ローマ人への手紙9章 「イスラエル」
アウトライン
1A 問題提起 − 「彼らはイスラエル人です。」 1−5
1B パウロの悲しみ 1−3
2B イスラエルの特権 4−5
2A 理由 6−29
1B 選び 6−13
1C イサクとイシュマエル 6−9
2C ヤコブとエサウ 10−13
2B 主権 14−24
1C 神の公正 14−18
2C 神の権利 19−24
3B 預言 25−29
3A 結論 − 「つまずきの石」 30−33
本文
ローマ人への手紙9章をお開きください。ここでのテーマは、「イスラエル」です。
私たちは、8章において、神のご計画の確かさについて学ぶことができました。神は、ご計画に従って、すべてのことを働かせて益としてくださいます。そして、あらかじめ私たちをキリストに似る者として定めてくださり、栄光の姿に変えられることも計画してくださいました。それゆえ、どのような被造物も、私たちに敵対することはできず、私たちをキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。キリストを信じる者に対する祝福と約束は、このように栄光に富んでいます。しかし、そこから大きな問題に直面します。このような祝福と約束は、聖書によると、まずイスラエルに対するものだからです。パウロは、この手紙を書き始めるとき、「福音はユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(1:16)」と言いました。ユダヤ人がまず、この祝福にあずかるべきでした。けれども、使徒行伝を読めばお分かりになるとおり、個人的に、イエスさまをメシヤとして信じたユダヤ人はいましたが、全体的としては、彼らはイエスさまをメシヤとして受け入れませんでした。逆に、多勢の異邦人が、ユダヤ人のメシヤを自分の救い主として受け入れました。それでは、神のみことばは無効になったのか、という疑問が出てきます。福音はイスラエルのものなのに、当のイスラエルが信じないのであれば、パウロが断言した、「どんな被造物も、神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」という約束も、信頼に値しなくなります。こうした問題について、パウロは9章から11章において取り扱います。
1A 問題提起 − 「彼らはイスラエル人です。」 1−5
1B パウロの悲しみ 1−3
パウロは、この問題について、自分の心にある苦悩を打ち明けるところから語りはじめます。私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
パウロは、イスラエルが福音に対して敵対していることに、大きな悲しみと絶えざる痛みを感じています。その痛みは、とてつもなく深く、自分がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願うほどでした。つまり、彼らが救われるのであれば、自分が地獄に行っても良いと願ったのです。彼は、この痛みを表明するのに、「私はキリストにあって真実を言っています。私の良心も、聖霊もあかししています。」と言っています。パウロは、人々から、彼がユダヤ人を憎んでいると思われているかもしれないと思って、こう書いています。ユダヤ人からねたまれ、ののしりを受け、迫害を受けました。だからパウロが、ユダヤ人を憎んでいるのでは、と考える人がいたかもしれませんが、決してそんなことはなく、むしろ、彼らに対する愛は、とてつもなく激しかったのです。
パウロは11章において、異邦人クリスチャンに対して、「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。(ローマ11:28)」と言っています。ユダヤ人は選ばれた民であり、神に愛された民なのであるから、それゆえに、私たち異邦人のクリスチャンは彼らを愛さなければなりません。パウロは、ユダヤ人から迫害を受けても、その愛は変わりませんでした。
2B イスラエルの特権 4−5
そして、パウロは、そうした悲しみ、痛みを感じている理由を次に話します。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
パウロが痛みを感じているのは、ローマ書8章までで話した神の祝福をはじめ、その他数々の特権がイスラエル人に与えられているからです。これら一つ一つを語るなら、旧約聖書全体を話さなければいけません。けれども、かいつまんで話しましょう。第一に、彼らは子とされました。主はモーセに、「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。(出エジプト4:22)」と言われました。彼らを養い、見張り、ご自分のひとみのようにイスラエルを守られました(申命32:10)。第二に、彼らには神の栄光が与えられました。イスラエルが荒野を旅しているとき、昼は雲の柱が彼らを導き、夜は火の柱が与えられました。幕屋が建てられてからは、主は至聖所においてご自分の栄光を現わし、民の真ん中にともにいてくださいました。ソロモンが神殿を建てたときも、主の栄光が宮に満ちて、祭司たちがそこに入ることができないほどだったのです。
