アウトライン
1A 二人の証人 1−14
1B 神の聖所 1−6
1C 異邦人に与えられた外庭 1−3
2C 二本のオリーブの木と燭台 4−6
2B 死者からの復活 7−14
1C 死を喜ぶ人々 7−10
2C 昇天 11−14
2A 第七の御使い 15−19
1B キリストの王位 15−18
2B 天にある神殿 19
本文
黙示録11章を開いてください。ここでのテーマは、「諸国の民への預言」です。
私たちはこれまで、大患難時代に起こる災いを見てきました。七つの封印が解かれて、第七の封印からさらに七つのラッパが吹き鳴らされました。そして前回学んだ10章においては、この開かれた巻き物を持つ、イエス・キリストの栄光を現わす御使いが登場し、使徒ヨハネに、「あなたはもう一度、諸国の民に対して預言しなければいけない。」と言っています。10章11節です。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」そして11章から、もろもろの民族、国民、国語、王たちに対する預言が書かれています。
1A 二人の証人 1−14
1B 神の聖所 1−6
1C 異邦人に与えられた外庭 1−3
それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」
使徒ヨハネは、神の聖所と祭壇とそこで礼拝している人を測れ、と命じられています。旧約聖書において、神殿を測ることが命じられている箇所があります。例えばエゼキエル書40章以降に、神の国、千年王国における神殿の幻が描かれていますが、神殿の形を測っている人が出てきます。そしてゼカリヤ書2章には、測り綱を持っている人の幻が出てきます。エルサレムを踏みにじる異邦の諸国に対するさばきが終わりの時に行なわれるのですが、エルサレムの町が神によって守られることが預言されています。
このように、測りざおがヨハネに与えられましたが、大患難時代が、エルサレムに建てられる神殿に焦点が与えられていることに注目してください。エルサレムとは聖書預言において、キリストの再臨を語るときに中心的な話題となる町です。ダニエル書9章を思い出してください。ダニエルが、捕らわれの地バビロン ― いやもうすでにそこはメディヤ・ペルシヤの地になっていましたが、― 捕らわれの地にて、エルサレムのほうを向いて祈り、エレミヤの預言である70年後のエルサレム帰還の預言に基づいて、悔い改めの祈りをしているとき、大天使ガブリエルが彼のところにやって来ました。そして彼に、「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。(9:24)」と言いました。七十週というのは、一週が七年間を指すので、70かける7年で、490年です。六十九週後にメシヤが断たれ、その後、エルサレムの町は終わりまで戦いが続くと預言されています。
この預言はすべて成就しました。イエスさまが、エルサレム再建から六十九週経った後に来られて、十字架につけられ、断たれました。その後、紀元70年には、エルサレムの町が破壊されて、ユダヤ人が世界中に離散しました。その後、イスラエルの地とエルサレムの町は、異邦人の足に踏み荒らされるようになったのです。イエスさまはこのことを「異邦人の時」と呼ばれてこう預言しました。「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24)」
この時期はずっと続いていました。けれども、第七十週目のことがダニエル書9章には続けて預言されています。「彼(来るべき君主)は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。(27節)」荒らす忌むべき者が終わりの時に現われて、そして定められた全滅が彼に上にふりかかる、と預言されています。彼が初めに行なうことは、イスラエルの多くの者と堅い契約を結ぶことです。その契約の中に、神殿再建についての事柄が含まれています。そして半週の間、つまり三年半の間、いけにえとささげ物をやめさせる、とあります。この後半の三年半は、ダニエル書7章では、「ひと時、ふた時、半時」とも呼ばれており、これも計算すると三年半です。この期間に、荒らす忌むべき者はこの地上に暴れ狂うことが預言されています。
