ローマ人へ手紙7章 「律法と私たち」
アウトライン
1A 死んでしまった者 1−12
1B 関係において 1−6
1C 生きているときだけの律法 1−3
2C キリストとの結婚 4−6
2B 効力において 7−12
2A 罪に売られた者 13−25
1B その問題 − 「私」 13−23
1C うちに住みつく罪 13−17
2C 心にいどむ戦い 18−23
2B その解決 − 「主イエス・キリスト」 24−25
本文
ローマ人への手紙7章をお開きください。ここでのテーマは、「律法と私たち」です。
私たちは、前回、6章において、クリスチャンは罪から解放された者、もう罪を犯さなくてもよい自由が与えられた存在であることを学びました。それは、私たちが、罪に対して死んだ者とみなすことによって与えられます。私たちは、キリストとともに十字架につけられました。キリストとともに死に、キリストとともに葬られました。このことを信じることによって、私たちは罪に従わずに、神に従う生活をすることができます。けれども、私たちは、自分を殺すのではなく、生かすことによって、聖い生活をしようとする過ちによく陥ります。自分で何とかして神のいましめを守ろうとしてしまうです。主は言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」この何もできない自分がいることを、ローマ7章は教えてくれます。それでは、本文を読みましょう。
1A 死んでしまった者 1−12
1B 関係において 1−6
1C 生きているときだけの律法 1−3
それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・
パウロは、先に6章において、「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(14)」と言いました。律法の下ではなく、恵みの下にいるから罪から解放されています。そこでパウロは、今、キリスト者となった私たちが、律法とはどのような関係にあるのかを説明し始めます。彼は、一つのたとえを用います。夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。律法によると、未亡人が再婚しても姦淫の罪には問われません。結婚についての律法は、あくまでも、夫が生きているときのみに適用されます。そこで、パウロはこう言います。
2C キリストとの結婚 4−6
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
パウロは、私たちクリスチャンは、律法に対しては死んだ者である、と言っています。ユダヤ人は、律法の下で生きていましたが、キリストが十字架につけられたときに、律法の要求がすべて満たされました。そのときに、私たちが自分の行ないによって、神のおきてを守ろうとする営みからおさらばしたのです。今は、新しい夫、つまり、イエス・キリストと結ばれることによって、実を結ぶことができます。キリストが死なれたとき、私たちも罪に対して死んだこと。キリストがよみがえられたとき、私たちも新しいいのちにあずかったこと。このように、神の理想に到達しようとして、自分が這い上がっていくような関係は過ぎ去り、神の理想を完成されたキリストとの結びつきによって生きるようになったのです。
私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
これは、私たちがどのように律法に対して死んでいるかを教えています。律法を守ろうとすることによって、罪の欲情が働き、私たちが死に値する罪人であることを明らかにします。
しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
ここでは、律法に対して生きている人と、もうすでに死んでいる人とが対比されています。律法によって生きている人は、文字に仕えようとします。聖書は神のことばです。神は、ご自分のことばによって、人との交わりをなさろうと考えられました。ちょうど、夫が妻に語りかけるように、神が、感情と知性と意思を使われて、私たちに語られます。それを、従順な心で聞き入ることが信仰です。けれども、神との人格的な関係の中に入っていないと、神のみことばは、古い文字、つまり、遵守すべき文字にしかすぎなくなります。法律や規則のように、非人格的に、神との会話がなく、やみくもに守ろうとしてしまうのです。律法が授けられたのはモーセですが、モーセは信仰によって生きていました。神と顔と顔を合わせて、語り合いました。その一方、イスラエルの民は、「主が仰せになることを、みな行ないます。主が直接、私たちに語るようになされないでください。」と言いました。彼らは、律法の行ないによって、神に認められようとしたのです。しかし、今は、パウロがここで言っているように、新しい御霊が与えられています。旧約聖書のエレミヤ書において、神の律法が、私たちの心に置かれるときが来ると約束されていました。文字ではなく、心において、人格的に親密に神と交わる関係の中に入りました。
