ローマ8章18−39節 「栄光への道のり」


アウトライン

1A 苦しみをとおして 18−30
   1B 望みによる救い 18−25
      1C はるかに重い栄光 18
      2C 被造物のうめき 19−23
      3C 目に見えないもの 24−25
   2B 神の助け 26−30
      1C 御霊 26−27
      2C 父なる神 28−30
2A 神の愛に守られて 31−39
   1B 味方をする神 32−34
   2B 圧倒的な勝利 35−39
      1C 苦難の中で 35−37
      2C 確信 38−39


本文

 ローマ人への手紙8章を開いてください。今日は、8章の後半部分
18節から最後までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「栄光への道のり」です。

 私たちは、前回、御霊の働きについて学びました。その御霊は、私たちが神の子どもであることをあかししてくださいます。そして、私たちが神の子どもなので、神の相続人でもある、とパウロは言いました。そして、17節において、彼はこう言っています。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」私たちは、キリストとの共同相続人となる栄光にあずかることができます。8章の後半部分においては、私たちが今、どのようにしてキリストとともに栄光を受けることができるのかについて、学ぶことができます。ですから、栄光への道のりです。

1A 苦しみをとおして 18−30
1B 望みによる救い 18−25
1C はるかに重い栄光 18
 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 今、
17節でも読みましたが、私たちが栄光を受ける前に、今の時に苦しみを受けることになります。キリストが苦難を通られてから、栄光の座に着かれたように、キリストにつながれた私たちも、苦しみをとおって、それから栄光の冠を受けることができます。

 ここで大切なのは、「取るに足りない」という言葉です。私たちは今の時に、クリスチャンであるがゆえに、いろいろな苦しみを通らなければいけませんが、将来に啓示される栄光に比べれば、ちりあくたにすぎない、とパウロは言っています。彼は第二コリント書において、こう言っています。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(4:17」今の患難は軽いと言っていますが、彼が受けた患難は並大抵のものではありません。彼は、同じ第二コリント書で、自分が受けた苦難について明かしています。1123節からですが、いっしょに読んでみましょう、開いてください。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。(Uコリント11:23-28」つまり、教会の内部で生じる問題にも対処しなければいけない、と言っています。けれども、これらは軽い患難なのです。なぜでしょうか?それは、彼が、将来の栄光の重さと、今の苦しみを比べているからです。

 パウロの手紙を読むと、そこには喜びと愛と平安が特徴になっていて、自分がいかに苦しんでいるかについては、あまり言及されていません。コリント人に、今読んだところを話すときも、非常にためらって、仕方がないように語っています。なぜ、パウロは、ひどい取り扱いを受けているなかで、そのような平静を保っていることができたのでしょうか?それは、彼には、後に来る栄光がどのようなものであるかが、はっきり見えていたのです。自分が受け継ぐ神の御国が、いかにすぐれたものかを、聖書から知っていたのです。私たちも、このような姿勢を持つ必要があります。神は、私たちが無意味に苦しませるようなことはなさいません。いろいろ不愉快なことが起こったり、悲しむべきことが起こったとき、「ほら、いつも感謝しないさい、って聖書に書いてあるでしょう。だめなクリスチャンですね。」とか、「ほら、積極的な告白をしなさい。口の告白によって、将来が決まるのですよ。」などとは言われないのです。神は、私たちが受ける苦しみに報いてありあまる栄光を、私たちのうちに用意しくださっているのです。それゆえ、私たちは、今の苦しみを取るに足りないとみなすことができます。

2C 被造物のうめき 19−23
 ですから、今の苦しみは、理由のある苦しみであり、望みがある苦しみです。そこで、彼は、待ち望むことについて説明しています。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

 
この、「神の子の現われ」とは私たちクリスチャンのことです。けれども、これは、今の私たちのことではありません。私たちは今、霊は贖われているけれども、からだは贖われていないのですが、将来、からだも贖われて、正真正銘の神の子どもとなります。

 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。


 被造物が虚無に服した、とありますが、これはアダムが罪を犯したときのことに起こりました。主なる神は、アダムに、「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。(創世
3:17」といわれました。アダムが罪を犯したために、その子孫である人間が呪われただけではなく、自然界も呪われてしまったのです。そのため、地震や火山などがあり、また、動物の間には弱肉強食があります。神は、もともと、そのようには天地を造られませんでした。けれども、望みがあります。人間が罪を犯して被造物が呪われたように、人間が贖われると、土地も贖われるからです。

