1サムエル2042節 「友の契約」

アウトライン

1A ヨナタンの契約
   1B 愛の結びつき
   2B 他者への犠牲
   3B 心の分かち合い
   4B 永遠の誓い
      1C サウル家への真実
      2C キリストの型
2A イエスとの契約
   1B 命を捨てる愛
   2B 自分のことの分かち合い
      1C 友への知らせ
      2C 兄弟になる主

本文

 サムエル記第一2042節を開いてください。私たちは午後に19章から21章まで学んでみたいと思います。今朝は、2042節から「友」という言葉を中心に聖書を見ていきたいと思います。

ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

 私たちは前回、サウルがダビデを疑い、殺意を抱き始めたことを読みました。彼をペリシテ人の手に陥れるよう、いろいろ画策しましたが、ダビデはかえって大勝利を収め、サウルはますます彼を恐れるようになりました。そこでサウルは、ダビデを殺すことを公言したのです。家来と息子ヨナタンに話したのです。ヨナタンが父をその時は説得して手を出さないようにさせましたが、サウルの狂気はさらに酷くなりました。彼に再び槍を投げ、ダビデは逃げたのです。けれどもサウルはダビデの家までに使者を遣わし彼を殺そうと思いましたが、妻ミカルの助けによって難を逃れます。そして預言者サムエルのところに逃げましたが、そこにもサウルは追ってきました。

 そうしてダビデはヨナタンのところに戻ってきたのです。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。(20:3」と明かしました。そこで二人は、サウルがダビデに本当に殺意があることを確かめるために、新月の祭りの食事の席をダビデが空けることによって、サウルが気を害するかどうかを見ようということになりました。サウルは、ダビデを本当に殺そうとしていることが分かりました。そこでヨナタンは密かにダビデにそこのことを告げて、彼は逃亡生活を始めます。

 二人は友情を互いに抱いていました。そして契約を結び、主にあって誓ったのです。その誓いを繰り返したところが、今読んだ箇所です。この後、二人は別れ別れになり、一度だけ顔を合わせますが、ヨナタンはサウルと共にペリシテ人の手に落ちて死にました。けれども、ダビデはヨナタンに誓ったとおり、その子息に対して誓いを果たしていきます。

1A ヨナタンの契約
 私がしばしば、自分自身に対して、また他の人から問われる質問で、はっとすることがあります。それは、「自分には友達がどれだけいるのか?」ということです。この時に問われるのが、「友達」の定義です。いつもから付き合っている人であれば、私はたくさんいます。今はフェイスブック等、インターネット上だけでも付き合っている人を「友達」と言っていますから、そうした意味ではたくさんいます。

 そしてもちろん、同労者も多くいます。同じ労苦をしているので、宣教師や牧師との交わりはかけがえのないものです。けれども友と呼ぶことのできる人は、限られています。昔からの付き合いがある人、心を割って話すことのできる人というのは少ないでしょう。そうした同労者ではなくとも、アメリカでいつも私たちが訪問する度に顔を合わせてくれる人、慰めと励ましの言葉を持っている人であれば、私は友情を抱くことができます。そして何よりも、妻が私の最愛の友であると言えるでしょう。ある結婚夫婦のための集まりで、「妻が最良の友になっていなければいけない。」という勧めを聞きましたが、それには本当に同感します。

 そして私は、教会の皆さんに対して友でありたいと願っています。牧師と信徒というのは、その日本語によって誤解されがちな師弟関係ではありません。イエス様は、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。(新共同訳 マタイ23:8」と言われました。使徒ヨハネが次のように言っている言葉に共感します。「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。(黙示1:9」ヨハネ自らが、他の信者たちが通っているイエスにある苦難と御国と忍耐を共有しています。皆さんが通られている所に、祈りをもって共にいたいと願っています。そして、その通っているところに御言葉によって励ましと慰めを与えていきたいと願っています。

 興味深いのは、ウィキペディアのあった「友情」の説明でした。こうあります。「友情は、共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと。友達同士の間に生まれる情愛のこと。しかし、それはすべての友達にあるものではなく、自己犠牲ができるほどの友達関係の中に存在する。」最後の「自己犠牲ができるほどの友達関係」というのが、なるほどと思いました。さらにある心理学者の定義によると、友情には、「役に立つ友情」や「目的志向の友情」がありますが、そのままの意味としては「特定の目標、目的、利用を追い求めることなく、ただ何かの機会に知り合って、互いによく熟知し合ったという友人。この関係の中での利害は伴わず、ただ友情それ自体が目的になっている。」ということです。麗しいですね。

