テトスへの手紙3章 「神のいつくしみが現われたとき」

アウトライン

1A 優しい態度 1−11
   1B 人に対して 1−8
      1C 支配者への従順 1−3
      2C 神の優しさ 4−8
   2B 分派を起こす者への戒め 9−11
2A 正しい仕事 12−15


本文 

 テトスへの手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「神のいつくしみが現われたとき」です。

1A 優しい態度 1−11
1B 人に対して 1−8
1C 支配者への従順 1−3
 あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。

 パウロは2章において、健全な教えにふさわしいことを話しなさい、とテモテに命じ、老人に対して、老婦人に対して、また若い婦人、若者に対してそれぞれ、なすべきことを教えました。また奴隷に対しても、主人に従って満足を与え、口答えをしないように、と教えています。今読んだ3章1節の個所は、この続きです。具体的に、健全な教えにふさわしいことは何であるかを、今、教えています。

 それは、支配者たち権威者たちに服従すること、そして、彼らに対しても良いわざを進んで行なうことです。クレテ人が、反抗的であることで有名であったことを思い出してください。彼らはおそらく、数多くの暴動や反乱を試みていたような人たちであったでしょう。ですから、今ここで、支配者と権威者に服従することを教えています。

 ただ、このような教えは、パウロの他の手紙、またペテロの手紙にも見ることのできる教えです。テモテに対してパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2:1)」と伝えています。また、ローマ人への手紙13章には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)」とパウロは教えています。13章には、さらに彼らは神のしもべであり、悪を行なう者たちに対して剣を帯びている者である。また納税の義務も果たしなさい、と教えています。そしてペテロは、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。(1ペテロ2:13」と教えています。ですから、クリスチャンは、法律を守り行なう模範的な市民でなければいけません。日本では、法律はほどほどに守るべきであるというのが通例です。納税においても、「節税」という名の下で、多くの人が脱税をしています。法律も守られていないので、今回の、食品表示の虚偽のような事件が起きます。しかし、キリスト者はすべてにおいて真実を尽くし、国に対しても、地方公共団体に対しても、従順な姿を見せなけばいけません。

 また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。

 支配者に見せる、従順な態度は、すべての人に対してもそのようでなければいけません。そしらず、争わず、柔和で、そして優しい態度を示します。反抗的で、けんかを挑むような姿勢で、あってはいけないわけです。私たちはとかく、クリスチャンではない人たちが行なっていることに腹を立てて、周囲にいる人々に対して、不必要な軋轢を与えてしまうことがあります。例えば、路傍伝道をするときに、法律を守るだけではなく、紳士的に、優しく接していくことを心がけなければいけません。クリスチャンの特徴は、柔和さと優しさです。

 私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。

 パウロは今、私たちが決して、自分たちの周りにいる人々となんら変わらない者たちであったことを思い出させています。律法主義的になり、セクト的になり、この社会的に対して敵対的姿勢を見せてはいけないのですが、正義感が強ければ強いほど、どのような傾向を持ってしまいます。けれども、パウロは、あなたがたも同じなのだよ。あなたがたも以前は、愚かな者で、不従順で、迷った者で、悪意をねたみを持っていたし、憎まれ、憎しみ合う者たちであった、と話しています。

2C 神の優しさ 4−8
 そこで、私たちがすべての人に対して優しく接していかなければいけない根拠を話していきます。それは、このような憎まれ者の私たちに対して示された、神の優しさです。次の節を読みましょう。

 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

 パウロは初めに、「私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われた」と言っています。これは、2章11節にも書かれていた「すべての人を救う神の恵みが現われ」と同じことです。憎しみ合い、欲望の奴隷になり、悪意をねたみを持っている、そのようなみにくい私たちに対して、神は、いつくしみと愛を現わしてくださいました。ここの言葉は、「神の優しさと人へのあわれみ」と訳すこともできます。神は、深いあわれみと優しさを、憎たらしい私たちに現わしてくださったのです。

 そして、「私たちが行なった義のわざによってではなく」と書いてあります。今の私たちがいるのは、私たちの何かによるものではまったくありません。私たちが救われるために、行なった正しいことは何一つありません。そうではなく、「ご自分のあわれみのゆえに」とあります。パウロは、エペソ人への手紙2章においても同じことを話しました。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4-6」またローマ人への手紙9章では、「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:15-16」本当にすばらしい神の優しさとあわれみです。