2B 効力において 7−12
それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
私たちが律法に対して死んでおり、律法によって罪人であることが知らされたのなら、律法は罪なのか、という意見が出て来ると思います。パウロは、絶対にそんなことはないと言っています。クリスチャンの中において、これをしなければならないという神の命令を聞くだけで、「それは律法的だ。」という人たちがいます。律法があたかも悪いもののように話すのです。けれども、それは間違いです。そこで、パウロは、律法が貢献した役目について語りはじめます。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。律法がなければ、罪を知ることができません。これは、私たちが日本に住んでいれば、容易に理解できるでしょう。「あなたは罪人です。」と言っても、自分が罪人であるかどうか分からないし、犯罪人扱いにしていると受け止めるので、腹を立てるでしょう。けれども、聖書を読むことによって、はじめて、神が聖なる方であること、私たちが罪深く、汚れ、悪い心があることを知ることができます。そして、罪を知ることがなければ、悔い改めも、救いも与えられません。私は日本において、罪のことを語らない教会に通っていました。けれども、アメリカに行き、説教壇からはっきりと「あたなは罪人です。」と語られました。そこで、私がキリストに出会ったときの初めの愛と救いの喜びを取り戻しました。ですから、律法は大切です。私たちに、何が罪であるかをはっきりと知らせ、その結果、悔い改めの必要性と、救いの喜びを手に入れることができるのです。
しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
このパウロの経験を、みなさんも持っているのではないでしょうか。聖書を読むまではたいして気にしていなかったが、聖書を読むことによって気にし始めます。そこで、自分では今まで、こんな人間ではなかったと思わされるほど、ひどい罪を犯してしまうことがあります。それは、神の命令を聞くときに、もともと私たちのうちにあった罪が暴れ出すからです。私がクリスチャンになるまえに、バイブル・クラスで、ある人が、「クリスチャンになったら、良い人になるとは思ってはいけない。クリスチャンになると、ますます自分が罪深いことがわかるようになる。」と話してくれたのが、とても印象的でした。実際、クリスチャンになって、そのことを経験しましたが。
それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。律法はもともと、人を殺すのではなく、それを守り行なえば祝福され、いのちを持つように与えられました。詩篇1篇には、「主の律法を喜びとして、口ずさむ人は、水路に植わわった木のようだ。その人は、何をしても栄える。」と書かれています。けれども、問題は私たちのうちに罪があることです。その罪は、私たちがその戒めを聞くときに、私たちのうちでうごめいて、実際に罪を犯すようにさせます。そして、自分は戒めに違反して、とんでもない罪を犯したことを認めるようになるのです。こうして、律法に対して死にます。クリスチャンは、このようにして律法に対して死んでいます。
そこでパウロは、結論を話します。律法は罪なのか、という問いに対して解答します。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
神の律法は、聖なるものです。神の命令も、正しく、良いものです。そして、私たちクリスチャンも、神の律法に同意し、賛成し、これが行なうことができれば、なんとすばらしいことだろうと思います。新たに生まれた人が、誰一人として罪を犯したいと願いません。けれども、問題があります。神の戒めは正しいので、私がその戒めを行なおうとすることです。そこから、激しい葛藤が始まります。パウロは、クリスチャンならだれでも陥る過ち、キリストに結び付けられたのに、キリストなしに神の戒めを行なおうとする過ちについて教えます。
2A 罪に売られた者 13−25
1B その問題 − 「私」 13−23
1C うちに住みつく罪 13−17
では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
パウロは、律法ではなく罪が自分に死をもたらしたことを、ふたたび強調しています。そこで、この罪がどのように私たちのうちで生きてくるかを、自分の体験から語りはじめます。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
