歴代誌第一10−13章 「御霊の流れのままに」


アウトライン

1A サウルの失脚 10
   1B 偶像への献体 1−12
   2B 主への反逆 13−14
2A ダビデの隆盛 11−13
   1B 勇士 11
      1B ヨアブ 1−9
      2B 名簿 10−47
   2B 集結 12
      1B サウル生前時 1−22
      2B かしらたち 23−40
   3B 神の箱 13
      1B 喜び 1−8
      2B 怒りと恐れ 9−14

本文

 歴代誌第一10章を開いてください、今日は10章から13章まで学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「御霊の流れのままに」です。

 前回私たちは、アダムから捕囚以後に至るまでのイスラエル、特にダビデの直系とユダ族の系図を読みました。列王記においては、主のみことばによって、確かに彼らがさばきを受け、エルサレムから引き抜かれたわけですが、今はエルサレムに帰還しており、これからエルサレムの復興に希望を託す時期に入っています。そこでおそらくは祭司である著者は、神の礼拝を中心にしたダビデ王朝の復興を夢見て、いや、夢ではなく実際にみことばに約束されているとおりに希望を抱きました。そして10章に入ります。

1A サウルの失脚 10
1B 偶像への献体 1−12
10:1 ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのときイスラエル人は、ペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。10:2 ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。10:3 攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのために傷を負った。10:4 サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私をなぶり者にするといけないから。」しかし、道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった。そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた。10:5 道具持ちも、サウルの死んだのを見届けると、剣の上にうつぶせに倒れて死んだ。10:6 こうしてサウルは死に、彼の三人の息子も、彼の全家も、共に死んだ。

 系図の後に、歴代誌の著者はサウルの死から語り始めています。前回も言及しましたが、人間的な要素が強い物語を排除して、神のみこころがどのように実現したかを中心に描いているのが歴代誌の視点です。イスラエルの民がサムエルに王が与えられるように要求したわけですが、主は、彼らが王を立てることをお許しになりました。しかし彼はこのようにして、ペリシテ人の手によって死にました。ですからサムエル記のように、サウルの王政については語らず、ダビデに王政が移行する最後の場面だけを描いています。

10:7 谷にいたイスラエル人はみな、彼らが逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見て、彼らの町々を捨てて逃げた。それで、ペリシテ人がやって来て、そこに住んだ。10:8 翌日、ペリシテ人が、その殺した者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその息子たちがギルボア山で倒れているのを見つけた。10:9 彼らは、彼の衣服をはぎ取り、彼の首と彼の武具を取った。そしてペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像と民とに告げ知らせた。10:10 彼らはサウルの武具を彼らの神々の宮に奉納し、彼の首をダゴンの宮にさらした。10:11 全ヤベシュ・ギルアデが、ペリシテ人のサウルに対するしうちをことごとく聞いたとき、10:12 勇士たちはみな、立ち上がり、サウルのなきがらとその息子たちのなきがらとを取り上げ、これをヤベシュに運んで、彼らの骨をヤベシュにある樫の木の下に葬り、七日間、断食した。

 サウルと息子たちの死体をペリシテ人が、自分たちの偶像にささげたことが繰り返し語られ、強調されています。その理由が次に書かれています。

2B 主への反逆 13−14
10:13 このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、10:14 主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。

 サウルが死んだ理由について、サムエル記には書かれていなかったことが、ここ歴代誌には書かれています。彼が死んだのは主によることであって、それは彼が主の命令に聞き従わなかったからだ、とあります。そして、主に聞くかわりに、霊媒によって伺いを立てました。ペリシテ人によって死体が偶像の宮にささげられたというのは、ある意味、霊媒に伺いを立てたサウルにはふさわしいことだったのかもしれません。偶像に身をゆだねたものは、偶像のものとなります。

 人が主に自分の身をゆだねることがなくなれば、必ずや他のものに自分を拠り頼ませるようになります。パウロは、ローマ人への手紙1章にて、人は、まことの創造主を知っていながらそれを認めないので愚かな者となり、まことの神ではなく人が手で造った物を拝むようになった、と言っています。さらに、彼らは自分の体を恥ずべき情欲にゆだねていった、とも書いています(1832節参照)。

