黙示録3章 「神の家のさばき パート2」

アウトライン

1A 霊的無感動 1−6
   1B 生きているとされ、死んでいる教会 1−3
   2B 白い衣 4−6
2A 少しばかりの力 7−13
   1B 閉じることのない門 7−8
   2B 神の怒りからの救い 9−10
   3B 天のエルサレムにおける名 11−12
3A なまぬるい水 14−22
   1B 吐き出される教会 14−16
   2B 自己満足 17−18
   3B 懲らしめの愛 19−22

本文

 黙示録3章を学びます。私たちは前回の2章から、終わりの時における教会の姿について学んでいます。イエスさまがヨハネに、「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。(1:19)」と命じられましたが、2章と3章は「今ある事」についてです。そこでイエスさまは、ご自分が戻って来られる前に、目に見える教会に対して、ご自分の評価をされています。一応、「教会」という組織に属していても、本当に新しく生まれて、キリストのからだの一部とされている人々と、そうではない人とを明らかにされています。そして、悔い改めを促して、神の約束を得るようにと促しておられます。そこで前回のテーマは、「神の家のさばき」でした。今回も同じテーマです。

1A 霊的無感動 1−6
1B 生きているとされ、死んでいる教会 1−3
 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。

 サルデスという町は、前回学んだ、テアテラの町の南西にあります。ここは、古代ギリシヤの城砦の町として知られており、高原にある町です。そこに入るには一つの道しかなく、難攻不落の町として知られていました。

 ところが、この町は、同じようなかたちで、二度攻められたことがあります。一度目は、あのペルシヤ王クロスによるものでしたが、ペルシヤ軍がこの町にやって来ました。兵士の一人が、スミルナの町の上で城壁を護っている兵士が、うたたねをしてかぶとが絶壁を転がり落ちたことに気づきました。そこで、かぶとが落ちた場所である裂け目に降りて来て、帰って行ったのを見ました。そこでその兵士は、その裂け目からこの町に侵入できることに気づきました。彼は夜になると一団の兵士を率いて裂け目まで上り、城壁をよじのぼりました。すると中の人たちはみな寝ていました。城壁の上を守る護衛も町を守る護衛もいなかったので、皆が寝ている間にその都市を征服する事が出来ました。サルデスは二回征服された事があるのですが、二度目もほとんど同じでした。

 イエスさまが、「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。」と言われましたが、サルデスの町の歴史が、そこの教会に警告を発していたのです。自分たちは、要塞によって守られていることに安住して、その内部が機能していなかったことから、表向きは生きているとされている教会であっても、実際上は死んだようになっていることがあるのです。

 神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

 イエスさまが、「神の七つの御霊」を持つ方として紹介されています。なぜなら、サルデスの教会は、いのちの御霊が働いているとされている教会であったのに、実際は死んでいたからです。評判としては、いのちある教会なのに、実はそうではありませんでした。

 前回は、メッセージの間に触れませんでしたが、黙示録2章と3章に出てくる七つの教会を、全教会史の七区分として見る解釈もあります。エペソの教会が、使徒たちが生きていた時の教会であり、スミルナがローマ皇帝による激しい迫害を受けた初代教会時代。ペルガモが、キリスト教が国教化された時代であり、次にテアテラが、中世の暗黒時代に匹敵するという解釈です。そして、サルデスの教会は、霊的に堕落した教会に対して異議を申し立てたマルチン・ルターから始まった、プロテスタントの教会、あるいは宗教改革の時代であるとします。そしてもちろん、私たちが通っている教会は、プロテスタントの教会と言われています。

 宗教改革には三本柱がありました。一つ目の柱は、「信仰による義」です。秘跡と呼ばれる、数々の儀式を通ることによって、神の国に入れるとしてカトリックに対して、ただキリストを信じる信仰によって救われるとしました。二つ目の柱は、「聖書のみの権威」です。カトリックは教会と聖書の権威を同列に置き、教会の伝統を聖書と同じように大切にしましたが、聖書こそが最高権威であり、私たちの信仰や生活の唯一の基準であるとしました。そして三つ目の柱は、「万人祭司」です。カトリックは司祭を通して、イエス・キリストに近づき、そして父なる神に近づくという、仲裁的な奉仕を持っていますが、だれもがキリストを通して、父なる神に近づくことができる、としました。