イエスさまが、オリーブ山にて、この時が来たらユダヤにいるものは山々へ逃げなさいと弟子たちに言われました。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(24:15-21)」大患難が、ダニエルが預言した荒らす忌むべき者が聖所に立つのを見たときに、大きな苦難が、イスラエルに住むユダヤ人にたちに襲ってくるという預言です。パウロもこのことを預言して、テサロニケ人たちにこう書きました。「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(2テサロニケ3−4)」ですから、終わりの時は、ダニエルに与えられた第七十週目の七年間が重要な期間であり、特に半週すなわち三年半経った後が、本当にいろいろなことが起こる期間として定められています。
11章には、聖なる都すなわちエルサレムについてのことが、12章には、メシヤを産んだ女すなわちイスラエルの民についてのことが書かれています。13章には、今イエスさまが預言されて、パウロも預言した、荒らす憎むべき者が世界を支配することが書かれており、第七十週目の後半は、特に、エルサレムの町とイスラエルの民を中心して回っていきます。
私たちは、今でこそ中東情勢が新聞の紙面を賑わせていますが、そうでなければ中東情勢は感心のないこと、自分とは無関係のことであると思ってしまいます。今の生活が安定していればそれで十分と満足してしまいます。しかし、世界はそのようにはさせません。日本の経済は今、大変な状況にあります。会社に働く多くの人がリストラされます。けれども日本経済は、もちろん中東の石油に頼っています。他の世界の諸国もそうです。北朝鮮が東京に向けて、ボタン一つで核ミサイルを発射できるようにしています。そしてこの国は、中東諸国のイスラム・テロ勢力に対して武器の輸出を行ない、テロ組織の訓練場を設けているまで言われています。自分の生活が、中東から引き離して考えることができないように、世界はさせています。
そして中東がなぜあんなにも紛争の火種を持っているかと言えば、これは昔からではなく最近始まったことなのですが、あそこに小さな国イスラエルが出来たからです。世界中に離散していたユダヤ人たちがやって来て、パレスチナと呼ばれる地に千九百年ぶりに主権を回復しました。そこで周辺イスラム諸国が一斉に、イスラエルを攻撃しました。それから主な中東戦争は五回起こりましたが、そこに冷戦時代の米国とソ連の思惑が絡み、世界秩序を揺るがす要因となりつづけているのです。人々は、聖書の時代は終わった。神の時代は終わった。今は、人間の統治であり、科学が統治するときであると言います。しかし、物事はすべて、聖書が書かれているとおりに動いているのです。聖書は、終わりの時には反キリストが現われて、イスラエルと契約を結び神殿を再建させることが書かれているのです。そして、このことが世界諸国の注目の的となり、世界の諸国にとってやっかいな問題となっており、重い石となっているのです。
ですから、クリスチャンは、世界は今どうなっているのか、私たちの主であり神である方が何を考えておられるのかを知るには、中東、特にイスラエルで起こっていることを見ていかなければいけません。そして、未信者の人にも、神が今、生きておられ、世界を動かしておられることを話し、福音を伝えることができるのです。
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。
聖所というのは、いくつかの区画に分かれています。一つは神殿の建物そのものです。ここは祭司しか入ることができません。そしてその外に、イスラエル人の男性のみが入れる区画があります。さらにその周りには、「婦人の庭」というのがあります。ここは、イスラエル人の女性も含めて、イスラエル人ならだれも入ることができる場所です。そしてその外に「外庭」があり、そこは異邦人でも入ることができる区画です。そして、ここで、「聖所の外の庭は、異邦人に与えられている」とあります。神殿は建てられるのですが、外の庭は異邦人がするがままにさせる、ということです。
エルサレムの町は、イスラエルが1967年、六日戦争のときにヨルダンから奪取しました。イスラエル兵士たちが、ヨルダン兵と激しい銃撃戦となり、十字架への道につながっているビア・ド・ドローサの入口の門である、獅子の門(あるいはステパノ門)には弾痕の跡が生々しく残っていますが、イスラエル兵たちが嘆きの壁のところまで来たというのは有名な話です。けれどもイスラエルは、周辺イスラム諸国や、エルサレムを国際都市にしたい世界のことを考えて、神殿の丘の敷地はイスラム教徒の管轄化にすることを許しました。モハメッドが昇天したとムスリムが信じている岩のドームがそこに立っているからです。