 私たちは、これを現実の生活の中で見ます。「あなたが言っている神にも、キリストにも従わないよ。自分を信じているから。」と言っている人たちが、では理性的な、立派な生活を送っているかといえばそうではなく、ある人は怪しい占いに懲りて、ある人は破壊的な物欲生活、情欲生活に身をゆだね、そこから這い上がれないでいます。真理を拒めば、何も信じない状態が続くのではなく、必ずや他のものに自分の身をゆだねるようになるのです。

2A ダビデの隆盛 11−13
 10章の最後は、神がダビデに王位を移されたことが書かれていますが、11章からダビデが王となるところが書かれています。

1B 勇士 11
1B ヨアブ 1−9
11:1 全イスラエルは、ヘブロンのダビデのもとに集まって来て言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。11:2 これまで、サウルが王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかもあなたの神、主は、あなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがわたしの民イスラエルの君主となる。』」11:3 イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデは、ヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らは、サムエルによる主のことばのとおりに、ダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。

 サムエル記に書かれていた、サウルが死んだ後の、将軍アブネルのことや最後の王イシュ・ボシェテのことは記されていません。そのまま全イスラエルが、ダビデを王としたことを書いています。しかも、神が言われたとおりにダビデを建てた、ということを強調しています。これが御霊の権威ですね。どんなに人間の作為や妨害が入ろうとも、主のことばは必ずその通りになります。主のみことばによってダビデが建てられました。

11:4 ダビデと全イスラエルがエルサレム・・それはエブスのことで、そこには、この地の住民エブス人がいた。・・に行ったとき、11:5 エブスの住民はダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。」しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。11:6 そのとき、ダビデは言った。「だれでも真先にエブス人を打つ者をかしらとし、つかさとしよう。」ツェルヤの子ヨアブが真先に上って行ったので、彼がかしらとなった。11:7 こうしてダビデはこの要害を住まいとした。このため、これはダビデの町と呼ばれた。11:8 彼は、ミロから周辺に至るまで、町の周囲を建て上げ、町の他の部分はヨアブが再建した。

 ダビデがエブス人からエルサレムを奪い取って、そこをダビデの町としました。けれどもエブス人との戦いにおいて、ヨアブが活躍し、そのためヨアブがダビデの家臣で将軍となりました。ご褒美として、ダビデの町の周囲はヨアブに与えられています。

11:9 ダビデはますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにおられた。

 ますます大いなる者となるその源は、万軍の主のご臨在でした。ともにおられるから、ダビデは強くなっていったのです。ここで神のことが「万軍の主」とありますが、この万軍は御使いたちのことです。主の側につく霊の諸勢力です。主に反抗する諸勢力も存在し、それが悪魔であり悪霊どもです。けれども、主にはご自分に仕え、敵と戦う御使いたちが無数ついています。

2B 名簿 10−47
11:10 ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。

 万軍の主がともにおられると語ってから、ダビデの王権を強固にした勇士たちを紹介するのは、決して偶然ではないでしょう。万軍の主がおられるから、物理的な国においてもダビデにつく強力な軍隊がいたのです。

 霊の領域で起こっていることが、物理的な領域に影響を与えます。私たちは、霊の戦いについて知っています。エペソ6章にそのことが詳しく書かれていますが、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものである、とパウロが言っています(12節参照)。したがって大事なのは、私たちが物理的な領域を操作することではなく、自分自身を神に服従させていくことです。ダビデに主がともにおられたから、多くの勇士が彼とともにいたように、私たちに主がおられるから、主がご自分の働きに用いようとお考えになっている人々を呼んでくださるのです。この順番が大事ですね。ダビデ王国は、武力において物理的に強かったのですが、御霊の力に裏打ちされていたのです。

11:11 ダビデの勇士たちの名簿は次のとおりである。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に三百人を刺し殺した。11:12 彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。彼は三勇士のひとりであった。11:13 彼はダビデとともにパス・ダミムにいた。ペリシテ人はそこに集まって来て戦いをいどんだ。そこには大麦の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、11:14 彼らはその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利を収められた。

