ローマ8章1−17節 「内に住んでおられる御霊」


アウトライン

1A からだの行ないへの死 1−11
   1B 理由 − 肉における処罰 1−4
   2B 方法 − キリストの内住 5−11
      1C 思いの中で 5−9
      2C 霊のいのち 10−11
2A 神の子どもの確信 12−17
   1B 条件 − 御霊による肉の死 12−13
   2B 内容 − 父なる神 14−17

本文

 ローマ人への手紙8章を開いてください。今日は、8章の前半部分1節から17節までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「内に住んでおられる御霊」です。聖霊が、私たちのうちに住んでおられます。

1A からだの行ないへの死 1−11
 それではさっそく、1節を読みましょう。

1B 理由 − 肉における処罰 1−4
 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 パウロは、8章を、「こういうわけで」という言葉で始めています。つまり、話しは7章から続いています。7章においてパウロは、律法は正しいものであり、良いものであり、霊的なものであることを認めました。そこで、これを行ないたいと願うのですが、むしろ自分は、まったく逆のことを行なっていることに気づきます。それで、彼は、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆いたのです。これは私たちクリスチャンなら、だれもが経験していることろです。自分が望んでいることを行なわず、むしろ憎んでいることを行なっているので、ほんとうに救われているのだろうか、と悩むことがあります。けれども、決してそのようなことはないのです。パウロは、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と言っています。主は、こう言われました。「
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17」私たちが、キリスト・イエスにあって決して神に罰せられることはない、という確信によって、私たちは、からだの行ないから解放される一歩を踏むことができます。

 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

罪と死の原理とは、パウロが7章において分析した原理であります。自分のからだに異なる原理があり、それによって自分が憎んでいることを行なっているという原理です。キリスト・イエスにあって、私たちは、この原理から解放された、とパウロは話しています。パウロは6章において、「聖潔
(holiness)に進みなさい。」と命じていました。神が聖いように、私たちも聖くならなければいけない、という命令です。そこで私たちは、自分をきよめようと努めるのですが、7章でパウロが告白したように、汚れたことを行なっている自分を発見します。けれども、パウロは、まったく新しい異なる原理が私たちに与えられたことを紹介しています。いのちの御霊の原理です。神の御霊が私たちのうちで生きておられることによって、からだの行ないを殺すことができます。これはちょうど、重力の法則と空気力学の法則のようなものであります。私たちは、自分の力によっては、どのようにもがいても空に舞いあがることはできません。それは重力の法則が働いているからであり、私たちは地面に引き付けられてしまいます。しかし、この世界には異なる法則が働いており、それが空気力学の法則です。ある条件を満たすと、重力の法則に打ち勝ち、何百人もの乗客を乗せている鉄のかたまりが、空に舞いあがることができるのです。罪に対して死に、いのちにある新しい歩みをすることができるのは、いのちの御霊が私たちのうちに生きておられるからです。

 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 ここで大切なのは、律法について、神がみなそれを行なってくださったという事実です。私たちではなく、神が行なってくださいました。したがって、7章においては、自分で律法を行なおうとしていたところに誤りがあったのです。すでにキリストが、律法が命じるところをすべて行なってくださいました。その命令とは、正しい行ないだけではありません。律法に違反した者は死ななければいけないのですが、それも主は、私たちに代わって行なってくださったのです。私たちは、このからだに罪を宿していることを見出すのですが、その罪に対する処罰は、肉のかたちを取って来られたキリストが代わりに受けてくださいました。


 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 
注意して読んでください、律法の要求は、私たちによって全うされたのではなく、私たちの中で全うされたと書かれています。ここが大事です。律法の要求を全うしてくださったキリストが私たちの中におられるからです。このことによって、私たちは、「御霊に従って歩む者」に変えられます。預言者エレミヤは、新しい契約がイスラエルの民に与えられることを預言しました。エレミヤ書
31章です。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:33」古い契約においては、文字として書かれていた律法を、自分が守ることにが義務となっていました。けれども、新しい契約においては、その律法が私たちの心に置かれて、心に書きしるされるのです。これは、キリストの御霊が私たちのうちに住んでくださるからです。キリストは律法が要求するところをみな行なわれました。そのキリストが生きてくださっているので、私たちの中で律法が書き記されています。

