黙示録15−16章 「真実で、正しい方」



アウトライン

1A 天におけるしるし 15
   1B 救い出された人々 1−4
   2B 七人の御使い 5−8
2A 窮まる怒り 16
   1B 報復 1−7
   2B 悔い改めない者ども 8−11
   3B ハルマゲドン 12−16
   4B 成就した 17−21

本文

 黙示録15章を開いてください。今日は15章と16章を学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「真実で正しい方」です。私たちは前回、御使いたちが出てきて、神の怒りの杯が地に注がれることについて読みました。第一の御使いは、神のさばきが下る前に、永遠の福音を宣べ伝えました。第二の御使いは、大バビロンがさばかれることを宣言しました。第三の御使いは獣の国に住む者たちが、永遠のさばきの中に入ることを警告しました。そして15章と16章は、この三つの預言をさらに詳しく見ていくことになります。

1A 天におけるしるし 15
1B 救い出された人々 1−4
 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。

 天に「もう一つの」巨大なしるしとありますから、これ以前に巨大なしるしをヨハネは見たことになります。ヨハネは、黙示録12章にて、天における巨大なしるしを二つ見ました。一つは女であり、これはイスラエルを表していました。もう一つは赤い竜であり、これは悪魔を表していました。そして今、もう一つの巨大なしるしとして、最後の七つの災害を携えている七人の御使いのしるしを見ます。

 ヨハネは、「驚くべき」巨大なしるしと言っていますが、それは最後の災害のしるしだからであり、これによって神の激しい怒りは「窮み」に達するからです。神の怒りがもう決して残らないようなかたちで、すべてが地上に注がれます。神の究極のさばきが地上に下ります。神は怒るにおそく、忍耐深い方です。けれども、だからといって罪をそのままにしたり、許容したりすることは決してなさいません。この方はあわれみ深い方であると同時に、正しく真実な方です。福音を頑なに拒む者たちには、容赦ない永遠のさばきを与えられます。ヘブル人への手紙には、「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(10:31)」とありますが、今から見るのはそうした神の怒りの現われです。

 私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。

 黙示録4章にて、父なる神の御前には「ガラスの海」があったことが記されていました。けれどもこの箇所には、「火の混じった」ガラスの海になっています。これは神の怒りとさばきが地上に下るからです。

 そしてここにいる人々は、「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った」人々です。覚えていますでしょうか、前回私たちは、シオンの山の上におられる小羊のところに、14万4千人の神のしもべがいたのを読みました。彼らは黙示録7章によると、患難時代の始めにイエスをあかしする宣教者として神に仕えることが分かります。その結果、世界中のいろいろな民族や国民からイエスさまを信じる人が起こされます。彼らは、前回学んだ14章にて、大患難時代を通り抜けて神の御国に入れるようになることを学びました。けれどもその前に学んだ13章にて、獣の国においてイエスさまを信じる聖徒たちに対して、獣が勝利することが書かれていました。聖徒たちは、獣の名前の印を押されるのを拒んだために、殉教したのです。

 そこで今、ここで彼らは天にいます。彼らは地上においては反キリストと偽預言者によって殺されて、敗北したように思われますが、実はそうではなく勝利者であったのです。私たちクリスチャンは、地上においては戦闘者(militant)であり、天上にて凱旋者(triumphant)であると言われます。この世においては、罪との戦い、肉との戦い、世との戦い、そして悪魔と悪霊どもとの戦いがあります。けっして平坦な道ではありません。けれども天において凱旋の門をくぐるのです。

 
彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」

 モーセの歌」とありますが、それはモーセがイスラエルを率いて、紅海を渡り、エジプト軍が紅海の中で溺れ死んだときにうたった歌のことです。主がイスラエルのために、大いなる驚くべきことを行なってくださったことを歌っています。そしてまた、「小羊の歌」とあります。小羊イエス・キリストの流された血によって、罪赦され、義と認められ、神の救いにあずかったことをうたう歌です。モーセの時は、エジプトという敵から救い出されたことを歌いますが、ここでは大患難にて殉教にあった聖徒たちが、獣とその国から救い出されたことを歌っています。

 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

 今彼らは、主が地上に再臨されて世界の王となられることを讃美しています。イエスさまはイスラエルの君だけではなく、すべての国々の君であり、すべての民族、国民がエルサレムに来て、イエスさまをあがめ、ひれ伏します。それは、イエスさまが地上に戻ってこられるときに、正しいさばきを行なわれるからです。ですから、すべての人が主の御名をほめたたえます。

2B 七人の御使い 5−8
 その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。

 火の混じったガラスの海を見ていたヨハネは、次にあかしの幕屋の聖所を見ました。以前からお話しているように、地上の幕屋は天にあるものの模型になっています(ヘブル8:5)。ですから、天において聖所があるのです。

 そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。

 七人の御使い」が出てきています。これは以前、七つの教会に対して、イエスさまからそれぞれ遣わされた御使いであるかもしれません。彼らは、きよく光り輝く亜麻布を着て、金の帯を締めていますが、これは栄光のイエスさまの姿に見ています。彼らはイエスさまの栄光を反映しています。

