黙示録5章 「世界の贖い」

アウトライン

1A 封印を解くのにふさわしい方 1−7
   1B 神の右手の巻き物 1−4
   2B 立っている小羊 5−7
2A 小羊への礼拝 8−14
   1B 贖われた人々 8−10
   2B 無数の御使い 11−14

本文

 黙示録5章を開いてください。ここでのテーマは、「世界の贖い」です。

1A 封印を解くのにふさわしい方 1−7
1B 神の右手の巻き物 1−4

 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。

 とあります。これは、4章からの続きになっています。ヨハネが七つの教会に対するイエスさまのメッセージを聞いた後で、「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と呼びかける声があり、彼は御霊に感じました。そこで彼が見たものは、エメレルド色など、さまざまな宝石の色で輝く神の御座でした。その周りには、冠をかぶって着座している24人の長老と、翼を持っている四つの生き物を見ました。四つの生き物は、神に賛美をささげ、そして長老たちは冠を投げ出して、父なる神を伏し拝んでいます。

 そしてヨハネは、御座にすわっておられる神が、その右手に巻き物があるのを見ました。聖書には、「右の座」であるとか「右手」とかいう言葉が使われますが、権威を持っている、あるいは主権を持っている、ということになります。次の章、6章から読んでいく話は全世界に降りかかる大患難ですが、全世界を支配されているのは神であり、これからの成り行きをすべて掌握されているのは神であるということです。私たちが、この世の中を見ると本当に驚くことばかりであり、混乱がありますが、けれども思い出さなければいけないのは、それでも神が御座におられることです。そして、すべて世界で起こっている事象を前もって知っておられ、かつ定めておられます。

 
それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

 神が巻き物をお持ちでしたが、それには、内側にも外側にもたくさん文字が書かれています。これはもちろん、6章以降に起こる、神が地上に下される怒りと復讐についてのことです。ゼカリヤ書において、預言者ゼカリヤが見た幻に、飛んでいる巻き物があります。御使いがゼカリヤに、「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わされて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる。(5:3)」と教えました。地上で積み上げられている罪と不法が、神のみことばにしたがってさばかれるということです。

 けれども巻き物は、「七つの封印」で封じられていました。ユダヤ教徒の人がかついでいる巻き物を思い出していただきたいのですが、巻き物は左右の筒に巻かれています。それを回しながら開いていくものですが、それに封印があると開くことができません。この巻き物は、実はダニエル書の中ですでに預言されていました。ダニエルは、御使いから、ペルシヤ帝国から始まり、ギリシヤ帝国、そして終わりの時の世界戦争について長い預言を聞きました。そして、イスラエルが最後に滅ぼされそうになるが救われて、多くの者を義とした者が星のように輝くと預言した後に、こう言いました。「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。(ダニエル12:4)」ダニエルは執拗に、その終わりはどうなるのかと尋ねましたが、「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。(12:9)」と言われて、断られています。けれども、黙示録は、その封じられた書物、あるいは巻き物を開いたことを記録している書物です。

 6章以降の話は、その開かれた書物について書かれています。第七の封印が開かれると、七つのラッパが出てきます。第七のラッパが吹き鳴らされると、七つの鉢が地上に投げ込まれます。これらはすべて、この一つの巻き物の中に書き記されていることです。

 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

 封じられているのですから、だれかが開ければ良いのですが、それを開けることのできるものがいません。しかも、天にいる霊的存在も、地上にいる権威や権力を持っている人でも、また「地の下」つまり死んでいった過去の人々でも、封印を解くのにふさわしくありません。これは一体、何を意味しているのでしょうか?

