黙示録9章 「悪霊の災い」

アウトライン

1A いなご 1−12
   1B 五ヶ月の苦しみ 1−6
      1C 底知れぬ所 1−2
      2C さそりの力 3−6
   2B 形 7−11
      1C 出陣の馬 7−10
      2C 破壊者 11
2A 騎兵の軍勢 13−21
   1B 人類の三分の一の死 13−19
      1B ユーフラテス川 13−16
      2B 火と煙と硫黄 17−19
   2B 悔い改めない人々 20−21

本文

 黙示録9章を開いてください。ここでのテーマは、「悪霊の災い」です。前回、私たちは、七つのラッパが吹き鳴らされ始めるところを学びました。ラッパは、主の日において、神のご自分の怒りを地上に下すときに、吹き鳴らされます。初めに地上の植物の三分の一が滅ぼされ、次に、海のうのちの三分の一が滅ぼされました。第三のラッパでは、川の水源の三分の一に、苦よもぎが入り、それを飲んだ人が大勢死にました。そして第四のラッパは、太陽、月、星の三分の一の輝きがなくなりました。

 そして、第五、第六、第七のラッパが吹き鳴らされる前に、中空を飛ぶわしが、「わざわいなるかな、わざわいなるかな、わざわいなるかな」と叫んでいます。なぜなら、これら四つのラッパのわざわいよりも、さらにひどい災いが降りかかるからです。

 そして9章では、第五と第六のラッパが吹き鳴らされます。ここでの特徴は、天から地上に下る災いではなく、地下から吹き上がってくる災いであることです。自然災害や、戦争などの人災ではなく、地の下や、あるいは地に徘徊している悪霊どもが引き起こす災いです。黙示録はこの章から、神に仕える天使だけでなく、悪魔や悪霊の活動を詳細に描いていきます。覚えているでしょうか、私たちが、テサロニケ人への手紙第二において、主の日には、サタンの働きがあり、反キリストにあらゆる偽りの力、しるし、不思議をともなわせるとありました。また、テモテ第一4章1節には、「後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ」る、とあります。ですから、今から悪霊の活動を見ることになります。

1A いなご 1−12
1B 五ヶ月の苦しみ 1−6
1C 底知れぬ所 1−2
 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。

 「一つの星」です。続けて読みすすめると分かりますが、この星は、文字通りの星ではなく、天使です。黙示録にて、イエスさまが七つの星を持っておられたとき、それは七人の御使いであったことを思い出してください(1:20)。また、黙示録12章では、天において、竜であるサタンが、天の星の三分の一を引き寄せた、とありますが、それは自分の使いたちであることが書かれています(4、7節)。ヨブ記38章7節には、星々が共に喜び合うと書かれていて、これは天使たちのことを表しています。そしてこの9章11節を読みますと、この星は「底知れぬ所の御使い」であると書かれていますので、彼は天使です。

 この星が、「天から地上に落ちる」とあります。覚えていますか、イザヤ書14章にて、サタンがどこから来たのかが書かれている箇所があります。「暁の子、明けの明星よ。」あるいはルシファーよ。「どうしてあなたは天から落ちたのか。・・・あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。(12−15節)」この星が、イザヤ書14章に出てくるサタンなのか、それとも悪霊どもの長なのか分かりませんが、堕落した天使であることは確かです。

 その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。

 底知れぬ所」です。聖書の中には、地獄のことがいろいろ書かれていますが、主に三つの種類に分かれます。一つは、「ハデス」です。これは新約聖書の言葉ですが、旧約聖書の同義語は「陰府」です。旧約においては、天国と地獄について、新約のようにはっきりとした啓示が与えられていませんでした。陰府は、死者が行くところという概念があるだけでした。ヨブ記には、こう書かれています。「死者の霊は、水とそこに住む者との下にあって震える。よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない。(26:5−6)」海底のさらに奥にあるところ、また、ある箇所では、地の下にあると書かれています。実際、コラがアロンとモーセに逆らったときに、地が割れて、地がコラを飲み込んだとありますが、モーセはそのことを、「よみに下る(民数記16:30)」と言いました。主は、パリサイ人に、もう天からのしるしはないと言われて、「人の子も、三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ12:40)」と言われました。主は、十字架につけられた後、ハデスにおられ、それからよみがえられたのですが(使徒2:31)、そのことを「地の中」と言われています。

 そして死者が行くハデスは、ルカ16章によると、2つの区画に分かれていることを読むことができます。一つは、「アブラハムのふところ」と呼ばれるところで、神の約束を待ちながら死んだアブラハムとともに約束が実現するまで待っている、慰めの場所です。もう一つは、熱さの中で苦しみを味わう場所で、前者にはラザロが、後者には金持ちが入りました。この、アブラハムのふところのほうは、主が陰府に下られて、よみがえり、天に引き上げられるときに、彼らもまた引き上げられ、天の中に入ることができるようになりました。罪の贖いは、動物の血では完全ではなかったので、彼らは天国に入ることができていませんでしたが、御子の血が流されたことによって、罪が取り除かれ、天に入ることができるようになったのです。