 また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。

 神の御前にいる四つの生き物の一つが、七つの金の鉢を七人の御使いに渡します。これには、神の御怒りがこぼれおちそうにいっぱいに入っています。14章にて第二の御使いが、「神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。(10節)」と言ったとおりにです。

 聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。

 出エジプト記の最後には、幕屋が完成したときに栄光の雲が満ちていたので、モーセが中に入ることができなかったことが書かれています(40:35)。ソロモン王のときも、神殿が建設された後、栄光の雲のために祭司たちが入ることができなかったことが書かれています(1列王8:11)。今、神の怒りが完全に注がれることによって、その栄光に宮が満たされるということです。

2A 窮まる怒り 16
 それでは、実際にどのようなさばきが行なわれるかを見てみましょう。

1B 報復 1−7
 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」

 これまで私たちが見てきた神の怒りの現われと、これからの怒りの現われは多少違います。それは、これが究極の最後のさばきであることです。それまでは悔い改めの余裕が与えられていました。これでもか、これでもかといわんばかりに、主は怒りを現わしておられながら、なおかつ赦しを与えようと待っておられました。ですから14章に出てきた御使いは、永遠の福音を携えて、神のさばきが下るまえに、天と地と海と、水の源を造られた方を拝めと呼びかけたのです。けれども、今はすでに遅いです。神の時がやって来ました。残された者たちには悔い改めの機会が残されていません。彼らは最後の最後まで心をかたくなにしていたのです。私たちにも悔い改めの機会があります。けれどもそれは永遠に与えられているものではなく、神が定められた期限があるのです。

 七つの鉢」は、第七の御使いがラッパを吹き鳴らしたところに入ります。第七のラッパに七つの鉢があります。

 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

 一つ目の鉢は、地上に向けてぶちまけられました。そして、獣の刻印を受けている者、獣の像を拝む者たちに被害が及びました。彼らは獣の国で比較的安全に生き、聖徒たちは苦しみ死にましたが、今は彼らが苦しんでいるのです。「ひどい悪性のはれもの」とありますが、出エジプト記には十の災いの一つに、膿による災いがありました。

 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。

 第二の御使いは、「」に鉢をぶちまけています。そして海は単なる血ではなく、死者の血のようになりました。ほとんど黒色であったかもしれません。そして、海の中のいのちあるものがみな死んでいます。覚えていますか、ラッパのさばきのとき、地上の木、海の生物、飲み水の源泉、そして太陽や月の光が、それぞれ三分の一の被害を受けました。海が血になりましたが、それでも三分の二は大丈夫だったのです。けれども今はすべてのいのちが奪い取られています。

 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

 今話したように、ラッパの災いでは三分の一の水源が苦よもぎのために水が苦くなりました。けれども今、水のすべてが血になりました。

 また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」

 神は報復される神です。苦しみを与える者に対して苦しみを与えられる方です。ヘブル人への手紙には、「私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。(10:30」と書かれているのを読みます。私たちが怒って、仕返ししてやりたいと思うときは、神の義を達成していません。ヤコブは、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(1:20)」と言いましたが、私たちの怒りはたいてい、自己中心的な思いから出てきています。けれども主は正しい方であり、それぞれの行ないに対して報いを与えられます。獣の国にいて聖徒たちを苦しめた者たちには、同じ苦しみが与えられるのです。

 また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」

 祭壇」は青銅の祭壇であり、青銅の色はさばきを表しています。神のさばきが真実で、正しいことを言っています。

2B 悔い改めない者ども 8−11
 第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。

 一つ目の鉢は地上へ、二つ目の鉢は海へ、三つ目の鉢は川の源になげつけられましたが、四つ目は太陽にぶちまけられます。すると、太陽熱が非常に強くなり、人々を焼きます。

 こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。

 永遠の福音を携えていた神の御使いは、「天地を造られた神を拝め」と呼びかけましたが、ここでは逆のことを行なっています。神の御名をののしっています。これが、究極のさばきを受けるものたちの姿です。いかなるしるしによっても、自分の心を強情にして決して悔い改めません。本来ならへりくだって、罪の赦しと救いを求めるところが、かえって神をののしるようなことをしてしまいます。私たちも、「神が愛であるならば、なぜこのような悪いことが起こるのか。」と言って、暗に今起こっている悲惨なことが神のせいであるかのように語られるのを聞かないでしょうか?自分たちの罪によってもたらされた悲惨を、人のせいではなく神のせいにするのです。

 第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。

 エジプトに下った十の災いのうち、九つ目が暗くなることでした。そして獣の国の者たちは、地獄で苦しむ者たちと同じように、舌をかんでいます。イエスさまは、地獄はまっくら闇で、歯ぎしりすると言われましたが、今、獣の国にいる者たちは地獄の前味を味わっているのです。

 そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。

 「はれもの」とは、第一の御使いによる鉢による、悪性のはれものです。そして彼らは再び、天の神をののしっています。どんなことがあっても、かたくなにされた心は変えられないのです。

