キリストで自分をいっぱいにする 08/04/2001

「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。(ピリピ1:12−14)」

パウロは、今、自分の喜びを表す手紙を書いています。けれども、実は軟禁されている家の中で、鎖につながれながら書いていたのです。考えられるでしょうか、それでも彼は喜びに満たされていました。

思えば、彼がローマに来るまでの道のりは、苦難の連続でした。エルサレムにおける騒動から始まり、カイザリヤにおいてローマ総督たちの政治的道具に利用され、ローマに向かう船に乗っていたときは、大きな嵐に見舞われ、死の危険を味わいました。そして今、ローマ皇帝ネロの前に出なければいけないのです。

しかし、彼は喜んでいました。それは、自分を鎖でつないで、監視しているローマ兵たちが、次々とイエスを自分の主として受け入れていたからです。パウロの家は、訪問者が来ても良いことになっていました。それでパウロは、神の国について語っていましたが、ローマの看守はそれをずっと聞かなければいけなかったのです。また、ローマ近辺にいる兄弟たちも、パウロの投獄によって力づけられ、大胆にみことばを語っています。

これが主にある喜びの力です。聖書には、「主を喜びなさい」という勧めがあります。人間的には、悲観的になり、落胆するようなことがたくさん起こります。けれども、エペソ書で学びましたように、キリストにあってはすべてのものを得ているのです。罪の赦し、神の子どもとなっていること、神の家族の一員となっており、神のものとキリストとともに相続すること。このことを思うとき、私たちは喜ばざるを得ません。

キリストのことを考えれば考えるほど、私たちは喜びに満たされ、苦境の中にあっても力づけられるのです。ですから、大事なのは、キリストで自分をいっぱいにすることです。


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