 そしてパウロは、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」と言っています。聖霊による新生については、ヨハネ3章にある、「新たに生まれる」と同じことですね。更新は、新たにされるという意味です。そして「洗い」ですが、これは旧約聖書に由来している(ほとんどの新約聖書の用語が旧約に由来していますが)言葉です。祭司たちは、神の幕屋で奉仕をするために装束を身にまとう前に、水の洗いを行ないました(出エジプト29:4)。また、全焼のいけにえをささげるときに、その内臓を水で洗います(出エジプト29:17)。さらに、聖所の中に入る前に、洗盤において手足を洗います。聖なる神に近づき、主にお会いするためには水の洗いが必要です。このことを、新約時代に生きる私たちには、聖霊が行なってくださいます。ご聖霊によって、罪の汚れからきよめられました。

 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

 パウロはご聖霊が注がれたことについて語っていますが、「豊かに注がれた」と書いていることに注目してください。また旧約の祭司制度に戻りますが、祭司は油を注がれます。そのとき、その油は一滴などと言うものではなく、まさに注がれ、そのひげから油がしたたり落ちるほどだったのです。私たちにも、ご聖霊が豊かに注がれています。少しの聖霊ではなく、ご聖霊のすべてのミニストリーを私たちは受けているのです。

 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

 先ほどパウロは、神のあわれみについて話しましたが、ここでは「恵み」について話しています。神の恵みについて知ることは、ほんとうに難しいです。私たち人間は、自分が行なったことよって祝福が決まるという、報酬の意識があります。自分がクリスチャンとしてきちんとしているから、神から祝福されるべきだ、あるいは、クリスチャンとしてきちんとしたことを行なっていないから、祝福はないだろう、と考えてしまうのです。しかしローマ書4章には、「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:4-5」と書いてあります。私たちが、もっとも祝福を受けるに値しないと落ち込んでいるとき、こんなことをしてしまった、どうしようと悩んでいるとき、そのようなときに神は豊かな祝福を注がれるのです。これが「恵み」です。私たちが祝福を受けないのは、いわゆる「献身」など、私たちの努力が足りないからではありません。神が自分を祝福してくださることを信じられていないことです。アブラハムは神を信じて祝福されました。同じように、私たちも、神を信じて祝福されます。

 そして、「義と認められ」とあります。聖霊による洗いの次は、キリストの恵みによる義認です。この言葉は法律用語であり、裁判のときに使う言葉です。犯罪人が法廷に立ち、そこで、無罪と宣言されることです。自分が犯した罪が、無かったものとみなされます。ですから、これは、ただ罪が赦されることと異なります。これは、罪が忘れ去られることなのです。犯した罪の形跡が、神の側でなくされてしまっているのです。私たちは、過去に犯した罪について、悩みます。罪責感で苦しみます。しかし、さばくことのできる方はただひとり神であり、この神が、「あなたは、キリストにあって、罪を犯さなかった。」と罪を思い出しておられないのです。すばらしい立場です。

 過去の罪の汚れが現われて、また現在、義と認められているだけではありません。将来に、輝かしい希望が与えられています。パウロは、「永遠のいのちの望みによって、相続人となる」と言っています。神の子どもとなり、神の相続人となりました。将来、輝かしい富と栄光が私たちに用意されているのです。これは、「永遠のいのちの望み」に基づきます。永遠に神とともにおり、主とともにいるという約束です。

 これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。

 今のようなすばらしい恵みとあわれみのことばについて、確信をもって話してくださいとテトスに願っています。

 それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。

 神の一方的な恵みによって、私たちは新しくされました。神がこのような私たちにも優しくされたのだから、他の人々にも優しく、よくしていきなさい、というのがパウロが言いたいことです。ここでも、「神を信じている人々が、良いわざに励むよう心がけるようになるためです」と言っています。このような神の恵みと愛は、人を放縦へと走らせるのではなく、むしろ、良い行ないへと駆り立てるのです。