 三勇士のことが書かれています。ヤショブアムとエルアザルですが、サムエル記にはもう一人シャマの名前が記されています。私がこの戦いの中で好きなのは、自分だけが踏みとどまっていた、というところです。畑の中でイスラエル人たちは逃げるのに、彼は踏みとどまることによって、主にある大勝利を収めることができました。踏みとどまることは大事ですね、試練や誘惑が来たときに、悪魔や悪霊どもの猛攻撃がやってきたときに、それでも踏みとどまって神の約束の上に立ちます。

11:15 三十人のうちのこの三人は、岩場にあるアドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の陣営は、レファイムの谷に張られていた。11:16 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の守備隊長はそのとき、ベツレヘムにいた。11:17 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」11:18 すると、この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデはそれを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、11:19 言った。「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

 ベツレヘムは自分が生まれ育った町なのでそこの井戸の水を欲していました。ところが、あの三勇士はペリシテ人の要塞の中を入っていって、水を汲んで持ってきたのです。そしてダビデの行為が目を引きます。彼は飲まないで地に流しました。歴代誌の著者は正確に、それは「主にささげ」たと言っています。

 事はダビデではなく、すべてが主の憐れみと恵みによるのですが、それでもダビデの優れたところを挙げるとここにあります。礼拝の心を持っていたことです。その反対の心は計算の心です。計算する心は損得勘定をするのですが、礼拝する心は「自分はすべて主のものである」という意識があります。だから何か尊いものが自分の手に入ったならば、神に対して畏れ多くなり、神にそれをお捧げするようになるのです。非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗ったマリヤも、礼拝の心を持っていました。高価なものを、高価なものを受けるに値する方に捧げたのです。

11:20 ヨアブの兄弟アブシャイ、彼は三人のかしらであった。彼は槍をふるって三百人に向かい、これを刺し殺したが、あの三人の中には、その名がなかった。11:21 彼は三人の中で最も誉れが高かった。そこで彼らの長になった。しかし、あの三人には及ばなかった。

 ヨアブもアブシャイも、ダビデの甥でした。

11:22 エホヤダの子ベナヤは、カブツェエルの出で、多くのてがらを立てた力ある人であった。彼は、モアブのふたりの英雄を打ち殺した。また、ある雪の日に、ほら穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。11:23 彼はまた、あのエジプト人・・背の高い男で、五キュビトあった。・・を打ち殺した。このエジプト人は、手に機織りの巻き棒に似た槍を持っていた。彼は杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。11:24 エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。11:25 彼は、実に、あの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。

 ベナヤはダビデの護衛長になりましたが、ダビデが死にソロモンが王になったときヨアブに代わって軍団長になりました。

 そして26節以降に、その他の勇士たち三十人の名が連ねられています。これら勇士たちによってダビデの王権が強固にされました。

2B 集結 12
1B サウル生前時 1−22
12:1 ダビデがキシュの子サウルのゆえに、まだツィケラグに引きこもっていたとき、ツィケラグの彼のもとに来た人々は次のとおりである。

 「ツィケラグ」にダビデがいたとき、というのは、ダビデがサウルの手から逃れるためにペリシテ人アキシュのところに庇護を求めた時のことを指しています。ダビデは、「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。(1サムエル27:1」と心の中で思って逃げた所です。これは彼が信仰的に後退していた時なのですが、それでも主は恵みによって、ダビデに自分につく人々を送っておられたのです。

12:1b彼らは勇士たちの中で、戦いの加勢をした人々であり、12:2 弓を持った者、石投げ、弓矢に、右手も左手も使う者で、サウルの同族、ベニヤミンの出であった。

 これはすごいですね、ダビデがサウルの手から逃げていたときに、サウルの同族の者たちがダビデを加勢するために来ていました。彼らは肉による、目に見えるものによってではなく、御霊による、目に見えないものによって判断したのです。ダビデが確かに神に任じられた王である、と認識していました。

12:3 かしらはアヒエゼル、次はヨアシュ。彼らはギブア人シェマアの子。エジエル、ペレテ。彼らはアズマベテの子。次にベラカとアナトテ人エフー。12:4 ギブオン人イシュマヤ、彼は三十人の中の勇士で、三十人の長であった。次に、エレミヤ、ヤハジエル、ヨハナン、ゲデラ人エホザバデ、12:5 エルウザイ、エリモテ、ベアルヤ、シェマルヤ、ハリフ人シェファテヤ、12:6 エルカナ、イシヤ、アザルエル、ヨエゼル、ヤショブアム。これらはコラ人である。12:7 ヨエラ、ゼバデヤ。これらはゲドルから出たエロハムの子らである。