 次をごらんください。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 私たちが栄光の姿に変えられて、キリストとともにこの世に現れます。そのときに、この世界も変えられて、神が望まれたような世界になるのです。ライオンも熊も、ともに草を食べるようになります。正義が世界をくまなく支配するので、人々の間には戦争がなくなり、また、経済的に搾取することもなくなります。神の子どもが現れるときに、このようなすばらしい姿に、この世界も変えられるのです。


 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 パウロは、私たちが受けている苦しみは、望みがある苦しみなので、「うめいている」と表現しています。そして、パウロは、「産みの苦しみをしている」と言っていますが、主は、終わりの時について、こう語られました。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(マルコ
13:8」子どもが産まれることは、とても喜ばしいことです。けれども、子どもを産むときに、陣痛が起こります。出産が近づけば近づくほど、陣痛の間隔は短くなり、さらに痛みが増します。出産直前に、その痛みは極みに達しますが、子どもが産まれたのを見て、そのすべての痛みを忘れさせるほどの喜びに包まれます。この被造物全体もそのようなものなのです。私たちは、この世が進歩している、進化している、という哲学を、決して受け入れることはできません。むしろ、破壊へと向かっています。けれども、私たちは、この世が破壊へ向かえば向かうほど、この出産が間近になっていることを知るのです。だから、暗やみの中で、ますます光り輝くこどができるのです。したがって、パウロは、私たちを含む被造物全体が「うめいている」と言いました。

 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 
私たちのことが、「御霊の初穂」と表現されていますが、これは、私たちが御霊によって新たに生まれたからです。けれども、それはあくまでも初穂の働きしかしておりません。終わりの時には、御霊は被造物全体に働きかけ、すべてを変えてくださいます。そして、被造物だけではなく、私たち自身の心の中でもうめいています。なぜなら、私たちのからだはまだ贖われておらず、アダムから引き継いだ死んだからだを引きずりながら歩いているからです。私たちのからだは、神によって造られたものなのですばらしい反面、とても不便であります。このからだは、いつか朽ちて、ちりとなり、土に帰ります。病を持ち、老いて、自分の思うように動かなくなります。子どもたちに聖書を教えているとき、「エデンの園では、アダムもエバも、熱を出したり、風邪をひいたりすることないんだよ。」と話すと、とても驚きます。子どもたちは、とくに冬の時期に、病気や熱で苦しんでいるからです。そして、私たちのからだが不便なのは、何よりも、罪の性質を持っているからです。私たちの贖われた霊は、地上のものであるこのからだの中にいて、不便を感じています。神の律法を行ないたいと願っているのに、からだに罪の原理があって、したいことをしないようにさせているからです。だから、私たちもうめいていて、このからだが変えられるのを待ち望んでいるのです。


 パウロは、コリント人への第二の手紙において、今のからだと、後に与えられるからだの違いについて話しています。第二コリント書五章です。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。(5:1-3」私たちの今のからだを、地上の幕屋、あるいはテントになぞらえています。そして、天から与えられるからだを、神の家になぞらえています。テント生活が、とりあえずは生活できるから必要なのですが、そこでずっと住みたいとは願いません。建物の中に定住したいと願います。同じように、私たちも、新しいからだが与えられて、正真正銘の神の子どもとなり、キリストのようになり、神の栄光を反映したいと願います。今のからだは、一時的なものとしてみなし、うめいているのです。

3C 目に見えないもの 24−25
 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 
私たちクリスチャンは、キリストが自分の罪のために十字架につけられ、よみがえられたことを信じることによって救われました。けれども、からだの贖いがあって初めて救いが完成するのであり、私たちは、将来にからだが贖われることを望まずして生きていくことはできません。主が私たちのために再び来られます。そのときに、私たちは引き上げられて、一瞬のうちに変えられて、新しいからだを身にまとい、主と対面するのです。このことを私たちは日々待ち望むことによって、救われているのです。これらのことは目に見えません。見えないので、私たちの目はどうしても見えるものに向いてしまいがちです。ですから、このように、主の教えを聞くために集まることは有益です。また、祈りに時間をささげることは有益です。天地は過ぎ去るけれども、わたしのことばは過ぎ去りません、と言われた主のみことばを聞くことによってのみ、私たちは、目に見えないものに目を注ぐことができます。


2B 神の助け 26−30
 このように、今の私たちは、苦しみの中で待ち望む者、うめいている者なのですが、そのうめきの中に入ってきてくださり、私たちを助けてくださる方がいます。御霊なる神です。

