サムエル記第一導入 「ダビデの生涯」

アウトライン

1A 預言的発展
   1B 新しい神の民(アブラハム)
   2B 新しい神の国(ダビデ)
2A 歴史的背景
   1B 士師記のあとがき
      1C ダン族の北上(1718章)
      2C イスラエル・ベニヤミン内戦(1921章)
   2B ルツ記

本文

 今日からサムエル記を学びたいと思いますが、今日はもしかしたら導入で終わってしまうかもしれません。聖書全体から、そして私たちの救い主イエス・キリストを知るために、二人の偉大な人物がいます。一人がアブラハムで、もう一人がダビデです。新約聖書の最初の言葉は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1」となっています。そして私たちが間もなく迎える主の聖誕は、「ダビデの町(ルカ2:11」ベツレヘムで起こりました。神のキリストをこの世に現すために、主はダビデとまたアブラハムをお選びになりました。

1A 預言的発展
1B 新しい神の民(アブラハム)
 私たちは、アダムとエバが罪を犯してから罪が世界に入ったことを知っています。神がそこで与えられた約束は創世記315節にありました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15」女の子孫に対して、主は蛇が行った仕業である、エバを惑わし、そしてアダムに罪を犯させたその業を粉砕する働きを与えられました。この子孫こそがキリストであり、その後の創世記の話は「子孫」に対して救い主、メシヤを待ち望む期待がかけられました。

 初めにカインとアベルが生まれ、エバはカインこそが主キリストであると思いましたが、キリストどころか信仰によって神の前に出た弟アベルを打ち殺しました。カインの子孫はノアの時代の背景にある、暴虐な人々となっていきます。けれども主はアダムとエバに新たな子孫を与え、セツと呼ばれました。セツの子孫の系図が5章にあります。それはノアまで続き、ノアの父レメクは彼にキリストの期待をかけたのです。「この子は慰めを与えてくれるだろう。(創世5:29

 ノアによって確かに、洪水から救い出されましたが、彼がキリストではありませんでした。彼の息子セム、ハム、ヤペテから子孫が数多く増えましたが、彼らはバベルにおいて塔を建てて神に反逆しました。それで言葉を神がばらばらにされ、彼らは地に散っていったのです。そこで形成されたのが民族です。

 主は、この民族という単位から救いの業を始められます。セムの子孫にテラという人がいました。バベルがあったシヌアルの地にウルという町がありましたが、そこで月の神を拝むテラの家族の一人であったアブラムを呼び出され、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12:1」と命じられたのです。そこで彼はユーフラテス川を越えて、偶像ではなく、天地を造られたまことの神を信じて出て行ったのです。「ヘブル人」は「越える」という意味で、偶像礼拝の町から越えて、まことの神につながることを意味します。

 そしてバベルの町から離れて、神は後にエルサレム、つまり「神の平和」と呼ぶ都を打ち立てられるのです。そのエルサレムを初めに建てたのがダビデであります。黙示録には、キリストが地上に再臨される直前に、滅ぼされる都が出てきますがそれがバビロン、つまりバベルのことです。そしてキリストが再臨されてエルサレムを都とされ、新天新地においても新しいエルサレムを与えられます。

 このアブラハムに対して主は、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記12:3」と約束されました。民族という単位の中で、主はアブラハムをご自分の民の父祖とし、その子孫からキリストをもたらす計画を立てられていたのでした。

 アブラハムの生涯から私たちが学ぶことのできるのは、一言「信仰」です。そして信仰によって生きるために必要な「神の恵み」を教えます。彼の歩みは完全とは到底言えないものでした。しかし、彼は主の招きに応答して、信仰の歩みをしたということだけで、彼を義と認め、祝福を与えることをお定めになったのです。彼が失敗しても神は祝福を絶やすことがありませんでした。その圧倒的な恵みのゆえに、彼は主に試されても、それでも従い通すことができたのです。

 その結果彼が証ししたのは、「キリストの十字架」だったのです。父なる神が愛する独り子イエスをお捧げになることを、彼の独り子イサクをささげさせることでお見せになりました。そして、その場所もエルサレムのモリヤの山、後に神殿が建てられるところで捧げさせようとされたのです。

