マタイによる福音書8章  「すべての主」

アウトライン

1A  いやしによる立証
   1B  対象
      1C  らい病人
      2C  百人隊長のしもべ
      3C  ペテロのしゅうとめ
   2B  基礎  預言の成就
2A  弟子に対する立証
   1B  前提  犠牲と即時性
   2B  内容  風と嵐
3A  悪霊追い出しによる立証
   1B  内容  悪霊憑きの男
   2B  解決  豚
   3B  反応  追い出し

本文

 今日はマタイによる福音書8章を学びます。ここでのテーマは「すべての主」です。イエスは山上の説教において、天の御国についての宣言をされました。その教えは、「わたしはあなたに言います。」というように、律法学者やパリサイ人がするようなものではなく、裁判官が判決を下すような権威に満ちているものでした。(それは前回学びましたように、キリストは、すべてにおける最終的な権威を持っており、律法や預言の目的とするところなのです。)けれども、もし教えるだけなら、私たちは本当の権威であるかどうかわかりません。そこで8章からは、イエスのことばに、さまざまなものが服従するのを見ることによって、イエスがご自分の権威を立証されるのを見ていきます。  

1A  いやしによる立証
 まず最初に、イエスは病人をいやすことによってご自分の権威を示されます。

1B  対象
1C  らい病人
 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」

 イエスが山で説教をされた後で、一番最初に来た人はらい病人です。らい病はおそろしく胸糞が悪くなるような病です。それは神経を攻撃して感覚を失わせ、いつまでもただれと潰瘍が流れ出ます。そして、たいてい手足から始まり、9年とか30年かけて体を腐らせていくのです。人間的には不治の病です。そのため、聖書ではらい病が罪の型になっています。つまり、罪は、人間的にはどうしようもできないもので、少しずつ私たちを蝕み、私たちの生活を腐らせていきます。らい病が、脳や心臓などの生命維持に必要な器官にぶつかるとその人が滅びますが、私たちは自分の罪によって滅ぶのです。

 このらい病人は、イエスのみもとに出てきたとき、イエスに「ひれ伏し」ました。ここで使われているギリシャ語は、神に対する礼拝と同じ言葉が使われています。つまり、らい病人は、イエスを自分の神として礼拝し、あがめていたのです。さらに、イエスを、「主よ」と呼んでいます。イエスが来るべき王、メシヤであることを認めているのです。

 彼はまた、「お心一つで、私をきよめることができます。」と言っています。彼は、イエスの全能の力を認め信じていました。ですから、自分がきよめられることには何の疑問もありません。彼の疑問は、自分をいやすことがイエスのお心かどうかという事です。私たちも、イエスが全能の神であることを信じるのに困難を感じませんが、みこころであることを信じるのが難しいのです。

 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。

 イエスは手をのばして、彼にさわられました。らい病人は、律法によってイスラエルの町に入ることが禁じられていました。レビ記13章を見ると、らい病人は自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱して、「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりませんでした。(13:45) 同じユダヤ人の中から離れてひとりで暮らさなければならなかったのです。イエスは、この男をかわいそうに思われたのでしょう。手をのばして、彼にさわられました。イエスは、人々から疎外されたあわれなこの男に、愛を注ぐためにさわられたのです。

 これは私たちにとっての慰めでもあります。私たちは罪を犯して大きな失敗をしているとき、また、自分の肉の弱さで惨めな思いになっているとき、こう思います。「ああ、なんて私の生活はなっていないのだろうか。他の聖徒たちと比べたら、もうめちゃくちゃだ。主は私には心を留めておられないだろう。」と。 いいえ、イエスは、最もご自分を必要としている人々に心を留められています。イエスは、正しい者たちのために来られたのではなく、病人を治すために、罪人を赦し回復させるために来られたのです。イエスがみなさんにさわり、きよめてくださるのは、神のみこころなのです。

 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」

 イエスは誰にも話さないように言われましたが、それは、イエスが公式に認められるのは、定められた時があったからです。マタイ21章に、群衆が「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によってこられる方に。ホサナ。いと高き所に。」と言って、イエスをメシヤとして賛美しましたが、イエスはその賛美を受け入れたことが載っています。

 ダニエル書9章によりますと、油そそがれた者、つまりメシヤが来るのは、エルサレムを再建せよとの命令が出されてから、69週のときであることが書かれています。それを計算すると、イエスがエルサレムに入られた日に、一日も違わないでぴったりと合うのです。したがって、イエスがメシヤとして群衆からたたえられる時は、すでに定まっていました。その時が満ちないうちに言い広められることを、イエスは望まなかったので、「気をつけて誰にも話さないようにしなさい。」と言われました。

