列王記第一17−18章 「祈りに働く力」


アウトライン


1A 主にある訓練 17
   1B 烏による養い 1−7
   2B やもめによる養い 8−24
      1C 信仰によるささげ物 8−16
      2C さらなる試練 17−24
2A 主にある対決 18
   1B 残された人々 1−20
   2B 民へのテスト 21−40
      1C 生きていない神々 21−29
      2C まことの生ける神 30−40
   3B 祈りの答え 41−46

本文

 列王記第一17章を開いてください。今日は17章と18章を学びます。ここでのテーマは、「祈りに働く力」です。

1A 主にある訓練 17
1B 烏による養い 1−7
17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

 旧約聖書における、代表的な預言者であるエリヤが登場しました。律法の代表がモーセですが、預言者の代表は間違いなくエリヤです。旧約聖書の最後のマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあり、主が高い山で栄光の姿に変貌されたとき、主とともにいたのは、モーセとエリヤです。

 エリヤがどのような背景をもった人なのかは、聖書に書かれていません。ここ17章1節に、突然、ギルアデ、つまりヨルダン川東岸のティシュベの出のエリヤとの紹介しかありません。けれども、彼はこの前に北イスラエルに出てきた預言者アヒヤ、獅子にかみ殺されてしまった若い神の人、そしてエフーなどと並んで、イスラエルが堕落しているとき、主なる神に立ち返るように遣わされた人物です。そして前回、北イスラエルが次々とヤロブアムの道を歩み、さらにアハブのときに、バアルを拝むようになり、霊的に急降下状態であったときに、劇的な方法で、主が生きておられる証しをするためにエリヤが立てられます。

 彼は初めに宣言したことは、イスラエルに飢饉がある、ということです。これからのエリヤの生涯で特徴的なのは、彼は単に主のことばを告げただけでなく、そのみことばに基づいて祈りをささげていることです。雨がふらないことも、主が語られただけでなく、実はエリヤ自身がそのことを祈っているからでありました。ヤコブの手紙5章を開いてください。16節後半から読みます。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。(16-18節)」ここの箇所で大事なのは、エリヤは私たちと同じような人であった、という点です。彼は、超人間でも、私たちよりも霊の位が高い人間でもありませんでした。普通の人です。けれども彼は祈ったら、雨が止みました。だから祈りは大切ですね。私たちのような、無名の小さい者たちであっても、主は大きな力を、祈りをとおして働かせてくださいます。

17:2 それから、彼に次のような主のことばがあった。17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

 ヨルダン川の東から、北イスラエルの首都サマリヤに行って預言をしたエリヤですが、再びヨルダンの東に戻ってきました。それは、主がエリヤをアハブの手から隠すためであり、また彼を飢饉の中でも養うためでした。

 私がエリヤであれば、このような預言をしたくありません。王に嫌がられ、あるいは殺されるかもしれないことを告げるだけでなく、自分自身にも被害が及ぶようなことを語っているからです。日本という国が安全で、平穏で、これからも神さまが守ってくださる、という預言ならはしたいですが、多くの者が死に、滅びる、という預言はしたくありませんね。他の人だけが死ぬだけでなく、自分も災害によって死んでしまうかもしれないからです。けれども、エリヤは自分が不利になることを知って、それで預言をしました。

17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

 このようなことをだれが望むでしょうか?身を隠しているだけでなく、差し入れを持ってきてくれるのは、なんと烏です。律法では、動物の中で烏は汚れたものとされていますから(レビ11章)、なおさらのことです。けれども、このように主は、私たちに訓練を与えられます。聖書の中で主に用いられた器が、主の訓練を受けています。モーセは80歳になって、エジプトのパロに、神の民を出て行かせなさいと言うまで、荒野で40年間、羊飼いでした。使徒パウロは、回心したあと、使徒としての働きを始めるまで、アラビヤと自分の故郷タルソで長い期間を過ごしました。けれども、この期間がとても大切であり、そこで自分には何の力もないことを知り、また主に忠実に仕えることの必要性を学びます。大きな働きの前には、小さな忠実な働きが必要なのです。

17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

 新たな試練がおとずれました。烏に運んで来てもらうだけでも、自分のプライドをめちゃくちゃにされますが、今度は水がありません。けれどもエリヤはここであきらめませんでした。主が次に語られます。

2B やもめによる養い 8−24
1C 信仰によるささげ物 8−16
17:8 すると、彼に次のような主のことばがあった。17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 今度はシドンに行きなさい、と命じられます。ひとりのやもめに養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度がある今日と異なり、こじきより多少ましかなっという程度の貧しい存在だからです。