 ですから、ハデスがありますが、その他にゲヘナがあります。ゲヘナは、エルサレムの町の南淵にある「ヒノムの谷」から来ている言葉ですが、そこでは絶えず、ゴミが焼却されていました。そのため、火が永遠に燃えているところとして、ゲヘナは、永遠のさばきの場として設けられています。ハデスは、元々、悪魔と悪霊どもが投げ込まれる場として作られました。イエスさまは、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。(マタイ25:41)」と言われます。けれども、悪魔の惑わしに従う人々は、悪魔とともに永遠の火の中に投げ込まれる運命を辿るのです。

 そして、この他に「底知れぬ所」があります。ここは、堕落した天使どもを閉じ込めておくところであると考えられます。ユダの手紙には、「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(6節)」とあります。底知れぬ所は、主が地上に再臨された後、悪魔が千年間、鎖につながれることになる所でもあります。悪霊は、悪魔とともに神にさばかれ、神の御座のところから追い出された者たちでありますが、空中にいる者たち、地上に徘徊している者たち、そして、ここに書いてあるように、底知れぬ所に投げ込まれた者たちがいるようです。覚えていますか、ゲラサ人の地方で、イエスさまがレギオンという悪霊どもに対峙されたとき、レギオンは、「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように。(ルカ8:31)」と言いました。それで、豚の中にはいれ、とイエスさまは命じられました。

 そして、「かぎが与えられた」とありますね。自分で初めから持っていたのではなく、与えられました。つまり、自分ではどうすることもできないのです。与えた方は、主ご自身です。イエスさまは、「死とハデスとのかぎ(1:18)」を持っている方ですし、また、「ダビデのかぎ(3:7)」を持っている方です。でも、なぜ悪霊が、神によって遣わされているのでしょうか?悪魔や悪霊は、神に反対する者たちなのではないか、という疑問が出てくると思います。

 悪魔と悪霊は、神に反逆する霊でありますが、けれども、ある意味で、彼らも神に仕えている存在です。彼らは、全権者である神の許可なくしては、何も行なうことができません。けれども、主は彼らが働くのを許されて、ご自分の栄光のために用いられる姿を、聖書の中にたくさん見ます。例えば、ヨブのことを思い出してください。サタンは主の前で出て、ヨブの財産を奪うように願い出ます。主は、「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。(1:12)」と言われました。主は、ヨブに危害を与えるサタンのその行動を許されましたが、それはヨブがさらに、二倍の祝福を受けるため、また主ご自身に出会うために行なわれたことです。新約では、パウロが、罪を行なう者を「サタンに引き渡した(1コリント5:5)」と言っています。教会の交わりから彼を取り除いて、交わりの中にある霊的な守りから彼をはずし、サタンの攻撃にさらすことによって、自分の罪の結果を自分の責任で刈り取るようにさせるためです。

 そして、この9章では、神が、地上に残された不信者らをさばくために悪霊が活動するのを許されます。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。

 穴から煙のようなものが立ち上りました。ソドムとゴモラの町も、かまどの煙のように地の煙が立ちましたが、終わりの日には、底知れぬ所からの煙が立ち上るようです。ペテロが引用した、ヨエルの預言にはこう書いてあります。「わたしは、上には天に不思議なわざを示し、下には地にしるしを示す。それは、血と火と立ち昇る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(使徒2:19−20)」立ち昇る煙によって、太陽が暗くなりました。

2C さそりの力 3−6
 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。

 「いなご」です。これは、文字通りのいなごではありません。ここに書かれているとおり、さそりの持つような力があり、また後に出てくる描写を見ても、彼らは昆虫のいなごではありません。けれども、いなごのような災いをもたらします。

 聖書に出てくるいなごの災いは、出エジプト記の十の災いの一つが有名です。雹が降った後に、いなごの大群が押し寄せました。雹が降って、地の作物は大きな被害を受けましたが、まだ芽の状態であった作物は害を受けませんでした。ところが、いなごの大群が襲ってきて、芽もすべて、文字通り根こそぎ作物という作物を食べ荒らして、通り過ぎたのです。

 そして、いなごの大群による災いは、ヨエル書の中に書いてあります。ヨエルは、度々訪れるいなごの大群による被害をとおして、イスラエルが敵によって攻められることを預言しました。けれども、イスラエルだけでなく、主の日に、とてつもない数の騎兵が国々を荒らすことを預言しています。次の第六の災いにて、この騎兵の災いが襲いますが、いなごの災いは、主の日における、いなごのような被害をもたらす悪霊どもの災いを予め示していたのです。