イスラエル人のほとんどは、このことはあまり気にしていませんが、一部の正統派ユダヤ教徒は、神殿がそこに再建されることを強く願っています。エルサレム旧市街のユダヤ地区には、「神殿協会」という団体の建物があり、そこに、香壇や燭台など、今にでも使うことができるような、聖所に使われる用具が陳列されています。イスラエルでは、祭司の務めを行なうための訓練を施しているところさえあります。神殿再建が行なわれるのは、決して夢物語ではありません。
そして、神殿の丘に立っている岩のドームですが、最近の考古学の発見によると、岩のドームが立っている地点は、実はソロモンやヘロデが建てた神殿の地点とは、若干異なっていることが分かっています。ちょっと北に、霊のドームと呼ばれる小さなドームがあるのですが、そこが神殿の地点であるというのです。そして、実際、東の門あるいは黄金の門と、その地点は一直線で結べます。とすると、岩のドームを壊すことなく、そのまま立っていながらかつ神殿を建てることは可能になります。外の庭の部分だけイスラム教徒にゆずれば良いだけの話です。
したがって、考えられるシナリオは次のとおりです。今、イスラエルに世界の諸国から、パレスチナ人との和平の圧力がかけられています。そこで共存できれば、その地域の平和、そして世界平和と秩序が保たれるとの圧力です。このことを上手にまとめる政治的指導者が現れて、イスラエル人に神殿再建の許可という条項を与え、和平を確立させることがあります。ユダヤ人の多くは、これは良い考えであると納得し、その契約を結ぶというシナリオです。
今、ユダヤ教徒のラビは、イエスがメシヤではないとする根拠の一つに、彼は自分を神の御子であると主張したということを挙げます。それは、メシヤは、モーセが言った「もう一人の預言者」であり、モーセのように人間でなければいけない、ということです。もちろん、聖書には、メシヤは神の御子であるとの預言があり、当時のユダヤ教指導者も、イエスに対して、「あなたは、ほむべき方の子、メシヤか?」と問いただしています。けれども現代のユダヤ教はそれを否定するのですが、そこで、「人間であれば、だれがメシヤであるのか、そうでないのかが分かるのですか?」と質問すると、こういう答えが返ってきます。「神殿を再建することを導かれる方である。」そう、ユダヤ人の中では、偽のメシヤ、反キリストを受け入れる素地が出来上がってしまっているのです。イエスさまは当時のユダヤ教指導者に、「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5:43)」と言われました。本物のメシヤを受け入れなかったので、偽のメシヤを受け入れてしまうという預言です。
彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
42ヶ月はちょうど三年半です。今、イスラエルはエルサレムの町に主権を持っていますが、ダニエルの預言にあった第七十週の後半部分では踏みにじられてしまいます。
それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。
「それから」とありますが、これは「また」と訳すことができます。ふたりの証人が千二百六十日間、すなわち三年半の間、預言をするとありますが、11章14節を見ますと、これは「第二のわざわい」の一部であり、まだ第七のラッパが吹き鳴らされる前のことです。したがって、ふたりの証人は、第七十週の前半部分の三年半、預言を行なうことが分かります。「荒布を着て」とありますが、彼らは悔い改めの預言を行なうようです。
2C 二本のオリーブの木と燭台 4−6
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
二本のオリーブの木と燭台というのは、ゼカリヤ書に出てきます。預言者ゼカリヤは、エルサレム帰還後、神殿再建を行なっていたユダヤ人たちに対して預言した預言者です。ユダヤ人がバビロンから戻ってきたのですが、神殿建築の働きは当時の異邦人たちによって阻まれました。しばらくその工事は滞っていたのですが、預言者ハガイとゼカリヤが来て、彼らを鼓舞し、神殿を建てる勧めを行ないました。そこでゼカリヤ書は、今まで異邦人に踏み荒らされてきたエルサレムが回復する預言となっています。当時のエルサレム再建だけでなく、終わりの日にイエス・キリストが再臨された後に回復するエルサレムのことも預言しています。