パウロは、律法が霊的なものであると言っています。彼はいままで、律法は、外側の行ないについて取り扱っているものだと考えていました。そのときの自分のことを、ピリピ人に手紙を書いて話していますが、「律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:6)」と言いました。けれども、イエスさまは、律法は、外側の行ないだけではなく、私たちの内側の態度を取り扱っていることを語られました。殺すことは、物理的に殺すだけではなく、人を憎んだら、殺すことになる。姦淫は、実際に異性と性的関係をもなくとも、心の中でいやらしいことを考えただけで、姦淫の罪を犯したことになる、と教えられました。パウロは、そのことを、主を信じたあとに知ったのでしょう。そこで、自分が罪を犯していること、その罪から決して自分を救い出せないことを知ったのです。「売られて、罪の下にある者です。」と言っています。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
みなさんは、この葛藤を経験されたことはあるでしょうか。経験された方なら、説明するまでもないですね。自分のしたいと思っていることをしていない。していないだけではなく、自分が決してしてはいけないと思っていることを行なってしまいます。パウロは、「行なっているからです。」と現在形で書いています。がんじがらめになっており、そこから這い上がることができないのです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
このことを話しているパウロについて、これまで、多くの解釈がありました。ある人は、これは、新たに生まれる前のパウロについて描いている、と言いました。またある人は、いや、新たに生まれたけれども、まだ第二の恵みを受けていない人の姿だ、と言います。けれども、またある人は、「いや、これは新たに生まれた後のパウロであり、クリスチャンが経験する現実の葛藤だ。」と言います。私は、この考えを取ります。私も、この葛藤を経験しているからです。私が経験しているからと言って、その解釈が正しいのではありません。けれども、ここでパウロは、「律法は良いのであることを認めているのです。」と言っています。ここが、新たに生まれている人とそうでない人のリトマス紙ではないかと思うのです。生まれながらの人は、神の律法について、それが正しく良いものであると積極的に認めることさえしません。けれども、新たに生まれることによって、私たちの思いが変えられ、神さまのみこころにしたがって生きたいと願い始めるのです。このような罪意識があることそのものが、自分がクリスチャンであることを明らかにしているのではないでしょうか。そこで、パウロは、「それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と言っています。神の律法を行ないたいと願っている私は、すでに贖われているのです。
2C 心にいどむ戦い 18−23
そしてパウロはさらに、この葛藤を分析していきます。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
はっきりとパウロは言っています。自分の肉のうちに善が住んでいない、と。これは、私たちのうちに何が良いものがあると教える他の宗教と一線を画しています。統一協会が用意しているビデオを見たことがありますが、彼らは人間には善と悪があるという二元論を教えていました。けれども、聖書ははっきりと、「善が住んでいない。」という一元論を教えています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私たちに善をしたいと願っていないことが問題ではなく、問題は実行することができないことです。律法は、「こうしなさい。」と教えますが、それを実行するための力を与えてくれません。そこが問題なのです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。ふたたび、善を行なわないだけではなく、悪を行なっている、と言っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
ここまで話して、次にパウロは、自分のうちに、いくつかの原理がある、いくつかの法則が働いていると分析します。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
この文章は、日本語で読むと難しいのですが、すべて英語の直すと理解できます。原理も、律法もみな、Lawだからです。ですから、ここで4つの原理を見出します。一つは、先ほどから話している神の律法です。神が、これこれこうしなさい、と命じられていることです。そして二つ目は、その律法を喜んでいる、心の律法があります。それを行なってみたいと願っている法則です。けれども、三つ目に、からだの律法があります。からだの中に悪が宿っている原理があるのです。そこで、罪の原理があります。からだに悪が働く原理によって、罪をどうしても犯してしまう原理が働いているのです。これでは、たしかに、「罪に売られた者」です。罪によってがんじがらめになったのです。