 ここで私たちは、「贖い」という聖書に頻繁に出てくる言葉と、またそのテーマについて知る必要があります。「贖い」というのは、「買い戻す」という意味です。もともと自分のものであったのだが、売り渡されてしまいました。だから、自分のものだからそれを欲しいと主張するのですが、けれどもすでに売り渡されていますから、購入しなければいけません。自分の所有物でありますが、代価を支払って再び自分のものとします。これが「贖い」です。モーセ五書(聖書の最初の五つの書物。モーセによって書かれた。)の中に、この言葉がたくさん出てきます。例えば、イスラエルがエジプトから脱出するときに、主はモーセに、「それぞれの家の家畜の初子はすべてわたしのものである。」と言われました(出エジプト13:12−13)。初子とは一番初めに生まれた雄のことですが、それは生まれてきた時点で自分のものではなく、主のものになっています。そこで、イスラエル人はそれを自分のものにしたいと願います。そのためには、銀ゴシュケルを聖所で支払うことによって贖いなさい、と命じておられます(民数18:16)。

 そして、さらに貧しくなった人が、自分の相続地を売り渡さなければいけないことについて書いてあります。主は、アブラハム、イサク、ヤコブに、カナン人の地を与えると約束されましたが、イスラエル人が割り当てられた地を、お金がないという理由で手放してはいけません。レビ記25章23節には、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。」と書かれています。そこで主は、貧しくなって自分の土地を売りに出した人は、代わりに近親者がそれを買い戻さなければいけないことを定めています。ルツ記を思い出してください、ボアズがナオミのために、夫エリメレクの土地を買い戻しました。そのように買い戻します。このように、土地を贖う律法が聖書にはあります。

 そして、その土地を買い戻すことについて、買い戻すことができるための条件を書き記されている証書があります。土地の購入証書です。それは買い取ることができる権利がある人が署名をして、それを封印します。そして、後で実際に買い取るときに、その購入証書の封印を、権利のある人が開いて、それで土地をその人のものにします。このことが、エレミヤ書32章に書かれています。32章を開いてください。エレミヤが預言をしていたときは、ユダにいる人々がバビロンに捕らえ移されて、祖国を失う直前にありました。けれども、それは祖国を永久に失われるのではなく、いつかまた彼らのものとなるという神の約束を、エレミヤは語っています。その中で、主はエレミヤに一つのことを命じました。32章6節からです。「そのとき、エレミヤは言った。「私に次のような主のことばがあった。見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。

 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、彼らの前で、バルクに命じて言った。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。(6−15節)」エレミヤがおじのために売り渡された土地を買い戻し、購入証書に署名して、それから封印しました。同じように、父なる神が右手に購入証書を手にしており、この証書の書かれてある条件を満たす、買い戻しの権利がある者がだれかいるかと、御使いが叫んでいるのです。

 世界を造られたのは、もちろん神ご自身です。黙示録4章11節に、24人の長老が、「あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」と言っています。そして神は初めに、人を造られて、人が神が造られた世界を支配、あるいは管理するように定められました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。(創世1:28)」と言われています。ところがアダムが、悪魔の言うことに聞き従い、神が言われることに背きました。そのために、地がのろわれたものとなった、と神は言われています。つまり、人が神から任されて支配するところの世界が、悪魔に渡されてしまったということです。そのために、悪魔は、「この世の君(ヨハネ16:11など)」「この世の神(2コリント4:4)」と呼ばれているのです。

 イエス・キリストは、悪魔のものとなっている世界を、神のみもとに買い戻すために、贖うためにこの世界に来られました。そしてその贖う方法は、ご自分のいのちと、その流される血を代価とすることです。けれども、イエスさまが公に宣教活動を開始されるときに、荒野において悪魔から誘惑を受けました。悪魔は、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)」と言ったのです。イエスさまは、「この国々はあなたものではない。」などと反論されませんでした。なぜなら、事実、国々は悪魔のものだったからです。けれども悪魔は、十字架への道を歩まないで、今、あなたのものになりますよ、と誘っているのです。しかし、イエスはその申し出を断られ、十字架への道を歩まれました。

 こうしてイエスは十字架で、ご自分の血を流されて、この世界を買い取られました。けれども、その所有権をまだ行使しておられません。悪魔は不法にこの世界を占拠しています。しかし、今、その購入証書である巻き物の封印を解いて、実際にこの世界を、主イエス・キリストのものにするのです。ですからこれから読む黙示録の話には、封印が解かれたり、ラッパが吹き鳴らされた後などに、次のような賛美がささげられています。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。(15:15)」「ハレルヤ、万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(19:6)」この地上に大患難が襲うのは、悪魔が行なっている不法な活動を中止させるためであり、悪魔がさばかれるためです。

