サムエル記第一11−13章 「高ぶりの萌芽」



アウトライン

1A 人々の認知 11
   1B 敵からの侮辱 1−4
   2B 御霊の働き 5−11
   3B 主への栄光 12−15
2A 前任者サムエルの後退 12
   1B 非難されるべきところがない生涯 1−5
   2B イスラエルの悪 6−17
      1C 民を救われた神 6−12
      2C 神を退けた罪 13−17
   3B 心からの献身 18−25
3A 越権行為 13
   1B 自賛 1−7
   2B 威信 8−14
   3B イスラエルの劣勢状態 15−23

本文

 サムエル記第一11章を開いてください。今日は13章までを学びます。ここでのテーマは、「高ぶりの萌芽」です。サウルが王となり、それで彼が高ぶり始めるところを読んでいきます。

1A 人々の認知 11
 前回、サウルが王としてみなの前で宣言されたところを読んでいきました。彼は、王としての素質をみな備えているような人でした。裕福な家の子であり、容姿は抜群で、謙遜でした。けれども王として宣言されたとき、彼のことを認めない一部の者たちもいました。「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言っています。けれども11章では、サウルの働きによって、しっかりと王権が設立されるところを読みます。

1B 敵からの侮辱 1−4
 その後、アモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。

 ヤベシュ・ギルアデは、ヨルダン川東岸にある町です。アモン人が住んでいるところのすぐそばにある町ですが、今アモン人がその町の人々に降伏を迫っています。

 ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。「私たちと契約を結んでください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」そこでアモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件で契約を結ぼう。おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ。それをもって全イスラエルにそしりを負わせよう。」

 ヤベシュの人々は自分たちでは勝つ見込みがなかったので、和平条約を結ばせてくださいとお願いします。けれどもハナシュが突きつけてきた条件は、右の目をえぐり出すことでした。右目がなくなるのは、戦うことができなくなることを意味します。非常に屈辱的な要求でした。

 ヤベシュの長老たちは彼に言った。「七日の猶予を与えてください。イスラエルの国中に使者を送りたいのです。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたに降伏します。」使者たちはサウルのギブアに来て、このことをそこの民の耳に入れた。民はみな、声をあげて泣いた。

 自分たちの身に起こる悲惨を思って、民は泣いています。

2B 御霊の働き 5−11
 そこへ、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、どうしたのですか。」そこで、みなが、ヤベシュの人々のことを彼に話した。

 サウルは王として宣言を受けたのにも関わらず、牛を追って農作業をしていました。彼は王権についての欲がありません。

 サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。

 サウルに神の霊が下りました。聖霊に満たされたことによって、激しい怒りでサウルは燃え上がりました。そうでなければいけません、イスラエルの民が、自分の仲間が屈辱的仕打ちを受けることを聞いて、何も感じないほうがおかしいです。

 
彼は一くびきの牛を取り、これを切り分け、それを使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルとに従って出て来ない者の牛は、このようにされる。」と言わせた。民は主を恐れて、いっせいに出て来た。

 サウルは、「サウルとサムエルとに従って出てこない者は」と言って、自分だけでなくサムエルの名前を加えています。まだサウルのことを認めていない人たちがいたので、賢い方法でしょう。そして、民は主を恐れています。すばらしいことですね、王サウルが言ったからではなく、主が戦ってくださるという認識を持っていました。

 
サウルがベゼクで彼らを数えたとき、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。非常に大勢集まりました。彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言わなければならない。あすの真昼ごろ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って来て、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。ヤベシュの人々は言った。「私たちは、あす、あなたがたに降伏します。あなたがたのよいと思うように私たちにしてください。」翌日、サウルは民を三組に分け、夜明けの見張りの時、陣営に突入し、昼までアモン人を打った。残された者もいたが、散って行って、ふたりの者が共に残ることはなかった。

 ヤベシュの人たちは、おとり戦術を使いました。降伏します、と言っておいて、アモン人を油断させて、それで待ち伏せしていたイスラエル人がアモン人を襲いました。大勝利に終わりました。

3B 主への栄光 12−15
 そのとき、民はサムエルに言った。「サウルがわれわれを治めるのか、などと言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」

 良い王に備わっている特質である慈悲です。彼は自分をあなどった者にあわれみをかけました。さらに、主がイスラエルを救われた、と言って、主に栄光を帰しています。

 それからサムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルへ行って、そこで王権を創設する宣言をしよう。」民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。