 ベニヤミン族でサウルと同族の者の名です。

12:8 また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。

 ベニヤミンだけでなく、ヨルダン川東岸にいるガド族からも、勇士たちがやって来ました。獅子の顔で、山のかもしかの足を持っていたというのは、ものすごい表現です。そして彼らは大盾と槍を持っています。先のベニヤミン族は「弓を持った者、石投げ、弓矢に、右手も左手も使う者」とありますから、いわば精鋭部隊であり、ガド族は後発の重装備の本隊というところでしょうか。

12:9 そのかしらはエゼル。第二はオバデヤ。第三はエリアブ。12:10 第四はミシュマナ。第五はエレミヤ。12:11 第六はアタイ。第七はエリエル。12:12 第八はヨハナン。第九はエルザバデ。12:13 第十はエレミヤ。第十一はマクバナイ。12:14 これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、最も大いなる者は千人に匹敵した。12:15 この人々は、第一の月、すなわちヨルダン川がどこの岸もいっぱいにあふれるとき、これを渡った者たちである。彼らは谷にいた人々を全部、東に西に追い払った。

 一人が百人、千人打ち、水がいっぱいのヨルダン川を渡ってきました。彼らは谷という要塞化したところに住んでいる者たちを倒していきました。

12:16 さらに、ベニヤミン族とユダ族からも、要害のダビデのもとに来た者があった。12:17 そこで、ダビデは彼らの前に出て行き、彼らに答えて言った。「もし、あなたがたが穏やかな心で、私を助けるために私のもとに来たのなら、私の心はあなたがたと一つだ。もし、私の手に暴虐がないのに、私を欺いて、私の敵に渡すためなら、私たちの父祖の神が見て、おさばきくださるように。」

 ダビデは、このベニヤミン族とユダ族のグループを信用しきれていませんでした。ユダ族は自分と同族なのになぜ初めから助けてくれなかったのか、という思いがあったかもしれません。

 12:18 そのとき、御霊が補佐官の長アマサイを捕えた。「ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。」そこで、ダビデは彼らを受け入れ、隊のかしらとした。

 ここでは、はっきりと「御霊」という言葉が使われています。逃げているダビデに多くの者たちがやって来ているのは、間違いなく御霊のわざだったのです。彼らはその流れに逆らいたくないと思っていたのです。

 御霊によって語りだした言葉は、平安があるように、というものでした。ダビデはサウルから逃げていたその時、どれほど平安が必要だったことでしょうか?適切な励ましの言葉を与えました。

12:19 ダビデがペリシテ人とともに、サウルとの戦いに出たとき、マナセからも、何人かの者がダビデをたよって来た。しかし、彼らはペリシテ人を助けなかった。ペリシテ人の領主たちが、「彼はわれわれの首を持って、主君サウルのもとに下って行くのだ。」と言い、わざわざ彼を送り返したからである。12:20 彼がツィケラグに行ったとき、マナセからアデナフ、エホザバデ、エディアエル、ミカエル、エホザバデ、エリフ、ツィルタイが彼をたよって来た。彼らは、マナセに属する千人隊のかしらであった。12:21 彼らはダビデを助けて、あの略奪隊に当たった。みな勇士であり、将軍であった。

 マナセからもやって来ました。けれども、彼らはちょうど、ダビデがペリシテ人とともにサウルと戦おうとしているとき、ペリシテ人たちによって断わられた時にやって来ました。けれども、ツェケラグにダビデが戻ってきたときに、その町は荒らされて、妻や子供、財産がみなアマレク人に奪い取られていました。アマレク人から妻たちと子供を奪取するために戦ったのが、このマナセ族の人たちだったのです。

12:22 日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。

 先に話したように、万軍の主がともにおられるので、物理的にダビデにつく軍勢も増えたのです。

2B かしらたち 23−40
12:23 主のことばのとおり、サウルの支配をダビデに回そうと、ヘブロンにいるダビデのもとに来た、武装した者のかしらの数は次のとおりである。