 そして、もっとすごいのは、シドンという国です。まさに、イゼベルがでてきたところ、異邦人の地です。先ほどの烏といい、異邦人の地といい、主はエリヤを、イスラエルやユダヤ人の枠組みから離れたところに連れて行かれようとします。

 けれども、これは旧約聖書と新約聖書の中で、貫かれている原理です。イスラエルが悪くなったとき、そこではなく異邦人の世界の中で主が、ご自分の器を用いられます。兄たちに奴隷として売り払われたヨセフは、エジプト人のところに行きました。イスラエル人に嫌われたモーセは、ミデヤン人のところでお嫁さんをもらいました。ダビデもそうですね、サウルが神にさからって、ダビデを殺そうとしたために、彼はイスラエルとユダの地にいるのが困難になり、それでペリシテ人のところにとどまったりしています。

 そして、イエスさまご自身が、ユダヤ人の中で拒まれたために、その名は主に異邦人の中でほめたたえられるようになっていきます。主がナザレで受けいれられなかったとき、こう言われました。「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。(ルカ4:25-26」今、私たちが読んでいる出来事です。私たちの間でも、主が喜ばれないことが起こっていて、主にあって改善することがなければ、主はここにはおられなくなって、違うところでご自分の働きをされます。

17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

 すごいところに、主はエリヤを遣わされました。もう食べるものがなくて死のうとしている人から、養われなさいと命じておられます。けれども、これも訓練の一つだったのです。主がエリヤに語られ、そのことばに基づいて行動するように主が訓練されているのです。次をご覧ください。

17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

 エリヤは、養われるということばを主からいただいていました。けれども、「まず、私のためにパンをつくり、それから後にあなたと子どものために作りなさい。」と言うのは、とても辛いことでしょう。人間的に聞いたら、ずいぶんと残酷なことを言っています。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものです、もし主の備えの約束を信じないならば。

 けれどもエリヤは、それを隠すことなく語りました。それは、エリヤが養われるだけでなく、この女性も、イスラエルの神、ヤハウェを知るためだったのです。彼女自身が、神を信じるその信仰を試されているのです。神のみことばを告げる人は、このように不信仰な心では、嫌われること、憎まれることを言わなければいけないときがあります。けれども、信仰の成長にとっては不可欠なこと、ぜひとも言わなければいけないことがあります。

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 奇蹟を体験しています。かつてイスラエルに与えられたマナのように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを経験しました。このことによって、エリヤは主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いをかなえてくださる方であることを経験し、それで大きな事も任されるようになるのです。

2C さらなる試練 17−24
 ところが次にさらなる、試みがあります。17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」

 この女の人は主に対する希望を失いそうになっています。それもそのはず、死のうとしていたのに、それを生かしてくれて、けれどもそれはこのように息子が死ぬのを見届けるためなのか?ということになるからです。

 ところで、人は不幸なことが起こると、自分に罪があるからというように考えます。実際に、自分の罪の直接的な結果で不幸が起こる場合もありますが、主がかつて、生まれつきの盲人について、「その人の罪でも、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためなのです。」と言われました。ここでも、同じような働きを主は行なわれようとされています。

17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。17:20 彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」17:22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。

 ここにも、エリヤの祈りが記されています。彼は、主は行なわれることを行なわれるのだ、という運命論的な考えを持っていませんでした。自分の思いと願いを、主にぶつけました。「なぜ、あなたはこのやもめにわざわいを下して、息子を死なせるのですか?」と率直に訴えています。そして、一度だけでなく、三度も、「いのちを返してください。」と祈っています。それで主がその願いを聞いてくださいました。ああ、なんと私たちは祈りが必要なのでしょうか!

17:23 そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」

 こうして、異邦人の女ひとりが、エリヤをとおして、ヤハウェのことを知ることができました。彼はもう少しで、全イスラエルの前で神の奇蹟を行ない回心へと導きますが、こうした、一対一の証しや伝道があってこそ、そうした大きな働きを行なうことができるのです。

2A 主にある対決 18
1B 残された人々 1−20
18:1 それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」

 三年が経ちました。そしてエリヤは、再び主の声を聞きました。雨を降らせるという預言です。

18:2 そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリヤではききんがひどかった。18:3 アハブは王宮をつかさどるオバデヤを呼び寄せた。・・オバデヤは非常に主を恐れていた。18:4 イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。・・18:5 アハブはオバデヤに言った。「国のうちのすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。たぶん、馬と騾馬とを生かしておく草を見つけて、家畜を殺さないで済むかもしれない。」18:6 ふたりはこの国を二分して巡り歩くことにし、アハブはひとりで一つの道を行き、オバデヤはひとりでほかの道を行った。