2B その解決 − 「主イエス・キリスト」 24−25
けれども、解決があります。次をご覧ください。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
えっ、なんでこれが解決なの?逆に敗北宣言ではないですか?と思われるかもしれません。そうなんです、敗北宣言ができるようになったとき、私たちに初めて希望が見出されます。13節からのパウロの言葉に注目してください。何回、「私は」という言葉が出てきたのでしょうか。新改訳には、ここまで21回出てきました。この「私が」が問題だったのです。これは、神のみことばを行ないたい、聖い生活を送りたいと願うクリスチャンならだれでも陥る過ちです。私たちはこう祈ります。「主よ。おゆるしください。朝にデボーションを持つことができませんでした。必ず、次の朝には、持つようにします。」こう神に約束するのですが、その時点で、「私は、次の朝には、持つようにします。」という、自分の肉に拠り頼んでしまっている過ちがあるのです。思い出してください。パウロは、「私たちは罪に対して死んだ者であり、神に対して、キリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」と言いました。けれども、私たちが、自分がキリストともに十字架につけられていることを忘れた瞬間に、この「私が」という動作をしてしまい、それゆえ、からだの原理によって罪が働き、自分は行ないたくないと強く願っているのに行なってしまうのです。
失敗すると私たちは、さらに何とかして、それを行なわないように努力します。けれども、ますます、行なえないどころか、してはならないことまでするようになります。そしてついに、パウロの叫びである、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言うことができるのです。チャックはよく、このことを説明するのに、水の中で溺れている人を助けるためのレスキュー隊のレッスンを話します。溺れている人を助けるとき、その人がまだ元気なときは助けることはできません。助けようとすると、その人は自分にしがみついて、自分までもが溺れてしまう危険があるからです。けれども、溺れている人が、もう自分はだめだと思ったとき、自分でもがくのをあきらめたときに、初めて手を差し伸べることができるそうです。救いは自分にはない、と知ったそのときに、私たちに道が切り開かれます。
次をご覧ください。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
パウロは、「私は」という言葉の代わりに、「主イエス・キリストのゆえに」と言っています。そうです、私が何かをするのではなく、すべてのことを行なってくださったキリストを信じるのです。私たちが、神の律法を行なうのではありません。キリストが律法をすべて成就してくださいました。私たちは、このキリストをただ信じるだけでよいのです。そして、信じるとき、8章で学ぶところのいのちの御霊の原理が働き、私たちが聖霊に導かれ、肉の行ないを殺すことができます。私、ではなくキリストなのです。
けれども、このプロセスはずっと続きます。ちょうど、ヨシュアが率いるイスラエルの民が、少しずつ相続地を自分たちの所有にしていったように、私たちも、少しずつ、罪ではなく御霊が支配される領域を、自分の生活の中に広めていきます。クリスチャンになったときに、一度に、征服しなければいけない、肉が支配している領域を見せ付けられたら、おじげづいて、退いてしまうでしょう。けれども、神は、一度に私たちのお見せすることはせず、一歩一歩見せてくださいます。そこで、私たちは、「私」がこれを克服しなければいけないという過ちに陥り、もがいて、どうしようもなくなり、自分では救い出せないことがわかって、それでようやくキリストに救いを求めるのです。そこで、圧倒的な勝利がもたらされます。よし、これで勝利あるクリスチャン生活が営めるぞ、と生き込んでいると、神はすぎに、まだ征服していない、肉が支配している領域を示されるのです。
私たちは間違ってしまいます。キリストとともに十字架につけられたことを忘れて、自分で神のみことばを行なおうとします。肉はすでに死んでいるのに、その肉を生かそうとしてしまいます。けれども、私たちは律法に対して死にました。律法は必ず、私たちを殺すところまで導いてくれます。そして、「私はどうしようもない、救いようのない、みじめな人間だ。」と叫ばせるところまで導き、救いをキリストに求めさせるのです。律法によって、私たちはキリストに追いやられます。どうか、この、新しい結婚関係、キリストに結ばれた者であることを、少しでも多く学ぶことができますように。
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