 先ほど、全イスラエルがダビデのところに集まってきた箇所を読みましたが、その時にやって来た武装した者たちのかしらの数を部族ごとに列挙しています。

12:24 ユダ族で、大盾と槍を手にし武装した者六千八百人。12:25 シメオン族から軍務につく勇士七千百人。12:26 レビ族から四千六百人。12:27 エホヤダはアロンのつかさで、彼とともにいた者は三千七百人。12:28 ツァドクは若い勇士で、その一族には二十二人のつかさがいた。

 武装した者たちの中にはレビ族もいました。彼らは神の礼拝の奉仕に任じられながらも、なおかつ戦いの備えをしていました。でもこれはおかしな光景ではありません、ネヘミヤ記では敵の攻撃から自分たちを守るために、エルサレムの城壁を建て上げながら、かつ、剣を持って戦う備えをしていました。

 そしてここにダビデのときの大祭司であるエホヤダとソロモンの時の大祭司であるツァドクの名が書かれています。

12:29 サウルの同胞、ベニヤミン族から三千人。これまで、彼らの大多数は、サウルの家の任務についていた。

 先ほど話しましたように、ベニヤミン族でサウル家の任務についていたのにダビデのところに来た者が大ぜいいます。

12:30 エフライム族から二万八百人。勇士で、その一族に名のある人々であった。12:31 マナセの半部族から、ダビデを王にしようとしてやって来た名の示された者一万八千人。12:32 イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。

 「時を悟り、イスラエルが何をすべきかを知っている」とありますね。私たちも、今の時を悟り、自分たちが何をすべきかを知っている必要があります。

12:33 ゼブルンから、従軍する者で、完全に武装し、戦いの備えをした者五万人。彼らは心を一つにして集まった。

 「心が一つ」になっています。これも、御霊が働かれているところにある特徴です。ピリピ書にあるように、キリストの思いが与えられると、自己中心や虚栄心からすることなく、へりくだって相手を尊重することにより、思いを一つにすることができます。

12:34 ナフタリから、つかさ一千人。彼らのもとに、大盾と槍を持つ者三万七千人。12:35 ダン人から、戦いの備えをした者二万八千六百人。12:36 アシェルから、従軍する者で、戦いの備えをした者四万人。12:37 ヨルダン川の向こう側、ルベン人、ガド人、マナセの半部族から、戦いのために完全軍装をした者十二万人。12:38 誠実な心で、並び集まったこれらの戦士たちは、ヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にした。イスラエルの残りの者たちもまた、心を一つにしてダビデを王にした。

 「誠実な心」と書いてあります。これは二心ではない状態、偽善者ではないことを意味します。サウルの生活は王を装いながら、主に従っていないために業務をただこなしているような状態に陥っていました。主の御霊に応答することをやめると、教会での生活は儀式的なもの、義務的なものになっていきます。形はあるのですが、心の実体がないのです。けれどもダビデのところに来た人たちは、誠実な心を持っていました。

12:39 彼らはそこに、ダビデとともに三日間とどまり、飲み食いした。彼らの兄弟たちが彼らのために用意したからである。12:40 彼らに近い者たちも、イッサカル、ゼブルン、ナフタリに至るまで、ろば、らくだ、騾馬、牛に載せて食べ物を運んで来た。小麦粉の菓子、干しいちじく、干しぶどう、ぶどう酒、油、牛、羊などがたくさん運ばれた。イスラエルに喜びがあったからである。

 全イスラエルからやって来た武装した者たちは、ダビデの戴冠を心から喜んでお祝いをしました。それから自分たちのところに帰りました。これは、ダビデの子キリストをかしらとした、信者たちの集まりにも通じるものがあります。形式や義務感ではなく、御霊によって権威にしたがっていくこと、心を一つにしていること、誠実な心になっていること、そして喜んでいることなどです。

3B 神の箱 13
1B 喜び 1−8
13:1 ここに、ダビデは千人隊の長、百人隊の長たち、すべての隊長と合議し、13:2 イスラエルの全集団に向かって、言った。「もしも、このことが、あなたがたによく、私たちの神、主の御旨から出たことなら、イスラエル全土に残っている私たちの同胞にいっせいに使者を送ろう。彼らのうちには、放牧地のある町々の祭司やレビ人もいる。彼らを私たちのもとに集めよう。13:3 私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」13:4 すると全集団は、そうしようと言った。すべての民がそのことを正しいと見たからである。