 私たちは、キリストにつく者、キリストの結びつけられた者となりました。アダムが罪人のかしらであったように、キリストが私たちのかしらとなられました。そのため、キリストが行なわれたことが、私たちにそのまま影響し、私たちはキリストの恩恵にあずかります。キリストが死なれたときに、私たちも罪に対して死にました。キリストがよみがえられたときに、私たちにも新しいいのちが与えられました。このように、私たちはもはや、自分の行ないで神に喜ばれようとするのではなく、キリストとの結びつきを確かにしていくことによって生きていきます。自分の行為ではなく、イエス・キリストとの交わりによって生きています。行ないではなく、キリストを信じる信仰にかたく立つときに、御霊に従って歩むことができるようになります。

2B 方法 − キリストの内住 5−11
1C 思いの中で 5−9
 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

 
パウロは、肉に従う者と、御霊に従う者とを比べていますが、「考える」ということによって比べています。言いかえると、「思い」の中で違いがあるようです。肉に従う者は、思いの中で肉的なことを考え、御霊に従う者は、思いの中で神についてのことを抱いています。

 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。


 肉の思いの死というのは、罪を犯し、それによって死ぬことです。そして、御霊による思いとはいのちと平安でありますが、私たちクリスチャンが平安を得るのは、どのようにしてでしょうか。一時間ぶっとうしで祈って、「ようやく目標の一時間が祈れたぞ。」と自己満足に浸っていたとしたら、それは、御霊による思いでしょうか。いいえ。うぬぼれ、という肉的な思いです。私たちの行ないによっては、絶対に平安は与えられません。神の行ないによって、平安が与えられるのです。神が、私たちの代わりに、キリストにおいて罪を処罰してくださったことを思うときに、心に平安が満ちます。


 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。

 私たちの肉は、完全に無能になっていることが、ここからお分かりになると思います。肉はもともと神に反抗して、神の律法に服従しないものなのです。肉によって神を喜ばせることは、到底できません。だから、パウロは、7章において、まったく自分では何もできないことを告白していたのです。

2C 霊のいのち 10−11
 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 御霊が私たちのうちに住んでくださることによって、キリストが私たちのうちに住んでおられます。それは、御霊がキリストと同じ性質を持っておられるからです。このことによって、先ほどお話ししましたように、私たちはもはや、書かれている文字に従うようなことはせず、生きておられるキリストとの関わりによって歩むのです。

 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。


 私たちは救われた者ですが、まだ救われていないものがあります。それは、このからだです。私たちの霊は贖われましたが、からだが贖われるのは将来に起こります。したがって、からだは罪のゆえに死んでいるのです。つまり、私たちの肉には、まったく良いものがありません。もちろん、私たちのからだは、神によって造られたすばらしい機能を持っています。食欲、性欲、睡眠欲などは、何一つ汚れているものはありません。けれども、私たちのからだは、私たちがこれらの欲求によって生きるように仕向けます。生きるために食べるのではなく、食べるために生きるように仕向けます。また、性欲も、結婚の外、あるいは結婚前に満たそうと仕向けます。クリスチャンであっても、そこにおいては不信者とまったく変わりないのです。私の好きな聖書教師は、説教壇からよくこう言います。「神が、となりに座っている人の心のうちをあなたに知らせないのは、あわれみによるのです。もし、となりの人の、心のうちをあなたが知ったら、決してそこに座っていられないでしょう。」私たちは依然として醜い、汚れた、救いようのない罪人です。けれども、霊は、義のゆえに生きています。


 そこでパウロは、次にこう言います。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 私たちは、御霊によって、この死ぬべきからだを生かすことができます。このからだを罪にゆだねるのではなく、霊に従わせることができるようになったのです。このからだを、神の器のために用いることができるのです。からだに罪の性質はあるのですが、その罪に支配されなくてもよくなりました。


2A 神の子どもの確信 12−17
1B 条件 − 御霊による肉の死 12−13
 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 私たちは、肉に従わざるを得ないところから救い出されました。肉に従わなくてもよい自由が与えられました。

 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 パウロが、「殺す」という言葉を使っているのも大事です。私たちのからだの行ないは、改善させることはできません。殺すしかないのです。ヨシュアたちが約束の土地を自分たちの所有にするときに、カナン人たちとの共存ではなく、ことごとく殺さなければいけなかったように、私たちの肉も殺さなければいけません。そして、それは御霊によって殺します。私たちは、自分自身によって、肉の行ないをやめることは決してできません。自分自身が肉だからです。


