1サムエル記1−3章 「預言者の誕生」
アウトライン
1A 母の祈り 1
1B 呻きを聞かれる主 1−18
2B サムエルの献児 19−28
2A エリ家への裁き
1B ハンナの賛美 1−11
2B 息子の罪とサムエルの成長 12−26
3B エリ家の断絶 27−36
3A 初の預言
1B 神の呼びかけ 1−14
2B 実現する言葉 15−21
本文
サムエル記第一を開いてください。ついに私たちはサムエル記に入ります。「サムエル」という名が付いていますが、サムエル記の中心人物はダビデであります。前回、ルツ記においてユダの息子ペレツから、ルツを介してダビデに至る系図がありました。イスラエルの民がカナンの地に入り、イスラエルの各部族が緩い連合によって結ばれていたところから、ダビデを王とする統一国家に発展する姿を読んでいきます。
前回少し話しましたように、神が人を救うために選ばれるメシヤが現れるのは、ダビデ王朝からであります。マタイ1章1節に、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」とあるように、です。ダビデによって私たちは将来のキリストを知ることができ、そしてダビデを王とするイスラエル国によって、キリストを王とする神の御国の姿を見ることができます。
キリストが現れる時に、キリストが来られたことを告げ、イスラエルの民を神に立ち返らせるために起こされた預言者がいました。バプテスマのヨハネです。彼はレビ人ザカリヤの子でした。同じように、ダビデが現れる前に、士師の時代、各自がめいめい正しいと見えることを行なっていた混乱の暗黒時代に、イスラエルを神に立ち返らせる預言者をレビの家系から神は起こされます。それがサムエルです。霊的にも、社会的にもてんでんばらばらに動き、周囲の敵に虐げられていたイスラエルを、サムエルは主に立ち返らせます。
1A 母の祈り 1
1B 呻きを聞かれる主 1−18
1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。
私たちは士師記の後半部分を学んだ時に、エフライムの山地にレビ人が滞在していた話を読みましたね。同じように、エルカナという人はエフライムの山地に滞在していたレビ人です(1歴代1:16-30)。
1:2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
旧約の時代には一夫多妻が許容されていました。アブラハムの時から見ることができましたね。サラに子が与えられなかったので、アブラハムはエジプト人ハガルを自分のものにしました。ヤコブはラケルを愛していましたが、おじのラバンにだまされて、姉のレアも自分の妻としました。その時もラケルには子がなかなか与えられず、レアが初めは子が与えられました。ここでも同じような状況です。ハンナは不妊の女でしたが、エルカナに子孫を残すためにペニンナと結婚していると考えられます。ちなみに「ハンナ」は「恵み」、「ペニンナ」は「宝石」という意味です。
1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。
イスラエルがヨルダン川を渡り定住をした時から、エフライムにあるシロが神の幕屋が張られているところとなりました。神は、約束の地においては選ばれた一つの場所で主を礼拝することを命じておられました。それで彼らもシロに上ったのです。イスラエル人成年男子には、年に三度、祭りを守りにやってこなければいけないと命じられていましたが、エルカナは、一度は家族と共に礼拝しにいくことにしていました。
ところで、ここで主の呼び名として「万軍の主」という言葉が初めて登場します。天使が万軍おり、その主であられるという意味です。主が敵に対して天使を従えて戦ってくださる、ということです。
そして、当時の大祭司はエリでした。彼は大祭司であると同時に士師でした。実に、同じような時期にサムソンがダンの地で生まれていたと考えられます。つまり、士師は全イスラエルをさばいていたのではなく、むしろ各地域を治めていました。
1:4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。1:5 また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。
祭りの時には、和解のいけにえを捧げ、その多くの部分は家族で食べることができます。その食事のことです。ハンナにはペニンナの二倍の分け前が与えられていました。ハンナをエルカナは愛していたからです。
1:6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
エルカナの慰めが慰めになっていないことは、午前礼拝でも話しましたね。そこでハンナは、主の前に出ます。ルツもそうでしたね、夫から得られる保証を犠牲にして、ナオミと共に生きる決断、イスラエルの神に保証を求める決断をしました。夫がいても、やはりそのことをしなければならないのです。主が、自分の心を全て知っておられる方です。
1:9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
「万軍の主よ」とハンナは主を呼んでいます。ペニンナの嫌がらせから守ってくださる方は万軍の主なのだ、ということです。そして「かみそりを当てません」と言っています。ナザレ人の誓いです。サムソンが長い髪の毛をしていたこと思い出してください。一定の期間、自分が主のものであることを表すために、ぶどうから取れたものをいっさい控えます。家族の者が死んでも、死体に触れることは一切できません。そして髪の毛を切らないのです。これを一生涯行うのですから、まさに主に捧げられた者として生きることになります。
後にこの男の子サムエルは、祈りによってペリシテ人と立ち向かいます。その少し前には、サムエルもペリシテ人を打ち殺していました。主が情熱を持っておられて、生涯のナジル人を起こし、それでイスラエルを長年のこと苦しめていたペリシテ人から救おうと願っておられたことは明白です。主は、心がナジル人のようにご自分と一つになっている人を捜しておられます。
1:12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
