ローマ人への手紙11章 「計り知れない神の計画」
1A すべての者が見捨てられているのではいない。 1−10
1B 人物から 1−6
2B 預言から 7−10
2A かたくなにされているのには目的がある。 11−24
1B ねたみがもたらす救い 11−16
2B オリーブの木 17−24
3A 救われるには、時がある。 25−36
1B 異邦人の完成 25−32
2B 神の知恵の富 33−36
本文
ローマ人への手紙11章をお開きください。ここでのテーマは、「計り知れない神の計画」です。
私たちは、ローマ書9章から、神の義についての問題を取り扱っています。それは、神の祝福はまずイスラエルに及ぶはずなのに、大体にして異邦人がその祝福を受けていることついての問題です。パウロは、その理由を9章と10章において説明しました。9章において、パウロは、神の選びがあるからだと説明しました。イスラエルのすべてが選ばれているのではなく、残された者だけがイエスをメシヤとして信じている、というものです。けれども、10章においては、イスラエルが信仰による義についての知識がなかったからであると、説明しています。神の義に聞き従うべきなのに、自分自身の義を立てようとしたところに問題がありました。
このようにパウロは説明しているのですが、だからといって満足しているわけではありません。イスラエルが福音に敵対していることには変わりなく、そのことで心を痛めているのです。けれども、11章において、神の不思議なご計画の中で、イスラエルは必ず救われることを、パウロは預言しています。子とされること、栄光、礼拝、契約、律法、約束、先祖、そしてキリストご自身も、イスラエルのものなのですが、これらをすべて、将来において手にすることができるとパウロはいます。ですから、11章はイスラエルの回復です。
1A 選ばれた者(すべての者が見捨てられているのではいない。) 1−10
1B 人物から 1−6
1節をごらんください。すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。
11章は、「神は決してイスラエルの民を退けておられるのではでない。」という断言から始まっています。パウロは、他の個所においても、「絶対にそんなことはない。」という言葉を使っていましたね。例えば、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。(6:1-2)」と言いました。同じように、イスラエルの民が絶対に、決して見捨てられていないのです。エレミヤは、このことを預言して言いました。「主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、・・主の御告げ。・・イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない。」(31:35-36)」もし、太陽系や銀河系が爆破していたら、また海がすべて渇ききっていたら、イスラエルと神との契約は無効になっていると言えるでしょう。けれども、太陽や月や星がいつものように運行しているかぎり、また、海に波があるかぎり、イスラエルへの約束は決して途絶えることはありません。
パウロは、その理由として、残された民がいることをあげています。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
パウロはユダヤ人です。他にも、イエスさまをメシヤとして信じているユダヤ人はいましたし、今もいます。全ユダヤ人口と比べれば少数ですが、彼らが存在していることは、イスラエルがまだ選びの民であることを証明しています。
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。
神が初めにイスラエルを選ばれたとき、神は終わりの時までをすべて知っておられて選ばれました。イスラエルが、事実、神の民となることを見据えて、彼らを選ばれたのです。このことばが、8章においても使われていたことを思い出してください。パウロは、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。(ローマ8:29)」もし、今、イスラエルの民が見捨てられているのであれば、私たちの救いも危ういのです。イスラエルがへまをこいて見捨てられたのであれば、私たちもへまをしたら見捨てられます。けれども、イスラエルはあらかじめ知られて、選ばれた民です。ですから、同じように、私たちクリスチャンは、最後まで神は私たちをお見捨てにならないことを確信できるのです。
それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。今、パウロは自分を取り上げて、残された民がいることを話しましたが、今度は、聖書に出て来る人物から話します。
彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
思い出してください、エリヤはバアルの預言者と対決して、勝利を収めたあと、彼らを殺しました。そのことがイザベルの耳に入って、彼女がエリヤを殺すと脅しました。そこで彼は逃げに逃げたのです。主がエリヤに声をかけられて、「あなたは何をしているのか。」と聞かれたとき、エリヤは、「私だけが残されました!」と叫んでいるのです。
ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
エリヤだけではなく、他に7千人もの人が、まことの神をおがんでいました。エリヤはたった一人しかいないと思っていましたが、他にもいたのです。
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
パウロは、神の選びのことを「恵みの選び」と言っています。何かその人に良いものがあるから、何か良いことをしたから選ばれたのではなく、ただ一方的な神のあわれみにより、選ばれました。そして、こう言います。
もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
恵みと行ないは、相反する言葉です。恵みと行ないがいっしょになることは、決してありません。恵みと行ないを、こう言い換えたらご理解できるかもしれません。「神の行ないと人の行ない」です。恵みは、私たちへの神の行ないです。行ないは、神への私たちの行ないです。両者は相容れません。けれども、恵みによって、行ないによらないなら、何の働きもしなくてよいのか、と言うことではありません。むしろ、行ないではなく恵みによることを知ったとき、私たちは行ないに駆り立てられるのです。本当に神の恵みを知ると、行ないは神の好意を寄せるためのものではなくなり、神の愛に駆り立てられたものとなるのです。ですから、ユダヤ人でイエスさまを信じた人たちも、恵みによって選ばれました。
2B 預言から 7−10
では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
神は、イエスさまを信じないユダヤ人について、その人たちをかたくなにされました。そして、神の義を得ることはできなくなっています。このことをパウロは、預言から証明します。
こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
このように、彼らがイエスさまを信じていないのは、神が彼らの心に働きかけて、信じられなくしてしまっているからなのです。
2A イスラエルの完成(かたくなにされているのには目的がある。) 11−24
1B ねたみがもたらす救い 11−16
そしてパウロは再び、「絶対そんなことはありません」という言葉を使っています。では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
ユダヤ人は、イエスさまがメシヤであることがわからずに、つまずいてしまいました。けれども、ユダヤ人たちがイエスさまを拒んだことによって、イスラエルの役目は終わってしまったと言ったら、大間違いです。パウロは、イスラエルがかたくなにしているときでさえ、神が彼らを用いておられることを説明します。
かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
二つの目的が書いてあります。一つは異邦人に救いが及ばせておられます。パウロは、まずユダヤ人に福音を宣べ伝えましたが、彼らが福音を拒むことによって、異邦人に宣べ伝えていました。イエスさまも、地上におられたとき、ご自分を王子にたとえられてこのことを説明なさいました。王は招いた者たちが来ないので、招いていなかった、大通りにいる人たちを片っ端から集めて、祝宴を行なわれたと話されました(マタイ22:1-14)。ユダヤ人が拒んだので、救いが異邦人に及んだのです。そして、もう一つの目的があります。それは、救われた異邦人を見て、ユダヤ人たちがねたみを起こすことであります。イスラエルの祝福を自分のものにしている異邦人を見え、その人がうらやましくなり、ねたましくさせて、その中から救われる人が起こるようにされています。
もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
このパウロの論法は、ローマ人への手紙をはじめ、いろいろなところで使われていましたね。「もし〜であれば、なおさらのこと」という言い回しです。例えば、「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(5:9)」とパウロは言いました。イスラエルが福音を拒んだことによって、世界中の異邦人に福音が言い広められる結果となりました。彼らが拒んでいるときさえ、そのようなすばらしい結果がもたらされているのです。それではなおさらのこと、イスラエルが回復するときは、さらにすばらしいことが起こります。これまで、異邦人の多勢が救いに導かれました。これはとても喜ばしいことです。けれども、これをはるかに越えた、とてつもない祝福が将来に備えられています。それはイスラエルの完成です。彼らが国民的にイエスさまを信じます。イスラエル人は約束の土地を相続します。イエスさまがエルサレムに世界を支配されているので、世界には、正義と平和で満ちあふれます。そして、回復されたイスラエルを中心とする神の国に、私たち異邦人クリスチャンも加わることができるのです。
そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
パウロは、読者を異邦人信者にしぼっています。私たちも異邦人ですが、ここからは私たちに直接的に語られています。まずパウロは、自分が異邦人の使徒であると言い、その務めを重んじていると言っています。けれども、ユダヤ人の救いも願っています。つまり、パウロは、異邦人である私たちも、イスラエルの救いを願わなければいけないことを示唆しているのです。異邦人の不信者が救われることを願うと同時に、イスラエルが救われることを願わなければいけません。
もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
イスラエルが救われることを願うのは、死者の中から人が生き返るような出来事であります。けれども、それが確実に起こりますよ、とパウロは言っています。
2B オリーブの木 16−24
そこでパウロは、話しつづけます。異邦人の信者に対して話しつづけます。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
初物とは、アブラハム、イサク、ヤコブのことです。そして、粉は現在のイスラエルの民であります。もし、アブラハム、イサク、ヤコブを私たちは、神に選ばれ、祝福され、聖なる者とされていると信じているなら、イスラエルの民も神に選ばれて、祝福され、聖なる者とされているのです。聖書の中での話しと、現在のイスラエルを切り離してはいけません。つながっているのです。初物が聖ければ、粉の全部も聖いのです。同じように、根もアブラハム、イサク、ヤコブのことを指しています。枝とはイスラエルのことです。
そこでパウロは、神とイスラエルとの関係、神と異邦人との関係について説明します。聖書の中で、イスラエルはオリーブの木にとたえられています。そこで、パウロはオリーブの木によって、神とイスラエルとの関係、神と異邦人の関係を話しはじめます。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
ここには、二本のオリーブの木が出てきています。一つは、台木に植えられた栽培種のオリーブの木です。もう一つは、自然に、雑草のように生えている野生種のオリーブの木です。栽培種のオリーブの木は、食べることのできるオリーブの実を結ばせますが、野生種は結ばせません。パウロは、イスラエルが、栽培種のオリーブの木であるとしています。根はアブラハムとイサクとヤコブです。アブラハムは血縁関係で、ユダヤ人になったのではありません。アブラハムは異邦人でした。けれども、「あなたの父と父の故郷を離れて、わたしが示す土地に行きなさい。」という神の呼びかけに応えることによって、イスラエルの父祖となったのです。つまり、イスラエル民族は神によって恣意的に造られたのであり、自然に出来あがったものではありません。ですから栽培種です。そして、その意図的な契約の中に入ることによって、神のいのちという実を結ばせるようになりました。それに対して、異邦人は野生種のオリーブの木の枝です。自然に生じて、実を結ばせない木の枝です。つまり、神から遠く離れた民族であり、神の契約とはなんら関係のないものです。
けれども、神の一方的なあわれみによって、私たちは、オリーブの木につがれました。娘が悪霊に取りつかれて、イエスさまに追い出していただくように願い出たカナン人のことを思い出してください。イエスさまは、この女が叫んでいるのに、一言もお答えになりませんでした。けれども、その女はイエスさまの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言いました。けれども、イエスさまは、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない。」と言われたのです。そこで女は言いました。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」パンくずをいただく、これが異邦人の救いであります。イエスさまは、この女の信仰をほめられました。私たちも、この女のような信仰を持つことによって、イスラエルに与えられた祝福のおこぼれにあずかっているのです。祝福を受けるのは、当たり前のことではありません。神が、常軌を逸して異邦人にあわれみをおかけになったので、私たちはクリスチャンとなることができているのです。
そこでパウロは、「誇ってはいけない」と言っています。私たちがイスラエルを抜きにして教会を語るときに、私たちは神のいつくしみを忘れてしまいます。8章の最後において、パウロは、「これらのことにあっても、私たちはキリストにあって、圧倒的な勝利者なのです。」と言いました。けれども、イスラエルについての神のご計画に目を留めないとき、、私たちは必ず、「私たちはクリスチャンで特別である。」という驕りが出てきます。神はイスラエルを中心にして、物事を進めておられるのに、自分が中心であると勘違いするからです。そして、「クリスチャンであるから、こうあるべきだ。」という、信仰ではなく行ないによる歩みを始めてしまうのです。ある牧師がキリスト者のプライドについて、こう書きました。「私たちは自分のありのままの姿を見つめ、告白して、キリスト者とさせていただいた。ところが、キリスト者となってから、しばしば自分のほんとうの姿から目をそらし、自分を欺いている。まわりを攻撃することによって自分を欺くこともあるし、また、『自分はクリスチャンなのだから、人をゆるすべきだ』と自分に言い聞かせることによって、そうなる場合もある。その『べきだ』の影にかくれている自分のありのままの心の状態を認めようとしないで…。キリスト者のプライドとでも言おうか。(「聖霊に導かれて進もう」井戸垣彰著)」このキリスト者のプライド、異邦人クリスチャンが抱く過ちについて、パウロはここで指摘しているのです。