 このようにアブラハムを学ぶことは、信仰と神の恵みを学ぶことであり、そして彼の子孫として来られるキリストを学ぶことであります。

2B 新しい神の国(ダビデ)
 そしてアブラハムの後に、イスラエルはエジプトという試練の時代に入ります。そこから出てきて、アブラハムに神が約束された地に住むことができるという神の贖いの計画が、アブラハム自身にも示されました。アブラハムの子イサクの子ヤコブは、エジプトにおいて死ぬ直前に、遺言であり、かつ預言である、イスラエル十二部族への言葉を残したのです。

 ユダに対するヤコブの言葉を読みましょう。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世49:9-10」王が彼から出てくること、そしてそこから統治者の杖が、そしてシロとありますが、これはメシヤを表しています。メシヤによって国々、つまりアブラハムにも与えられた諸民族に対する預言があり、彼らもこの王に従うという預言です。そしてダビデはユダ族から出た王となり、彼の世継ぎの子がキリストになるという約束を受けました。

 したがって、神の救いは王国を建てられることによって、その王をキリストにすることによって、救いの御業を行うことを定められたのです。まず、この方を自分の生活と人生の王とし、この方を拝む礼拝者とし、それから全世界の王として君臨することを願われています。

 したがって私たちは、罪から救われるとは、まずキリストを信じて、神の恵みの中に生きるということが第一にあります。そして、キリストを自分の王としていきることを次に意味します。つまり、礼拝することです。これが神の国の構成員の姿であり、神の主権の中で拝する姿が、救いを得た者の姿なのです。

 ユダに対してこのような大きな約束を神は与えられましたが、ヨセフに対しても豊かな祝福を神は約束してくださっています。「あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。(49:25-26」南に一番大きなユダ族が約束の地に住むようになりますが、北の代表的な部族はヨセフの子エフライムの部族になります。そして、サムエル記第一1章1節を見てください、サムエル記の初めの舞台は、エフライムであります。

2A 歴史的背景
 そして、モーセがイスラエルの民を率いて、ついに約束の地に後継者であるヨシュアによって入ることができました。その死後の時代を教えているのが士師記です。士師記は、ユダ族に対して残るカナン人の町を攻め取りなさいという命令から始まります。けれども、すべての山地を攻め取ることはしませんでした。次いでヨセフの一族も攻め取りましたが、すべてを打ち滅ぼすことはしませんでした。他の部族もそれに続き、ついにその残された住民が彼らに影響を与えて、彼らが住民の拝む偶像を拝むようになりました。それでイスラエルの民はその周囲の敵に虐げられることになります。

 神は、士師と呼ばれる救助者を遣わされました。その圧迫から救い出す軍事的指導者を立てられました。けれども、その中でその士師でさえ、例えばギデオンも晩年は偶像に手をつけ、エフタは娘を全焼のいけにえとして捧げてしまい、そしてサムソンはナジル人として生まれたにも関わらず、ことごとくその誓いを破り、女によって滅ぼされました。

1B 約束の地における国
 そして士師記には「あとがき」があります。16章で、サムソンの生涯が終わるところで士師記は終わるのですが、あとがきがあるのです。そこに出てくる主題は、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(士師17:6」であります。この言い回しが何度となく、17章以降に出てきて、士師記最後にも、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(21:25」でしめくくられています。

 この「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なった」という話が二つ17章以降に書かれています。私たちはいかがでしょうか、多くの人々は「絶対的真理などは存在しない。人それぞれが正しいと思うことを行なえばよいのだ。」という考えを持っています。そうした相対主義を大学の教授が授業中に話しました。それで学生が前に出てきて、彼の用意していたノートをびりびりに破り、彼を平手打ちをし、教授は「何をするのか!」と怒りましたが、学生は「自分が正しいと思うことのみしか存在しない、といったのはあなたではないですか。」と言い返しました。

 誰にでも共有する真理があるからこそ、人は秩序と平和をもって生きることができるのに、愚かなことに相対であると教えたことによって、この社会は混沌に満ちています。その姿を17章以降に、二つの逸話によって知ることができます。

 そしてもう一つ。この言葉には「イスラエルには王がなく」とあります。それゆえに、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていたのです。これは明らかに、後に立てられるダビデを意識しています。神が王ダビデを立てられることによって、神ご自身の民を支配される国を造られるというご計画がありました。サムエル記第一においては、初めに民はサウルという王を立てましたが、それは彼ら主体の王であり、サウル自身が神に背いたので、神は退けられました。けれども、民ではなく神ご自身が選ばれて、油注がれたのがダビデです。ダビデが選ばれていたのですが、人の世界では依然としてサウルが王であったので、ダビデが追われる人生を歩むのがサムエル記第一の後半に当たります。そしてダビデが実際に王位に着くのがサムエル記第二になります。