新約聖書でも、酔っているのではないかと疑われた聖徒たちの姿があります。聖霊に満たされて、異言が与えられ、神を賛美していたときです。ぶどう酒に酔っているだろう、と仮庵の祭りに来ていたユダヤ人たちは思っていました。祭りの時には食事でぶどう酒を飲むので、はめを外す人がいたようです。ハンナもここで同じ疑いがかけられました。けれどもハンナはうめきの祈りを捧げていたのです。午前中学んだように、言葉にならぬうめきの祈りは、聖霊が神の御心に沿って祈れるように、執り成しをしてくださっています。
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
エリは、希望的観測でこのように言ったのではありません。彼が祭司であるということで、御霊が預言を与えておられます。この願いはかなえられるのです。
1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
すばらしいですね、これが心を注ぎ出す祈りをささげた後の結果です。彼女は食事をすることができました。そして彼女の顔が、もはや以前のようではありませんでした。詩篇の祈りを思い出してください。ダビデは心を注ぎ出す祈りを書き記していますが、その過程はハンナのように悩みと苦しみが激しく、読むのも辛いぐらいですが、その結果は主への賛美と感謝に変わっています。これが主の成し遂げてくださる業です。
2B サムエルの献児 19−28
1:19 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
エルカナとハンナ、特にハンナは晴れ晴れとした心で、主に礼拝を捧げることができたことでしょう。まだ祈りが聞かれたのは認めることはできていませんが、確実に主が聞いてくださったので、それはかなえられたと信じていたのです。(1ヨハネ5:15)
そして直ぐに夫はハンナを知りました。これはもちろん夫婦の関係を持ったということです。不妊治療している女性の方は、ここの意味を深く知ることができるでしょう。夫婦の営みが、どれだけ苦労することか知っていると思います。ですから、「主は彼女に心を留められた」という言葉には現実味を帯びます。自分が努力しても妊娠できるわけではないのです。主が心に留められることによって、初めて子を宿すことができます。
1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
「サムエル」は、「神が聞かれる」という意味の言葉から派生したものです。
1:21 夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを主にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、1:22 ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは。」と言って、上って行かなかった。1:23 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、主のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。
再び、家族そろってシロに上っていく時期になりました。その時は「自分の誓願を果たす」ためであるとありますが、これはもちろんハンナが主に誓願を立てたこと、サムエルを主に一生涯ささげることを誓ったことを果たすためのいけにえを捧げることです。けれどもハンナは、乳離れするまでこの子を連れていかないことにしました。この子が祭司エリの下で母に頼らずに仕えることができる時に、この誓願のいけにえを捧げたいと言いました。エルカナは、それは賢い判断だと思ったので、「あなたの良いと思うようにしなさい」と言いました。けれども、礼拝をせずに離れている期間が長くなるので、少し心配して「主のおことばのとおりになるように。」と彼女の霊的な守りを祈っています。
1:24 その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの主の宮に連れて行った。その子は幼かった。1:25 彼らは、雄牛一頭をほふり、その子をエリのところに連れて行った。1:26 ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。1:27 この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。1:28 それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。
麗しい報告です。祈りが聞かれたことが、今、この幼子によって見せることができました。そして、誓願どおりこの子をエリの手に渡します。そして再び主を礼拝しています。何度、主を礼拝したという言葉がこの章だけに出てきたことでしょうか。サムエルが、主を礼拝する両親から生まれたということは、幸いなことです。
2A エリ家への裁き
1B ハンナの賛美 1−11
そしてハンナが礼拝の時に祈り始めます。賛美をしている、と言ってよいでしょう。
2:1 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。
男の子が与えられたことを、「主による敵からの救い」として話しています。ペニンナからの執拗な嫌がらせをなぜそうも大げさに話すのか、と思われるかもしれません。主の御霊に触れられた彼女は、個人的復讐の念で発したのではなく、むしろキリストにある神の救いの計画を話しているのです。
覚えていますか、神はアダムが罪を犯して、蛇に対して呪いを宣言されるときに、「女の子孫が、蛇の子孫のかしらを砕く」ことを予告されました。悪魔による人を神から引き離す仕業が、女の子孫がその脳天を打ち砕いてくださいます。この方がキリストです。そこで女が子を産むところには、人類に与えられているこの世の圧迫、究極的に悪魔という敵の圧迫から救われる方を輩出するという大きな期待がかけられていたのです。使徒パウロは、「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(1テモテ2:15)」と言いました。ここの「子を産む」というのは、おそらく女の子孫キリストを指しているのではないかと言われています。
事実、イエスをみごもったマリヤは、ハンナの祈りを思いながら賛歌をうたいました。「マグニフィカト」と呼ばれ、ルカ1章46節以降に書き記されています。そこにも、敵からの救いについて神に賛美を捧げているマリヤの姿を見ることができます。
