アウトライン
1A 福音における啓示 (Revealed
in the Gospel) 1−17
1B 福音の内容 1−7
1C 神のもの 1
2C イエス・キリストご自身 2−4
3C すべての人へのもの 5−7
2B 福音を伝える願い 8−15
1C 祈りにおける願い 8−12
2C 払うべき負債 13−15
3B 福音の本質 16−17
1C 力 16
2C 信仰による義 17
2A 神の怒りによる啓示 (Revealed as God’s wrath) 18−32
1B 真理をはばむ不義 18−23
1C 被造物にある神性 18−20
2C 被造物への崇拝 21−23
2B 汚れへの引き渡し 24−27
1C 心の欲望 24−25
2C 当然の報い 27−27
3B 死罪に値する行ない 28−32
1C あらゆる不義と悪 28−31
2C 心からの同意 32
本文
ローマ人への手紙1章を開いてください。私たちはこれからローマ人への手紙を学びます。今日学ぶ1章のテーマは、「神の義」です。
私たちは前回、使徒行伝が、パウロがローマについて、神の国と主イエス・キリストを宣べ伝えたところで終わったのを見ました。彼はずっと、ローマに行って福音を宣べ伝えたいと切に願っていましたが、その願いが主にあってかなえられたのです。けれども、パウロの一行がイタリヤにある、ローマから60キロメートルほど離れた町に着いたとき、わざわざローマからパウロを出迎えにやって来てくれました。そこで、パウロは、神に感謝し、勇気づけられた、とありましたが、というのも、このローマにいる兄弟たちにパウロは以前、手紙を書いており、その兄弟たちに会えたからです。その手紙から、これから学ぶローマ人への手紙です。
パウロはこの手紙を、第三回宣教旅行において、コリントにいたときに書いています。エペソにおいて、神が、パウロの手によって、手ぬぐいで病気が直ったり、悪霊が出ていったりと驚くべき奇蹟を行なわれていたときに、彼はローマに行かなければいかなければいけない、その前にエルサレムに行かなければいけないと思いました。それから、彼は、マケドニヤを通ってギリシヤに来ました。そこに三ヶ月いてからエルサレムに向かって出発しようとしましたが、コリントに、あるケンクレヤという港にある教会のフィべという女執事がいました。その三ヶ月の間に彼女に、この手紙を手渡して、ローマいる兄弟たちに持っていくように頼みました。
そして、この手紙を受け取ったローマ人たちですが、なぜ使徒たちがそこに赴いていないのに、すでに教会があったでしょうか。使徒の働き2章によると、聖霊が弟子たちの上にお降りになって、彼らが異言を語っているときに、五旬節で世界中からエルサレムにやって来ていたユダヤ人たちがそこに集まって来たのを読みます。彼らは、自分たちの言葉をガリラヤ人が語っているのに驚き怪しみ、こう言いました。「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。(使徒2:9-11)」そこにローマ人がいたのです。このあとに、ペテロがメッセージをして、三千人の人々が信じてバプテスマを受けましたが、ここでクリスチャンになったローマ人が福音を携えてローマに帰ったと考えられます。それに加えて、もともとローマに住んでいて、コリントにやって来ていたアクラとプリスキラの夫婦の存在があります。コリントにいたときパウロに出会いましたが、しばらくして、ふたたびローマに戻って主のみことばを教えたようです。(ローマ書16章のあいさつにおいて、この二人の名前が記されています。)したがって、もうすでに兄弟たちがおり、教会があったのですが、使徒たちや預言者たちは誰一人として、ローマに行っていなかったのです。
そこでパウロは、彼らに会って伝えたかった福音を手紙の中に書いて、そのすばらしさを伝えます。その手紙の主な内容は、信仰によって私たちが神に義と認められるのだ、という信仰による義でした。彼はこれを、1章の18節から11章の終わりにかけて語っています。ですから、ローマ人への手紙のテーマは、「信仰による義」と言って良いでしょう。
1A 福音における啓示 (Revealed in the Gospel) 1−17
1B 福音の内容 1−7
それでは1節から読みたいですが、どの手紙にもあるとおり、パウロはあいさつから手紙を書き始めています。けれども、自分は福音を彼らに伝えたくて、その内容をすでにあいさつの中に入れてしまっています。あいさつは、7節にある「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」によってしめくくられますが、なんと1節から7節までギリシヤ語では一文になっています。
1C 神のもの 1
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
パウロは、自分のことを使徒として召されたと言っていますが、それは、「神の福音のため」とあります。福音とは、単純に「良い知らせ」という意味ですが、それは神のものです。神はとても良い方であり、この方には良い知らせがあります。