 けれども、人へのあかしのために自分を祭司に見せ、モーセの命じる供え物を捧げなさい。とあります。これはレビ記14章にある律法にもとづいたものであり、きよめられたらい病人が、イスラエルの共同体の中に入るために必要な儀式です。二匹の小鳥を用意して、一匹をほふってその血を水の入った器にしたたらせて、生きた小鳥の方をそれに浸し、この鳥を野に放ちます。さらに、7日待った後に、子羊と小麦粉を供え物としてささげ、それらを罪過のためのいけにえとします。イエスが、きよめられたらい病人にこの儀式を通らせようとされたのは、彼がイスラエルの仲間の内に正式に戻れるようにさせるためです。つまり、イエスは、このらい病人が単にきよめられるだけでなく、その生活が完全に修復するのを望まれていたのです。パウロは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくありました。(2コリント5:17)」と言いました。イエスは、私たちを暗闇から救われるだけでなく、新たな生き方を保証されます。。

2C  百人隊長のしもべ
 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」

 らい病人の次は、百人隊長が来ました。そして、彼が治して欲しいと懇願した病人は、中風やみにかかっていました。この病気にかかると、体の付け根の部分が襲われます。付け根が、並々ならぬ痛みをもって収縮し、ついにその人を麻痺させます。これは拷問に近いような激しい痛みを伴なう病気です。

 ところで、百人隊長とは100人の兵士を統率するローマの将校です。ここで大事なのは、彼が異邦人である事です。らい病人が、イスラエルの共同体から除外されていたように、異邦人も除外されていました。事実、私たちが学んだ預言の中でも、異邦人は除外されています。マタイ1章21節で、御使いはマリヤに、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言いました。また2章6節には、ミカによる預言の引用で、「わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。」とあります。それなのに、イエスは、この異邦人のしもべに対して、癒しの御手をのべようとされているのです。

 それには、大きな理由があります。7節から読みましょう。イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

 イエスが、行って治してあげよう、と言われているのに、百人隊長はそれを拒否しています。まず、イエスを自分の家にお入れする資格はないことを言っています。彼が、ユダヤ人の習慣を意識しているからです。使徒行伝において、ペテロはコルネリオの家に入るとき、「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。(10:28)」と告白しました。けれども、イエスが一言だけおっしゃれば、自分のしもべは治ると信じたのです。この信仰によって、百人隊長は、異邦人であるけれども、願いが聞かれました。ただ、注意していただきたいのは、彼が盲目的に何の根拠もなくてそのように信じたのではありません。次をお読みください。

 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」

 百人隊長は、命令系統のことを話しています。誰でも人の上に立つ人は、自分自身が権威の下にいなければいけません。さもなければ、その人は暴君になってしまいます。まず彼は、「わたしも権威の下にあるものですが」と言いましたが、イエスが天の父の権威の下におられることを理解していました。さらに、「『行け。』と言えば行きますし。」と、権威がその言葉にあることを認識していました。神が、「光よあれ。」と仰せられたら光があったように、イエスのみことばはすべてのものを従わせる権威があったのです。したがって、彼は、イエスがどのような方であるかを正確に認識し、その認識にもとづいて信じました。神が望まれているのは、この信仰です。私たちの信心深さが問われるのではなく、信仰の対象である方を正確に認識していることが大事なのです。

 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

 百人隊長はその信仰のゆえにイエスからほめられています。次にイエスは、これから起こることを預言されています。

 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 イエスは、たくさんの異邦人が、神の御国において、イスラエルの父祖であるアブラハムとイサクとヤコブとともに食卓につくことを預言されています。さらに、「御国の子」つまり、ユダヤ人たちが、「外の暗闇」つまり地獄に放り出されて苦しむことを預言されています。これは、私たちがイエスをメシヤと信じる信仰によって、神の御国に入れるかそうでないかが決定される事を示しています。神から離れていた異邦人であっても、神のあわれみのゆえに、その信仰によって神の御国に入ることが出来ます。そして、神から救いと祝福が約束されているユダヤ人であっても、もし悔い改めてメシヤを信じなければ、御国から外されてしまうのです。

 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

 イエスは、その病人にふれませんでしたが、そのいやしがイエスによって起こったことは、「ちょうどその時」という言葉で証明されています。このように、イエスの言葉は、空間によって制限されません。逆に言うと、イエスは、空間をも支配されている主なのです。

3C  ペテロのしゅうとめ
 イエスが癒された人で3番目にあげられているのは、これまた社会的に疎外されているグループの一人でありますが、女です。

 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。

 ペテロのしゅうとめがいるということは、ペテロに妻がいたことを証明します。使徒パウロも、「ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利はないのでしょうか。(1コリント9:5)」と言っています。カトリックの教皇は独身でなければなりませんが、初代教皇は結婚していたようです。

 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

 イエスは、今度は手にさわられました。けれども、他の福音書では、熱をしかりつけられたとあります。ので、イエスがことばによって病人を癒されたことに変わりはありません。