本文には、主を誇り、そして自分の角が主に高く上がる、とあります。その角は「力」を表しています。そして敵に向かって口が大きく開かれていると言っていますが、それは神の救いを喜んでいるからだ、と言っています。神に救われた、という事実そのものが、悪魔にとっての高らかな勝利になっています。
2:2 主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。
聖なる方と、「あなたに並ぶ者はいない」というのは同じような意味です。聖なる方は、他のどんな被造物とも並べることができない、超越した、隔絶した存在ということです。そして「岩」は、キリストをも指す救いです。
2:3 高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。2:4 勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、2:5 食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。
主なる神を受け入れることのできない原因は、「高ぶり」です。ハンナは、この主の前で、高ぶる者が低くなり、卑しめられている者、へりくだった者が主によって引き上げられることを話しています。これが御国への入口です。イエス様が、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われました。反対に、富んでいる者が貧しくなり、笑っている者が悲しむということも、イエス様は仰っています。具体的に、「不妊の女が七人の子を産む」「多くの子を持つ女が、しおれてしまう」というのは、自分自身とペニンナのことを話しています。
2:6 主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。2:7 主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。
主なる神は、このように引き上げたり、引き下げたりなさいます。その中で、「主は殺し、また生かし」そして「よみに下し、また上げる」というのは、まさにキリストの預言です。主は十字架につけられ、陰府に下り、三日目に墓よりよみがえり、天に昇られました。(ピリピ2:6-11)
2:8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。2:9 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。2:10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」
キリストが十字架、復活、そして昇天を経た後に、再臨されることを預言しています。地上に王の王として、はむかう者や悪者を滅びうせます。けれども、弱い者、貧しい者、つまり福音を受け入れた者たちを引き上げてくださり、御国において栄光の位に着かせてくださるのです。
すばらしいですね、ハンナは、主に礼拝を捧げ、その中で賛美を神に捧げた中で預言の言葉を発することができました。私たちも同じです。主を礼拝している中で、神の御霊に満たされて、キリストをあがめるための賜物が与えられるのです。ある人には預言が、ある人には知識や知恵のことばが、ある人には信仰や癒しが、ある人には異言が与えられます。奉仕の賜物、憐れみの賜物、教える賜物、分け与える賜物などのいろいろな賜物を、神は教会に授けておられます。
2:11 その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。
ここから、別れて暮らすことになります。幼子サムエルは両親から離れてエリのもとにいます。
2B 息子の罪とサムエルの成長 12−26
2:12 さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、2:13a 民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。
ここから、主にあってすくすくと成長するサムエルの姿と、祭司エリの息子たちの悪い行ないが対比されて話が進行します。士師の時代において、人々が自分の目に正しいと見えることを行なっているわけですが、祭司の息子たちも例外に漏れませんでした。主はご自分の栄光のため、この悪に対して裁きを下し、代わりにサムエルを立ててイスラエルの立て直しを行なわれます。
エリの息子の姿を一言でまとめるなら、「主を知らない」であります。ヤハウェなる方を人格的に知らなかった、ということです。もちろん彼らは、知識はたくさんあります。けれども、人格的な、個人的な関係においては、この方を認めず、生活の中で度外視していたのです。以前、「救われていない牧師ってありえるのか?」という議論を聞いたことがありますが、十分ありえます。そして今の祭司は信者一人一人ですから、救われていないのに教会の奉仕をしているということも十分に可能なのです。
2:13aだれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、2:14 これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。2:15 それどころか、人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、2:16 人が、「まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい。」と言うと、祭司の子は、「いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る。」と言った。2:17 このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。
ここにおける祭司の定めは、和解のいけにえについての定めです。レビ記で私たちはすでに学びましした。改めて見てみましょう。7章23節からです。