第三に、契約です。男女の関係が結婚の誓約によって、その愛が確固としたものになるように、神はイスラエルと契約を結ばれ、その関係を揺るぎ無いものとされました。最初に、アブラハムに契約を与えられました。土地の所有、子孫の繁栄、そして国家の建設の約束を与えられ、そのしるしとして割礼を授けさせました。さらに、神はダビデに対して、その王座からメシヤを出すという契約を結ばれました。さらに、預言者エレミヤをとおして、モーセに与えられた古い契約に代わる、新しい契約をイスラエルに与えることを、神は約束されました。このように、イスラエルは、契約によって神と結ばれている民であります。第四に、律法ですが、これは、今話した古い契約であります。律法を守り行なえば祝福を受ける、という条件付きのものであり、これはキリストが現れた今、その役目を終えました。第五に礼拝です。これは、レビ記に詳しく書かれている、幕屋における礼拝のことです。動物のいけにえ、きよめの儀式、祭司の務めなどは、イスラエルに与えられました。第六に、約束です、聖書はイスラエルに対する、すばらしい約束に満ちており、私たちは、その実現の一部を垣間見るという特異な時代に生きています。今日、世界からイスラエルに移住するユダヤ人たちが急増しています。長年のこと、岩地と砂漠と沼地とでしかなかった不毛の土地に、木々が植えられ、花が咲き、町々が建てられています。これらは、預言者たちが、その預言をして以来、初めての出来事なのです。
そしてパウロは一呼吸置いて、第七に、先祖も彼らのものである、と言っています。これは、アブラハム、イサク、ヤコブのことです。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫がユダヤ民族となりました。そして、最後に、キリストあるいはメシヤは、人としてはイスラエルから出てこられました。私たちの主イエス・キリストはユダヤ人なのです。私たちは、ユダヤ人であるイエスを、自分の主、救い主としてあがめています。そして、パウロは、キリストにふれたので、この方が神であること認めて、賛美しています。このように、聖書は、イスラエルに対する祝福で満ちています。なのに、彼らは、神の義に到達することができていない。そのため、パウロの心は痛み、悲しんでいるのです。
2A 理由 6−29
そこでパウロは、このようなことが起こっている理由を説明します。神のことばが決して無効になったのではないことを、いくつかの理由をあげて説明します。
1B 選び 6−13
一つ目は、神の選びです。
1C イサクとイシュマエル 6−9
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
パウロは、イスラエルが全体として福音を信じていないのは、それは神のみことばが無効になったからではなく、むしろ、神に召し出されたユダヤ人のみが、福音を信じるようにされている、と述べています。その実例として、アブラハムから生まれたイサクとイシュマエルを挙げています。イシュマエルもアブラハムから生まれました。けれども、アブラハムの子どもとみなされたのは、イサクのみです。イサクをささげなさい、と主がアブラハムに命じられたとき、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。(創世22:2)」と言われました。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」神の子どもと呼ばれるのは、血縁関係によるのではなく、むしろ神の約束によって子どもとなります。ですから、多くのユダヤ人は、土地など物理的な面においては神の契約の中にいるのですが、それで霊的に救われるのではありません。神が約束されたユダヤ人のみが、つまり、福音を信じたユダヤ人のみが、救いにあずかるのです。
もちろん、この原則は、私たち異邦人にも当てはめることができます。親がクリスチャンであったり、あるいは、教会に通って、その仲間に入っていることに安心感を見出すのであれば、約束の子どもではないのです。
2C ヤコブとエサウ 10−13
そしてパウロは、もう一つの実例をあげます。ヤコブとエサウです。このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
神がエサウではなくヤコブを選ばれるとき、それはヤコブが何か良いことをして、エサウが悪いことを行なったから選ばれたのではなく、神ご自身がご自分の思いでヤコブを選ばれました。このことについて、私たちは反発します。それでは、私たち人間には選択が与えられていないのか。一部の者だけが選ばれて、選ばれていない者は地獄に行くのか、と反発してしまうのです。けれども、聖書は、神が選ばれたことについて多くを語っていますが、選ばれていないことについては、何一つ語っていません。むしろ、神は、すべての人が救われることを望んでおられる、とパウロは言っています(Tテモテ2:4)。つまり、神の選びのことを考えるとき、私たちは次のことを考えればよいのです。「自分は神に愛されている。」と言うことです。自分が何か良いことをしているから救われたのではなく、また愛されるべきものがあるから救われたのではなく、ただ神が愛しておられるから救われたのです。あるテレビ番組で、二人兄弟を養子にもらった夫婦のことが取材されていました。ずっと奥さんが不妊だったからです。けれども、養子にもらったとたん、子どもが生まれてしまいました。三人の女の子です。奥さんはアメリカ人、だんなさんは日本人なので、養子は髪の毛が黒く、生まれてきた子たちは、茶髪をしていました。そこで、養子の子が、少し大きくなって、そのことを親に聞きました。その解答に悩み苦しんだあげく、母親は、「私たちは、施設で、いろいろな子どもがいたのにもかかわらず、あなたたちを選んだんだよ。だから、あなたたちは、愛されて私たちの子どもになったのだよ。」と答えたそうです。選びの背後には愛があるのです。ですから、ヤコブもまず神に愛されて、何も良いことを行なわないうちに選ばれました。