2B  基礎  預言の成就
 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。

 ここでも、イエスのみことばによって、病人をいやされた事が強調されています。

 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 イエスのいやしによる宣教は、預言の成就でした。この預言の内容に注目すると、イエスがどのようにして人々をいやされたかが書かれています。わずらいを身に引き受け、病を背負ったとあります。イエスが、私たちの罪のために身代わりになって死なれたということは、私たちがよく知っている事ですが、実は病をも身代わりに受けられていたのです。この預言はイザヤ書53章4節にありますが、そこを読み進めると、5節に「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。

 イエスは、十字架につけられる前に、39回のむちを受けられました。そのむちの先にはガラスや鉛の破片が入っていて、一度むち打つと、打たれた背中の肉がちぎれて飛びます。39回のむちによって、背中がどれだけ滅茶苦茶になったかは、想像できるでしょう。イエスは、この打ち傷によって私たちの病を背負われました。ですから、私たちが人々のいやしのために祈る時、イエスの身代わりの業にもとづいて祈る事が出来ます。イエスは、私たちの病を引き受けられたのです。

2A  弟子に対する立証
 こうして、病気に対してイエスが、権威を持っておられることが立証されました。次に、弟子達に対して、ご自分の権威を立証されています。

 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。

 イエスは、命じられています。イエスの権威を認めてその命令い従うのが、キリストの弟子です。

1B  前提  犠牲と即時性
 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」

 弟子を連れて向こう岸に渡ろうとしているときに、律法学者が自分もついて行きたいと言いました。「律法学者」となっていて、「弟子」となっていないことに注意してください。だれが弟子になるかどうかは、イエスがお決めになるものです。イエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」律法学者は、イエスのことを「先生」つまり、ラビと呼んでいます。彼らの間では、自分がどのラビの弟子になるかは彼らが決めていました。けれども、キリストの弟子はそうではありません。

 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

 イエスは、彼が単に感動して弟子になりたいと言っていることを知っておられました。けれども、もし感動や感情によってイエスに従おうとするなら、再び感情によって落胆します。弟子になるとは、ぐっすり眠る場所さえ与えられないなどの犠牲を考慮に入れた、はっきりした決断によって成り立ちます。

 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

 もう一人の人は「弟子」と呼ばれていて、かつ、イエスを「主よ」と呼んでいます。イエスが確かにこの人を召されたのです。けれども、この人の問題は、すぐについていかないということでした。「私の父を葬る事を赦して下さい。」とありますが、これは当時のことわざであり、「父が存命中はお許しください。」という意味なのです。ヨハネとヤコブが、父ゼベダイを残してイエスに従ったのと対照的ですね。多くの人も、同じ過ちを犯しています。「今は学校の勉強で忙しいから、卒業したらイエスを信じてみたいと思います。」とか、「退職してから考えてみたいと思います。」と言います。

 けれども、イエスは言われました。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

 イエスは、ご自分についてくる道がいのちにいたる道である事を示すために、家族の者たちを「死人たち」と呼んでいます。まだ、霊的ないのちをもっていないからです。けれども、イエスは、学校とか、仕事とか、またはこの冠婚葬祭とか、そうしたものをないがしろにすることを教えられているのではありません。そうではなくて、これらの日常の生活の事を理由にして、イエスに従わないことがあってはならない、という意味なのです。

 私たちがよく犯す過ちは、例えば、「勉強が大変で、祈りや聖書を読むとか、教会に行くどころではない。」といって、勉強する事と、教会に行くことのアンチテーゼのように考えることです。そうではなく、学校の勉強は神から与えられたものであり、それに勤勉であるために、神からの力と知恵が必要です。だから、祈り、聖書を読み、教会に行く必要があります。仕事であっても、家事であっても同じことが言えます。ですからイエスは、「わたしについて来なさい。」と言われました。

2B  内容  風と嵐
 イエスが行かれるところについて行く結果、私たちは、さまざまな境遇に遭遇します。23節を読みましょう。

 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。

 弟子たちは大暴風と大波の中に突入しました。私たちはとかく、イエス様を信じれば人生バラ色と考えてしまいがちですが、決してそうではありません。他の人と同じように逆境の中を通りますし、いや、クリスチャンではない人々が経験しないような大変な場面に遭遇することもあります。弟子たちは、大暴風と大波に遭遇したのです。けれども、よくこの文を見てください。最後は、「イエスは眠っておられた。」となっています。一日中人々を教え、病人をいやされたりして、とても疲れていたのでしょうか、イエスは嵐の中でも眠っておられました。大事な事は、イエスがともに船の中におられた事です。これが、イエスの弟子になることの特権です。どのような状況の中にいても、イエスがともにおられるので、私たちは決して動じる必要はないのです。

