人の人に話しても、すべてに同意することでしょう。彼らは、クリスチャンにどのように対処するかをしっかりと訓練されていますから。そこで私は聞きました。「あなたは、どうやって救われたのか、その確信の根拠を教えてください。」すると、少し憮然となっていました。「私がクリスチャンでないことをどうして疑うのですか。私は教会に通っています。そして両親は監督派の教会の教会員でした。」ここで本性が現れました。私は言いました。「教会に通っていることが、人を救うのではありません。教会に通っていても、人は地獄に行くのです。」そうしたら怒ってしまって、出て行きました。表面的に言葉では正しいように話すことができても、実質はどこにあるのかが大事なのです。

 そして三つ目には、「教えを受けている人が何をしているか」であります。どのようにその人が人々を導いているかであります。正しいことを教えているように見えても、それを聞いている人があまりにも神の御心から逸脱したようなことを行なっているのであれば、その指導に何か間違ったことがあるのでは?と疑う必要があります。もちろん、全ての人が正しく生きることはありえません。イエス様でさえ、三年ぐらい弟子たちと共にいたのにイスカリオテのユダは裏切ったのです。そうではなく、その教えの中、あるいは指導の仕方そのものに、何か人を過ちに導くようなことをしているのではなないか、ということです。

2B 「主よ、主よ」と呼ぶ者 21−23
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 主は、パリサイ人や律法学者から、後に教会の中で起こる現象を警告されています。なぜなら、「わたしに向かって、『主よ、主よ』」と呼んでいるのは、パリサイ人や律法学者は行っていないからです。イエス様は、キリスト教の世界で起こっていくことを、終わりの日において審判があることを予め教えておられるのです。

 旧約聖書の中で、偽預言者は奇蹟や不思議を行ない、人々を信じさせるのだけれども、他の神々に従い、仕えようと誘惑する者であると定義しています。「あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。(申命13:2-3」ここでも預言をして、悪霊を追い出している者たちの姿をイエス様は語っておられます。

 使徒の働き4章で、ユダヤ人議会、サンヘドリンでペテロとヨハネが被告尋問を受けた時に、大祭司は、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。(7節)」と言いました。今読んだ、申命記の言葉を意識してそう言っているのです。ペテロは臆面もなく、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(10節)」と宣言しました。イエスの御名を呼びました。

 しかしイエス様は、終わりの日に神の御国に入る者たちのうちで、単に口でイエスを主と告白する者が入ることになるのではない、と警告しておられます。再び戻って来られたイエス様は、これらの者たちに、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われました。初めから全然知らないと言われたのです。これは知識的に、情報として言われたのではなく、人格的な関係のことを話しています。イエス様と人格的な関係を持っていないのに、預言をすることも、悪霊を追い出すことも可能なのです。

 私たちは、イエスを主であるとする告白によって、心で信じて救われます。しかし、それはイエスという方を全幅の信頼をもって、心をすべて明け渡して告白しているのか、単なる口先で言っているのかでは大きく異なります。私たちは行ないによって救われるのではなく、信仰によって救われますが、どのように信じたのかは行ないによって現れます。ヤコブはこう言いました。「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(2:18-19」神に対する信仰には必ず行ないの実が結ばれます。けれども、ヤコブが警告しているように、「信じている」と言いながら実は信じていないことが多いのです。

3A 二つの家 24−29
 そして最後の呼びかけです。

1B 洪水 24−27
24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 このことは、私たちの教会では東北救援旅行で目撃するという教訓にあずかれました。支援活動をしていた、海岸に接する村落ではほとんどの家が津波で全壊ですが、数軒だけ残っているところは例外なく岩の上に建てられた家でした。イエス様が語られているイスラエルの地方では、乾燥している気候なのですが、私たちが知っている洪水とは異なる形で経験しています。それは荒野においては、雨季に年に数回という雨を経験するのですが、涸れ川であったところに突如として激流になって水が押し寄せてきます。鉄砲水になるのです。津波と同じように、突如として襲ってくるものとして、彼らは洪水を理解していました。

 これを私たちは、試練、困難、誘惑と考えてよいでしょう。この前にイエス様は終わりの日において神の国に入れるのかどうかについての話をしましたが、終わりの日には困難があります。けれどもそれにも耐えることができるのは、イエス様がここで言われているように、「聞いているだけでなく、それを行なう。」というところにあります。これまでイエス様が教えられたことを聞き流すのではなく、それに心から応答しなければいけないということです。

 御国に入るという訓練があり、それは弟子になるための訓練です。神のみことばを学んでいくことを目的にするのではなく、神のみことばを行なっていくことを目的にします。アンドリュー・マーレーという人がこう言いました。「信仰が取り扱うべきものが二つあることはきわめて明らかです。それは神の臨在と神のみことばです。生ける臨在のみが御言葉を生ける言葉とします。したがって、神の国はみことばだけでなくて、力によっても来るのです。これは、聖書研究や説教の多くに効果がない理由を示しています。祈りも努力も成果がないのはこのためです。人々は生ける神よりもみことばに行こうとします。しかし、信仰は生ける神をみことばによってとらえる力なのです。

2B 権威ある言葉 28−29
28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

 ここの「驚いた」とうのは、「衝撃を受けて、反応できなくなった」という意味合いの言葉になっています。当時の律法学者は、「あのラビは、このように言っています。」と、ちょうど論文を書くように引用しながら教えていきました。けれどもイエス様は、「わたしはこう言います」と言われたのです。権威がありました。ですから、現代のキリスト教会に当てはめるなら、「イエスはこう命じておられる」と断言しながら、「聖書がこう言っている」と断言しながら、それを最終権威として宣言することを忘れはなりません。

 けれどもそれ以上に、イエス様は「わたしが」というところに強調点を置かれています。ヨハネの福音書ではそれが前面に出ています。「わたしだ」”I AM”「エゴ・エイミー」という言葉です。イエスにあって生ける神に出会うのです。この方の教えではなく、この方自身が権威なのです。この方の教えを通して、この方にひれ伏します。御国とは、何らかの教えを聞き入れることによって成り立つのではなく、教えの中にあるイエス・キリストによって成り立っています。ですから、この方を主とする、つまり自分の心の王座から自分が退き、キリストに来ていただきます。

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