分派という罪 2015/07/17
「分派を起こす者は、一度、二度、戒めてから、除名しなさい。(テトス3:9)」
一か月ほど前に、私たちの教会ではエペソ書の一部を学びました。五章前半が主要な箇所でしたが、四章の始まりにも触れ、召された者たち、キリスト者は御霊の一致を保ち、一つにされているキリストの体があってからこそ、その他の歩みも定まるということを話しました。教会、そして一致なしのキリスト者生活はありえない、ということです。そのようなことで、反対にしばしば起こってしまう問題が「分派」です。今回はこの問題について取り扱いと思います。
分派の問題は、それを引き起こしている人は、初めは人間的には「善意」とも見て取れる言動から始まります。そうでなければ、自分のところに人々を引き寄せることはできないからです。フランスの神学者、クレルヴォーのベルナルドゥスは、「地獄は、善き願望や欲求で満ちている」と言ったことがあります。一見「善意」と呼ばれるものには、必ずしも天からのものではなく、地獄から来ているものも多いのです。
欠けのある指導者を用いる主
聖書の中で起こっている分派を眺めていきましょう。その中の多くが、神によって立てられた指導者にある欠点に注目するところから始まります。エペソ4章では互いが忍耐して御霊の一致を保つところからの勧めがあり、それからキリストが指導者の賜物を分け与え、その人を通して聖徒が奉仕の働きに整えられて、キリストの知識の一致に達するという流れになっています。ですから、互いの関係に加えて、立てられている指導者との関係に敵は軋みをもたらします。
もちろん、悪い指導者は多くおり、そのためその支配を受けた民が迷い、神がそれら指導者を裁かれることは聖書に多く出てきます。けれども、必ずしもそうではない指導者を神は立てておられ、選ばれて、ご自分の民を導かれることを聖書は記しています。大事なのは、神は完全な人を立てておられるのではなく、不完全な者を用いておられるということです。聖書は徹頭徹尾、神のみが義であることを教えています。そして、主が用いられた人々、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、これらの人々には失敗があり、欠点がありましたが、その弱さや欠点も織り込み済みで恵みの神が確かに、深い御旨の中で働かれていることを知る、そこに人ではなく神を見ることができ、神の国が広がります。
ところが、人に注目する時に、麗しい神の共同体に亀裂が走ります。
互いが人ではなく、神を見る必要があります。しかし人間主義に陥って、例えば「牧師の弱い部分を、私たちが補おう。」と考えます。これは麗しい言葉に聞こえます。あたかも、キリストの体において牧師はその一部であり、他の部分が補って助けているように聞こえる言葉です。しかし、神は牧会という賜物と召命をその人に与えています。ちょうど礼拝賛美の奉仕の賜物が与えられている人に、音楽を知らない人は、理解できないけれどもその人の導くことに支持しているように、牧会者がする決断や判断には、他の人が理解できないことは多いです。ある兄弟がこんなことを話してくれて、本当にその通りだと思いました。「私は、最終的な牧会的判断の内容を理解することはできないが、それは牧師の領域だから分からなくてよい。しかし私はその判断を支持する。」これが、正しい姿勢です。
ですから、実際は弱い部分を補うことはできないどころか、自分の召されていない領域に自分が入り込んでいることになります。ちょうどそれは、賛美奉仕の担当ではない人が、チームに入っていないのに、そのリズムはおかしい、このように賛美はすべきだ云々と評価をしているようなものです。これは大変失礼な行為であり、その奉仕の務めを傷つけ、つまり御体を傷つけます。これがその群れを任されている指導者に向けられると、分派につながります。
塵を見て、梁を見ない
モーセは、イスラエルの民ではなく異邦人を妻としていました。神の契約の民ではない女と、自分自身は異邦人と婚約していたのです。しかも、律法を授けるのに、預言を行なうのに、彼だけが用いられていました。これはおかしいと思ったのが、姉のミリヤムです。「主はただモーセとだけ話されたのではないでしょうか。(民数記12:2)」これに対して、モーセは謙遜であったと神が評価しておられます。彼は黙っていたのでしょう、主の前にひれ伏していたのかもしれません。自分自身は深く傷ついたでしょうが、裁きを主に委ねました。そして主は、ミリヤム、アロン、モーセをご自身に引きよせ、そしてミリヤムが非難したその罪を責め、彼女を一週間、らい病にしました。モーセは優れた指導者です、彼女のためにその癒しを祈っています。
そして、アロンとモーセだけが選ばれている、これは差別だと叫んだ者もいました。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。(民数16:3)」教会の中で、自分は用いられない、他の人が用いられている、「教会はキリストの体ではないか、ならばすべてが部分であって、私の分もあるはずなのに、なぜ仲間外れにするのか。」と言っている訳です。一見、もっともな意見ですね、しかしそれは、アロンに対する神の選びに対するコラの反逆であり、神ご自身が彼を生きたまま陰府に落としたのでした。そして、その後もアロンとモーセにつぶやく民がいました(16:41)。それだけ、コラの意見に同調して、不満に思っている人たちがいたのでしょう。
時代は飛んで、サムエルに行きましょう。サムエルは、非難されるどころか、指導者として免職されてしまいました。そのきっかけとなったのは、彼の息子たちです。「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。(1サムエル8:3)」こんな悪い者たちをサムエルは次の士師にしようとしていたのです。これは縁故主義である、ということで、「これではいけない」と思ったイスラエルの長老たちが、「イスラエルに、他のすべての国々のように王を立ててください。」と言いました。
確かにサムエルは間違ったことをしました。しかし、その間違ったことを利用して、自分たちがもっと大きな、本質的な過ちを犯していたのです。それは「神の統治を否定する」ということを行ないました。主はサムエルに言われました。「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。(1サムエル8:7)」