 そこで私たちは、聖書の中にある友情の模範を見たいと思います。それが、ヨナタンとダビデの中にある友情です。

1B 愛の結びつき
 ダビデとヨナタンとの結びつきは、前回学びましたように、ゴリヤテをダビデが倒したところから始まります。「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。(18:1」とありました。

 ヨナタンは、神をする勇士でした。自分と道具持ちだけでペリシテ人に立ち向かいました。それは神が、少人数によっても大人数によっても、戦われると決めておられるならば関係がない、という信仰によるものでした。その信仰を数倍も豊かに持っていたのがダビデです。剣を持たずに、石投げによって巨人ゴリヤテを打ち倒したからです。神を愛するがゆえに、神の愛する世界に生きているダビデにその心が結びついたのです。

 この愛は上から与えられる賜物であり、自分ではなく主によって抱かせていただいているものです。先日、米国系韓国人の宣教師の方が日本に来て、多くの祈りを日本のために捧げている奉仕について証しをされました。彼は、日本に特に興味があったわけではないと言っています。けれども、米国にいた時にどうしても祈らされることがあったそうです。どう考えても、自分自身ではなく神から来た愛であると話しておられました。

 そして大事なのは、ヨナタンが抱いた愛は単なる感情ではなく、自己犠牲の愛です。「自分と同じほどにダビデを愛した」とあります。主が語られた神の掟と同じです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(マタイ22:39」その証拠に、ヨナタンはダビデに上着、鎧兜、さらに剣、弓、帯までも彼に与えています。自分にとって最も大切なものをダビデに与えてしまったのです。この上着と武具は、まさにヨナタンが自分に将来与えられる王位をダビデに引き渡した行為であります。ヨナタンはサウルの後継者であるはずでしたが、ダビデを神がイスラエルの王として選ばれていることを知り、それで全てのものを彼に捧げようとしたのです。

2B 他者への犠牲
 そして183節を見ますと、「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。」とあります。彼は、一時的に自己犠牲の愛を示すことはできました。けれども彼はそうではなく、大きな決意をしています。ダビデと契約を結んだのです。自分のようにダビデを愛することを、契約として守っていくことを約束したのです。

 一時的な自己犠牲であれば、自分に都合が悪くなればそこから手を引くことができます。けれども契約となれば、どんな状況であっても一貫してその愛を示していかなければいけません。ですから男女関係において、結婚という誓約があります。逃げ道はないのです。けれども、愛はそれをいやいやながらではなく、喜んで行なうようにさせる力を持っています。

 事実ヨナタンは、父サウルがダビデを殺すと公言した時に、父に逆らってまでもダビデをかばいました。これは、父サウルをも敬っているヨナタンとしては極めて辛い行動でありますが、彼はそれでもダビデを弁護したのです。そして、20章ではダビデの方から、自分は死とただ一歩の隔たりしかないと言われます。そして、父が未だ殺意を捨てていないことを確かめ、かつ彼を逃すことを、他の人々に知られないようにして逃さなければいけません。これは大変危険を伴うことです。それでもヨナタンは行ないました。ダビデと契約を結んでいたからです。

 私は、たとえ完璧でなくとも、契約とまでいかなくともそうした誓いがなければ友情は育まれないと思います。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17」ヨブの友人三人のことを思います。友人のことは、もちろんその助言が慰めではない、実に的外れなものではありましたが、彼らはヨブが全てを失って、自分の体も重い皮膚病で苦しんでいる時に、何も言えずに一週間、彼と共にいたことが書かれています。それから、彼らはヨブに対して辛辣なことを言いましたが、最後は主に諭されて、彼に赦しを請いに行くのです。和解をしています。たとえ自分たちの至らなさで確執が生じようとも、それで結ばれた絆を断ち切るというのであれば、元々友であったのか?ということになるでしょう。