23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。24 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。25 すべて、火によるささげ物として主にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。26 また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。27 どんな血でもこれを食べる者はだれでも、その者はその民から断ち切られる。
脂肪を食べてはならない、という教えです。また血を食べても決していけません。血は、命を表していました。生命が神聖なものであること、そしてキリストが流される血がいかに尊いものであるかを教えています。血を食べることは、キリストの尊い命をないがしろにすることです。
脂肪は、肉の上等の部分であり、神の豊かさを表しています。主がすべての豊かさを与えておられることを認めることです。和解のいけにえというのは、基本的に自分たちが食事をして楽しむものです。主に礼拝をし、そこで自分たちもその肉を食べて楽しみます。けれども最上の部分は主に捧げます。したがってこれを私たちに当てはめると、私たちに与えられている時間と財産は、豊かさを楽しませてくださる主によるものです。私たちはこれを主にあって楽しむことが許されています。家族のための時間、家族のための財産です。けれども、財産でもその一部を、自分にとって最も大切な部分を、その源であられる主に捧げるのです。旧約聖書には何度も、収穫の十分の一を捧げなさい、また初物を捧げなさい、と命じておられます。また時間もそうですね、最も大切な時間を主に捧げます。そして次をご覧ください。28節からです。
28 ついで主はモーセに告げて仰せられた。29 「イスラエル人に告げて言え。和解のいけにえを主にささげる者は、その和解のいけにえのうちから、そのささげ物を主のところに持って来なければならない。30 その者は、主への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として主に向かって揺り動かしなさい。31 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。32 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。33 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。34 それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」
胸と右のももは祭司のものとなります。主のものとされている祭司たちは、イスラエルの捧げるものによって生きることができます。したがって、イスラエルの人々は主が与えておられる豊かさを、最上の部分は主にささげ、またその一部を奉仕者に与え、そして残りを自分たちのものとして楽しむのです。私たちキリスト教会の奉仕も同じです。教会の礼拝において献金の時間があります。自分が所得として得たものを、そして目安として十分の一を捧げます。そして、教会の奉仕者が奉仕に専念できるように、礼拝者が支えることも義務です(1コリント9:13-14参照)。そして残りは、自分たちに神が与えられたものとして用いるのです。時間も同じように、主のために捧げる時間があり、そして自分たちの時間があります。
ところが、大祭司エリの息子、ホフニとピネハスはそれを行ないませんでした。イスラエルの民が、肉を煮て、その一部を祭司に渡します。そして火で焼いて脂肪がなくなってから、それを受け取ることができます。けれども、そんな面倒くさいことはするな!と言って、すべてを自分たちのものにしようとしたのです。これを全て自分のものにしたのです。
要は、「献金や時間についていい加減であってはいけない」ということです。「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリント16:2)」献金の時間になった時に慌てて財布からお金を出すことがないように、ということです。収入に応じて、自分で決めた額を定め、そしてそれを教会の中で捧げるように決めることです。したがって、献金を考えることは、すなわち自分の生活全般のことを考えることです。自分の経済、自分の家計を考えることに他なりません。礼拝の時間を大切にすることは、すなわち自分の生活の時間表を考えることです。
2:18 サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。2:19 サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。
話はサムエルに動きます。彼は、祭司エリの息子と異なり、主の前に仕えていました。日毎に成長するサムエルのために、ハンナは身丈に合った上着を作って持っていっていました。
2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主がお求めになった者の代わりに、主がこの女により、あなたに子どもを賜わりますように。」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。2:21 事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。
すばらしいですね、ここに「神の国と神の義を第一に求めるならば、必要なものは加えて与えられる。」という原則が働いています。献身するということは、失うことではないのです。主は加えて与えてくださいます。
2:22 エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行なっていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。
これを現代版で言えば、教会の財産を私物化しているだけでなく、女性信者に手を出している、ということです。
2:23 それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。2:24 子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。2:25 人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。