同じように、教会において人の欠点を取り上げる時に、しばしば起こっているのがここであります。しかし、イスラエルの民がサムエルに対してしたように、自分自身の問題を取り組むことを拒否するから、相手の欠点を取り組むことによって、その問題を見ないようにできるのです。つまり、「兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁に気がつかない(マタイ7:3)」のです。そして、その自分が刺激された肉の部分はそのまま放置することができ、そのため内側で増幅されて、大きな罪を犯すに至ります。
サウルがそうした人でした。彼はサムエルという霊的助言者がいました。しかしサムエルは、いろいろと忙しい人であったようです。約束の七日目に、いけにえを捧げるためにサウルのところに来ませんでした。ペリシテ人との戦いがあり、イスラエル人は戦意も失いかけています。「これでは、仕方がない。サムエルは来ないから、私が彼の働きを補おう。」ということで、彼自身がいけにえを捧げます。しかし、いけにえは祭司がしなければいけないこと、サムエルは祭司の系図でもありますから、サムエルだけができることでした。それでサムエルは、「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。(1サムエル13:13)」そして、サウルは王位を退けられました。ここにも、「他者の欠けたところを使って、主に対して大胆に罪を犯している。」という事例があります。
サウルはまた、主に命じられたことを中途半端に行い、あとは自分勝手に判断しました。アマレク人を聖絶せよ、男女も、また家畜もと命じられていたのに、アマレク人の王アガグを生け捕りにし、家畜の最良の部分だけは残しておきました。そして、「私は主のことばを守りました。(1サムエル15:13)」と言っています。主が語られたことであるなら、それに従順でなければいけないのに、それを適当にあしらい、自分の目的のために行動します。このサウルは、後にノブにいる主の祭司の一家を殺害するに至ります。同じように、教会の中でその各部分は確かに、決して悪いことではなく、良いことを行なっているのですが、それはあくまでも自分が中心的に、自分の都合で動かすための手段となっていることがあります。要は忠実でないのです。それで、「パーツ(部分)は正しいけれども、全体で見ると神に反逆している。」ということが起こり得るのです。
アブシャロム・ミニストリー
そして、指導者の欠けたところを利用して、自分自身を求める働きを大体的に行ったのは、アブシャロムです。ダビデは罪を犯し、ウリヤの妻バテ・シェバを取り、ウリヤを殺しました。そこから、彼の家に剣が入ってきました。ダビデの子アムノンがタマルを凌辱しましたが、タマルの兄アブシャロムがアムノンを殺しました。それでダビデはアブシャロムと口を聞かなくなりました。そうしているうちに、親子の溝が生まれ、アブシャロムは躾を受けない結果、自惚れと憎しみでいっぱいの人間になりました。
そして、次のことをします。「アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、アブシャロムは彼に、「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。」と言っていた。人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」(サムエル記第二15:2-6)
ある人がこれを、「アブシャロム・ミニストリー」と呼びました。指導者の欠けを代わりの者たちが満たそうとすると、何が起こるのか?大分裂です。そこには争い、流血が起こります。
確かに、ダビデは弱い人間でした、しかし主を愛して、すべてを主に任せて、このクーデターも耐えました。確かに、最後はダビデのところに人々が集まりました。これが真の指導者です。主に召された者は、へりくだり、主の御心を選び取る力を持っています。そして主に召された者のところにいる者は、つまずきそうになっても、確かに主が彼におられ、自分にもおられるということを実感するのです。さらに、その弱さの中にも神はおられて、不思議な働きをされます。むしろ、弱さが神の栄光のために用いられることさえあります。だから、「人間的にできている」という基準と、「神を信じる、信仰による義の基準」とは大きな開きがあるのです。
そして新約聖書では、私たちの大指導者、信仰の対象であられるイエスがおられます。主には、欠けはありませんでしたが、欠けに見えるようなものは数多くありました。例えば、処女降誕でこの世に現われたのですが、私生児ではなかったのかという疑いは、あったではないかと思います。ユダヤ人が彼を、「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。(ヨハネ8:48)」と呼んでいます。イエス様は、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネ7:24)」と言われていました。相当、うわべでさばかれていたようです。
そして使徒たちの中で、パウロはあること、ないこと、いろいろ批評されていました。
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4:1-5)
彼は寛容であり続けましたが、一部、いつまでも強硬にパウロの評判を貶めている者たちに対して、強い処罰で臨むということも最後に述べています(2コリント13:2)。
分派は、結局は福音からの逸脱
分派の罪の内容、その構造はお分かりになったでしょうか?最後に、分派の罪は元をたどると「福音から逸脱」していることに尽きます。福音は、私たちが救いようもない存在であり、ただ神の憐れみによって進むことができるのだということを教えます。ですから、問題があるときには、私たちはそれに対して、「これこれを行なえば、うまくいく」といういろいろな提案を持ってきます。それでも、うまくいきません。私たちはただ、主の前に出て、へりくだって、神の憐れみを請い、それで主が確かに憐れんでくださり、打開を与えてくださいます。ところが、その恵みの位置に留まらず、「これをすれば、問題は解決するのだ。」という、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」という律法主義に陥ってしまうのです。私たちは、自分が空っぽになっていく過程を通らないといけません。空っぽにされて、自分には何もできないことを知って、ただ主のみが自分を用いられることを知れば、主が自ずとあなたを用いられます。その時には、神の恵みのみが栄光に輝くのです。