2C イエス・キリストご自身 2−4
・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
パウロは、福音は神のものであり、次に御子についてのものでであると言っています。福音は、イエス・キリストというお方そのものです。マルコは、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(1:1)」と言いました。
パウロは、御子が、「預言者たちを通して聖書において前から約束されていた」と言っています。旧約聖書は、突き詰めると、キリストという、たった一人の人物を証ししつづけた書物です。千年間ぐらいの壮大な歴史の中で、新改訳聖書ですと1439ページもの情報を持つこの書物は、たった一人のメシヤなる存在を示していました。地上にいる人間の中で、だれひとりこのように詳しく、しかも前もって説明された人物はいません。イエスさまは、ユダヤ人に、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」と言われましたが、このように前もって約束されていたのです。
そして、イエス・キリストの二つの性質についてパウロは述べています。肉をもち、かつ神の御子であります。人間としてはダビデの子孫としてお生まれになりました。神はダビデに、自分の王座からイスラエルと世界を治める者、メシヤが生まれることを約束されました。ですから、ダビデを先祖に持つ人は、自分がメシヤであることの候補者の一人にになるのです。マタイの福音書は、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」という文句で始まっています。そして、死者の中からの復活によって、この方は人であるだけではなく、神から生まれた方、神ご自身であることを示されました。このことも、預言者によって前もって告げられました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。(イザヤ9:6)」このように、キリストは人と神との性質を持っておられ、それゆえ、私たちと神を隔てていた大きな溝が埋められて、私たちが神に近づくことができるようになりました。だからイエス・キリストが、福音なのです。
そして、パウロは、御子のことを「私たちの主、イエス・キリスト」ですと言いましたが、それぞれに意味があります。主とは、その立場を示しています。イエスさまが私の人生の中心となるとき、イエスが主となられます。ですから、イエスさまを自分の人生にお迎えしていない人は、この方を主と呼ぶことはできません。また、キリストはメシヤ、あるいは油注がれた者という意味です。先ほど説明しましたように、旧約聖書において、ひとり神に任命された救い主が証しされ続けました。その任務を果たす存在がメシヤであり、福音書はイエスがメシヤであることを証言している書物です。それで、「主イエス・キリスト」となっているのであり、名前は「イエス」だけなのです。
3C すべての人へのもの 5−7
そして、5節をごらんください。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。
すばらしいですね、パウロは使徒という大きな権威がある務めの前に「恵み」と加えています。パウロは、自分が使徒とされるのに最も値しない人間であると告白していますが、そのような人間だからこそ、神の恵みについて語り継ぐことができるのです。
それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。・・このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
ここで繰り返していることばは、「あらゆる」とか「すべての」という言葉であります。神は、だれか特定の地位を持っている人を選んだり、特定の性格の持ち主を選んだりするのではなく、主の御名を呼び求めるすべての人を、無差別に召してくださいます。これは、パウロが手紙の中全体においても強調している一つであり、これからも繰り返し登場します。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
パウロが他の手紙でも使っているあいさつですが、ギリシヤ人のあいさつとユダヤ人のあいさつを組み合わせています。恵みは「カリス」ですが、これはギリシヤ人のあいさつであり、平安はシャローム、これはユダヤ人のあいさつです。そして、恵みがあって次に平安があるという順番にも注目してください。神の恵みを知った者が神の平安を知ることができます。私たちは救われたときに、神との平和を持つことができますが、必ずしも神の平安を持つことはできません。自分が失敗したとき、逆境が押し寄せたとき、私たちの心は動揺します。自分と神との関係は、自分の行ないによって良くなったり、悪くなったりすると思うからです。けれども、自分の行ないとは別に、神さまの一方的な働きによって私たちと関係を持っておられる、その恵みを知るときに、私たちは神の平安を持つことできるのです。