彼は合計八つの幻を見ましたが、五つ目の幻が、一つの燭台と、七つのともしび皿にそれぞれ付いている管と、その管が二本のオリーブの木につながっている、というものでした。これは何ですかとゼカリヤが聞くと、天使はこう答えました。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(4:6)」ゼルバベルとは、当時のイスラエル人たちの政治的指導者でした。彼に、この神殿建築は大変かもしれない、いや、能力や権力によっては成し遂げられないが、わたしの霊によって成し遂げられる、という励ましのことばをゼルバベルに語りかけているのです。もう一人、宗教的指導者に大祭司ヨシュアがいました。そして、ゼカリヤは、「油を注ぎだす、オリーブの二本の枝は何ですか。」と聞きました。すると天使は、「これらは全地の主のそばに立つ、ふたりの油注がれた者だ。(4:14)」と答えています。この油注がれた者は、大祭司ヨシュアと、総督ゼルバベルのことです。けれども終わりの時に、彼らのように油注がれた証人が二人現われるといういうことが、ここ黙示録11章4節から分かります。
神殿再建は、世界の諸国が喜ぶ和平案であります。世界紛争の火種であるイスラエルが、神殿再建という妥協によって取り押さえられているという喜びがあるからです。そして多くのユダヤ人が、反キリストの和平案を受け入れ、また彼をメシヤだと思う人もいます。しかしここで、火を噴くように、いや、文字通りに火を噴いて預言するふたりの証人を神が立てられたのです。
彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
このすごい預言者でありますが、似たような働きを行なった預言者がいますね。そうです、エリヤとモーセです。まず、火が口から出てくる、というところです。エリヤは、イスラエル王アハズヤは死ぬという預言をして、それに怒ったアハズヤは、エリヤを捕まえようとしてやって来た五十人の隊長を、天からの火を下して焼き尽くしました(1列王1章参照)。モーセの場合も同じです。モーセとアロンに歯向かったコラとコラに追従した250人がいました。コラは立っている地面が割れて、生きたまま地獄に落ちましたが、250人は、主のところから出た火によって、焼き尽くしてしまいました(民数16:35)。そして、雨が降らないように天を閉じる力を持っている、というのは、エリヤが祈ったとき、雨が三年半の間降らなかったことがあります(ヤコブ5:17)。水を血に変えるというのは、十の災いがエジプトに下ったとき、モーセを通して、第一の災いがナイル川の水が血に変わったという災いがあります。したがって、このふたりの証人は、エリヤとモーセという可能性があります。
特に、二人のうちの一人がエリヤである可能性は高いです。旧約聖書の最後の書物、マラキ書の最後に、次の預言があります。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。(4:5)」終わりの時に、主が来られる前にエリヤが来ます。当時、バプテスマのヨハネがいました。彼は、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、(ルカ1:17)」と言われた人物です。しかし、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。(マタイ11:14)」とイエスさまは言われました。ユダヤ人たちが彼を進んで受け入れるなら、神の御国は預言どおり立てられたのであるが、ユダヤ人が拒んだので、「エリヤは来」る(マタイ17:11)とイエスさまは未来形でエリヤの到来を預言されました。したがって、ふたりの証人のうちの一人はエリヤであると考えられます。
このエリヤとそしてモーセが、イエスさまが高い山で栄光の姿に変貌されたとき、いっしょにいたということもあり、エリヤは預言の代表であり、モーセは律法の代表ですから、終わりの時に二人が証人として現われるのは妥当であると考えられます。今でもユダヤ人は、毎年春に行なわれる過越の祭りの時、食事の席を一つだけあけておきます。エリヤが座るための席です。エリヤが来ることによって、次にメシヤが来られるという待望をその儀式で表しています。
2B 死者からの復活 7−14
1C 死を喜ぶ人々 7−10
そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