 こうしてサムエルは改めて、サウルの王権を確固たるものとする儀式を行ないました。それから、彼は、自分の退任スピーチを行ないます。これまで、サムエルの預言による神の統治がおこなわれていましたが、これからはサウルを王とする君主制になります。

2A 前任者サムエルの後退 12
1B 非難されるべきところがない生涯 1−5
 サムエルはすべてのイスラエル人に言った。「見よ。あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上にひとりの王を立てた。今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年をとり、髪も白くなった。それに私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。

 サムエルには、前回見ましたように、一つ欠点がありました。息子たちを主にあって訓練することができなかったことです。息子たちは悪い道を歩んでいました。けれどもサムエルは「若い時から」ずっと、預言者として、士師として一生を歩んできました。思い出してください、サムエルの誕生は、ハンナの、献身を誓約する祈りから生まれたものです。サムエルは幼いときから主の幕屋で仕え、そして主の御声を聞きました。それから、サムエルの耳に主のみことばが聞こえ、それをあますところなくイスラエルに伝えました。一生涯、彼はイスラエルの指導者として生きてきました。

 さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」

 権力の座について、それでいてなおかつ、それを乱用せずに生き抜くことはとても難しいことです。自分が置かれている立場を利用する誘惑はいっぱいあるからです。けれども、サムエルは最後の最後まで、非難されるべきところがなく生きてきました。このような教会指導者が必要です。指導者はいつでも、名誉、女性、金銭という三つの悪魔の誘惑を受けると、あの伝道者ビリーグラハムは言いました。最後まで主にお従いすることは、本当に栄誉あることです。

 そこでサムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見いださなかったことについては、きょう、あなたがたの間で主が証人であり、主に油そそがれた者が証人である。」すると彼らは言った。「その方が証人です。」

 ここの「油注がれた者」とはサウルのことです。サウルとイスラエルの民が、サムエルに非がないことを証ししました。

2B イスラエルの悪 6−17
1C 民を救われた神 6−12
 サムエルは民に言った。「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせたのは主である。さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖とに行なわれたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。」

 サムエルはこれから、イスラエルの歴史を話していきます。聖書にはこのように、イスラエルの歴史を、出エジプトの出来事や、アブラハムの生涯を起点にして話していくものがたくさんあります。これは大事なことです。主が、ご自分の民にどのように働かれたのかを思い出すことができるからです。私たちは、主イエス・キリストの生涯、とくに十字架と復活の出来事を思い出し、それを起点として、自分の生涯に生きておられるイエスさまの軌跡を辿る必要があります。

 ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わされ、この人々はあなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。ところが、彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。彼らが、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます。』と言って、主に叫び求めたとき、主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。

 サムエルは、イスラエルが士師によって救い出された話を中心に思い出させています。「ベダン」というのは士師記に出てきませんが、おそらくバラクのことでしょう。イスラエルが他の神々に仕えたことによって、周囲の敵に圧迫されましたが、彼らを助けたのはこれら士師たちでした。

 
あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。

 イスラエルがアモン人の王ハナシュによって脅されたときも、昔のイスラエル人たちと同じような状況だったのです。それなのに、神が救ってくださるように求めたのではなく、人間の王を頼りにしたことを、サムエルは指摘しています。

2C 神を退けた罪 13−17
 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。今、目の前にいるサウルを指してこう言っています。もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。

 イスラエルは、神が王となることを拒むという悪を行ないました。けれども主は、彼らが落ちていったそのレベルにまで降りてくださり、人間の王が統治する中で彼らを見守ることに決められました。ちょうどイエスさまがペテロに、「あなたはわたしをアガペしますか」と聞かれたのに、ペテロが「私はあなたをフィレオします」と答えたので、イエスさまも「わたしをフィレオしますか」と答えられたのと同じです。そこでサムエルは、もうこれ以上堕落しないように、今のこの状態からさらに悪化することのないように、と戒めています。

 今一度立って、主があなたがたの目の前で行なわれるこの大きなみわざを見なさい。今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」

 小麦は、現在の暦の6月中旬から末までが収穫時期です。雨は大抵、5月には降り止んでおり、イスラエルは乾季に入ります。けれども、今サムエルは、主が雷と雨を下されると言いました。

3B 心からの献身 18−25
 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」民は、罪の赦しを請い求めています。サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。」