2B 福音を伝える願い 8−15
こうしてパウロは、あいさつの中で福音の内容について書きましたが、次に、この福音をローマにいる人々に宣べ伝えたい、その切なる思いを書き出します。
1C 祈りにおける願い 8−12
まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
ローマ人が信じていたイエス・キリストが、ローマだけではなく世界中に言い広められていました。
私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
パウロは、ローマへ行きたい願いを、祈りの中で言い表していました。そして、パウロはこのことを、神があかししてくださると話しています。つまり、ひとりになって神に祈っていたので、旅をいっしょにしている人たちも、だれにも知られていませんでした。私たちが、そのようなひとりで祈るときを持つことは大切ですね。イエスさまが言われました。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)」
私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
パウロがローマに行きたいのは、御霊の賜物を分け与えるためでした。教会における奉仕や私たちの交わりは、この御霊の賜物が用いられることによって行なわれます。私たちは、自分たちの能力や才能によって、また、今まで自分が培ってきた経験によって、あるいは決められたプログラムをとおして教会における活動をするのではありません。教会は御霊が導かれ、御霊が働かれるところであり、御霊の賜物がなければ、そこには実が残りません。主が預言者ゼカリヤに、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。(4:6)」と言われました。そして、御霊の賜物が用いられるときにすばらしいことは、パウロがここで言っているように、養いを与えている人自身も祝福され、相手から祝福を受けることです。お互いのミニストリーが、御霊が働かれるときに起こってくるのです。
2C 払うべき負債 13−15
兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
パウロは、自分が今までローマに行っていないのは、彼らをあまり省みていないからではなく、妨げられているからだと言っています。
私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
ここでも、パウロは、無差別に、どのような人に対しても福音を伝える義務を負っていると言っています。
3B 福音の本質 16−17
けれども、なぜここまでパウロは福音を宣べ伝えたいのか、何とかしてローマに行きたいと願わせる福音とはいったい何なのか、と私たちは思います。そこでパウロは、そこまで彼を突き動かす福音の本質について次に語り出します。
1C 力 16
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
パウロは、福音は救いを得させる神の力なのだと言っています。力なのです。福音は、それを体系的に理解してそれを信条として受け入れる哲学ではありません。そうではなく「力」であって、私たちを罪から救う力なのです。そのため、多くの人は、ローマ人の手紙を学ぶと、自分の生活が変革すると言います。福音は、私たちを罪にともなうさばきから救います。たった一つの罪でも死んだあとに地獄に行ってしまうのに、そのすべての罪を処理されて、天国へと導く力を持っているのです。また、私たちは罪の力から救われます。私たちを悩まし、奴隷状態にしていた罪であっても、福音によってその力から解放されるのです。さらに、罪そのものから救われます。私たちには、罪の性質がこの肉体に宿っていますが、この肉体までが変えられて、新しいからだを持つようになり、キリストに似た者にされるのです。
2C 信仰による義 17
そして、この福音を支えている、ローマ書のテーマになっている神の義についてパウロは語ります。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
