サムエル記第一17章 「主を思う心」


アウトライン

1A 主のわざへの吸引 1−30
   1B 巨大な敵 1−11
   2B お使いで聞いたこと 12−23
   3B イスラエルをなぶる者への怒り 24−30
2A 御名による対峙 31−58
   1B サウルからの重荷 31−40
   2B 主の戦い 41−49
   3B 勝利 50−58

本文

 サムエル記第一17章を開いてください。今日は17章だけを学んでみたいと思います。個々でのテーマは、「主を思う心」です。前回から、ダビデの生涯を学び始めています。彼はダビデという名の通り、愛された者であり、何よりも神に愛された者でした。神ご自身のために、王として選ばれ、油注がれた者でした。今日私たちは、少年ダビデと巨人ゴリヤテとの戦いの場面を読んでいきます。そこからまた、ダビデがいかに神に喜ばれる人間であったかを学んでみたいと思います。

1A 主のわざへの吸引 1−30
1B 巨大な敵 1−11
 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。

 士師の時代から顕著になったペリシテ人との戦いが、この時にも続いています。今、ペリシテ人とイスラエル人は、真ん中の谷に小川が流れている二つの丘においてそれぞれが陣営を敷きました。(イスラエル旅行でこの谷を訪ねましたが、乾季には水がないほどこの川は小さいもので、山というよりも丘ぐらいの高さしかありません。)このような配置では、お互いに相手側に攻め入ることはできません。丘から降りて行き、そして相手側の丘を登っていかなければいけませんが、相手側の丘を登っているときに打ち叩かれてしまいます。そこで、対峙したまま膠着しています。

 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織の巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。

 巨人ゴリヤテが現われました。身長が2メートル86センチもあります。ガテ出身ということですが、ヨシュア記11章22節にて、アナク人がガザ、ガテ、アシュドテにわずかに残っていた、という記述があります。アナク人は、イスラエル人がカデシュ・バルネアから偵察しに行ったときに見た、巨大な人間たちのことです。(自分たちがいなごのように見えた、と十人のスパイが言いました。)ですから、ゴリヤテもそのような巨人の一人でした。

 そして、持っている武器がものすごいです。よろいの重さが青銅で57キログラムもあります。槍の穂先の鉄は6.8キロもあります。

 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」

 今、膠着状態にあるなかで、ゴリヤテは、代表戦士が一対一で戦うことによって勝敗を決めようではないか、と叫んでいます。

 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。

 ゴリヤテの目的は、まさにこのことでした。非常に大きな武器を身につけ、その巨体を見せつけ、そして脅し文句を口から吐いて、彼らを恐れさせることが目的でした。戦闘において、心の中の恐れが最大の敵です。これを相手に抱かせることによる心理戦に勝ては、物理的に戦わずして相手が撤退してくれるかもしれないし、戦ったとしても、恐れて混乱に陥っている陣を打ち倒すのは簡単です。ですから、サウルとイスラエル人はまさにゴリヤテの戦法によって、やり込められています。

2B お使いで聞いたこと 12−23
 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。年をとっていたので、戦いには出て行けなかった、ということです。エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出て行った。戦いに行った三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャマであった。ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていた。ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。

 ダビデは戦いに行くのは若すぎました。まだ中高生の年の少年でした。この前話しましたが、ベツレヘム近郊の丘で、アラブ人の少年たちが羊を飼っているのを見たことがあります。純朴そうな、顔を土ぼこりでいっぱいにしているような少年たちでした。ダビデがそのような羊飼いであり、けれども彼は、お兄さんに弁当を持っていくためのお使いのためにサウルのところに出て行きました。

 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て姿を現わした。

 四十日もこのペリシテ人は、しかも朝と夕暮れの二回も、イスラエルの陣をなぶる脅し文句を叫んでいました。ところで四十という数字は聖書の中にたくさん出てきますが、そこに共通する考えは「試す」というものです。ノアの時代、四十日、四十夜の雨が降りました。カデシュ・バルネアから十二人のスパイを送ったときは、かかった日数が四十日でした。そして新約聖書では、イエスさまが悪魔からの試みを、四十日の断食の後に受けておられます。