 このような三つの柱を持って、プロテスタントの教会は成り立っていますが、私たちは今の話を、「当たり前のこと」「いつも聞いていること」として受けとめられると思います。けれども、実際上の話はどうなっているでしょうか?信仰によってのみと言いながら、福音派の教会の中には、水のバプテスマを受けるときにタバコを吸っている人を受けさせなかったり、什一献金を約束させたりする教会があることを聞いています。そして、「権威は聖書のみ」と言いながら、実際上は、信者ひとりひとりが聖書によって吟味することをせず、教会が言っていることに盲目的に従っていることがあります。ある人は、「霊的判断の丸投げ」という言葉を使いましたが、自分で判断せずに、牧師に任せてしまう姿は、実は、「聖書は、その働きに従事している奉仕者たちによって正しく解釈される。」というカトリックの立場そのものなのです。それから、「万人祭司」についても、伝道を牧師に任せ、自分ではキリストの証しを生活の場で立てることができず、自分でその人をキリストに導くことができない場合が多々あります。「生きているとされるが、実は死んでいる。」のです。

 私たちは、それぞれ、教団や、一つの教会の流れに属しています。そしてその教団や教会が出来たその流れを見ますと、多くの場合、聖霊によっていのちあふれた、すばらしい神の働きを見ることができます。そして今、人々には、「あの教団は、とても良いところだ。」という評価を得ます。けれども今は、実際上は、その内実である、御霊のいのちが失われていることが多いです。一世代から二世代、三世代に入っていくにしたがって、聖霊による感動がなくなり、霊的に無気力な教会となってしまいます。

 そして個々の教会の活動においてもそうでしょう。いろいろな教会のプログラムがあり、活発であるかのように見えます。生きているように見えます。けれども、それは「活動」だけであり、人間的な活動であっても、真の御霊の働きではないことがあるのです。

 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 その教会は初め、御霊によってはじまり、そのいのちが保たれていました。けれども、途中で、教えられたこと、聞いたことに忠実でなくなり、あきらめてしまいました。パウロは、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」と言いましたが、御霊によって始まったのに、途中で、自分たちのプログラムや計画でその働きを完成させようとします。もちろんそれはうまくいきませんから、実は結ばれません。そのために、がっかりして、霊的無気力状態に入るのです。

 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。

 霊的無気力状態に入っているとき、その処方箋は信仰復興です。教会がリバイバルされることです。けれども、今日、リバイバルという言葉が流行化して、陳腐化しています。何か新しいプログラムを行なうことが、リバイバルをもたらすものだと考えています。けれども、リバイバルとは、イエスさまがここでお語りになっているとおり、「どのように受け、どのように聞いたのかを、思い出す。」ことにあります。自分が御霊によって新しく生まれて、また御霊によって始まったその運動を思い出すこと。そして、人間の作為的なテクニックではなく、福音の真理の中に、イエス・キリストの中に戻ってくることが、リバイバルです。ですから、イエスさまは続けて、「堅く守り、また悔い改めなさい」と言われています。新しいことを起こすことではなく、教えられたことを堅く守り、その教えにしたがって、悔い改めるのです。

 もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 イエスさまは、ご自分が来られるのは盗人のようであることをお話になられました。「家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24:43−44)」けれども、パウロは、光のうちに歩んでいるなら、クリスチャンたちには、盗人のようには来られない、と語っています。「しかし、兄弟たち。あなたがたには暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。(1テサロニケ5:4)」私たちが、しっかりとキリストにとどまり、御霊に導かれているなら、主が教会のために戻って来られるときに、空中に引き上げられます。