「底知れぬ所から上って来る獣」とは、反キリストのことです。黙示録13章に、反キリストが悪魔から、力と位と大きな権威が与えられることが預言されています(2節)。彼は打ち殺されましたが、その致命的な傷が直ったと書かれていますが、その時、底知れぬ所からの力を付与されたと考えられます。黙示録17章8節にも、獣、反キリストが、底知れぬ所から上ってくると書かれています。反キリストが、第七十週目の半ばで、これらふたりの証人を殺してしまいます。
彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
ふたりの証人は埋葬されることなく、死体をさらされます。場所はエルサレムです。イエスさまが十字架につけられたのは、エルサレムの町の城壁の外でしたから、エルサレムの町が「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」と呼ばれています。神の都であるはずのエルサレムは、大患難時代の時、ソドムやゴモラのように退廃してしまっているようです。イザヤもかつて、イスラエルのことを、「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。(イザヤ1:10)」と呼びました。
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
世界中の人たちがこの死体を見ています。「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々」です。今、国際世論というもので、平和がこうあるべきであると議論されています。そして、世界は、キリストのみが平和の君であるという神のあかしを拒んでいます。ですから、真理を語るこの二人は、どうにかして滅ぼしたいという目にとげのような存在だったでしょう。だから今、死んでくれて喜んでいます。「ああ、せいせいした!」と思うのです。このために、パーティーさえ開くようです。
おもしろいのは、この死体をどのようにして世界中の人が見るのか、ということです。現代の技術では十分可能ですね。エルサレムの嘆きの壁は、今インターネットで、世界中でライブで見ることができます。また、マスコミが衛星中継して、死体を世界中のお茶の間に見せることでしょう。
2C 昇天 11−14
しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
彼らは生き返りました。生き返っただけでなく、天に引き上げられました。エリヤがかつて昇天したのはエリシャだけでしたが、ここでは世界中の人が見て、非常な恐怖に襲われています。彼らは、ヨハネが、「ここに上れ」と言われたのと同じセリフで天に上りました。
そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
エルサレムにて、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、七千人が死にますが、残りの人は天の神をあがめました。信仰を持ちました。以前私たちは、7章にて、神の印を押された14万4千人のイスラエル人たちを見ましたが、彼らの働きによって多くの人がイエスさまを信じます。ここでも同じように、エルサレムに住む人々、ですからユダヤ人たちでしょう、彼らがふたりの証人のあかしによって信仰を持つようになります。
第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
覚えていますか、「わざわいなるかな、わざわいなるかな、わざわいなるかな」とわしが、中空を飛んでいましたが、第一のわざわいは、第五の御使いが吹き鳴らしたラッパによって引き起こされ、いなごのような悪霊による攻撃でした。第二のわざわいは、第六の御使いのラッパであり、二億人の騎兵でした。そして第三のわざわいがまだ起こっていません。ふたりの証人は、第二のわざわいの時まで地上にいる、ということです。
2A 第七の御使い 15−19
1B キリストの王位 15−18
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
とうとう、第七の御使いがラッパを吹き鳴らしました。すると、天に大きな声が起こって、この世の国が、私たちの主およびそのキリストのものとなった、と言って賛美しています。ここの「この世の国」は「この世の国々」と訳すことができるところです。世界中の諸国ということです。世界の諸国は、キリストを拒み、この方に服することを拒み続けてきましたが、今、イエスが王の王、主の主となられて、世界を支配されます。黙示録5章で学びましたが、世界の土地購入証書はイエス・キリストによって封印が解かれ、キリストのものとなるのです。