 
四十日も同じ脅し文句を言われたら、本当にその恐れの中にとどまって、そこから出て行くことはできなくなるでしょう。ちょうど蛇の目に捕らえられたうさぎが、硬直してもう動けなくなってしまうようなものです。同じように、悪魔は私たちの心に恐怖を植え付けます。イエスさまをまだ信じられていない人、また信じた後でもさらに信仰的に一歩踏み出そうとするときに、前に立ちはだかる問題を大きく見せて、圧倒させ、おじげさせてしまいます。「人を恐れるとわなに陥る」と箴言にあり、またヨハネ第一には、「恐れる者の愛は、全きものとなっていない(4:18)」と書かれています。

 エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。」

 戦いのための糧食をダビデは手渡しに行きます。「しるし」とは、確かにダビデが届けた証拠を持って帰ってきなさい、ということです。

 ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。

 ここの箇所は、非常に重要です。というのは、これからダビデはゴリヤテに立ち向かうことになるのですが、その信仰と勇気が、普段の生活の中で与えられたからです。ダビデはいつものように、羊の番をしていました。そして、いつものように父に命じられて、父の言い付けどおりに兄のところに弁当を持っていきました。この日常の生活の中で、彼はたまたま、軍勢が陣地に配置につくところに出くわしたのです。そして、その陣地に行ったら、たまたまゴリヤテが、先ほど読んだイスラエルをなぶるセリフを繰り返していたのを聞いたのです。

 もし彼の心が、普段から主に向けられていなかったら、このような何気ない出来事の中に主の導きにしたがう機会を失っていたことでしょう。彼は、自分が置かれているその場所において主に仕えており、そして主が彼を用いる機会を設けてくださったのです。

 
次の章にヨナタンがダビデに引き付けられて、彼を愛するようになる箇所が出てきますが、私もダビデの姿を見て、非常に引き付けられます。なぜなら、彼は特別に主にある勇士になることを考えていたのではなく、ただ主のことを思うその思いによって動かされて、結果的に主にある勇士になったからです。その主への純粋な思い、どのようなことを行なうことよりも、ただ主の宮に住まい、その麗しさを見て、思いにふけるその思いが彼の人生を支配していました。

3B イスラエルをなぶる者への怒り 24−30
 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。

 ちょっと情けない光景ですが、ひとりの男が出てきたときに、イスラエル全員が非常に恐れて、後ずさりしています。なんか、ゴジラが出てきて、その前で小人のような自衛隊の人たちが震え上がって引き下がる場面を思い出します。

 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。

 ダビデの心は怒りで燃え上がっています。その怒りは、主を思うところから出ています。つまり、ダビデは、このペリシテ人が生ける神を冒涜している、とみなしたのです。イスラエルの人たちが、この大男に震え上がって、彼を殺した者には大きな報酬がある話をしていますが、それは目に見えるもの、または物理的な領域の話です。しかしダビデは、今の状況を、霊の目で、主の目で見ることができました。

 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」ダビデはエリアブから、ほかの人のほうを振り向いて、同じことを尋ねた。すると民は、先ほどと同じ返事をした。

 エリアブは、ダビデの言動を生意気だと見ました。たしかに人間的な目で見れば、ダビデの言動は横柄に聞こえるでしょう。けれども、ここに、偽りの謙遜と、主の前における本当の謙遜の違いがあります。若い時のサウルが今この立場に置かれていたら、「すみませんでした、私はうぬぼれていました。」と素直に謝ったかもしれません。けれども、それは人が言ったことに恐れを覚えて、それに反応しているにしか過ぎず、へりくだったことではありません。ダビデは、ペリシテ人の冒涜の言葉のことを考えていて、人間的な批評や批判に耳を傾ける時間の浪費はできなかったのです。

 またダビデは、人の前でも謙遜であります。自分のことを誤って諌めた兄に対して、「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」と答えています。兄に対して怒りの言葉を吐くことはなく、丁重に反論して自制しています。今のサウルがダビデと同じ立場なら、自分が悪く言われたことで、非常に怒って、そのことをずっと思っていることでしょう。これが、人を恐れる人と、神のことを思っている人の違いです。