 極悪の王アハブには、非常に身近なところに主を恐れている敬虔な人がいました。クリスチャンの数が少ないと言われる日本では、このようなことがよくあります。少ないのですが、意外なところで実はクリスチャンがいたりします。かつて、ある首相の奥さんがそうであったし、日銀総裁がそうであったし、また身近に接している人の中でこの人は実はクリスチャンだった、ということがあります。なぜ分からなかったのか、といいますと、クリスチャンであると話していないからです。周囲を気にして自分のことを明かさない、隠れクリスチャンですね。オバデヤのそのような人でした。

18:7 オバデヤがその道にいたところ、そこへ、エリヤが彼に会いに来た。彼にはそれがエリヤだとわかったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」18:8 エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、あなたの主人に『エリヤがここにいます。』と言いなさい。」18:9 すると、オバデヤが言った。「私がどんな罪を犯したというので、あなたはこのしもべをアハブの手に渡し、私を殺そうとされるのですか。18:10 あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために、人をやらなかった民や王国は一つもありません。彼らがあなたはいないと言うと、主人はその王国や民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。18:11 今、あなたは『行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言え。』と言われます。18:12 私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らない所に連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、彼があなたを見つけることができないなら、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。18:13 あなたさまには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつほら穴に隠し、パンと水で彼らを養いました。18:14 今、あなたは『行って、エリヤがここにいる、とあなたの主人に言え。』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」

 オバデヤは、本気でエリヤが急にいなくなると思っています。それだけ神の大きな力がエリヤには与えられていることを、知っていたのでしょう。

18:15 するとエリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」18:16 そこで、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」

 このアハブの発言は興味深いです。自分こそが、イスラエルに災いをもたらしている元凶であるにも関わらず、その災いを正しい人エリヤのせいにしています。でも、これが堕落した人間のありさまです。主に逆らうようなことを行なっていながら、一度わざわいが来ると、「神が愛なら、なぜこんなひどいことを起こすのか!」と怒号を挙げるのにはお得意だからです。

18:19 さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。

 イスラエルのイズレエル平野の東にある山が、カルメル山です。私はそこに、イスラエル旅行に行ったときに訪れましたが、そこは四方を遠くまで展望することができるところで、東は地中海が広がり、西はもちろんイズレエル平野が広がり、ずっと向こうのタボル山が見えます。そしてそこは地勢的に、イゼベルがやって来たシドンが北にあり、霊的にバアルの神と、イスラエルの神の対決地としても位置しています。

2B 民へのテスト 21−40
1C 生きていない神々 21−29
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

 ここには、三つのグループがいます。主の預言者であるエリヤが一つ、バアルとアシェラの預言者が二つ目のグループ、そして一般のイスラエル人が三つ目のグループです。エリヤは一般のイスラエル人たちに、どちらかに従いなさい。なぜよろめいているのか、と聞いています。イスラエル人はヤハウェを完全に捨てたわけではなく、ヤハウェも礼拝しながら、なおかつバアルを拝んでいたからです。けれども、それは無理なことです。主は、「二人の主人に仕えることはできません」と言われました。またヤコブは手紙の中で、「二心の人たち。心を清めなさい。(4:8」と言っています。

18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。」

 確かに、公に主を証ししているのはこのエリヤだけです。けれども、これが彼にとって後で致命傷になります。たった一人の女イゼベルの脅し文句で、彼の精神力は一気に崩れて、自殺願望まで出てくるほど落ち込みました。その時に言った彼の言葉が、「イスラエルの人々は、あなたの預言者たちを剣で殺し、ただ私だけが残りました。」です(1列王19:10参照)。けれども主はその答えとして、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。(19:18」と言われています。オバデヤも、自分が百人の預言者をかくまっていることを話していました。

 確かに、たった一人でも主にあって、立ち向かうその勇気は必要です。けれども、「戦っているのは私だけだ。」という孤独感は実は禁物です。なぜなら、主は必ず残された人たちを、同じ思いを思っている人たちを置いておられて、ともに主にあって働くことを望まれているからです。自分だけが・・・と思ってはいけません。