ダニエル書には、ネブカデネザル王が見た人の像の夢が書かれています。金の頭、銀の胸と両腕、青銅の腹ともも、そして鉄のすねです。最後、足と足の指ですが、粘土と鉄が交じり合っている状態でありますが、ダニエルはこの幻が、世界の諸国を表していると解き明かしました。けれども、人手によらずに切り出された石が、足と足の指の部分を打って、人の像全体がこなごなに砕け、この石が大きな山となるという預言です。世界の諸国や諸国の民は、神とキリストに反抗します。詩篇二篇には、現代の世界の状態を見事に表している箇所が出ています。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者(キリスト)とに逆らう。(1−2節)」国々が騒ぎ立っています。そして、地の王たちは立ち構えて、相ともに集まって、そして神とキリストに逆っています。この傾向はいよいよ強まって、終わりの日は、メギド平野に集結し最終戦争を行なうのです。
けれども、主は、これらの諸国の軍隊をことごとく粉砕し、エルサレムに来られて、オリーブ山に立たれて、地殻変動が起こり、諸国をさばき、ある者は羊として御国へ招き、ある者は山羊として地獄に投げ込まれます。そして、主ご自身がご自分が住まわれる神殿を建てられ、そこからいのちの水が流れ出し、一方の川は死海に入り、死海はもはや死海ではなく、魚が泳げるところとなります。もう一方の川は地中海に流れ、そしてエルサレムが、世界でもっとも高いところになります。世界中の人々は、主のみことばを聞きにやって来ます。世界には、主イエスのことばによる平和と正義が確立し、すべての人は悲しみの涙を拭い去り、喜びと笑いの中に入ります。キリストが王となられるのです。
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。
覚えていますか、黙示録4章、5章で登場した、天における神の御座のそばにいた、二十四人の長老たちです。教会を代表しているとならいました。
万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。
長老たちは、キリストが王となられたことを感謝していますが、その他に、諸国の民が怒っていたことを言及しています。諸国の民は、キリストのあかしについて怒っていました。キリストが主であり、この方によらなければ救いはないという福音に対して怒っていました。そして今、ふたりの証人の預言にも怒っていました。このことによって、イエスを信じる者たちは殉教しました。世の憎しみにあったからです。
しかし、今は、神ご自身が諸国に対して怒りを現わされます。白い大きな御座で、死者がハデスから出されて、復活し、神のさばきを受けます。また、迫害を受けた預言者や聖徒たちのことで、この世は神にさばかれます。そして地を滅ぼすものどもは、ことごとく滅ぼされます。パウロはテサロニケ人たちにこう言いました。「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。(2テサロニケ1:8−10)」
2B 天にある神殿 19
それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
11章は、地上における神殿から始まりましたが、天における神殿で終わっています。地上の幕屋は、天にあるものの模型であることを思い出してください。契約の箱があると書かれていますが、地上の幕屋には、至聖所に契約の箱がありました。神ご自身がおられるところです。第七の御使いがラッパを吹き鳴らされた後に、神は、多くのものが天で賛美と礼拝をささげたのを受け取られ、そしてご自分の最後の怒りを下されます。「いなずま、声、雷鳴、地震、大きな雹」とありますが、これらは旧約時代、シナイ山で現われた主のときにも起こったことですし、エジプトに対しては大きな雹がふりました。
こうした諸国の民に対する、ヨハネの預言が始まりました。終わりの時は、人間の支配と、人間の神に対する反抗に対して、神が怒りを発せられるときです。諸国の民は怒りますが、神はご自分の怒りを現わされます。そして、舞台はイスラエルとエルサレムに入っています。ここで、神に対する人の反抗と、そして神の報復を見ます。私たちは、ただ主を畏れかしこんで、残された日々を生き、また恵みの福音を伝える者になっていきたいです。
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