2A 御名による対峙 31−58
1B サウルからの重荷 31−40
 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」

 サウルは、非常にもっともな事を言っています。将軍として、現実的かつ冷静な判断です。けれども気にかかるのが、「あなたはまだ若い」と言うことばです。パウロがテモテに言った言葉を思い出します。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(1テモテ4:12)」若いということが、主への奉仕の資格を奪い取ることはありません。そうではなく、信者の模範になっているかどうかが問われます。

 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」

 ここにもダビデの主を思う姿が出ています。彼はすでに主にあって戦っていました。羊の番をしている中で、すでに羊を守るために勇敢にライオンや熊と戦っていたのです。むろんこれは、サムエルが彼に油を注いだときに、主の霊がダビデにとどまったことによるものですが、私たちは、召されたところで、このように聖霊に満たされて、主にある力強い働きをすることができます。聖霊に満たされることは、専従の牧師や伝道師だけでは決してないのです。

 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」

 ダビデは、勝利の秘訣を知っていました。それは、主に対して自分が忠実であれば、主が後のことをしてくださる、という信仰です。羊の番のときに主に仕えるのと、戦士として主に仕える間には、ただ主が言われていることに聞き従うということで何ら違いはありませんでした。しばしば、カルバリーチャペルの牧師たちから教えられましたが、聖書メッセージを語っている相手の人数が数人であっても、また千人の会衆の前でみことばを取り次いでも、何も変わらない。ただ忠実に、真実のことばをまっすぐ説き明かすことだけだ、ということでした。これと、ダビデが言っていることは同じです。

 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」

 主に仕えるときに、私たちはダビデのように、他人から、あるいは自分自身で不必要な重荷を負わせることがあります。例えば、伝道をするには牧師や伝道師のようなしっかりとした訓練を受けなければできない、と考えたり、洗礼を受けるためにタバコや酒を止めなければいけないと考えたり、とにかく主に言われていることだけでなく、人間的な何かを自分に課してしまうのです。けれども、私たちは今の自分の置かれているところで、自分の姿で、そのまま主にお従いすることができます。いや、そうでなければいけないのです。不必要な重荷を課してはいけません。

 ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

 ダビデが使っていたのと同じような石投げを、イスラエル旅行に行ったときに見たことがあります。石を入れるところの皮と、その両端にひもが付いているだけのものです。そして、くるくると回して、片方のひもだけを手放して石を投げるのですが、これは、私たちが想像するような子供の玩具ではありません。ものすごいスピードが出ます。

2B 主の戦い 41−49
 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。

 ゴリヤテにとって、ダビデは拍子抜けでした。なんと紅顔の美少年が、しかも羊の番の格好でやってきたからです。「おれは犬なのか」とゴリヤテは言っていますが、当時の「犬」のことばは人を侮辱することばとしても使われます。そして、自分の神々によってのろった、とありますが、ダゴンの名によってのろったのでしょう。

 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」

 ここは、この17章のテーマになるような言葉です。詩篇の著者は、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(20:7)」と言いました。そしてパウロはエペソ人への手紙で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(6:12)」と言いました。ダビデは自分の戦いが、剣や盾のような物理的な戦いではなく、霊の戦いであることを認識していました。実は私たちの戦いは、いかに自分がいま直面している問題が、物理的、肉体的なものではなく、霊的なものに気づくかどうかにかかっています。悪魔は、キリストの死とよみがえりによって、完全に敗北した者となっています。ですから、私たちがキリストのうちに立つとき、私たちが主の御名によって祈るとき、そのときにすでに悪魔は何も手を出すことができず、ただ退くことしかできません。