 終わりの時について話すと、特に日本人のクリスチャンの中で怖がる人たちがいます。今の世界が平穏無事に続いてくれることを願っているからでしょうか、主がさばきを地上に下し、そして新しい神の国を立てられることに恐れを抱くのです。これは、この地上が悪魔があばれているところであることを忘れているために起こる反応です。悪魔が望んでいるのは、この地上でずっと普通に生きていることです。今の世界がずっと続くことをもっとも望んでいるのは悪魔自身です。ちょうどこれは、伝染病の菌が蔓延してしまった一つのマンションを想像してみると良いでしょう。行政者は、そのマンションに人々が住み続ければ、人々はみな死に絶えることを知っています。だから、新しく建物を造って、人々をそこに移り住ませ、その伝染病の菌が蔓延しているビルを破壊しようと考えます。引越しするお金も、また新しい住居の家賃もただです。けれども、住民は反対運動を起こします。「我々が住み慣れてきたこのビルを破壊するとは何事であるか!」行政者は、そのビルを破壊する警告を出しても、彼らは断固として動こうとしません。行政者も待ちます。辛抱して待ちます。しかし、住居者たちは伝染病にどんどんかかって、間もなく死に絶えるのも分かっています。そこでその住居者もろとも、その建物を破壊します。新しい建物に移り住んだ人が、ただのその住居で生活を楽しんでいます。

 伝染病の菌が蔓延したその建物を破壊した行政者は、不公平でしょうか?いいえ。彼はきわめて正しい判断を下しました。これと同じことを、主は行なわれます。この世界に罪と不法が蔓延しているので、新しい神の国と、また御霊による新しい誕生を約束しておられます。そこに移る人たちは破壊を免れますが、そうでない人は、今の世界とともに滅ぼされるのです。ですから、クリスチャンは、黙示録に出てくる天にいる人々と同じように、この世界に滅びがもたらされることを、むしろ喜び賛美するべきなのです!破壊によって、初めて新しい神の国が造られるのですから。こうして、巻き物の封印を解くことができるものはいないのかと、御使いが叫んでいます。

 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。

 ここの「激しく泣いていた」というのは、「むせび泣く」ことを意味しています。ペテロがイエスさまを三度否定して、激しく泣きましたが、そこも「むせび泣く」という言葉が使われています。なぜヨハネは、そんなに激しく泣いたのでしょうか?この地上がこのままの状態で続くことに対して激しく泣いたのです。この世界が神が初めにお考えになったようになっていない。悪魔が暴れ、多くの者が罪と不義の中で滅んでいる。このようなところが永遠に続くなど、考えられない、と思ったことでしょう。

 これまでも、この巻き物の封印を解こうとして努力した人たちはいました。世界を変えようと考えた世界の権力者、また政治運動家たちがいます。哲学者もおれば、芸術家もいるし、科学者の新しい発見によって、これで世界は変わると思いました。すべて失敗です。最近では、ユートピアを願った共産主義者たちは、まったく反対の階層社会と粛清と恐怖政治に成り果てることを経験しました。だれも、巻き物の封印を解くのにふさわしくなかったのです。

2B 立っている小羊 5−7
 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

 長老のひとりとは、24人の長老の一人のことです。彼がただひとり、封印を解くことができる人がいることをヨハネに教えました。「ユダ族から出たしし」また、「ダビデの根」です。ユダ族のししとは、ヤコブがユダに、国々の民を従わせる王でありメシヤが出てくることを預言したところから来ています。創世記49章9節からです。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロ」シロとはメシヤのことです「が来て、国々の民は彼に従う。(9−10節)」世界を贖って、王となられる方がユダ族から出てくるということです。そしてユダ族からダビデが出てきましたが、ダビデには、ダビデの王座がとこしえまで続くという約束を、神は預言者ナタンを通して与えられました(2サムエル7:13)。そして、イザヤ書11章にて、ダビデの根についての預言があります。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(1−2節)」エッセイはダビデの父ですが、ダビデの子としてイエスさまがお生まれになりました。イエスさまが、国々を従えるところの王であり、ダビデの王座に着かれる方です。