2B 分派を起こす者への戒め 9−11
 しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。

 8節までのことばは、有益であり良いことですが、9節からは、無益で悪いことを話しています。それは、論争です。「愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。」とパウロは言っています。これは、教会の中で避けることのできない問題です。何か問題を持っている人、仕事や家庭でうまくできていない人、また何かの罪を捨てていない人、心の安定を持っておらず不安な人など、教会の中で自分に注目が集められようとするため、また、ただ不安なために、議論をふっかけてきます。それは聖書の中身を知りたいなど純粋なものではなく、ただ論争をしたいために行なう類いのものです。そのような人は避けなければいけません。具体的には、優しく、さらっと流して、相手にしないとか、無視するとか、すべきです。私もこのことがよく分からずに、すぐに応対し、それで解決どころかさらに激しい議論へと発展してしまうことがよくあるのですが、このみことばによって反省させられます。これらの議論は、教会の中で不健全であり、避けなければいけません。

 分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。

 分派を起こす、つまり、ただ口論しているだけではなく、教会の秩序を取り崩すほどに行動に移している人がいるときの場合です。自分の主張を教会員の人たちに押しつけ、「あなたは牧師につくのか、自分につくのか」と迫り、教会の基を崩そうと企てます。そのような時は、その人を交わりから取り除かなければいけません。そして、彼が悔い改めの心をもって戻ってきたとします。そうしたら、赦しの心で受け入れなければいけません。けれども、再び同じような動きをしたとします。そうしたら、そのときは、拒まなければいけません。除名する、すなわち彼が戻ってきても交わりの中に入れてはいけません。

 このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。

2A 正しい仕事 12−15
 このような悪い働き人がいることをパウロはテトスに述べてから、次に自分たち自身が正しい働きをしていかなければいけないことを、戒めています。

 私がアルテマスかテキコをあなたのもとに送ったら、あなたは、何としてでも、ニコポリにいる私のところに来てください。私はそこで冬を過ごすことに決めています。

 私たちは、アルテマスについては知りません。テキコについては知っています。彼は、パウロがエペソとコロサイに手紙を書いたときに、その手紙を持っていった人たちです。この二人をクレテに送る予定にパウロはしています。そして、テモテと同じように、自分のところに来るようにお願いしています。

 ぜひとも、律法学者ゼナスとアポロとが旅に出られるようにし、彼らが不自由しないように世話をしてあげなさい。

 ゼナスについては知りませんが、アポロは、雄弁に、イエスがキリストであることを立証した説教家でした。この二人が今、クレテにいます。テトスへのこの手紙を持ってきたのは、この二人かもしれません。

 私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。

 むだなこと、無益なことをしている者たちがたくさんいる中で、自分たちがそのような者にならぬよう、戒めています。正しい仕事に励むように教えなければいけない、と言っています。私たちも、神から与えられた、走るべき行程があります。そこからそれて、時間の浪費をすることもあります。しかし、そうであってはいけません。主が今、自分に望んでいることを知って、それに励む必要があります。

 そしてパウロは、「実を結ばない者にならないためです」と言っています。神が私たちに望まれているのはこれです。私たちのうちから、実が結ばれることです。主は弟子たちに言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:5-6」私たちから実が結ばれていなければ、何のためにクリスチャンをしているのでしょうか?ここが大事です。自分から実が結ばれているかどうか、どうか確かめてみてください。クリスチャンとしてむだなことばかりしているのではないか、それとも、クリスチャンとして良いもの、益になるものを求めているか。神の恵みの現われの中に行き、良い行ないに励んでいるか。それとも、自分の頭の中で、ただ好き勝手なことを思い描いていて、それでクリスチャン生活をしていると思っているのか。この部分を問わなければいけません。

 最後のあいさつです。私といっしょにいる者たち一同が、あなたによろしくと言っています。私たちの信仰の友である人々に、よろしく言ってください。恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。

 パウロの他の手紙と同じく、恵みがあなたがたとともにあるように、で終わっています。神の恵み、神のあわれみ、神の優しさ、これらが私たちに現われました。私たちは、周りの人たちよりもさらにすぐれていると思い、人々に敵対的になってはいけません。神が優しくされたのですから、周りの人々にも良くしてあげ、従順で、争わず、良い行ないに励みましょう。


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