そこで、パウロは続けて、異邦人クリスチャンが抱く高ぶりについて、警告しています。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
17節において、異邦人は、栽培種のオリーブの木の枝の中に混じってつぎ合わされた、とありました。つまり、他にイエスさまを信じるユダヤ人はいるけれども、その中につぎ合わされたのです。切り倒されたイスラエルの枝は、あくまでも一部であり、全部ではありません。けれども、異邦人のクリスチャンが大多数を占めてきました。そして、もともと神の祝福を異邦人の教会が受けるようにされていたので、イスラエルは見捨てられたと考える過ちを犯してしまいました。歴史を通して、キリスト教会は、メシヤを送ってくれたイスラエルを敬うのではなく、逆に迫害してきました。ユダヤ人にとって、十字架は虐殺と流血の象徴です。イエスという名は、迫害者たちが掲げている旗印でありました。それは、イスラエルは神にとっては特別な意味を持たず、教会が中心なのだと思い始めたからなのです。
そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
神は、イスラエルが不信仰になったので、さばきを行なわれました。祖国を失い、離散の民となりました。けれども、私たち異邦人も、イスラエルよりも、もっとたやすく神にさばかれえるのです。信仰によって立っていないかぎり、すぐにでもさばかれてしまいます。
見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
私たちは、神の恵みを当たり前のように受け止めてしまいがちです。恵みが空気のように当たり前のなるので、神のいつくしみにとどまることを忘れてしまいます。そして、あたかも自分の行ないで救いを得ることができるように考えてしまうのです。黙示録には、大患難に入っていく教会についての預言があります。クリスチャンと言いながら、実はそうではない者たちが教会の中にふえて、そうした人たちが大患難の神のさばきの中に入ることが預言されています。それは、神のいつくしみにとどまっていないからです。つまり、家のテーブルの下にいて、パンくずをもらっている小犬にすぎないことを忘れるからです。
彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
ユダヤ人が救われる条件は、異邦人と変わりません。彼らも自分の罪を認めて、イエス・キリストを自分の救い主として信じることによって救われます。
もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
私たちがつがれたのは、「もとの性質に反している」とあります。野生種のオリーブの木の枝を栽培種の木につぎ合わせても、実は何も実を結びません。逆に、栽培種のオリーブの木の実を、野生種のにつぎ合わせると実を結ぶそうです。ですから、パウロは、わざといつもとは逆のことを話して、いかに異邦人がつがれたことが不自然であるかを、強調しています。イスラエルがイエスさまを救い主として受け入れることは、いかに確実なことであるかを示しています。
3A 奥義(救われるには、時がある。) 25−36
そこで、パウロは、そのような救いがいつ起こるかについて話します。
1B 異邦人の完成 25−32
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
パウロは続けて、異邦人信者に対して語っています。イスラエルが見捨てられて、自分が神につながれているのだ、という驕りをなくするために、今から奥義を話します、とパウロは言っています。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
イスラエルがかたくなになっているのは、ずっとではありません。異邦人の完成の時までだとあります。つまり、神があらかじめお救いになるようお定めになっている異邦人がすべて救われるときです。その時が終わると、今度は、神はイスラエルをみなお救いになるのです。ダニエル書9章によると、終わりの時に、イスラエルはある者と契約を結びます。それによって神殿を立てることができます。けれども、3年半後に、その者は、神殿の中に入って、自分こそが神であると宣言します。反キリストの現われです。そして、かつてなかったほどの大迫害をユダヤ人に始めるのです。イスラエルのうち、3分の2は死に絶えますが、残りの3分の1は、救ってくださる方、メシヤを願い求めます。そのときです、イエスさまが天から聖徒たちとともに来られて、イスラエルのために戦われるのです。キリストに反抗する世界の軍隊、また反キリストは、ことごとく滅ぼされてしまい、イエスさまはご自分がメシヤであることを、イスラエルの民に示されるのです。そして、ゼカリヤ書に、このような預言があります。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(12:10)」先祖が拒んだイエス、この方がメシヤであることを悟るのです。そして、激しく泣いて、悔い改めて、イエスさまをお迎えし、救われるのです。
こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
この救う者とは、イエスさまのことであり、そのときにイスラエルの罪が取り除かれるのです。
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
あなたがたのゆえに、とは異邦人である私たちのことです。彼らが福音を拒んだため、私たちは福音を信じることができるようになりました。けれども、先祖アブラハムのゆえに、彼らは今もって愛されているのです。アブラハムに約束された、土地の所有に、子孫の繁栄、国家の建設などは、すべて彼らのものとなります。そして、何よりも、霊的な救いを必ず手にすることができるのです。アブラハムのゆえに、そうなるのです。
神の賜物と召命とは変わることがありません。
旧約に書かれている、イスラエルに対する契約と約束は変わることはありません。これは、イスラエルが見捨てられていないこの結論です。
そしてパウロは、このような神のご計画にある、神のあわれみについて次に述べます。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
私たちがかつて神に不従順であったというのは、偶像に仕えていたということであります。そして、彼らの不従順とは、イエスをメシヤとして受け入れないことで、そのために私たちに神のあわれみが注がれました。そして、今、私たちは救いを手にしたのですが、私たちの証しによってユダヤ人も救われるように神はしてくださいました。
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
神は分け隔てなさらない方です。神のご計画には、地上のすべての民族がご自分のあわれみのもとに入ってほしいという願いがありました。けれども、あわれみを受けるためには、すべての人が不従順であることが証明されなければいけません。そこで、神はまずイスラエルをご自分の民となさいました。そうすることによって、異邦人である私たちが、偶像に仕える不従順な者とされました。今度は逆に、イスラエルが福音に敵対するように、彼らをつまずかせて、私たちが代わりに福音に従順になるようにされたのです。こうしてすべての人があわれみを受け、すべての人が不従順のうちに閉じ込められました。
2B 神の知恵の富 33−36
ここまで話しを聞いて、私たちも、次のパウロの言葉に共鳴するのではないでしょうか。ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
神が、イスラエルを通してもっておられる計画、またその背後にある神の知恵は、あまりにも広く、深く、測り知りがたいものです。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
神が考えておられることは、私たちの思いをはるかに越えているので、だれにも知る由がありません。神のご計画は、私たちが理解できるような単純なものではありません。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
私たちが神に何か影響力を与えて、神から何かをいただくことは決してできません。すべてが神の思うままになっているのです。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ほんとうに、アーメンと言うことしかできませんね。すべての原因は神であり、その過程も神であり、目的地も神なのです。
こうして、私たちの思いを超えたところにある、神の深いみこころを知りました。もしローマ書9章から11章までが抜けていて、8章からそのまま12章につながっていたとします。そうすると、私たちは、次に出て来るパウロのことばがわからなくなってしまいます。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。(12:1)」神のあわれみがわからなくなるのです。12章から、クリスチャン生活へ具体的な勧めが始まりますが、そのすべての土台である神のあわれみが分からなくなります。ですから、大事なのです。イスラエルが神によって選ばれたことを知ることによって、私たちは、神の選びについて悩み、神のあまりにも豊かな知恵に驚き、ただ神だけの世界を知ることができるのです。その認識があって、クリスチャン生活があります。それは献身に特徴づけられた生活ですが、自分の行為ではなく、すべてが神、すべてがキリストの生活であることを知ります。
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