 先ほどと同じ、「もうこれ以上、悪くなってはいけない」との戒めと勧めを行なっています。

 
まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。

 これは覚えていくべき大切な真理です。神がイスラエルを見捨てられないのは、イスラエルがすばらしいからでもなく、彼らが良い行ないをしているからでもなく、ご自分の偉大な御名のためだ、ということです。

 これはクリスチャンに対する神の取り扱いでもあります。私たちが神から祝福されるのは、私たちの何らかの行動によるものなのでしょうか?例えば、祈りをしたから良くしてもらえる、伝道を一生懸命するから神から祝福される、のでしょうか?違います、神が私たちの素性に関わらず、私たちをイエス・キリストにあって祝福してくださったから、私たちは喜んで、神に応答するのです。神の恵みの栄光のために、祝福されているのです。

 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。

 祈らないことが罪であると、サムエルは言っています。これは痛い話です。私たちは、いとも簡単に、時間の浪費をします。何時間もテレビを見てしまって、ああ見なければいけなかった、と後悔します。けれども何時間も祈ったら、決して後悔することはないでしょう。主との交わりの時間です。これを絶やしてはいけません。

 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。

 主に対して心からの応答と、献身をしなさいと促しています。年老いた預言者からの、最後の忠告です。

3A 越権行為 13
1B 自賛 1−7
 サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった。

 ここの日本語訳はなぜこのような訳し方をしているのかは分かりません。英訳ですと、「サウルは一年間王となり、二年目に」となっています。新改訳の下の欄には少し説明がありますが、30と12という数字は推定、となっていますので、英訳に従いたいと思います。

 サウルはイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地におり、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの民は、それぞれ自分の天幕に帰した。

 サウルは王になってから二年目に、イスラエルから戦う者たち三千人を選びました。自分には二千人、息子のヨナタンには一千人いさせました。

 ヨナタンはゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。ペリシテ人はこれを聞いた。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、「ヘブル人よ。聞け。」と言わせた。

 ペリシテ人が基本的にイスラエルを支配していますから、今イスラエルがペリシテ人に対して反逆行為を行なった、ということになります。

 イスラエル人はみな、サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った、ということを聞いた。こうして民はギルガルのサウルのもとに集合した。

 注意して見てください、ペリシテ人の守備隊長を打ったのはヨナタンなのに、サウルは、自分が守備隊長を打ったように、ヘブル人に聞かせています。そして民をヨナタンのほうではなく、サウルのほうに集めています。彼は人の功績を自分のもののようにしたのです。

 ここからサウルの高ぶりの萌芽を見ることができます。彼はここから、どんどんひどくなって、最後は自殺行為に近いかたちで死に、その死体はペリシテ人の見世物になりました。彼は、人間的には謙遜な人でした。それは前回の学びで、また11章で見たとおりです。けれども、何かが足りなかったことも見ました。主からの語りかけ、主との交わり、そして神からの召命という要素が彼に見当たらなかったのです。

 人はどんなに自然に備わった能力があっても、サウルのように高い地位と権力が与えられたら、高ぶるような弱い存在です。神の前でのへりくだりがないと、必ず高ぶります。一見、良さそうに見える人、いわゆる「良い子」である人は、その人間的特質は実はひどく堕落していることを、本人は知っているかもしれませんが、周囲は騙されてしまいます。けれども、人は堕落しており、大きな権力が与えられるなど、機会が与えられたら腐敗するのです。

 神の働きをするときに、もっとも大切なのは、神との結びつきです。後で読んでいきますが、ダビデが主と持っていたような結びつきです。彼の書いた詩篇は、幼子の心を表しているのではないかと思われるほど、主に対して純粋な心を表しています。彼は神に飢え渇いていました。だから、彼は間違いは犯しましたが、いつまでも王の座にとどまることができたのです。

 自分は王であっても、自分自身の上にも王がいるのです。自分は人を支配していても、自分自身が神から支配されています。このことを忘れると、私たちは自分のものは自分の好きなようにしてよいという思いが働き、サウルのように高ぶってしまうのです。

 ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。ペリシテ人はものすごい人数の兵を連れてきました。イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。またあるヘブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った。サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。

 イスラエルの民が怯えています。それでペリシテ人から逃れて、隠れ場に隠れ、ある者たちは、ヨルダン川の東側のほうへ逃げていきました。けれどもサウルは渡らずに、ギルガルにとどまっています。