1C 御霊 26−27
 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 パウロは、「同じようにして」と言っています。これは、私たちが、心の中でうめいていように、御霊も私たちのうちでうめいてくださる、と言うことです。パウロは、私たちのことを「弱い私たち」と呼んでいますが、それは、どのように祈ったらよいかわからない弱さです。神のみこころが何かがわからない弱さを私たちは持っています。例えば、自分にいつも助けを求めて来る人がいるとします。相談にのってくれ、人生について質問がある、と言ってやって来ます。自分は何回も相談に乗りますが、その人は、話すことが主眼となっており、自分にある問題を解決しようとする気がないように感じます。そのとき、私たちは、自分がその人の話しを聞いてあげるのが、神のみこころなのか、それとも、丁重に、自分でよく考えてみなさい、と諭すのが、神のみこころなのか考えてしまうことがあります。このような弱さを持っているので、どのように祈ったらよいかわからないのですが、そのときに御霊が助けてくださるのです。言いようもない深いうめきによって、御霊が私たちのためにとりなしてくださいます。8章の
34節には、御子が、父なる神の右の座でとりなしをしておられる、とありますが、イエスさまだけではなく、聖霊さまも私たちのためにとりなしをしておられるのです。

 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 
私たちのうちに住んでおられる御霊が、私たちのために祈っておられるとき、その祈りは、父なる神のみこころにそったものとなっています。ご聖霊は、私たちとは異なり、神ご自身であられるので、父なる神のみこころをすべて知っておられます。そのみこころにそって祈ってくださるのです。私たちは、御霊のうめきを聞くだけで、その祈りが何であるかがわかりませんが、神のみこころにそった祈りであることだけは理解できます。パウロは、御霊の賜物について話しているとき、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、霊で奥義を話すからです。(Tコリント
14:2」と言いました。異言は、私たちの知性では理解できませんが、けれども御霊がみこころのままに祈ってくださるので、神のみこころにそって祈っておられることを知ることができます。

2C 父なる神 28−30
 私たちのうめきを助けてくださる方は、御霊なる神だけではありません。父なる神も私たちを導いてくださいます。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 
神が私たちのためにしてくださるのは、すべてのことを働かせて益としてくださることです。一部のことを働かせて益としてくださるのではなく、すべてのことを働かせて益としてくださいます。この神のみことばに、どれだけの人が励まされ、慰められ、力を得るでしょうか。私たちは、すべてのことが必ずしも、神によって起こされたことではないことを知るべきです。パウロは、苦しみを受ける今の時のことを話していますが、今は、すべてのものが神に服従していません。悪魔が、不信者の心に思いのままに働き、また、信者に対しては、ほえたけるライオンのように、私たちを食い尽くそうと歩き回っています。ですから、私たちは、悪魔から、またこの世から、また、人の罪によって、さまざまな苦しみを受けます。これらは、主によって起こされたことはではありません。しかし、主は、すべてのものの上におられる神です。そのような悪をも用いられ、益としてくださいます。完全な逆転劇を行なってくださいます。


 ヤコブの子ヨセフのことを思い出してください。ヨセフの生涯には、二つの大切な神の真理が働いています。一つは、「主がともにおられる」ことです。彼が、エジプト人ポティファルに奴隷として買い取られたときも、また、ポティファルの妻がヨセフに言い寄って、ヨセフが拒否したために、投獄されたときも、「主がヨセフとともにおられた」とあります。私たちも、苦しむとき、神の御霊が私たちのうちでともにうめいてくださり、私たちに深い慰めを与えてくださいます。そして、もう一つの真理は、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世50:20」というヨセフのことばです。兄たちがヨセフに悪を計りましたが、神はそれを用いて、ヤコブの家族全員を、飢餓状態から救い出すように計ってくださいました。ですから、私たちが逆境に面しているとき、主がともおられて、ともに苦しんでおられること、そして、その悪いことを良いことのために計らってくださることを知りましょう。

 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 パウロは、すべてのことを益に変えてくださる、と言いましたが、それは、御子と同じ姿に私たちが変えられることにおいて、そうである、と言っています。私たちがイエスさまの姿にますます似てくるように、神は、すべてのことが働かせてくださいます。ですから、益となると言っても、私たちがお金持ちになるとか、あるいは良い結婚相手に恵まれるとか、学問やスポーツにたける、とか言うものではありません。