1C 士師記のあとがき
 このダビデとサウルの出身地が、17章以降の二つの逸話の中に登場します。そしてサムエル記第一の初めの舞台であるエフライムの山地も、逸話の舞台の一つです。

1D ダン族の北上(1718章)
 17章と18章には、エフライムの山地にミカという人がいました。話がめちゃくちゃなのですが、彼が母親の銀を盗みました。それを正直に告白すると、母親は喜んでその銀の一部を使って偶像を造り、それを主なる神に捧げたものだと言います。

 そしてユダのベツレヘムの町出身の祭司が出てきます。ダビデが生まれる町です。そこから、エフライムの山地に滞在しようとしたら、ミカが彼を自分のためのお雇い祭司にしました。私は以前、ある未信者の方から、再婚の夫婦の結婚式を自宅で挙げてくれ、と頼まれたことがありましたが、公に出来ない引け目のある司式はすることはできないと思い、断りました。また、二人とも信仰を持っていないのですから、それもできないことの理由です。けれども、そういう状況だったのです。

 そこにダン族が来ました。彼らは、ベニヤミン族の南西に相続地が割り当てられていましたが、ペリシテ人がいてすべてを取ることができず、土地が狭かったので北上して北の端にあるライシュという町を攻略しました。その時に、ミカの家にいた祭司をダン族は奪い取ったのです。そのレビ人自身も、一人の祭司よりも、一部族の祭司になれる昇進を喜んで受け入れました。けれどもダンは、その新しい所でミカの造った彫像を立てて、それを拝んでいました。

 話の終わり、18章の最後にこう書いてあります。「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。(31節)」このシロは、サムエル記第一13節に出てくる、サムエルの家族が年ごとに主を礼拝しにいく、幕屋が置かれていたところです。

2D イスラエル・ベニヤミン内戦(1921章)
 そして19章以降には、とんでもない事件が起こります。先ほどの話と同じく、エフライムの山地にレビ人が滞在していました。彼自身ではなく、彼のそばめがベツレヘム出身でした。ダビデの出身地ですね。彼女が彼を嫌い、自分の父のもとに行ってしまったので、彼は引き取りにいきました。そして、エフライムに戻ろうとした時、ベニヤミンの地にあるギブアという町で宿泊しようとしました。そしてこの町が、後にイスラエルの民が選ぶ王サウルの出身地です。

 ところが、だれも二人を泊めてくれる人がいません。たまたま、エフライム出身の老人が、ギブアにて、彼が滞在している家に二人を迎えました。すると、そこにいるベニヤミン人たちがなんと、かつてソドムの町の住民が行なったように、「あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。(19:22」と叫んだのです。ところが、そのレビ人はかつてロトが行なおうとしたことを行ないました。自分のそばめを引き出したのです。そしてその女は夜通し陵辱を受け、それで彼が朝起きて、「立ちなさい。行こう。」と言ったのですが、反応がありませんでした。もう死んでいたのです。

 そして、彼は彼女を十二の部分に切り分けて、それをイスラエルの国中に送ったのです。それで20章、21章には、全イスラエルとベニヤミン族の全面戦争を描いています。ベニヤミンに対して、犯罪人を引き出せと詰め寄りましたが、彼らは引き渡すどころかイスラエルに対してギブアから戦いを挑みました。初めの二つの攻撃は、イスラエルがことごとく敗れました。二万二千人、一万八千人をそれぞれで失いました。けれども三度目にベニヤミンをおびき寄せ作戦によって伏兵によって打ち破ることができ、一万八千人のベニヤミン人が死にました。なんと残るは六百人しかいませんでした。

 そしてイスラエルは、ベニヤミン族の存亡を嘆きました。それで苦肉の策を二つ考えました。戦いに出てこない者たちは殺すという誓いを立てていたのですが、ヨルダン川の東にあるヤベシュ・ギルアデからは兵を出していませんでした。そこで、彼らはその町の住民を、処女を除いてみな殺したのです。その処女の人数が四百人です。彼女たちをベニヤミンの男たちに与えました。