こうして、ユダヤ人が全体としてイエスさまをメシヤとして信じない理由がわかりました。神が、そのユダヤ人の中から、ご自分の選びによって、一部のユダヤ人にのみ福音を信じるようにされた、ということです。ですから、神のみことばが無効になったのではなく、むしろ、神のご計画が実行されているのです。
2B 主権 14−24
そうすると、次の疑問が起こるでしょう。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。
神が一部の者だけを選ばれるなんて不公平だ、という疑問です。それに対して、パウロは、絶対にそんなことはありません。と答えています。神は絶対に公正なお方です。そして、イスラエルの一部のみしか福音を受け入れていない二つ目の理由を話します。それは、神の主権です。
1C 神の公正 14−18
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
神は、モーセを、イスラエルの指導者に選ばれました。その選びの基準は、まったくモーセに対する神のあわれみによるものでした。モーセは、この地上の中で、もっとも謙遜な者でありましたが、失敗はあり、神の前では決して正しい者として立つことはできませんでした。けれども、神はモーセをあわれんでくださったのです。
そしてパウロは、したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。と言っています。
私たちが、このように綾瀬でミニストリーがすることができること、それが進展することは、すべて神のあわれみによります。私たちの努力や願いによっては、何一つ物事は動きません。
そして、神が主権を持っておられるのは、あわれみだけではなく、かたくなにすることにおいてもそうです。聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
パロが、イスラエルをエジプトから出て行かせなかったのは、神がパロをかたくなにされたからでした。そのために、エジプトには10の災いが下り、それによって主の御力が全世界に知らされました。ヨシュアがエリコを攻め取ろうとしたときのことを思い出してください。ラハブがイスラエルのスパイに話したことは、エリコの住民が、主がパロに対してしたことに対して、恐怖に襲われていると語りました(ヨシュア2:9)。主の御力が全世界に告げ知らされていたのです。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
神は、人をみこころのままにあわれまれるだけではなく、みこころのままにかたくなにされます。
2C 神の権利 19−24
このように話すと、ますます人間は反発します。神が思いのままに人の心をかたくなにされるのならば、それでは、その人をさばくのはひどすぎる!と反発します。そこでパウロは、次のように答えます。すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。
パウロは、その反発に答えず、反発することそのものを問題視しています。
形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
神が私たちの創造主であり、私たちは被造物です。創造主が被造物をどのように取り扱っても、その権利があるのです。そこで、パウロは陶器師と陶器のたとえを話します。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
そうですね、陶器師は、陶器に対して、それをかざりの器にするか、それともごみ箱として造るかの権利があります。陶器は何も申し立てる権利はありません。同じように、私たちも神に対して何も申し立てることはできないのです。
このことだけを考えると、恐ろしくなります。けれども、忘れてはならないのは、神は愛であることです。愛によって、ご自分の権利を行使されます。
そこで、パウロは続けてこう言います。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
神は、パロに対して、何回もモーセを遣わされ、パロが悔い改める機会をお与えになりました。神は、パロが決して心を開かず、強情になるのを知っておられたのにもかかわらず、彼に忍耐し、豊かな寛容を示されたのです。それだけではありません。次をご覧ください。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
あわれみの器、つまり救い出されるイスラエルに対して、神がいかにすばらしい方であるかを、紅海を渡らせることによって、また、エジプト全軍を滅ぼされることによって示されました。私たちは、「神は、ご自分の計画に従って、すべてのことを働かせて益としてくださる。」ことを学びましたが、このように、すべてのことを益にしてくださり、どのような人物、出来事も無意味にしておくことはなさいません。
こうして、イスラエルの一部のみが福音を信じたのは、そのユダヤ人たちに対して、あわれみをかけてくださり、その他の者はかたくなにされたことが分かりました。神の主権が理由でした。そして、パウロは、この選びは、異邦人にも及んでいることを次に話します。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
今までは、ユダヤ人の中で信じる者たちについて取り扱われていましたが、ここでは、異邦人の中で福音を信じる者について取り扱われています。
3B 預言 25−29