 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

 これらいなごのような悪霊どもは、自然のいなごとは異なり、草木を襲うことをしません。人間だけを襲うように、言い渡されます。ちょうど中性子爆弾が、建築物などは破壊せずに、生きている物だけを殺傷するように人間だけを殺すのです。しかし、「額に神の印を押されていない人間にだけ」にしか、害を与えられません。

 7章で、私たちは、14万4千人のイスラエル人が額に神の印を押されたところを読みました。他の信者たちも印を押されていたかもしれません。彼らは、イエスのあかしのために殺されますが、けれども神は、必ず苦しみを与える者たちに、苦しみをもって報いられます。パウロはテサロニケ人たちに、「あなたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え」ると言いました(2テサロニケ1:6)。

 ところで7章を勉強したとき、私たちクリスチャンは、聖霊によって証印が押されていることを学びました。私たちの体は聖霊の宮であり、神が住んでおられます。ここに出てくる印を押されている人たちにように、私たちもまた、悪魔や悪霊から守られています。使徒ヨハネは、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4」と言いました。また、「神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(1ヨハネ5:18」と言っています。ある人々は、クリスチャンに悪霊がとりつくので、悪霊追い出しをしなければいけない、と言い、実践していますが、それは間違いです。

 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。

 さそりが刺すとき、それによっていのちを取られることはないそうですが、激しい、もだえ苦しむ痛みが走るそうです。これらの悪霊も、人間を殺すことは許されませんでした。そして、永遠に苦しめるのではなく、五ヶ月の間のみ苦しめることを許されました。ここにも、神が悪霊を完全に掌握されていることを見ます。

 その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。

 これは恐ろしいことですね。自殺しようとしても、すべて失敗してしまうようです。ヨブは、あの苦しみの中、「死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎないとは。(ヨブ記3:21」と言いましたが、苦しんでいる人にとって、死んだ人のほうがうらやましいと感じる時があります。けれども、死ぬことができないようにされます。

2B 形 7−11
1C 出陣の馬 7−10
 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。

 ものすごいおぞましい描写ですが、終わりの時には、いなごのように被害を及ぼす、こうした軍馬による災いが起こると、ヨエルは預言しました。そして、その軍馬は、悪霊によるものです。覚えているでしょうか、天にいる生き物で、四つの生き物が神の御座のそばにいました。そして彼らは、ある者はししのような顔を持ち、ある者は雄牛、ある者は人間のような顔、そしてある者はわしのような格好をしています。そして六つの翼があり、目が周りにも内側にもついている、という存在です。ですから、天にいる霊的存在には、動物のような格好をしていている存在がいるわけで、ここで悪霊どもが、ここに描写されている軍馬のような格好をしていても、おかしくありません。

 そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。

 こうして、彼らは人々を五ヶ月の間、苦しめました。

2C 破壊者 11
 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。

 実際のいなごは、箴言30章27節に書かれているように、王はなく、隊を組んで出て行きます。けれども、ここでは王がいます。彼の名は、アバドン、アポリュオンとありますが、どちらも「破壊」という意味です。破壊者です。悪魔は私たちを破壊します。私たちの生活、家庭、社会、文化、国を破壊します。そして、人のたましいを滅びへと向かわせます。けれども、主イエス・キリストは、木の破壊者に打ち勝たれて、十字架で死に、よみがえらえました。

 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。

 三つのわざわいのうち、一つのわざわいが過ぎ去りました。

2A 騎兵の軍勢 13−21
1B 人類の三分の一の死 13−19
1B ユーフラテス川 13−16
 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。

 第六のラッパです。ここでは、金の香壇から声がしています。ラッパが吹き鳴らされる前に、御使いが、香壇の火を地に投げつけたことを思い出してください。その同じ香壇の、四隅、あるいは角から声が聞こえました。香壇の四隅は、角の形をしています。

 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

 第五のわざわいは、底知れぬ所からの悪霊ですが、第六は、ユーフラテス川にいる御使いからのものです。「ユーフラテス川」は、聖書の中でとても大事な霊的意味を持っています。創世記の天地創造の話を思い出せますか、エデンの園には四つの川が流れていて、その一つのがユーフラテス川でした。けれども、そこに悪魔がいて、蛇が女をだまして、禁じられた実を食べさせました。そして、ユーラテス川河畔地域で、ノアの子孫が一つに集まり、そこに天に届く、自分たちの名のための塔を建てようとしました。バベルの塔です。それからというもの、その地域バビロンは、偽りの宗教の発祥地となったのです。