 けれども、あと二百人足りません。そこでシロにおいて、主への祭りに若い女たちが踊りをしにくる時に、そこにいる娘たちを奪い取るように二百人のベニヤミン人に言いました。そしてその父親があとで苦情に来ても、「あなたがたも娘を彼らに与えませんでした(21:22」と言えばよい、と言っています。つまり、父は娘をベニヤミンに与えたのではなく、奪い取られた。したがって、ベニヤミンに娘を与えたという責めを免れることができる、ということです。帳尻合わせも良いところで、この逸話全体に、女性の人権また人間の生命そのものが極めて軽視されている姿を見ます。

 こうして、レビ人またレビ人のそばめがベニヤミンから来た、という話がありました。後にダビデは、レビ人に神の箱を運ばせ、エルサレムに向かわせます。そしてレビ人に、後に建てられる神殿における礼拝賛美と門番を命じます。レビ人の奉仕は回復し、神への礼拝をダビデは確立させたのです。

 そしてベニヤミンのギブアでは、とんでもない犯罪が行なわれましたが、それが、サウルが出た町でした。このように、人が選んだサウルと神の選ばれたダビデの対比を、士師記の後書きは行っているのです。

2C ルツ記
 さらに、ルツ記があります。ルツ記は同じく士師の時代に起こっていますが、舞台はベツレヘムです。そこにいたエリメレクの家族が飢饉のためにモアブに行きます。父は死に、そして息子二人も、嫁を娶った後に死にます。残されたのはエリメレクの妻ナオミと、息子二人の嫁オルパとルツだけです。神がベツレヘムを顧みてくださった知らせを聞き、ナオミはベツレヘムに戻ろうとしますが、オルパはナオミの説得でモアブの親の家に戻ります。けれどもルツは、こんな告白をしました。「ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。(ルツ1:16-17」彼女はモアブ人でありながら、自分の民を捨てて、そして自分の神をイスラエルの神にする決断をしたのです。

 そして、ベツレヘムで出会ったのがボアズです。彼女が落ち穂拾いをしているところが、エリメレクの親戚でボアズの畑でした。ボアズは彼女によくしてやり、そしてナオミはルツにボアズにプロポーズをすることを言いつけます。ボアズはその申し出を快く受け入れました。そして、ボアズは、エリメレクの畑を買い戻すと同時に、エリメレクの亡くなった息子の義務を果たすために、やもめのルツを自分の妻にしたのです。

 そしてルツ記の最後には系図があります。それはユダの息子ペレツからボアズに至るまでの系図と、ボアズからダビデに至るまでの系図です。ルツはモアブ人であったにも関わらず、イスラエルの神に服し、そしてその子孫としてダビデが生まれました。そしてボアズの土地の買い戻しとルツを自分の妻とするところに、神がキリストにあって行われる世界の贖い、そして教会との婚姻を示してくださったのです。そして、ユダヤ人でありながら、異邦人の血も入っているダビデは、後にユダヤ人のメシヤでありながら、諸国民の信じる王となっていくキリストの姿にもなっていくのです。

 ユダに対するヤコブの預言にも、諸国民が王権に従うことが書かれていましたね。ダビデの国にも、異邦人が彼に仕える姿が出てきます。そして今、私たち異邦人が、キリストを主として仰ぎ、この方に仕える姿をもって、ユダへの約束の一部が実現しているのです。そして、キリストが地上に再臨されたときに、このことは完全に実現して、物理的にキリストがイスラエルを中心とする統治を行い、世界中の民を治める方となります。

 ダビデの生涯をこれから学びます。もちろん、その前にイスラエルを神に立ち上がらせるために用いられるサムエルの生涯、そして民の要求によって立てられたサウルの生涯を学びます。ダビデは戦いの勇士として有名な人ですが、私はその中心は礼拝であったと見ています。彼は権威というものをいつも意識していました。自分が何かを行うのではなく、すべてのものは主から来るという信仰を持っていました。自分は王として選ばれたけれども、自分自身は神を王と仰ぎ見て礼拝することを求めていました。そこに彼の柔和さがあり、へりくだりがあり、それゆえ神は彼を御心にかなう者とみなされました。

 みなさんは、王キリストに服しておられるでしょうか?最後に、クリスマスに関わる御言葉を開きたいと思います。ルカによる福音書13133節です。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」クリスマスは、この方に服し、拝する時です。私たちが持っている葛藤をこの方にすべて委ねる時です。これからダビデの生涯を学びますが、真に礼拝者となるための備えとなることを祈り求めます。

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