 そこで悪魔は、私たちの焦点をずらす戦法を取ってきます。あたかも問題が物理的な、肉的な問題であるかのように見せかけ、私たちを肉の領域に、物理的な領域に引き込もうとするのです。例えば、教会の中で言い争いが起こったら、何とかして自分が仲裁に入って両者を取りまとめようとしますが、かえって問題をこじらせてしまいます。けれども、ひざをついて祈りはじめるとき、主に自分たちが抱える問題を持っていくとき、そのときに初めて私たちの高慢さやその他の罪を聖霊によって示されて、私たちはへりくだることができ、それから悪魔や悪霊どもによって引き起こされた混乱や無秩序が終息に向かうのです。いつ、霊の武器を取り出すかにかかっており、ゆえに私たちは絶えず祈ること、目をさまして、すべてのことに主を認めることが必要です。

 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

 ダビデは、ゴリヤテよりもなお大胆な宣言をしています。ゴリヤテが、おまえを空の鳥、地の獣にしてやると言ったのに対して、ダビデは、胴体を鳥獣のえさに、そしてペリシテ人らのしかばねも、猛禽のえさにしてやる、と言っています。そして、「すべての国が、イスラエルに神がおられることを知る」と宣言しています。この出来事がイスラエルの神をすべての国にあかしする出来事になることを確信していました。

 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。

 「主の戦いだ」というのは、「主に属する戦いだ」というのが直訳です。非常に重要です。自分に属している戦いではなく、神に属している戦いです。これはすべてのことについて言えます。例えば、教会は、その牧師の教会ではありません。だれだれ先生の教会、という言い方がしばしばされますが、それは間違っています。イエス・キリストの教会です。そうすれば、大事なのはだれの意見が通るかではなく、かしらなるキリストのみこころがなることを願うはずです。また、自分自身に無用な重荷や心配事を抱える必要はありません。自分の教会ではなく、神の教会だからです。サウルが、自分の戦いだと思っていたので、イスラエル人たちが自分についているか、ついていないかで一喜一憂していましたが、主に属していることであればそんな心配は無用なのです。

 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

 先にダビデが告白していたように、獅子や熊を倒すように投石したら、見事に命中しました。

3B 勝利 50−58
 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。

 サウルがアマレク人に対してしたように、戦ったけれども生かしておくような愚かなことはしませんでした。完全に死を確認するような形でとどめをさしました。また、これがペリシテ人の陣営に恐れを呼び起こしました。彼らの代表戦士が死んだので、彼ら自身も殺されることを恐れたのです。

 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。

 先ほど読んだパウロのテモテへの手紙の中に、「若いからといって、軽んじられてはいけません。むしろ、信者の模範になりなさい。」とありましたが、ここでダビデの信仰によって力づけられて、多くのイスラエル人が勢いをもってペリシテ人を倒すことができました。

 ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。

 敵が死んだことを記念するために、首を取って持ち歩きました。私たちにも必要です。敵である悪魔が、すでに敗北していることをつねに思い出し、また私たちの肉が、すでにキリストの十字架とともにつけられて、死んでしまっていることを知って、それを生活の中でも覚えておきます。

 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。

 すごいですね、ゴリヤテの首を持ち歩いて、王のサウルの前に出てきました。

 サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」

 前の章16章にて、サウルのところにすでにダビデは、立琴をひいていました。その時に家来から、ダビデの名が告げられていたのですが、サウルはおそらく忘れてしまっていたのでしょう。とくに、彼の父の名は思い出せなかったのかもしれません。今や勇士のダビデにサウルは興味を持ちました。

 こうしてダビデの信仰とその勇敢な戦いを見ることができましたが、大事なのはダビデがどのような見方をしていたかでした。彼は自分と敵を比べていませんでした。もし比べていたら、到底、勝算の見込みはありません。けれども、彼は神と敵を比べていたのです。三メートル近い巨人であっても、イスラエルの陣営の神である主と比べたら、取るに足りないものです。私たちが問題に直面するときに、その問題を見るでしょうか、それとも、その問題を無きものにしてくださる主を見上げるでしょうか?大事なのは、ダビデのような主のことを思う、その思いです。そして主を思うところから出てくる信仰と大胆さです。ヘブル書10章には、恐れ退く者は滅びるが、信じる者はいのちを保つ、とあります。敵や人、問題を恐れるのではなく、主を恐れ、主のことを思いましょう。


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