3B ハルマゲドン 12−16
 そしてついに、第六の御使いの鉢によって、ハルマゲドンの戦いが始まります。第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 聖書の中のユーフラテス川というのは東の地域のことであり、これより先の東はまさに地の果てでした。けれども、この川がかれてしまい、「日の出るほうから来る王たち」がハルマゲドン、つまりメギド平野地域のところに来ることができるようになります。これは全世界的規模で軍隊がイスラエル地域に集まってくることを意味します。

 ダニエル書11章の最後には、反キリストがイスラエルで暴れ、また周辺で他の国々と戦いを交えるハルマゲドンの戦いについて預言されています。そこにも、「東と北からの知らせが彼を脅かす。(11:44)」とあり東方からの王たちがやってくることが預言されています。ですから、私たちが住んでいるアジア地域から後に、軍隊がイスラエルへと集められるのです。

 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 偽の三位一体である竜と獣とにせ預言者はそれぞれ、汚れた霊を口から出しています。以前、アハブに対して、彼が戦いで負けることを預言したミカヤは、悪霊どもが偽預言者にはいって、その口からにせの預言を行なわせることを話しました(1列王22:19−23)。同じようなことが起こります。悪の三位一体から発せられた悪霊は、世界中の王たちに対してまやかしを語ります。イスラエルに軍隊を派遣させるべきである、と語ります。それで世界が集まってくるのです。

 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

 神の大いなる戦い」とあるように、これはイスラエルに対する戦いであると同時に、神とキリストに対して反抗する戦いでもあります。ヨエル書3章12節には、「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」とあります。ヨシャパテの谷とは、オリーブ山と神殿の丘の間にある谷です。エルサレムにも世界中の軍隊が集まってきますが。これは神のさばきを受けるためであり、彼らがことごとく滅ぼされるためです。ちょうど神がイスラエルを引きかえらせ、海辺で宿営させ、さらにパロの心をかたくなにしてイスラエルを追いかけさせるようにするようなものです。

 ・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・

 イエスさまが今、お語りになっています。このハルマゲドンの戦いのときに主が戻ってこられます。そこで主は、私たちに目をさまして、着物をみにつけなさいと励ましておられます。ローマ13章14節には、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」とあります。主の現われを待ち望み、キリストを身につけて、そして暗やみのわざを打ち捨てることを私たちに求められています。

 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。

 「ハルマゲドン」とは「メギドの丘」という意味であり、イスラエルのガリラヤ地方とサマリヤ地方の間にある平野です。ここは大国がぶつかり合って戦った戦場となっていました。聖書時代にも、たとえばデボラとバラクは、カナン人のシセラとこの平野で戦いました。ユダの王ヨシヤは、エジプトから来たパロ、ネコとこの平野で戦いました。終わりの日に世界大戦がこの平野を中心にして戦われます。

 反キリストは、反旗をひるがえすエジプトなどの国と戦ったりしますが、結局は相一つ集まってイスラエルを攻撃します。世界中の国々もイスラエルとエルサレムを攻めます。ゼカリヤ書12章3節には、「地のすべての国々は、それ(エルサレム)に向かって集まって来よう。」とあります。しかし、もちろん主が介入されて、イスラエルの残りの者たちを救われるのです。

4B 成就した 17−21
 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。

 第七の御使いは、空中に鉢をぶちまけました。すると、災いが下る前に聖所から、「事は成就した」という声が聞こえました。イエスさまが十字架上でテテレスタイ「完了した」と言われたとき、それは十字架による罪の贖いについての預言がすべて成就して、完成したという意味でした。ここでは、神の正しいさばきがすべて成就して、完成したという意味です。これで終わりです。

 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。

 患難時代の始めは、第六の封印が解かれたとき、大地震が起こったことで始まりました。そして今、患難時代の終わりを大地震で終えようとしています。けれども、もちろん先の地震よりもはるかに大きい、強いものです。

 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

 あの大きな都」とはバビロンのことです。バビロンがさばかれて、神の怒りのぶどう酒を飲む場面は、次の17章、18章にて詳しく書かれています。

 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。

 最後は地殻大移動が起こります。

 また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。

 一タラントは35キログラムですから、おそろしいほど大きな雹が人々の上にふってきます。けれどもなおかつ、彼らは神にけがしごとを言います。これほどまでに恐ろしいことは神以外にはできないことを、彼らは認めざるを得ません。けれども、それによって彼らは神に悔い改めるのではなく、むしろけなすのです。これが、悔い改めの余地が残されていない、かたくなな心の状態であります。

 私たちの心は、神のしるしや怒りによって変えられるのではありません。時に神への恐れによって、人々は悔い改められるでしょう。けれども、ローマ2章には、神の慈愛が私たちを悔い改めに導く、とあります。神の恵みとあわれみが、神の御霊によって私たちを一新し、私たちの心を変えるのです。この恵みの働きを今拒んでしまうなら、ついに心を変えることができない時が来ます。そのときではもう遅いのです。パウロは、「今が恵みの日、救いの時」と言いました。主がお語りになっているときに、その御名を呼び求めてください。


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