エリは今、女と寝ていることについて咎めていません。もちろん、それは悪いことです。けれどもここで咎めているのは、先ほどの和解のいけにえをすべて自分のものにしている、ということです。人に対して罪を犯すのは神に仲裁を受けるが、主に対して罪を犯したら仲裁がいない、というのは、教会の中で言うならば、「神が備えられたキリストによる罪の赦し」という仲裁をないがしろにしている、それを見向きもしない、ということであります。息子二人がしていたことは、このように単に罪を犯すのではない、赦されない罪を犯していることです。
2:26 一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。
対比させているのが分かりますね。エリの息子は主に対して罪を犯し、そしてイスラエルの民全体から悪く言われていたのですが、サムエルは主にも、人にも愛されていました。
3B エリ家の断絶 27−36
そして再び、エリの家に対する神の言葉に戻ります。エリ自身に神の人が来て預言します。
2:27 そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう仰せられる。あなたの父の家がエジプトでパロの家の奴隷であったとき、わたしは、この身を明らかに彼らに示したではないか。2:28 また、イスラエルの全部族から、その家を選び、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上り、香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエル人のすべての火によるささげ物を、あなたの父の家に与えた。
これはアロンのことです。主ご自身がイスラエルの民に現われ、そしてアロンの家を選び、祭司とされました。
2:29 なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。
エリは先ほど息子たちを叱責していました。けれども、それは口だけで、息子のなすがままにさせていたのが現状でした。主はこれを重く見ておられました。「わたしよりも自分たちを重んじて」とありますが、原語で「重んじる」と「栄光」は似たような言葉が使われています。神の栄光よりも息子たちに栄光を与えた、とも言うことのできる言葉です。
レビ人が選ばれたのが、人々を神のところに立て直す働きであったことを先に述べました。彼らには、どんな犠牲を払ってでも、神の栄光、幕屋や神殿にある神の栄光を現す務めがありました。レビ人であるモーセは、金の子牛の前で乱れているイスラエル人を見て、こう言いました。「「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」(出エジプト32:27-29)」主のためであれば、兄弟を剣で殺すことも辞さなかったのです。
これが、神の栄光を現すためにキリスト者が召されていることです。このことを語ったら、自分が不利になるかもしれない。こんなことを言ったら、教会の人たちが去っていってしまうかもしれない。これを言ったら、律法主義的だと非難されないか?いろいろな思いが頭を交錯するときがあるかもしれません。けれども、人間の思惑を神の御言葉に優先させる時に、「真理の柱また土台(1テモテ3:15)」と呼ばれている神の家は、総崩れになってしまいます。神よりも人を重んじる教会は、既に教会ではありません。それは人を大切にしない、ということではありません。真理に基づいて人を愛するということです(2ヨハネ1-3節参照)。
2:30 それゆえ、・・イスラエルの神、主の御告げだ・・あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、・・主の御告げだ・・絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。2:31 見よ。わたしがあなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし、あなたの家には年寄りがいなくなる日が近づいている。2:32 イスラエルはしあわせにされるのに、あなたはわたしの住む所で敵を見るようになろう。あなたの家には、いつまでも、年寄りがいなくなる。
「絶対にそんなことはない」と神は言われましたが、それはご自分の約束を反故にされたということではありません。アロン家に対する祭司職は続きます。アロン家においても、エリからの家系だけが全てではなく、他にも家系があります。ここの預言が実現したことが、列王記第一2章26,27節にあります。エリの家系はこの後も続きます。ダビデが晩年を迎えていた時に、ダビデ本人はソロモンを後継者にすると考えていたのに、息子アドニヤが反逆し、それにくみしたのが祭司エブヤタルで、彼はエリの子孫でした。ソロモンが王となって、彼はエブヤタルを罷免し、自分について来た祭司ツァドクを任命したのです。この時にこの預言が実現しました。
ですから、アロンへの約束はそのまま続くのですが、自分の拒みによってその約束を見ながらにしてそれを享受することができない状態になるということです。主は、「わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」と言われました。これはとても大切な真理です。「私はイエスを信じたことがある。だから天国に行く保証があるのだ。」と言って、今の生活が信仰から遠く離れているなら、その天国の約束があってもそれを自分のものにできるかどうかは、かなり疑わしいものになってしまいます。
2:33 わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない。その人はあなたの目を衰えさせ、あなたの心をやつれさせよう。あなたの家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない。2:34 あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスの身にふりかかることが、あなたへのしるしである。ふたりとも一日のうちに死ぬ。
「ひとりの人」とは、サムエルのことです。次の3章で、サムエル自身にエリ家に対する裁きの言葉が与えられます。そして、4章にはホフニとピネハスが殺されたことが記録されています。