そこで、三つ目の理由です。イスラエルの一部のみが信じて、異邦人が信じている理由です。それは、神が、あらかじめ預言者をとおして語っておられたからです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
イスラエル人は、神の民と呼ばれていましたが、彼らの不従順のため、その特権を享受していません。11章まで読み進めると、その特権は破棄されたのではなく、あくまでも一時的に退けられているだけです。彼らは今でも選ばれた民ですが、その祝福をすべて受けているわけではないのです。その反面、私たち異邦人は、神の子どもとなる祝福とは無関係でした。けれども、神が異邦人をもあわれんでくださり、その中から、神の子どもとなる身分を与えられました。そこで、ローマ8章において、「だれでも御霊に導かれるものは、神の子どもです。」と書かれていたのです。
また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
イスラエルがみな救われるのではなく、「残された者」つまり、神が与えてくださった啓示に従順である者たちのみが救われます。今の時代は、イエスをメシヤと信じるユダヤ人たちが、残された者です。このように、神のみことばによって、イスラエルの一部だけが救われることを告げられていたのですから、今、多くのユダヤ人が福音を受け入れないのは、神のみことばが無効になったどころか、神のみことばどおりのことが起こっているのです。
また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
この子孫とは、約束の子孫、選ばれた者、残された者のことです。もし残された者がいなければ、イスラエルの民はとっくの昔に滅ぼされていました。ですから、主がよみがえられて、昇天されてから、主イエスをメシヤとして信じていたユダヤ人は、今日にいたるまで存在していたことがわかります。このユダヤ人クリスチャンの存在によって、神は、イスラエルを現在に至るまで存続させてくださっています。
3A 結論 − 「つまずきの石」 30−33
こうして、パウロの悲しみ、心の痛みに対する解答が与えられました。それは、神がユダヤ人の中から救われる者を選び、みこころのままにあわれみをかけ、そして、そのように預言されていたからです。また、異邦人からも、神はあわれみの器を召し出してくださいました。そこで結論に入ります。イスラエルに与えられた神の祝福を、当のイスラエル人が受け取らず、無関係な異邦人がその祝福にあずかっていることの結論をパウロは話します。
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
これは皮肉です。求めない者が得て、求めている者が得ないのです。
なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
彼らが神の祝福を得ることができていないのは、やはり「信仰による義」を追い求めなかったからです。ローマ書1章から、パウロはこの神の義をテーマにして語っていますが、そこにイスラエルの問題点がありました。彼らは、律法の行ないによって、神の義に到達しようとしましたが、それでは到達できないのです。けれども、これも神のご計画の中に入っていました。パウロは、それを「つまずきの石」と呼んでいます。
それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
主イエス・キリストは、イスラエルにとって、つまずきの石であり、妨げの岩だったのです。そして、このキリストを信頼する一部のユダヤ人のみが、またキリストを信じる異邦人のみが、失望させられることがありません。
こうして私たちは、イスラエルのうちに、神のご計画が着実に実行されていることを見ることができました。イスラエルが福音を拒んでいるという事実からさえ、私たちは、神の深いみこころを知ることができました。私たちは、イスラエルに対する神の選びを見て、私たちに対する神の選びを知ることができます。また、神の主権についても、イスラエルに対する神の主権を見ることによって、知ることができます。預言もそうです。預言がいかに確かなものであるかは、イスラエルを通して知ることができます。そして、パウロが冒頭で話した、子どもとなる身分、神の契約、約束、礼拝、先祖、そしてキリストご自身も、私たちはイスラエルというレンズを通して知ることができるのです。預言者イザヤは言いました。「あなたがたはわたしの証人。(43:12)」イスラエルは、神の証人です。私たちは、自然を見て、神の栄光を見ることができます。けれども、自然界によっては、神が創造主であることと、また、神が永遠の存在であることしか知ることができません。イスラエルを見てください。イスラエルを見るときに、神がいかに私たちを愛してくださっているのか、私たちをあわれみ、私たちを選んでくださったのか、また、神の私たちに対する約束がいかに確かなものであるかを知ることができるのです。「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:39)」という約束も、イスラエルに対する神の働きかけを見ることによって、いかに確かなものであるかを知ることができるのです。
次回10章は、イスラエルが福音を受け入れない、人間側の理由について見ていくことができます。9章は主に神側の理由について書かれていましたが、11章はユダヤ人側からの理由です。
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