3B 心の分かち合い
 そして、ヨナタンとダビデは自分の心を分かち合う仲でありました。このやり取りは20章でじっくりと見ていくことができます。王がダビデに対して殺意を持っているかどうかを、互いにどのようにして意思伝達するのかを提案しています。もしこれが第三者に知れるところになったら大問題になります。けれども、それだけ二人は互いを信頼して、自分の心の内にあることを明かしています。

 「友」という言葉を使う時に、聖書では「明かす」であるとか「語る」という行為が行われています。例えばモーセについて、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。(出エジプト33:11」とあります。他の者には幻や夢の中でご自身を示すことがあるかもしれないが、モーセについては顔と顔を合わせて、明瞭に伝えておられました。だから、モーセは律法をあれだけ詳細に書き記すことができたのです。もう一人、ヤコブ書で「神の友」と呼ばれたアブラハムに対して、神は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世記18:17」とあります。

4B 永遠の誓い
 そして、この誓いは永遠に続くことを、この本文で明らかにしています。

1C サウル家への真実
 ヨナタンは、このようにダビデにお願いしています。「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。(20:15」ヨナタンは、ダビデがイスラエルの王となり、彼が王座に着くことを知っていました。通常であれば、王の権力闘争の中で、負けた王家の一族は皆殺しにされます。けれどもヨナタンは、ダビデの恵みが永久に彼の家から断たないでください、とお願いしているのです。

 ダビデは、ヨナタンの死後これを実行しました。ヨナタンにメフィボシェテという息子が生まれます。けれどもイスラエルがペリシテ人によって打たれている時に、乳母があまりにも急いで逃げたため、メフィボシェテを落としてしまい彼は足なえになってしました。ダビデは自分の王国が確立すると、その初めに彼を自分の食事の席に着かせて、またサウルの地所を彼に回復させたのです。そして、はるか後に彼が死刑になる危険が来ましたが、ダビデは彼をかばって殺さないようにしました(2サムエル21:7)。

2C キリストの型
 しかし、これだけでなら「とこしえ」という言葉を使うのは大げさです。一生の間、と言い換えたほうが良かったです。けれども、ここに「とこしえ」という言葉を使っているのは、ヨナタンがダビデに対してダビデ本人を超えたものを信仰によって見ていたと考えられます。すなわち、ダビデの子キリストを見ていました。彼が、「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。」と言った時に、それは「滅ぼされるに価するけれども、恵みによって生かしていただく。」というキリストにある恵みを見越していたのです。「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。(ローマ5:15」本来ならば罪の罰を受けてしななければならないのに、イエス・キリストの恵みによって、義と認められ、生かされていくということであります。それがとこしえまで続く、永遠の救いになるのです。

2A イエスとの契約
 そこで私たちは、イエス・キリストご自身が友であることを知らなければいけません。

1B 命を捨てる愛
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:13」主は、私たちのためにご自身の命を捨ててくださいました。それは、私たちを友とする最大の行為でありました。けれども、それは単に十字架での死だけで終わるものではありません。弟子たちにご自身の愛を示していかれて、その生活の延長として十字架刑がありました。命を捨てるというのは、そうした全ての自己犠牲を含みます。

 主が友として弟子たちに示された行為は、彼らを選ばれたことです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16」主は選ぶという決断をされました。何となく気が合うから付き合うようになったのではなく、ご自身で意識して選び取ってくださり、その選びに責任を取ってくださったのです。彼らの生活と人生に実を結ばせるところまでの責任を取ってくださいました。

 ゆえに、主は弟子たちを最後まで決して見捨てず、耐え忍んでくださいました。弟子たちが、あまりにも頓珍漢なことを言うことは、何度となくありました。悟るのに鈍いことが実に多かったのです。主は、弟子たちを高く見ておられ、彼らを祝福しているときでさえ、彼らが他の群集と同じぐらいの理解力しかなかったことが分かっても、失望せずに、忍耐して教えておられました。

 主が高い山に行かれて、それから降りてこられたときに、悪霊につかれた男の子から悪霊を弟子たちが追い出せないのをご覧になりました。そしてこう言われました。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。(マタイ17:17」これは、イエス様の弟子たちに対する個人的な苛立ちではなく、彼らを不信仰にさせている世の中に対する憤りを表しています。そして弟子たちが尋ねた時には、「信仰が薄いからです。」と丁寧に答えておられます。相手がどのような反応をしようとも、同じように教えていく、その忍耐にイエス様が彼らを友とみなしておられたことが分かります。