2B 白い衣 4−6
 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 「白い衣」とは何でしょうか?黙示録19章には、花嫁である天にある教会が、光り輝く麻布の衣を着ることが許された、とあります。それは、聖徒たちの正しい行ないである、とありますが、汚れではなくきよさ、悪ではなく正しさを意味しています。そして、黙示録7章には、白い衣は、「小羊の血で洗って、白くしたのです。(14節)」とあります。キリストの血によって、罪赦され、きよめられ、また義と認められる、ということです。私たちは、自分たちの行ないではなく、ただキリストの血によって、いのちを持つことができます。

 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 「いのちの書から消すようなことは決してない」とは、永遠のいのちが取り上げられることはない、ということです。また、イエスさまは、父なる神の前で、その人の名を言い表してくださる、つまり、神にその人が受け入れられる、ということです。神が、私たちを終わりまで守ってくださる約束が、聖書にはたくさん書かれています。例えば、ユダの手紙には、「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方(24節)」として神が紹介されています。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

 七つのすべての教会に対する言葉です。個々の教会だけでなく、地上にある全教会に対するメッセージです。

2A 少しばかりの力 7−13
1B 閉じることのない門 7−8
 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。

 フィラデルフィヤの町は、サルデスからさらに東へ、内陸にはいったところにあります。当時は、貿易の要所であり、この町を通って、人々が東から西へ、西から東へ行きます。その町の門が開かれているということは、世界中に人々が散ることができるということ、霊的には、福音の戸が開かれているということです。そして、この町の名前は「兄弟愛」という意味です。

 聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

 ダビデのかぎ」という言葉は、イザヤ書22章22節に出てきます。南ユダ王国のヒゼキヤ王の家臣で、エルヤキムという人がいました。彼自身も、ダビデの子孫でした。彼にエルサレムの町の城壁の門の鍵が渡されて、彼が閉じれば、だれも入ることができず、彼が開けば、だれも人の行き来を妨げることはできません。そこからエルヤキムが、キリストの型となっています。イエスさまが、天と地のいっさいの権威が与えられており、イエスさまがすべてのことを掌握されている、ということです。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。 (マタイ16:19)」とあります。

 わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

 フィラデルフィヤの教会は、福音の戸が開かれていました。その理由は、「少しばかりの力があって、イエスさまのことばを守り、その御名を否まなかった」からだとあります。聖書によると、終わりの時に、人々が信仰を捨てて、背教することが預言されています。教会が誕生していたときのような、あの力は失われています。けれども、イエスさまは、フィラデルフィヤの教会を、「少しばかりの力がある」と言われて、ほめられました。多くの力がないけれども、その少しばかりの力が大事なのだ、と言われているのです。

 多くの人が、このような地道な霊的歩みを嫌います。何か大きな出来事、なにか大きなイベント、何か新しい教えを求めます。しかし、先ほど話しましたように、それは生きているようで、実は死んでいるものです。終わりの時に生きるキリスト者の姿は、わずかであっても、主に拠り頼み、主の力によって生きて、たとえそれが多くの人をキリストに導くような目立つようなものでなくとも、忠実である姿です。どこかのホールで行なわれる、クリスチャンのイベントに参加することよりも、いま自分がいるところで、主のことばに従って、変えられた人生と生活を人々に見せることのほうが、はるかに大事なのです。イエスさまは、「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と言われています。主のみことばに聞いて、それに従うことを行なっている、その地道な歩みが、後に大きな報いを受けることにつながります。

2B 神の怒りからの救い 9−10
 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

 ユダヤ人でありながらそうではなく、サタンの会衆に属する者については、前回、スミルナにある教会のところで学びました。ユダヤ人であっても、イエスを信じないで、神を第一にしていない者であれば、アブラハムの子孫であっても、悪魔を父として持っているということです。これはもちろん、異邦人にも当てはまります。

 そして、「彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ」というのは、イエスさまが地上に再び戻ってきてから、キリストの教会がキリストとともに地上を統べ治めることを意味しています。不信者であるユダヤ人が、イエスさまが来られるのを見て悔い改めますが、そのときに彼らが、教会がイエスに愛されていることを知ることになります。

