ローマ人への手紙2章 「神の正しいさばき」

 

アウトライン

1A 他人をさばく事に対するさばき 1−16

   1B 理由 − 同じ行ない 1−4

      1C さばくときの物差し 1−3

      2C 神の慈愛の軽視 4

   2B 内容 − 公正なさばき 5−11

      1C 積み上がる罪 5

      2C 行ないに対する報い 6−10

      3C 神の公平さ 11

   3B 手段 − 良心 12−16

      1C 滅び 12−13

      2C 心の中の律法 14−16

2A 神の事柄に安住する者に対するさばき 17−29

   1B 神のことばへの安住 17−24

      1C 状態 − 自負 17−20

         1D 神との関係 17−18

         2D 人との関係 19−20

      2C 問題 − 無自戒 21−24

   2B 礼典への安住 25−29

      1C 基準 − 神への従順 25−27

      2C 内容 − 心の中の礼典 28−29


本文


 ローマ人への手紙2章を開いてください。ローマ書2章です。ここでのメッセージ題は、「神の正しいさばき」です。

 ローマ人への手紙のテーマは、「信仰による義」です。パウロは、自分が伝えている福音の中には神の義が啓示されており、その義は信仰に始まり、信仰に進ませるからだ、と言いました。そして、この神の義は、まず神の御怒りとして現われていることを1章の中で学びました。そして、2章はこの続きです。人に下っている神の怒りについて、それをないがしろにしている人に対してパウロは語っています。神の怒りを他人事のように受けとめ、自分は何らかのかたちで神のさばきを免れると考えることについて、パウロは、その過ちを正しています。

1A 他人をさばく事に対するさばき 1−16

1B 理由 − 同じ行ない 1−4

1C さばくときの物差し 1−3

 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

 パウロは1章において、人が行なっている悪を並べ立てました。1章29節からですが、「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。(29-31」このような不義に対して、もし、「ああ、これらは私のことを表現している。私はたしかに、神のさばきを受けなければいけないのだ。」と思うなら、パウロの意図が伝わったことになります。けれども、私たちは、「これは、あの悪いことをしている人に当てはまる。」と他の人に当てはめようとします。自分は正しいのだが、他の人が間違っていると考えます。

 
けれども、パウロは、「そのように人をさばくことによって、自分自身を罪に定めていますよ。あなたは同じことを行なっているからです。」と言いました。少し状況を変えるなら、自分がさばいている人と同じことを行なっている自分に気づきます。ダビデが罪を犯したときのことを思い出してください。預言者ナタンが、ダビデに、富んでいる人と貧しい人の話しをしました。富んでいる人は、貧しい人が育てていた、たった一頭の子羊を取り上げたことを話しました。すると、ダビデは、「そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その子羊を4倍にして償わなければいけない。(Uサムエル12:6」と言いました。そしてナタンは、「あなたがその男です。あなたは、ウリヤを殺して、その妻を自分の妻としたのです。」と言いました。このように、私たちは、他人をさばいているときに、自分も同じことをしていることに気づくのです。

 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

 私たちは、他の人が悪いことをしているのを見るとき、罰が与えられるのは当然である、と考えます。それは、パウロが後に取り扱いますが、人のうちにある良心のためです。その良心が、このような悪いことは神のさばきに値すると教えてくれます。けれども、その良心によって、私たちが正しくなるのではなく、ただ、自分自身が神のさばきに値することを知らせるにしかすぎません。なのに、人はどうしても、自分だけは神のさばきをなんとかして免れる、と思っているのです。他の人にはきちんと、神のさばきのものさしを使っているのですが、自分自身には用いないのです。だから、パウロは、「その同じものさしを、自分自身に当てはめなさい。」と教えています。他の人をさばいている同じものさしで自分をさばけば、自分が神のさばきからは決して免れないことを知るのです。

2C 神の慈愛の軽視 4

 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 神が今、人々をさばかれないのは、神が慈愛と忍耐と寛容に富んでおられるからです。彼らが悔い改めるのを待って、耐え忍んでおられるのです。ペテロは、「主は、…あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Uペテロ3:9」と言いました。けれども、この忍耐深さを神の弱さと受けとめるのが私たちの姿です。自分が悪いことを行なっても、とくにさばかれている感じではない。だから、神は、私をさばく力は持っていないのだ、と考えるのです。イエスさまが十字架につけられているとき、人々が、「あなたが神の子なら、そこから降りて自分を救ってみるがよい。」と言いましたが、そのような態度を持ってしまうのです。そのようにして、神の慈愛を軽んじているわけで、他人をさばいているのは、神の慈愛を軽視しているに他なりません。