2B 内容 − 父なる神 14−17
 このように、イエス・キリストのうちにある者は、肉の行ないを殺すことができる御霊が与えられました。御霊は、さらに私たちにすばらしい祝福を与えてくださっています。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 神の子どもとしての身分が、私たちに与えられます。先ほど、私たちは、御霊はいのちの御霊であることを学びました。御霊に導かれるとき、私たちはいのちを持つのですが、そのいのちは、「神の子ども」という言葉の中に表れています。イエスさまは、父なる神に対し、こう祈られました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ
17:3」いのちとは、長生きすることではなく、神を知ること、イエス・キリストを知ることそのものです。つまり、いのちを持つというのは、関係を持つと言いかえることができるのです。財産をたくさん持っていても、知識をたくさん持っていても、私たちが独りになったら、そこでいのちが枯れてしまいます。財産がなくても、人との関わりがあるときに、私たちはいのちを持っているのです。ですから、イエスさまは、弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが新しい戒めです。」と言われたのです。愛し合うところにいのちがあるのです。ですから、聖霊は私たちにいのちを与えられますが、それは、私たちが神の子どもとしてくださることによって与えてくださいます。

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

 私たちが神の子どもになることは、つまり、神との関係が親密になることを意味します。「アバ」というのは、ヘブル語の、「おとおちゃん」という意味の言葉です。言葉を覚え始めたばかりのユダヤ人の幼子が、お父さんを、「アバ」と呼びます。神をそのような親密感、親近感を持って呼ぶことができるほどにまで、御霊がしてくださいました。けれども、思い出してください。イスラエルが、主なる神から十戒が与えられたとき、こうモーセに頼みました。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。(出エジプト
20:19」彼らは神が語られたとき、恐ろしくなって遠ざかったのです。パウロはこれを、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊」と呼んでいます。モーセは、顔と顔を合わせて主と語り合いました。なぜですか、聖霊に満たされていたからです。御霊は、私たちを神との個人的な交わりの中に導き入れてくださり、そのような親しみのある関係を持たせてくださいます。

 そして、そのような愛の関係の中にあるとき、神の命令に従うことは、自然な応答となります。妻が夫に従うとき、夫が妻を愛していなければ従うことができないように、キリストが私たちを愛してくださったことを知ることによって、初めてキリストに、自分のすべてをささげることができるのです。

 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 御霊が私たちの内側で、あかししてくださいます。先ほど引用したエレミヤ書の預言には、主は、律法が心に書き記されると仰せになられたあとに、「人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
(31:34)」と言われました。それは御霊が、私たちに教えてくださるからです。使徒ヨハネは、こう言いました。「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。(Tヨハネ2:27」キリスト教か、それか異端であるかの違いは、異端は自分たちの中に人々を引き込もうとして、自分たちの教えの中に人々を閉じ込めてしまうことにあります。例えば、確かに私は今、このようにして聖書を教えていますが、これをみなさんの心の内部にまで押し入って、教えることは決してできません。みことばを教えますが、実際にみなさんを教えておられるのは、うちに住んでおられる聖霊なのです。そこで、パウロは、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」と言っているのです。

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 神の子どもであることの特権は、親密感だけではありません。父のものを相続するという特権があります。どれだけのものと相続するかといいますと、キリストとの共同相続人だと言うのです。キリストが父なる神から任されているものは、何でしょうか。すべてですね。共同相続人とは、同じだけの相続を受け継ぐことを意味します。つまり、神のものをすべて受け継ぐことができる、という、これ以上大きな祝福はない、というほどの祝福なのです。


 このように、神の子どもであることを御霊によってあかしされることによって、私たちは、律法ではなく、愛によって神と関わることができるようになりました。この関係は、「決して罪に定められることはない。」という宣言から始まります。罪に定められないことを知るとき、私たちは解放され、罪から離れるスタートを切ることができます。そして、自分ではなく、神がキリストにおいて、律法の要求をまっとうしてくださったことを知ります。私たちは、自分たちの行ないで神を喜ばせるのではなく、キリストの結ばれていることを信じて、神を喜ばせることができます。キリストのうちにとどまるところには、御霊が働いてくださいます。ご聖霊によってのみ、私たちは肉の行ないを殺すことができるのです。


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