2B 威信 8−14
 サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。

 覚えているでしょうか、サムエルがサウルに油を注いだ後に、これから起こることを話しました。そのときに、ギルガルで七日日間待っているように、と言われました。そこから神が何を言われるかを聞きなさい、ということでした。

 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい。」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。

 ああ、とんでもないことをしました。彼は王です。彼は王として油注がれていますが、祭司として油注がれていません。サムエルはレビ人ですから、主への奉仕としていけにえをささげるのですが、サウルにはそのような任職は神から与えられていません。

 けれどもサウルは、自分から民が離れていくのを見ました。自分のもとから離れていく、という焦りが出てきました。彼がすることは、主が言われることを行なっていくという単純なことなのに、自分で何とか威信を保たなければいけないと考えました。神のわざを、人間の行為によって補おうとしました。神との関係がないか、あるいはかなり欠如しているかのどちらかです。

 
ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」

 サウルはこれを本気で話していたのかもしれません。けれども、神を信じる者にとっては、ただの言い訳であります。主が召されたところにとどまるのは、信仰者にとって鉄則です。たとえ教会に牧師がいなかったとしても、召されていない人が牧会をしないのと同じです。ローマ12章には、こう書いてあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(3節)」私たちには、信仰の量りが与えられています。それにしたがって、神の恵みによる賜物が与えられています。賜物を用いることによって主に仕えて、また教会の徳を高めることになります。ですから、自分が何に召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知ることは非常に大切です。自分には与えられていないものを行なうことは、人間的には親切ですが、神にとっては忌み嫌うべきことなのです。ちょうどサウルが全焼のいけにえをささげたようにです。

 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。」

 サムエルからサウルは、「愚かなことをしたものだ」と言われています。実は彼自身が自分の生涯の終わりに近づいて、「私は愚かなことをした」と告白しています。

 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。

 主はご自分の恵みにしたがって、サウルに対して永遠の王座をお考えになっていたようです。けれども、サウルが主にお従いするという条件付です。彼はそれを破りました。したがって、他の君主が、その王座に着きます。もちろんその人はダビデです。

 主が探される人は、「ご自分の心にかなう人」です。主が欲しておられるのは、人のパフォーマンスではなく、心です。主を愛する心です。主を求める心です。主が願っておられることを願うことです。その人の行為が間違っていることがあるかもしれません。ダビデは大きな間違いを犯します。また、これまで聖書に登場した聖徒たち、信仰者たちは間違いをたくさん犯しました。士師サムソンは、その典型的な例です。けれどもヘブル書11章にて、サムソンは信仰の英雄として数えられています。だから、「心」なのです。それをサウルは持っていませんでした。

3B イスラエルの劣勢状態 15−23
 こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。サウルが彼とともにいる民を数えると、おおよそ六百人であった。

 三千人いた人たちは今は、600人しかいません。

 サウルと、その子ヨナタン、および彼らとともにいた民は、ベニヤミンのゲバにとどまった。ペリシテ人はミクマスに陣を敷いていた。ペリシテ人の陣営から、三つの組に分かれて略奪隊が出て来た。一つの組はオフラへの道をとってシュアルの地に向かい、一つの組はベテ・ホロンへの道に向かい、一つの組は荒野のほうツェボイムの谷を見おろす国境への道に向かった。

 ペリシテ人が攻める体勢に入ってきています。

 イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。

 ここで知っていくと良い歴史は、青銅器時代から鉄器時代への変遷です。ペリシテ人はすでに鉄器時代に入っていました。けれどもイスラエル人はまだ入っていませんでした。そこで鉄の武器を持っているのは、サウルとヨナタンしかいませんでした。このような圧倒的武力の差によって、イスラエルは怯えていたのです。

 ペリシテ人の先陣はミクマスの渡しに出た。

 そして14章にはいりますが、次回学びます。このような完全に不利な状況の中で、信仰によって冒険をした人が、イスラエルに大勝利をもたらします。けれどもサウルはまたもや、愚かなことをしでかします。

 サウルを見るとき、人はどれだけ弱い存在であるかを思わされます。表向き、どんなに品行方性な人でも、中はどろどろしています。罪の性質を持っています。だからこそ、私たちは神への信仰を必要です。主との生きた関係が必要です。サムエルはそのような人でした。彼はいつまでも、最後まで主に忠実でした。主との交わりを欠かしませんでした。ですから、大事なのは交わりであり、私たちの行為ではないのです。


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