 そして、ここで、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とあり、神の憤りが悔い改めに導くと書かれていないことに注目してください。神が恐ろしいという理由では、決して悔い改めに導かれることはありません。恐ろしいと、逆に退いてしまいます。イエスさまの、タラントについてのたとえにおいて、主人から一タラントを預かった者がこう言いました。「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。(マタイ25:2425」またヘブル書には、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:39」とあります。ですから、神の慈愛、神のすばらしさに向かって、私たちは悔い改めを行なうのです。

2B 内容 − 公正なさばき 5−11

 こうしてパウロは、他人をさばいているのは、自分自身を罪に定めていることを話しましたが、次に、その神のさばきは正しく、公正であることを教えます。

1C 積み上がる罪 5

 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 神のさばきが正しいのですが、その理由は、罪が積み上がっているからだ、とあります。これはとても大切な真理です。神は、私たちが生まれて此の方、行なったこと、思ったこと、話したことのすべてを知っておられます。知っておられるだけではなく、ご自分の書物として記録しておられます。それゆえ、正しいさばきができるのです。ローマ書14章には、「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。(12」とありますが、この申し開きは、英語ですと「アカウントを出す」つまり会計報告です。神の前に、自分の行ないについての会計報告を出さなければいけない。自分が行なったマイナス面、つまり罪は、すべて借金として記録されています。それに責任を持ち、返済しなければならないというのが、申し開きをすることであります。3章以降に、キリストの義の行ないによって、多額の借金が帳消しにされるだけでなく、完全な黒字にされるという神の恵みが述べられています。しかし、それは、神の怒りのために、罪が積み上げられているという真理を知らなければ、本当の意味で恵みを知ることはできないのです。

2C 行ないに対する報い 6−10

 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

 ひとりひとりに、報いが与えられます。「みなが、このようなことを行なったから。」という言い訳はできません。その人には、みなが行なっていることに迎合しないという選択肢もあったからです。

 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

 行ないにともなう報いは明確です。善を行なう者には永遠のいのち、不義を行なう者には怒りが下ります。水に流すとか、あいまいにされることは決してありません。自分が行なったことには、必ず結果がともない、明確な影響がある、というのが神の真理です。

 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

 パウロは、ここでギリシヤ人を念頭に置いて、このことを語っているのでしょう。ユダヤ人は神に選ばれた民です。それゆえ、神から多くのものを任されており、彼らが不義を行なったときの罰も厳しいものでした。イスラエルがさばきを受けている姿を見て、私たち異邦人が、「イスラエルは、偶像崇拝など、ひどいことをしてきたからなあ。」と思ったら間違いであると、パウロはほのめかしているのでしょう。ユダヤ人と同じように、患難と苦悩があり、また、ユダヤ人と同じように誉れと平和が与えられます。

3C 神の公平さ 11

 神にはえこひいきなどはないからです。

 神は、えこひいきをしない、公平であるから、ユダヤ人にもギリシヤ人も、同じようにさばかれる、とパウロは語っています。神のさばきは、この公平というご性質に基づいています。私たちのように、人の経済的な状況、また年齢、性別、学歴などの要因によって、ご自分の判断を鈍らせることは決してありません。それゆえ、神のさばきは正しいのです。

3B 手段 − 良心 12−16

 そしてパウロは、異邦人がどのようなはかりによってさばかれるのかを語り始めます。ギリシヤ人がさばかれるというが、異邦人にはユダヤ人のように律法が与えられていない。それでは、何を尺度にさばかれるのかという疑問が出てきます。そこで、パウロは、「良心」という言葉を使って、異邦人も正しくさばかれることを教えます。

1C 滅び 12−13

 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。

 パウロは、律法を持っているユダヤ人は、もちろん律法によってさばかれるが、律法のない異邦人も滅びるのだ、と言っています。その理由を次に話します。

2C 心の中の律法 14−16

・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・

 パウロは、異邦人の心には、良心という道義的なおきてが刻み込まれていて、それにしたがってさばかれる、と話しています。先ほど、他人をさばくことをパウロは咎めましたが、それは良心があるからです。「彼らの思いは互いに責め合ったり、弁明し合ったりしています。」と書いています。私たちは、被造物において創造主を認めようとしないことが、神の怒りを招くことを1章で学びましたが、それだけではなく、すべての人の心に刻まれた良心に従っていないことも、神の怒りの対象になります。

 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。

 良心が律法になっているが、そのような隠れたところにしたがって、神はさばかれます。神のさばきが正しく、私たち人間のさばきが誤っているのはこのためです。私たち人間には、他人の動機を知ることはできません。そこで私たちが人をさばくときは、うわべだけでさばくことになります。動機を知っているのは神のみであり、それゆえ、私たちが人のしていることをさばくことが禁じられているのです。主は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われました。