2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。2:36 あなたの家の生き残った者はみな、賃金とパン一個を求めて彼のところに来ておじぎをし、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、一切れのパンを食べさせてください。』と言おう。」
ここで神が言われている「忠実な祭司」は、短期的にはツァドクとその家系の者たちです。けれども長期的、あるいは究極的には、永遠の祭司であるメルキデゼクの位におられるイエス・キリストご自身です。「油注がれた者」とはメシヤ、キリストのことですが、ゼカリヤ書には、王なるキリストが祭司にもなることが預言されています。王であり祭司であるキリストの預言です。
3A 初の預言
1B 神の呼びかけ 1−14
3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
ついに、サムエルが初めての預言活動を始めます。主がモーセに語られ、そしてヨシュアに受け継がれた後に、士師の時代に主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでした。新約時代でも、バプテスマのヨハネが現れるまでは、旧約時代の最後の預言者マラキ以後は、同じように神の言葉が語られていませんでした。けれども、主が語り始められます。
3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。・・彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。・・3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。3:4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。3:6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。3:7 サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
興味深いですね、少年サムエルは、祭司エリに忠実に仕えていました。けれども、個人的に主から語れることはこれまでありませんでした。ですから、エリの息子たちと同じように「主を知らなかった」のです。これは、クリスチャン家庭に育った人は誰もが通る経験です。両親に従うために教会に通いますが、まだ個人的に、人格的に主を知りません。けれども、サムエルのように与えられる時が来ます。
3:8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
サムエルが、祭司エリに対して従順であったその態度を、主ご自身に対しても示していました。「お話ください。しもべは聞いております。」と答えています。サムエルに与えられた祝福はこれです。たとえ、主をまだ知らなくても、「あなたの父母を敬え。」・・・サムエルの場合はエリですが、神に与えられた権威に従っていたので、神の権威にも従うことができたのです。私たちは、まだ主イエスを知らない時でも、信じた後の生活のために予め備えておられることがあります。それは恵みであり、救いに先行する恵みです。また反対、イエスを知った後で信じる前から行っている習慣を改めていないので、信仰の歩みに妨げになることがあります。
3:11 主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。3:14 だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」
神の人がエリに語ったことを、改めてサムエルに主は告げられました。主から語られる初めの言葉が、なんと自分が父のように敬っているエリの家に対する裁きとは!これはサムエルにとって大きな試みです。
2B 実現する言葉 15−21
3:15 サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。3:16 ところが、エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは、「はい。ここにおります。」と答えた。3:17 エリは言った。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」3:18 それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」
サムエルは、エリに励まされて、受けた啓示の全てをエリに話すことができました。エリは、神の人にすでに語られていたので、それが確かに神からのものであることをサムエルによって確認することができました。「その方は主だ。」とエリは認めています。
サムエルは預言者としての訓練を受けました。預言を語るのに、そこにどんな権威者もそれに立ちはだかることはできないのです。どんな圧力にも屈せずに語らねばならないのです。モーセの呼びかけで神の側についてレビ人のように、時にはずたずたに敵を切り倒さなければいけない時もあります。悔い改めぬ者のことで、夜を明かして、泣き叫ばなければいけない時もあります。主が語られていることが、何物にも優先することを彼は学びました。
3:19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。3:20 こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。3:21 主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである。
サムエルが、最後の士師となります。従来の士師たちは、ある地域に限定されたところでさばきを行なっていましたが、サムエルは、全イスラエル、ダンからベエル・シェバまで影響を与える指導者となります。そして、主の言葉が何一つ無駄にされることはありませんでした。これだからこそ、主のことばなのです。人に影響を与えることなくして戻ってくる言葉ではなく、必ず実現する言葉を彼は語りました。これによって、ついにイスラエルの霊的復興が起こりました。主が預言の言葉によって神の幕屋があるシロで現れてくださったのです。
私たちにも霊的復興が必要です。それは、私たちを断続的に変えていく神の御言葉が語られているところで起こります。主を恐れ、自らを変えていく神の民がいるところに起こります。