神の義とは、私たち人間が正しいと判断することではなく、神のご性質や働きそのものを指します。したがって、神の義は、神のなさることすべてに対し、ただ、「そのとおりである」と受け入れることによってのみ知ることができます。ですから、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる、と書いてあるのです。パウロは、預言者ハバククに主がおっしゃられた、「義人は信仰によって生きる」というみことばを引用していますが、実は天地が創造されて以来、旧約の時代も、人間はみな、信仰によってのみ神との関係を持つことができるのです。パウロは、イエス・キリストから受けた啓示によって、このことを知りました。パウロ自身が言ったように、福音はまず、はじめにユダヤ人に語られるものであり、ユダヤ人が神に選ばれて、契約や礼拝を与えられたのですが、そのような民族的なことや、あらゆる要素の背後にある大前提、つまり神と人が関係を持つための根幹になっている真理について、パウロはこれから語り始めるのです。
2A 神の怒りによる啓示 (Revealed as God’s wrath) 18−32
ここまでがパウロのローマ書における前置きですが、次から本題に入ります。
1B 真理をはばむ不義 18−23
1C 被造物にある神性 18−20
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
今、パウロは神の義について語りましたが、それがまず神の怒りとなって現われています。あらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが啓示されています。ここで大事なのは、「真理をはばんでいる」という言葉です。すでに明らかにされている真理に対して、人々はそれをはばむ、あるいは抑圧して、押しつぶしてしまっている、ということです。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
世界中にいるどのような人も、どの時代に生きている人も、人間として生まれてきたかぎり知っていることがあります。それは、被造物にある神性です。私たち人間がだれでも喉が渇き、お腹が減るように、どのような人でもこの神性については知らされている、とパウロは言います。彼は、「神の永遠の力」と言っていますが、被造物を見るときに、二つの神の性質を知ります。一つは永遠性です。伝道者の書において、ソロモンが、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(3:11)」と言いました。「死んだらそれでおしまいさ。」と人は言いますが、それは自分を欺いています。心の奥深いところで、必ず、「死んだらどうなるのだろう。」という思いがあるのです。そして、もう一つの神の性質は、「創造の力」です。この被造物が存在し、また秩序をもって保たれているところに、人は必ず、絶大なる力を持っている神を認めざるを得ません。なのに、自分の人生は、自分の努力によって成り立っているのだ、と思って自分を欺いてしまっています。教会学校に来ている子に、「見えない神さまがいるって、どうやったら分かるの?」と質問されましたが、「目で見えるものによって、目に見えない神さまが分かるんだよ。太陽が動いているでしょ。みほちゃんの心臓が動いているでしょ。」と言って説明しましたが、だれでも被造物にある神の栄光を認めざるを得ないのです。
2C 被造物への崇拝 21−23
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
神を認めない結果、人間がその品位を落としていき、ついに被造物をおがむようになったと話しています。その過程に注目してください。第一に神を神としてあがめないで、第二に感謝をしなくなり、第三に思いがむなしくなり、第四に心が暗くなります。さらに、第五に知者と言われている者が愚かな者となり、こうして、最後に被造物にその栄光を代えてしまいました。私は、これはまさに、今日の日本の姿のような気がしてなりません。去年私たちのところに訪れたラリー・テイラーといっしょに、奥さんのキャシーが来ました。彼女は、日本が霊的に暗やみの中にいると話しました。電車に乗っている人の顔が暗い、と言うのです。生きているけれども生気を失っている、それが日本の姿ではないかと思います。
2B 汚れへの引き渡し 24−27
そして次にパウロは、神の怒りが具体的にどのように現われるのか説明しますが、人間の堕落の始まりは、このように被造物にある神の栄光を認めないことから来ています。神ではないものに栄光を与えようとするその動機が、あらゆる罪の原因になっています。
1C 心の欲望 24−25
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
パウロは、ここで「引き渡す」という言葉を使っています。26節にも、「情欲に引き渡されました。」28節にも「良くない思いに引き渡され」とあります。神が人間に対して怒るとき、それは、彼らをその欲望のままにさせておくことによって現われるというのです。私たちはとかく、神の怒りは、何か悪いことが自分の身に下るとか、思いっきり叱られるときなど、何か罰が与えられることを神の怒りだと考えがちですが、もちろん、死後には、そのような永遠の懲らしめが神の怒りとして現われますが、神が何も干渉せず、そのままにされることも怒りなのです。ほったらかしにされる、これこそもっとも恐ろしいこです。