18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。

 これなら、はっきりとどちらが、まことの神であるこを知ることがでいます。

18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。

 如実に、バアルが生きていないことを現わしています。エリヤは余裕をかましています。「バアルは、席をはずしてしまったのだろうか?」とあざけています。バアルの預言者は必死になって、叫び、踊り回り、体を傷つけていますが、何の答えもありません。しかし、ヤハウェなる神はそうではありません。宗教的熱心さはないように見えますが、必ずそのとおりになる神のみことばがあり、それを信じて祈る、神のしもべがおり、その連携プレーで、大いなるわざが行なわれます。

 私たちは、どのような熱心さを持っているか、吟味する必要があります。熱心であっても、バアルの預言者のように、空を打つような闘いをしていることはないでしょうか?私が未熟だったせいもありますが、クリスチャンになってから少し経ってから、せっせ、せっせと聖会や大きな集会に通いましたが、自分の周りで人は救われることはありませんでした。主との個人的な、人格的な関係による祈りではなく、ただテクニックに走った、お祭り騒ぎの祈り、また活動を私は行なっていたからです。バアルの預言者と同じです。それでは、次に、まことの神の証しを見てみましょう。

2C まことの生ける神 30−40
18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。

 主の祭壇がこわれていて、だれも修理していなかったのでしょう。使われていませんでしたが、エリヤが今、建て直しています。私たちの心も、ある意味、この祭壇があります。こわれていないでしょうか?建て直す必要があります。

18:31 エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。

 イスラエルの神であることを証しするために、十二部族を象徴する石を置きました。

18:32 その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。

 現在の遺跡でも、エリヤがささげたところの祭壇であると言われてる地点の近くに、泉があります。そこから汲んできたのでしょう。

18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」

 エリヤが再び祈りました。彼は、バアルの預言者のように、むだに祈ったり、何度も繰り返したりしませんでした。主に対して人格的に、主のことばに基づいて祈りました。まず、神が、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」と限定しています。約束を与えたところの神です。そして、エリヤは主が言われることをことごとく行なうところの「しもべ」であることを話しています。主がすでに命じておられることを行なわないで、なぜ、奇蹟を起こすように主にお願いすることができるのでしょうか?

 そして次に、「あなたのみことばによって、私がこれらのすべての事を行なった」と言っています。これは大事ですね。エリヤは、勝手に思いついたことを今、行なっているのではありません。主のことばがあって、そのことばに基づいて行なっています。私たちはとかく、自分たちで勝手に計画を立てて、それを主が祝福してくださるように祈ったりします。けれども順番が逆です。主が言われていることがあって、それを信仰をもって踏み出すところにおいて祈るのです。

 そして最後に、「この民が、あなたこそ神であることを知るようにしてください。」と祈っています。やはりエリヤは祈る人です。

18:38 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

 イスラエルの民がヤハウェのみに自分たちを従わせる決心ができてから、今度は、彼らに偽預言者らを殺すように命じました。

3B 祈りの答え 41−46
 そしてまた、次にも祈りが書かれています。18:41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」

 先ほど、主がエリヤに雨を降らせると告げられたとおり、今、アハブに告げています。

18:42 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。18:43 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」18:44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」

 エリヤは、主のことばがあったのにも関わらず、祈りつづけました。いや、主のことばがあったからこそ、祈りました。私たちは、祈りについて二つの過ちを犯します。一つは、約束されているのだから、祈らなくても主が行なってくださるだろう、と考える過ちです。聖書のことは知っていますが、主が生きてその人には働いてくださいません。もう一つの過ちは、聖書に書かれている主のみこころをわきまえないで、ただやみくもに祈ることです。先ほど話した、空を拳で打つようなものです。

 けれどもエリヤは、主からことばをいただき、そして、一度ならず、七たびも祈りました。そして、もう一つ気づくことは、地中海のほうを見ていたであろう若者が、小さな雲だけしか見ていないのに、それをエリヤは大雨の前兆だと悟ったことです。私たちは、祈り待ち望んでいなければ、見えるものも見えなくなります。けれどもエリヤのように、祈り求めているときに、確かに約束がかなえられていることを、まだその徴候がわずかなときでも気づくことができるのです。

18:45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。18:46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。

 エリヤは確かに、すごい人です。車に乗っているアハブと同じぐらい早く、足で走りました。こうしてアハブに対する、ヤハウェなる神の証しを立てましたが、次の章を見ると、彼はマザー・コンプレックスならず、ワイフ・コンプレックスにかかっているようで、ただ妻のイゼベルに、起こった事をすべて告げるだけでした。次回、その続きを読んでいきましょう。


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