 先ほど引用したイザヤ書14章のルシファーについての預言は、実際は、バビロンに対する預言でした。バビロンへの主のことばが語られている中で、その背後にいるルシファーが語られていました。バビロンには、このように悪魔と悪霊の存在があります。黙示録を読み進めると、16章で、ハルマゲドンに集まるために、東からの軍勢が、枯れたユーフラテス川を渡って来ることが書かれていますが、竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来る、と書いてあります。悪霊がその地域から出てきます。そして、黙示録17章、18章には、「すべての淫婦と地の憎むべきものの母、大バビロン」が出てきます。今、この地域から悪霊が出てきます。

 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。

 四人の御使いは、堕落したほうの天使でしょう。彼らは、空中にとどまるのでもなく、底知れぬ所に突き落とされることもなく、ユーフラテス川のところにつながれていました。けれども、この時、この日、この月、この年のために、そこにつながれていました。そして今出てきます。

 なんと、「人類の三分の一」が四人の御使いによって殺されます。ラッパの災いでは、三分の一づつの被害が出ていましたが、人の命も三分の一が奪われます。

 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。

 四人の御使いによって、「騎兵の軍勢」が二億人も出てきました。「私はその数を聞いた」と言っていますから、その通りの数字なのでしょう。彼らを、中国軍であるという人たちがいますが、次に出てくる描写から、彼らはやはり悪霊であると考えられます。

2B 火と煙と硫黄 17−19
 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。

 騎兵は胸当てをつけています。それは赤、青、硫黄の色であり、馬の頭がライオンの頭のようになっていました。そして特徴的なのは、火と煙と硫黄が口から出てきます。これは、ヨエルの預言、「地から立ち昇る煙」と合致します。

 そして、ヨエルの預言には、この騎兵たちの姿が次のように描かれています。ヨエル2章です。「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。

 さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓からはいり込む。その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。(1−11節)」ヨエルは、イエスさまもオリーブ山で使われたことば、「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。」と言っています。その一つが、この騎兵の災いです。

 
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。

 火による災害、煙による災害、硫黄による災害があるようです。それぞれの災害で殺された人々を合計すると、総人口の三分の一が死ぬことになります。

 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

 これも想像がつかない描写ですが、実際にこのような様相の悪霊が出てくるのでしょう。

2B 悔い改めない人々 20−21
 こうして、三つのわざわいのうち、二つが過ぎ去りましたが、地にいる人々は全滅しているわけではありません。五ヶ月の間苦しみましたが、その後はその痛みは過ぎ去ります。そこで、残された人々が、神に対してどのような反応をするのかを次に見ることができます。

 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。

 なんと、残された人々は、悔い改めませんでした。悪霊を拝み、また偶像礼拝を来ない、そして、殺人、魔術、不品行、盗みを行なっています。これらのことのゆえに、神の怒りが下っているのに、それでも悔い改めようとしません。

 けれども、これが人の心です。イエスさまは、ユダヤ人に福音を語りました。ユダヤ人は福音を何度も聞きながら、それを拒みました。そこでヨハネは福音書の中で、次のように話しています。「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。(12:37)」そして、「彼らが信じることができなかった(12:39)」と言っています。初めは信じることはなかったのですが、ついに、信じることができなくなりました。福音を聞いているのに、信仰によって聞かなければ、心がかたくなにされ、ついに、信じることができなくなるほどかたくなにされることが分かります。出エジプト記においても、パロは初め、自分が強情になっていましたが、主はついに、彼の心をかたくなにされました。これは、とても恐ろしいことです。多くの人が、「いいや、いつか信じればよいのだから」と言います。けれども、パウロは、「今は恵みの日、今が救いの日です。(2コリント6:2)」と言いました。神が近くにおられるうちに、呼び求めよ、とイザヤは言いました(55:6)。ですから、何度も福音を聞くチャンスがあると思わず、今、救いを求める必要があるのです。

 そして興味深いのは、彼らが拝んでいるものは、自分たちをあれだけ苦しめた悪霊どもです。随分、自虐的なことを行なっているのですが、けれども人は、自分を貶めるものに執着します。罪に執着します。滅ぶと分かっていながら、しがみつきます。そして、偶像を拝んでいますが、ここには、「見ることも聞くことも歩くこともできない」と書いてありますね。詩篇115篇で、同じことが書かれて酢。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(詩篇115:4−8)」最後に出てくる、これに信頼するものが、これに同じというのは、恐ろしい言葉です。偶像を拝むと、その拝んでいる偶像のようになってしまう、ということです。つまり、見えるものが見えなくなる、聞くことができるものが聞こえなくなる、ということです。心がかたくなにされるのも、自分の心が偶像のようになってしまうからです。

 ですから、主が近くにおられるうちに、呼び求めなければいけません。主はすぐにあなたを救い、罪を赦し、きよめて、あなたを受け入れてくださいます。


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