 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」

 本当は何の心配もいらないのに、弟子達は慌てふためきました。そこで、イエスは言われます。

 「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」

 イエスは、彼らがご自分を信頼していなかったことをとがめられました。

 それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 イエスは、不治の病をご自分の言葉でいやし、また、遠くから中風やみの者をいやされました。 ここでは、ご自分のことばによって、風と湖を静められたのです。イエスは、人々だけでなく、自然界に対しても権威を持っておられます。

 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 弟子たちは恐れをもって驚きました。彼らはイエスに出会ってから、そう長いこと時間がたっていませんでした。イエスが、どのような方であるかは、まだ詳しく知らなかったのです。けれども、イエスが自然界までに権威をもっておられるのを見て、この方の事を再び考え直さなければならなかったのです。このように、弟子になる特権は、イエスがいつもともにおられることだけでなく、イエスのことをさらに深く知ることもあります。イエスがどのような方なのか、どのような働きをされるのか。どのようなことを考えておられるのか、その深いところを知る特権を弟子達は持っています。

3A  悪霊追い出しによる立証
 次にイエスは、人から悪霊を追い出されることによって、ご自分の権威を立証されています。

1B  内容  悪霊憑きの男
 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。

 聖書は、私たちの住んでいる物資の世界だけでなく、霊の世界があることを知らせています。霊の世界の特徴は、まずそれ自体を目で見ることができないこと、そして、私たちの住んでいる同じ場所に、同じ時間に存在する事が出来る事です。ですから、この部屋にも、この机にも、今霊が通り過ぎているかもしれません。

 霊には、私たち人間が持つ霊のほかに、天使という神に仕える霊的存在や、逆に神に反逆する悪魔や悪霊がいます。クリスチャンは、「神のこども」と呼ばれており、私たちの身体は神の聖霊の宮であると告げられているので(1コリント6:19)、悪霊が私たちに宿る事はありません。しかし、キリストを信じないで、偶像を拝んだり、占いやオカルト的なものに心を開いている人は、ここに出てくる2人の男のように、悪霊にとりつかれることがあります。

 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」

 悪霊は、イエスを「神の子」と呼んでいます。先ほどは、人間がイエスを「主よ」と呼んでいました。「主」は、イエスがこの地を支配するメシヤであることを認めているものですが、「神の子」は、イエスが実に神であり、肉体を宿されている神であることを示しています。悪霊は霊的存在なので、このことに気付いていました。そして、「その時」については、新改訳の脚注を見ますと「定められた審判の時」とあります。悪魔とその手下の悪霊はユダの手紙によると、「底知れぬ所」という暗闇の中に閉じ込められる事が定まっています。(6節)これは、イエスが再び地上に来られて、神の御国を確立されるときに実現されるので、悪霊たちは、「まだ、その時でないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」と叫びました。

2B  解決  豚
 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」

  だれかがこの地で、豚の群を飼っていました。レビ記には、豚が、「汚れたものである(11:7)」から食べてはいけないと書かれています。私たちは、豚はよく焼かないとお腹をこわす、と言いますが、当時イスラエルの民がそうした害から守られるために、神はこのような律法を定められました。したがって、豚を飼っていたという事実は、彼らは不法のビジネスをしていたことを示します。

 イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。

 イエスの一言で、悪霊たちは豚の群に入っていきました、イエスは、人間や自然界に権威があるだけでなく、目に見えない霊的存在に対しても権威を持っておられます。

3B  反応  追い出し
 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。

 このガラダ人の町に、イエスのすばらしい御業が届きました。人々を困らせていた悪霊つきの男達は完全に治りました、ですから、他の箇所にあったように、人々が神をあがめて然りです。けれども、立ち去ってください、と願っています。つまり、この良き知らせを退けて、自分たちのビジネスを優先させたかったのです。それは、自分達の悪い行いが明るみに出されたからであり、イエスの光よりも、闇を愛したからでした(ヨハネ3:19−20参照)。今日みなさんがこのガラダ人の町に行ったら、廃墟しか見ることは出来ません。

 イエスを受け入れない町、イエスを受け入れない人々、イエスを受け入れない国は、いつかこのようになるのです。イエス・キリストは、私たちにとって良き知らせです。この方を、受け入れることができる時に、受け入れ、信じる事が出来る時に信じなければいけません。今が恵みの時、今が救いの日なのです。イザヤ55章6節にこう書かれています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。」

 こうして、イエスが病気に対して権威を持ち、弟子達に対して権威を持ち、自然界に対して権威を持ち、霊的存在に対しても権威を持っておられることを学びました。つまり、イエスは、どのようなものに対しても、それを支配している主なのです、イエスは、すべての主です。そして、このイエスの弟子となるということはすばらしい特権です。イエスはつねにともにおられますから、大暴風のような中にいても平安を持つことができます。


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