 そして、ここにダビデの根が勝利したとありますが、どのように勝利したのかが、次に暗示されています。さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。

 「ほふられたと見える小羊」とあります。イエスさまは、国々の王でありイスラエルの王として来られたのにも関わらず、ほふられる小羊のように、引き裂かれ、打たれ、血を流して、死なれました。人間的にはあまりにも矛盾しているような出来事ですが、神の目ではそれはもっとも賢いことであり、ご自分の御子を死に渡すことによって、世界をご自分のみもとに贖うことを計画しておられたのです。イエスさまは、今、御座に座っておられる父なる神のすぐそばに来ておられます。天にいるもののすべてが、この方に今注目しています。この時点で、「ほふられたと見える小羊」とありますから、栄光の姿でありながらも、打たれた釘の跡が手足にあり、またわき腹が裂かれたの跡も残っているのでしょう。主が、十字架上で示されたその愛は、天においても永遠の残り、私たちは永遠にそのみわざをほめたたえるのです。

 そして小羊が、「立っている」ことにも注目してください。イエスさまが十字架につけられ、葬られ、死者の中からよみがえられ、そして昇天されましたが、そのときにイエスさまは、父なる神の右の座に着座されました。座っておられました。それは、ヘブル書によると、人々が救われるために必要なことを、イエスさまがただ一度、十字架の上に成し遂げられたので、他の救いのためにすることはなくなったからです。救いのみわざが完成したのです。今もイエスさまは、神の右に座しておられ、私たちのためにとりなしておられます。

 けれども、詩篇110篇1節に書かれてあるとおり、父なる神は御子に対して、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」と言われているように、世界がキリストのものとなり、悪魔がキリストの足台となるときには、キリストは右の座から立ちます。今、その行為が行なわれているのです。

 これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

 聖書における「」は、支配や権威を意味します。反キリストが後に、十本の角の獣として現われますが、それは支配と権威を持っておられるイエスさまの、摩り替えを行なっているからです。そして「七つの目」は、ここにあるとおり神の御霊であり、すべてのことを知っておられることを意味しています。ゼカリヤ書にて、メシヤである石には、七つの目があることが預言されています(3:9)。

 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

 とうとう、小羊が七つの封印の巻き物を受け取られました。これで、世界の贖いが行なわれるのです。世界が、その所有している神に戻されるのです!

2A 小羊への礼拝 8−14
 そこで天において、盛大な賛美と礼拝が行なわれます。

1B 贖われた人々 8−10
 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。

 天において、生き物と長老が立琴を用意します。これから歌をリードするためです。そして、香のいっぱいはいった金の鉢を用意しますが、地上の幕屋において、金の香壇が聖所の中にあったことを思い出してください。大祭司は、その香を契約の箱の上で覆いますが、地上の幕屋は天にあるものの模型であります。これから天において繰り広げられる描写を読むときに、地上の幕屋を思い起こすと良いです。

 この香は聖徒たちの祈りである。

 香は、聖徒たちの祈りを意味していました。思い出してください、イエスさまが私たちにこう祈りなさいといわれた祈りの中に、次のようなものがありました。「天にいます私たちの父よ。・・・御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:9−10)」世界中で、二千年祈られてきたこの祈りが、神の前に届けられています。そして、この地上に神の国が立てられる祈りが、今聞かれています。