2C 当然の報い 26−27
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
パウロは、神を神として認めないと、人間がどこまで堕落するかを示すために、ホモセクシャルを例として挙げています。人間が動物のようになり、いや、動物以下のことをしてしまいます。そしてパウロは、「その誤りに対する当然の報いを自分の身に受けている」と言っていますが、これは性病のことでしょう。医学的にも、経験則でも、当然病気にかかると分かっていながらも、それでも行なってしまう、…恐ろしいことです。
3B 死罪に値する行ない 28−32
そして彼は、人間が堕落している姿を次々と列挙していきます。
1C あらゆる不義と悪 28−31
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
私がアメリカにいたとき、主を受け入れたばかりの日系のご夫婦に、この聖書の個所をお見せしたら、奥さんが、「あら、これ全部私のこと話しているわ。」とおしゃっていました。すばらしいと思います、これらが自分のことを話していると思ったら、2章を読まずに、そのまま3章に飛んでいくことができるからです。けれども、この悪い行ないのリストを見て、「ほんとうにそうだ。世の中には、とんでもない奴ばかりがいるからな。」と思われたら、2章はしっかりと読みましょう。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたには、弁解の余地がありません。」と2章は始まります。
2C 心からの同意 32
そして最後の節です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
いま読んだことに対して、必ず死罪に当たるとパウロは言っていますが、それを彼らは知っている、と言っています。先ほどの、「真理をはばむ」ことです。人間はだれでも、自分は死後にさばかれる、こんな悪いことをしたら必ず罰を受けることを知っているのです。どんな人であっても、聖書を一度も読んだことがない人でも、そのことを知っています。そして、パウロは、「心から同意しているのです。」と言いました。たとえ、そうした悪い行ないをしていなくても、テレビや映画などで、その悪い行ないをしている人を見て、喜んでいないでしょうか。
こうして、パウロは神が怒っておられることを語りましたが、これが神の義の、最初の現われです。私たちは、福音を聞くとき、また語るとき、この神の怒りが福音の中に含まれていると考えたくありません。けれども、もし神の怒りがなければ、福音が塩気をなくし、福音が福音ではなくなってしまいます。神は愛でありますが、その愛には神の正しい怒りがあるのです。親が、例えば、麻薬をやって廃人同様になってしまった息子、娘を見て、「お前は、それで良いんだよ。おまえを愛しているよ。」と思う親がいるでしょうか。その子をだめにしてしまった罪について、激しく憤り、泣いて一夜を過ごさないでしょうか。同じように、人が罪を犯すとき、神は激しい涙と嘆きをもってその人を見ておられます。この神の怒りから、福音が始まります。
私は、クリスチャンになったばかりのとき、この世界と宇宙を支配されている神が、私たち人間を支配されているか方が、私たちをこよなく愛し、どのような小さな者をも心に留めておられることを知り、深い安堵を得たことを覚えています。神がおられなければこの世は無意味であり、また、神がただ恐ろしい方であるだけなら、― ほんとうは恐ろしく意地悪でも、私たちは何も申し立てる権利はないのですが、― これまた無意味です。けれども、私たちは創世記から旧約の学びをはじめましたが、1ページ目の天地創造の記事から、創造主なるイエスさまの働きを見ることができ、アダムが罪を犯したときに罪が入り込んだように、イエスさまの義の行ないによって、信じる者に義が与えられるかしらとしての性質、カインがアベルを殺すとき、イエスがねたみによって殺されることを証し、ノアも、アブラハムも、イサクも、ヤコブもヨセフも、またユダも、話し出したらきりがないです。
私たちは、父なる神の気前さ、細かいところを気にせず、どんどんご自分のもとに引き寄せる大らかさを持っておられる方であることに気づく必要があります。ぶどう園の主人が、文句を言う労働者に対して、「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。(マタイ20:15)」と言ったたとえを主が話してくださったことを思い出してください。
ここは、しっかりと理解する必要があり、さもないと、私たちクリスチャンが、「私はとくに怒ったり、嘘をついたり、姦淫を犯していないから、何について罪の悔い改めをしなければならないのだろう。」と、外側の行ないや思いについて注目してしまいます。けれども、実は、自分の生活の中で起こっていることについて神を認めていないという、もっとも深刻な過ちを犯していることに気づかないことがあるのです。