 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 神の御国における約束だけでなく、大患難を免れることができるという約束もあります。ここで、「試練の時には、あなたを守ろう」とありますが、これは、「試練の時から、あなたがたを守る」と訳せます。つまり、大患難という時を経験しない、通らないと解釈することができます。イエスさまが、弟子たちにこう言われました。「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36)」すなわち、地上に下る災いから免れて、空中にまで戻って来られるイエスの前に立つことができるように祈りなさい、ということです。

3B 天のエルサレムにおける名 11−12
 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

 「」とは、主が戻ってきてくださるときに授けられる冠のことです。義の冠、いのちの冠などがあります。そして、「持っているものをしっかりと持っていなさい」とありますが、先ほどと同じとおり、私たちはこれから新たに何かを持つのではなく、すでに与えられた福音をしっかりと持っていることが大事なのです。

 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

 イエスさまがここでお語りになっているのは、黙示録21−22章に書かれている、新天新地であり、天のエルサレムのことです。天から地上に神の都が降りてきますが、その都の柱になり、また名前が書き記されます。ここから、フィラデルフィアの聖徒たちが、必ず救いを受けて、永遠の報いを受けることができる保証となっています。

3A なまぬるい水 14−22
1B 吐き出される教会 14−16
 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」

 ラオデキヤの町は、コロサイ人への手紙のコロサイの町のすぐそばにあります。コロサイ人への手紙をパウロが書いたときに、ラオデキヤにある教会の兄弟たちにあいさつを書いています。ラオデキヤの人たちにも読ませてください、と書いています。このラオデキヤの意味は、「人間による統治」という意味です。いまでいうところの民主主義です。一見よさそうに聞こえますが、「神の支配」である場所が本当に良い場所であります。

 「アーメンである方」というのは、イエスご自身を見れば、そのすべてが良しとされ、そのとおりであると同意できる存在であるからです。そして、「忠実で、真実な証人」という言葉は、黙示録1章に出てきました。「神に造られたものの根源」というのは、一見、イエスさまが造られたもののように聞こえますが、ギリシヤ語では、「創造の源」と言い換えることができます。コロサイ書1章に、「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(17節)」とあります。

 わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

 ラオデキヤの町は、非常に経済的に繁栄した町であり、また、配水管が通っているところでした。それは温泉からのものですが、源泉から10キロ近く離れていたので、ラオデキヤの町に来たことには、なまぬるくなっています。なまぬるい水というものほど、おいしくない水はありません。私たちが何かを飲むときに、冷たいか、熱いかどちらかの飲み物を欲します。なまぬるいのは欲しくありません。このラオデキヤの町にある水によって、イエスさまは、その教会も同じような状態であると指摘しておられるのです。

 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

 ラオデキヤの教会は、他の六つの教会と違って、イエスさまからほめられる言葉が書かれていません。その理由が、「なまぬるさ」だったのですが、それはどのような状態だったのでしょうか?他の六つの教会はいずれも、イエスさまのことばに照らして、「ここの部分が欠けている」とイエスさまがお語りになることができました。スミルナやフィラデルフィアのような忠実な教会でなくとも、イエスさまのことばに照らして、何が欠けているかを示すことができました。そして、悔い改めを促すことができました。

 ところが、ラオデキヤの教会は、何が欠けているのか、そうでないのかをいうことができる、イエスさまのことばがなかったのです。みことばが語られても、何の反応もない状態です。しばしば伝道において、人が反発したりすると、それは伝道の困難さとしてしばしば語られますが、むしろ、伝道の接点であるのです。福音のことばに反応することによって、それから、イエス・キリストを受け入れるか、受け入れないのかの選択をすることができます。もっとも致命的なのは、「はい」とも「いいえ」とも反応しない心です。私たちは、罪が示されても、それを主にあって悲しめばよいのです。けれども、もっとも悪いのは、割れば砕かれる堅いガラスではなく、ゴムのように決して割ることができない心です。これが、ラオデキヤの教会の生ぬるさを構成していたのでした。