2A 神の事柄に安住する者に対するさばき 17−29

 ここまでは、主に異邦人に対して語られた言葉でした。人々の悪い行ないを見て、他人をさばく独善的な態度に対して、神の正しいさばきを提示したのです。そして17節からは、ユダヤ人に対してパウロは語ります。ユダヤ人に神の律法が与えられたのですが、彼らも神のさばきを免れることができると考える独善的な態度があり、実はこれは、聖書を持ち、礼拝を行なっている私たちクリスチャンにも通じる事柄です。それでは、読んでいきましょう。

1B 神のことばへの安住 17−24

1C 状態 − 自負 17−20

1D 神との関係 17−18

 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、

 ユダヤ人にとって、律法を持つことに安んじていることが問題でした。先ほどパウロは、律法はそれを聞くから正しくなるのではなく、律法を行なうから正しくなる、と言いました。けれども、ただ律法を持っていることに安住してしまい、それを自分の救いの保障としてしまっているのです。神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何かを知っているとありますが、私たちも神を礼拝し、みこころを知って、そのことだけに満足しているのであれば、ここで語られている状態となんら変わりないのです。

2D 人との関係 19−20

 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、

 神を礼拝するだけではなく、神を知らない人々にそれを伝え、教えていると言っていますが、神のみことばの教師になったからと言って、これまた救いの保障にはなっていないのです。むしろ、ヤコブは、「私たち教師は、格別にきびしいさばきを受けるのです。(ヤコブ3:1」と言っています。ですから、私みたいに偉そうに聖書を教えている者でも、必ず救われていることには決してならないのです。

2C 問題 − 無自戒 21−24

 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。

 神を誇り、人に神のことを教えていながら、神のさばきを受けることがあるのは、自分自身を教えていないという問題があるからです。ここで再び、人の判断が鈍っていることを、パウロは暗に示しています。例えば、「盗む」という言葉について、マラキ書には、自分の生活に余裕があるときだけに、礼拝をし、献金をすることも盗みであると定義していますが、私たちはいつの間にか、人の物を盗むという外側の行為だけのものとして判断します。また、姦淫することも、心の中で異性を見て情欲を抱くならすでに姦淫をしたのに、クリスチャンの間でさえ起こる不倫事件を見て、「私は、そのようなことをしていない。」と思って、安心材料にしていまいます。偶像を忌みきらいながら、教会のものを自分のものにしていることがあります。律法は、心の中のことにまで及んでいるのに、それを外側の行為として受けとめてしまうです。

 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。

 このようにして律法に違反する結果、私たちは、神を侮っていることになります。神を知らない人々の間で、紙のついてのイメージが格下げされてしまうのです。

2B 礼典への安住 25−29

 このように、律法を持つことに安んじてしまう問題がありますが、それだけではなく、儀式に安んじてしまうことをパウロは次に話します。

1C 基準 − 神への従順 25−27

 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

 割礼は、神がアブラハムと契約を結ばれるときに、契約のしるしとして行ないなさいと命じられたものです。この神の命令に従順になり、神からの約束を受け取ることを、象徴的に割礼という外側の儀式によって現わします。したがって、割礼という儀式を行なっても、神への従順が伴なっていなければ無意味である、つまり無割礼である、とパウロは言っています。

 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

 割礼という外側の儀式を行なっていなくても、律法を行なっているのであれば、割礼の意味するところを行なっていることになります。

2C 内容 − 心の中の礼典 28−29

 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。

 パウロは、割礼の問題においても、隠れたところ、つまり内実が問題であることを指摘しています。内実が伴なっていなければ、外見は無意味になるではないか、と訴えています。私たちクリスチャンであれば、概ね、洗礼を受けているとか、教会に行っていることなどを安住の場としていないでしょうか。ある人が年をとって、間もなく死ぬことが分かったとき、自分の残された財産はどうなるのかを心配し、自分は天国に行けるのだろうかと不安になったそうです。けれども、その人は、教会に毎週通い、もちろん洗礼も受けていた人だったそうです。そのように、たとえ教会の礼典を行なったとしても、礼典そのものに依存していれば、私たちの内実はなくなってしまうのです。

 そして、パウロは、この章における結論を話します。

 その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

 誉れは、人からではなく神からである。つまり、人間が判断する外見ではなく、神が判断する内実について取り組まなければいけない、とパウロは言っています。私たちが他人をさばくのも、また、聖書を学んでいることや、礼典を行なっていることに安住するのも、すべて、人間が判断している外側のことを相手にしているからです。神ではなく、人を相手にして生きているからです。私たちは神からの誉れを求めなければいけません。外側の行ないではなく、隠れたところをさばかれる神に対峙して生きなければいけません。そして、1章の最後にあった、不義のリストを見たときに、「ああ、私はもうだめだ。私は救いようのない、罪人である。」と感じ取れる、神のさばきに敏感な者となっていなければいけません。人間が知ることのできる外側の行為だけではなく、知ることのできない心の中のことまでを知っておられる神のみが、正しいさばきを行なうことがおできになります。