 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 ここに、「神のために人々を贖い」という言葉と、「この人々を王国とし」また「彼らは地上を治めるのです」とありますが、ギリシヤ語の写本のほとんどすべては、この「彼ら」や「人々」は、「私たち」になっています。実際、英語の欽定訳(Kings James Version)には、”we”とか”us”と訳されています。そこで読み替えてみます。「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖い、私たちの神のために、私たちを王国とし、祭司とされました。私たちは地上を治めるのです。」ここでこの歌をうたっているのは、「聖徒たち」あるいは「24人の長老」です。この歌は明らかに、イエス・キリストの教会の歌であります。イスラエルではなく、あらゆる部族、国語、民族、国民から贖われています。そして、小羊の血によって贖われました。ペテロは第一の手紙で、「あなたがたが・・・贖い出されたのは、・・・傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1:18)」と言っています。そして黙示録1章にあるとおり、イエス・キリストが、「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方(6節)」です。

 つまり、今、小羊が七つの封印のある巻き物を受け取っているその時に、天に教会があるということなのです。これから封印が解かれて患難時代が始まるのですが、患難の前に教会がすでに天にまで引き上げられています。

 そして、イエスさまが、私たち教会を贖うために、この世界を贖われました。イエスさまが弟子たちに、「天の御国の奥義」をたとえによってお話になりました。有名な、四つの種類の土に種をまくところです。いろいろなたとえの一つが、「畑に隠された宝」です。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)」とイエスさまは言われました。畑の中にある宝とは、私たちクリスチャンのことです。神がキリストにあって、世界の基が置かれる前から選んでくださった人々のことです。そしてその宝を得るために、全財産すなわち、ご自分のいのちを代価にして、全世界を買い取ってくださいました。これからイエスさまが地上に再臨されて、世界が変わり、神の国になるのですが、その目的は私たち自身が神のものとなるためでした。私たちを買い取るために、神はこの全世界を買い取ることにされたのです。それほど、私たちはキリストにあって、高価で尊い存在であり、愛されているのです。

2B 無数の御使い 11−14
 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

 天国には、すごいですね、万の幾万倍、千の幾千倍の御使いがいます。十億人でしょうか、いや無数の御使いがいるということです。

 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 新しい歌をうたった教会も、また御使いたちも、小羊に対して賛美をささげています。4章においては、長老と生き物が父なる神に礼拝をささげていましたが、ここでは小羊です。そして小羊のことを、力、富、知恵、勢い、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方と言っていますが、列挙されているのは七つですね。七つの角、七つの目をお持ちで、そして七つの賛美を受けておられます。

 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

 天にいる教会と御使いだけではなく、地上も、また地の下も、また海の上のあらゆる造られたものが賛美しています。詩篇22篇には、次のような預言があります。「まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。(28−29節)」主が王となられるとき、どのような人々も、地の下にいるものもみな、地にひれ伏します。ピリピ人への手紙にも、パウロは、こう言いました。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(2:10−11)」あらゆる被造物が、「イエス・キリストは主である」と告白する時が来ます。信者や御使いたちはもちろんのこと、不信者もまた悪霊どもも、イエス・キリストは主であると告白する時が来ます。それは、もちろん、私たちのように神に愛されて、そして神を愛するために告白する言葉ではなく、厳然たる事実として、強いられて認めるところの告白です。イエス・キリストがすべてのものの支配者であり主権者であることを、どのような存在も認めるのです。

 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

 教会、御使い、そして被造物が賛美した後、それに対して四つの生き物が「アーメン」と言っています。ここは一回だけ言ったのではなく、正確には「言っていた」と訳すべきところです。つまり、何回もアーメン、アーメン、といい続けていたことになります。そして長老たちがひれ伏して拝んでいます。かなり強烈な天における礼拝の光景ですが、この個所を読んでいると、地上における私たちの礼拝がずいぶん静かでしょうか。おしとやかに、「(小さい声で)アーメン」と言っていますが、実はもっと躍動的に、神の霊に触れられて、反応すべきなのでしょうね。

こうして天において、小羊が七つの封印のある巻き物を受け取った場面を読みました。これからその巻き物の封印が一つ一つ解かれて、地上に災いがふりかかります。私たちは、5章における天にいたいでしょうか?それとも6章以降に描かれている地上にいたいでしょうか。それは、今、イエス・キリストを自分の主と認めることによって決まります。


「聖書の学び 新約」に戻る
HOME