2B 自己満足 17−18
 生ぬるさの原因が次に書かれています。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

 「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない」というのは、いまの自分の生活に満足している姿です。もちろん主にあって満足する心は大事ですが、ここでは、神がなくとも、キリストがいなくても、別に大きな支障はないとする心です。子供たちに私たちは伝道と弟子訓練をしているのですが、主のみことばを受け入れるか受け入れないかは、その子がいまの生活が幸せで、満足しているかそうでないかが原因であることが多いです。親が離婚してしまったとか、何らかの理由で主を求めるようになるきっかけが、みことばを受け入れる子供には見られますが、とくに問題を感じなければ、求める必要がないのです。

 しかし、イエスさまは、そのような自己満足の状態に対して、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」と言われています。私たちの自己評価と、主の評価とは、このように正反対になるほど異なることが多いです。私たちは人と比較して、「自分はそんなに悪くない」と思ってしまいますが、私たちが比較すべき対象は、唯一、神ご自身であり、イエスさまなのです。自分の写真を、イエスさまの写真と照合させます。そこに映し出される自分の姿こそが、本当の姿なのです。

 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

 「火で精錬された金」とは、試練によって練り清められた信仰のことです(1ペテロ1:7参照)。そして、「白い衣」は、先ほど説明しましたように、キリストの義であり、罪の赦しときよめです。そして「目薬」は、御霊によって目が開かれることを意味しています。

3B 懲らしめの愛 19−22
 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

 「懲らしめ」という言葉が出てきましたが、イエスさまは「愛する者」に対してそれを行なわれます。私はこの聖書個所をクリスチャンになったばかりのときに読んで、驚きました。懲らしめられるのは憎まれているからであり、見捨てられるからだと思っていましたが、その逆に、愛されているからであることを知ったからです。この個所を読んで、自分が喜んで、主のみことばに自分を照らして、その欠けた部分を照らしていただくことに恐れを持たなくなりました。人の前で面子を保つように、主の前で面子を保つ必要はないことを知りました。どんな酷いことが起こっても、主がともにおられて、決して見捨てることはないことを知りました。ヘブル人への手紙12章には、箴言からの言葉が引用されています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル12:5−6)

 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 この個所はしばしば、伝道集会のときに用いられる言葉ですが、けれども、ラオデキヤの“教会”に対して語られている言葉です。つまり、教会の外で、戸をたたいてイエスさまが立っておられる状態です。教会がイエスさまから完全に離れてしまっている状態です。これを「背教」と言うことができます。信仰から離れて、偽りの教えや、作り話に引き寄せられ、見た目は敬虔なようであるけれども、その実を否定しているような教会です。使徒たちの手紙には、終わりの時にそのような教会がふえることを預言しています。

 そしてイエスさまは、ともに食事をすることを約束されていますが、これは、主との交わりそのものに他なりません。当時の食事は、現在のものより、もっと深い意味があります。「食べている人と一つになる」という意味があります。同じパンから食べ、同じスープから飲むことによって、互いが一つになっていることを象徴しています。そのために、当時のユダヤ人は異邦人と食事をすることを避けました。イエスさまは、御霊によって私たちと一つになることを求めておられます。親密な交わりに招いておられます。

 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

 これは、千年王国における、キリストとの共同統治のことです。主と同じように、神の国を治めるところに着きます。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

 こうして「今ある事」を見てきました。ラオデキヤの教会のようにならずに、主によって心を貧しくしていただき、悔い改めて主のあわれみを求めることができるようにしていただきましょう。また、サルデスの教会のように、実際のことを見ていただき、御霊によって始まった私たちが、いつまでも御霊にとどまることができるようにしましょう。そしてフィラデルフィヤの教会のように、わずかであっても、主に拠り頼むことによって出てくる力により、地道なクリスチャン生活を歩むようにしましょう。


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