 ダビデは全イスラエルの王となることによって初めに行なったことは、この神の箱の移動式でした。ここが、ダビデが、サウルが根本的に違うことです。サウルの国は、人によって選ばれ、人であるサウル自身によって統治されました。ダビデは、自分自身は傀儡にしかすぎないことを知っていたのです。まことの王は神ご自身であり、イスラエルが神との契約の民であることを前面に出すことが自分の仕事であることを知っていました。

 そしてダビデは、「イスラエル全土に残っている私たちの同胞にいっせいに使者を送ろう。彼らのうちには、放牧地のある町々の祭司やレビ人もいる」と言っています。レビ人と祭司たちの存在が神の礼拝に欠かすことのできない存在であることを知っていたからです。次回学ぶところでは、レビ人が礼拝と賛美でどのように組織構成されて、ダビデの国の中核に置かれたかが説明されています。

13:5 そこで、ダビデは、神の箱をキルヤテ・エアリムから運ぶため、エジプトのシホルからレボ・ハマテに至るまでの全イスラエルを召集した。

 エジプトのシホルは、イスラエルの最南端にあるところであり、レボ・ハマテもイスラエルの最北端です。絶対にイスラエル人たちを漏らすことなく、全員が参加させることをダビデは望みました。

13:6 ダビデと全イスラエルは、バアラ、すなわち、ユダに属するキルヤテ・エアリムに上って行き、そこから、「ケルビムに座しておられる主。」と呼ばれていた神の箱を運び上ろうとした。

 神の箱が重要なのは、ケルビムが座しておられる主をこの箱が表わしていたからです。天において私たちが見る光景は、宝石の色で輝く父なる神と、その周りで、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫んでいるケルビムの姿です。私たちが、天におられる神を真ん中に置き、天に自分たちの目を注ぐ必要があることを、ダビデは知っていたのです。

13:7 そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。13:8 ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。

 賛美が最高潮に達しています。みなが喜び、興奮しています。その最中に、一気にその熱気を冷ますような出来事が起こりました。

2B 怒りと恐れ 9−14
13:9 こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。13:10 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。

 神の箱は、だれもふれていけないとモーセの律法には書いてあります。そのため、契約の箱にはかつぐことができるようにするための棒がその左右に付いています。それをかついで運ぶのです。そして車に神の箱を乗せていましたが、これはかつて、ペリシテ人がイスラエルに神の箱を戻すために、金の腫瘍と金のねずみを供えて箱の上に乗せて戻してきた、その形態と同じです。つまり、この世的な方法で、異教的な方法で主を礼拝しようとしたことで起こった、悲しむべき出来事です。私たちも、主にあって熱心になるのはすばらしいことですが、そしてそこには喜びと興奮がありますが、その真ん中にこの世的な方法が混ぜられると、後で私たちの心にいろいろな傷が残るような悲しいことが起こる時があります。御霊によって行なうべきことは、すべて御霊によって、神の方法によって行なうべきなのです。

13:11 ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それでその場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。

 ダビデはこのことで、目を覚ますような経験をしました。神への深い畏敬が生まれました。

13:12 その日ダビデは神を恐れて言った。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか。」13:13 そこで、ダビデは箱を彼のところダビデの町には移さず、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。13:14 このようにして、神の箱はオベデ・エドムの家族とともに、彼の家に三か月間とどまった。主はオベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。

 オベデ・エドムはレビ人でしたが、そこに箱を置くことをダビデは決めます。そしてその家は祝福されました。次回、そこからダビデが再びエルサレムに神の箱を持っていくところを読んでいきます。

 ダビデは最初に神の箱を携えましたが、サウロは最後に霊媒に頼りました。非常に対照的です。私たちはどちらでしょうか?ダビデのように、初めに神の主権を認めて、すべての道の前に主をおいているでしょうか?それとも、サウルのように主については常に中途半端で、最後は完全に主に否定して、偶像に拠り頼むようになるでしょうか?お祈りしましょう。


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