 そして、ここでは、クリスチャンの間で長年の間論争している、神の予定について書かれています。「あらかじめ定める」と書いてあります。神は、人を救いにあらかじめ定められたのなら、私たちの選択は無意味なのか、という議論があります。このようなことを議論することは有益ですが、一つ忘れてはならないことは、神が予定されたことの目的です。ここでは、「御子のかたちと同じ姿に変えられる」という事でありますす。エペソ書においても、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4」とありますが、「御前に聖く、傷のない者にしようとされた」という目的が、もっとも大事なのです。私が神学の授業で、人間の責任と神の選びについて議論がありました。そのときに、先生が、クリスチャンとして教会に通い、奉仕や伝道をし、精力的に働いていた人が、信仰を完全に捨ててしまった人の例をあげました。その人は、救いを失ったのでしょうか。それとも、もともと救われていなかったのでしょうか。その先生の答えは、「だから、何なの?」と言うものでした。救いを失ったにせよ、もともと救われていなかったにせよ、その人は今、罪の中に生きており、悔い改めないなら永遠のさばきを受けるのです。このことのほうが大事であり、神が定められた目的、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ことが大切なのです。

 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 ここですばらしいのは、神が「栄光をお与えになりました。」と、過去形で書かれていることです。私たちにとっては、栄光の姿に変えられるのは未来なのですが、時間を超えたところにおられる永遠の神は、キリストにある私たちを見るときに、すでに栄光の姿に変えられているのです。これほど私たちを安心させることはありません。私たちがキリストのうちにいるかぎり、神は私たちを決してお見捨てにはならないのです。


2A 神の愛に守られて 31−39
 そこで結論に入ります。パウロは、栄光の姿に必ず変えられることを述べた後、神と私たちを引き離すものが何一つないことを述べ始めます。

1B 味方をする神 32−34
 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

 パウロはこれから、いくつもの質問をしていきますが、これらはみな、反語的な質問です。つまり、もうすでに答えが分かっている質問であります。ここの場合は、「だれも私たちに敵対できない。」と言うことです。神はすべてのことを働かせて益としてくださり、私たちを栄光の姿に変えられるのであれば、神は味方である。創造主であり、全能者である神が味方であれば、どのような被造物も私たちに敵対することはできない、ということです。悪魔は敵対します。この世は敵対します。人々は私たちに敵対します。しかし、神が味方してくださっているので、だれも私たちを打ちのめすことはできません。


 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 
ここも答えは、「私たちにすべてのものを恵んでくださる」であります。神は私たちのために、ご自分のひとり子でさえ惜しまずに死に渡されました。ならば、私たちに必要なものをお与えにならないことは、決してないのです。

 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。


 ローマ人への手紙が、神の義をテーマとしていることをまた思い出してください。神の義によれば、私たちは罪ありと訴えられます。けれども、今は、神の義は、キリストを信じる者を義と認めることにおいて現れました。したがって、私たちを訴えることができるものは、誰一人、何一つありません。

 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

 私たちが肉の弱さのために、罪を犯してしまっても、キリストは私たちのために弁護され、とりなしをされます。「わたしは、この者のために血を流しました。この者が受けるべき罪の罰を、わたしが変わりに受けました。」ととりなしてくださるのです。


 このように、私たちが栄光の姿に変えられるまでに、苦しみを受けても、また罪を犯してしまっても、神から決して引き離されることはありません。

2B 圧倒的な勝利 35−39
 そこで、パウロは宣言します。

1C 苦難の中で 35−37
 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 
私たちは圧倒的な勝利者です。ここで大切なのは、「これらすべてのことの中にあっても」という言葉です。私たちが、苦しまないことによって勝利を受けるのではありません。むしろ、ほふられる羊とみなされるような苦しみを受けます。しかし、その苦しみが、私たちを栄光の姿に変えるという神のご計画を妨げるものにはまったくなりません。これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者なのです。苦しむとき、私たちは、神の栄光を待ち望むように促されます。苦しむとき、御霊がうめいて助けてくださいます。苦しむとき、神は、その悪をすべて良いことのために働かせてくださいます。このような神のバックアップがあるので、私たちは圧倒的な勝利者なのです。


2C 確信 38−39
 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 パウロは、私たちを神の愛から引き離すかもしれないと考えられる被造物を、考えられる限り列挙しています。死といのち、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、引き離すことができません。それは、神の愛が、私たちの主キリスト・イエスのうちにあるからです。パウロは、「イエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。」という言葉で8章を始めました。そして、「キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と言って終わっています。このように、私たちに与えられた神の救いは完全であり、十分であり、確実なのです。


 こうして、私たちは栄光への道のりを歩んでいます。それはキリストが苦しまれたように苦しみの道であり、と同時に、神の愛によって完全に守られた道です。私たちのからだにもたらされる苦しみ、あるいはからだの弱さによって受ける内なる戦いも、御父、御子、聖霊の神が、全面的に介入し、助けてくださり、計画してくださっています。この神の愛の中で生きていきましょう。


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