 実にイエスは、裏切り者イスカリオテのユダに対してまでも友とみなしておられました。「イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。(マタイ26:50」相手がどう反応するかによって、弟子を友にするという契約を変えられなかったのです。

 そして友とは、あからさまに責めることがあります。箴言に大切な言葉が二つあります。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(27:5」「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(27:17」主は、弟子たちを友として愛しておられたからこそ、はっきりと語られることが数多くありました。

 例えば、「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4」ゲヘナ、永遠の燃える火の池があることをイエスは臆することなく、弟子たちに語られました。それはイエス様にとって弟子たちが友であられたからです。主が十字架への道を進まれることを、はっきりと語られた時にそれを諌めたペテロに対して、「下がれ、サタン」とはっきりと言われました。本当に愛している人のためには、逡巡しても伝えなければいけない真理があります。それを隠すのであれば、その人が滅びに至るからです。

 そして何よりも、主は弟子たちに約束を守られました。ご自身が十字架につけられて、三日目によみがえられることを弟子たちに何度も告げられました。そして、それを確かに果たされました。そして復活後に、彼らに確かにそのように語ったことを確認させました。これが弟子たちを友としていることの大きな証拠です。主は、新しい契約を弟子たちと結ばれています。ご自身の裂かれた肉、そしてご自身が流される血をもって、弟子たちに罪の赦しを与える契約を結んでくださったのです。ここまでして、キリストを自分の主として受け入れた者には尽くしてくださるのです。

2B 自分のことの分かち合い
1C 友への知らせ
 そして、友として主は弟子たちにご自身について深いところを明かされました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15」友であるから、ご自身のことを隠したままにしていることはできません。

 主は興奮しながら、天の御国の奥義について弟子たちに語られました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17」弟子たちは、とてつもない特権を受けていました。旧約時代の数々の預言者や義人たちが受けていた啓示について、本人たちが悟ることのできなかったものを、今、キリストにあって悟ることができていることです。相変わらず弟子たちは悟ることはその時はできていませんでしたが、復活し、御霊が彼らに下ってからは、彼らの語る神の真理が教会の土台となっていったのです。

2C 兄弟になる主
 そして、主はとんでもないことを弟子たち、そして信じるすべての者たちに行なってくださいました。主がよみがえられた時、マグダラのマリヤがイエスだと分かると彼にしがみつきました。主が言われた言葉はこれです。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。(ヨハネ20:17」主は、弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでおられるのです!弟子にとってイエス様は主ご自身に他なりません。そして、神であられる方であります。ところがイエス様は、ご自身を弟子たちの兄弟とし、そして彼らの神をご自身の神、彼らの父をご自身の父として、弟子たちの持っている神との関係をご自身も同じくされました。ヘブル書211節に、「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあります。

 これはどういうことか?主が、父なる神にあって持っているものを友である彼らに分かちあっておられる、ということです。ご自身が父なる方と交わりを持っています。その御子と御父の交わりを、キリストにあって信じる者が神を父と呼ぶようにさせてくださったのです。御子は父からのものの一切を受け継いでおられますが、信者はキリストにあって神の相続者となりました。御子は世界の王なる方であり、天において大祭司であられますが、信者がキリストにあって王であり祭司としてくださいました。このように主は、私たち信じる者にご自身が御父と持っているものを分け与えておられるのです。

 ゆえに主は、信じる者たちの「長子」と呼ばれています。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29」ここまで主はへりくだられて、神の身分であるにも関わらず、私たちと同等になってくださいました。長子として私たちキリスト者を代表しておられますが、それに続く者たちは、キリストにあって神からの祝福を直接受け取ることができるようにされています。

 このイエスが、皆さんに対して「友となる」と言われているのです。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:14」イエス様の命令を守るとは、一義的にこの方が友として私たちに接しておられることを、快く受け入れることです。この方が確かに、自分のために命を捨てるほど愛してくださったこということを受け入れることです。この方が忍耐して、私たちのうちに実が結ばれるまで見捨てることなく対処しておられること、この方にあるすべての霊的祝福が、私たちにも備えられています。

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