サムエル記第一4章34節 「形と中身」

アウトライン

導入 − ある被災者の回心/私の父の葬儀

1A 初歩的な神の知識
   1B 理解できぬ出来事
      1C 主の前に出ない心
      2C 自分の方法の先行
      3C キリスト教式お守り
   2B 神のおられない熱狂
   3B 去っていく神の栄光
2A 成熟した神の知識
   1B 主の御座
      1C 至聖所(天)
      2C 大祭司(キリスト)
   2B 契約が動く時
      1C 命令と信仰
      2C 神の裁き
3A 形と中身の関係
   1B 中身から形へ
      1C 神の言葉による人格的関係
      2C 心と口による告白
      3C 真実な行ない
   2B 教会の活動と礼典
      1C 使徒の教え、祈り、交わり
      2C バプテスマとパン裂き
      3C キリストの賜物と御霊の賜物
      4C 「卵と卵の殻」の例
   3B 中身を飛ばした形式

本文

 サムエル記第一4章を開いてください。34節を読みます。

3 民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」4 そこで民はシロに人を送った。彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱をかついで来た。エリのふたりの息子、ホフニとピネハスも、神の契約の箱といっしょにそこに来た。

 私たちは前回、サムエルが神の幕屋に仕えていたけれども、神がサムエルに預言の言葉を与え、それがエリの家が裁かれることを読みました。その神の裁きが、4章に出て来ます。それは、イスラエルが宿敵ペリシテ人と戦っている時です。ペリシテ人と戦って、約四千人が死んでしまいました。なぜ主がこのように打たれたのだろう、と嘆いています。そして、「ああ、そうだ!神の契約の箱を持っていけば、主がそこにおられて、我々のために戦ってくださる。」と思いつき、神の箱をシロから運ばせてきたのです。そして結果は惨敗、四千人ではなくはるかに多い三万人が打ち負かされ、また疫病でも倒れました。その時に神の箱はペリシテ人に奪い取られ、エリの二人の息子も殺されたのです。

 神の箱さえあれば、そこに神の力が働くと考えた彼らの思いは、ことごとく砕かれてしまいました。

導入 − ある被災者の回心/私の父の葬儀
 興味深いことに私たち人間は、宗教的な用具を持っていくとそこに何かが働くと思ってしまうようです。ある津波被災者がいます。彼は数多くのクリスチャンによる援助を受けました。キリストには、これまでの自身の信じる神仏とはかなり違う存在だと分かりました。それで彼は感動して、津波で流された家の跡地に、お世話になっている教会の人に「そこに大きな十字架を打ち立てたい。」とお願いしたのです。結果から言いますと、それは地区長の方に駄目だと断られました。けれども、すばらしいことが起こりました。彼は、鉄骨で組む十字架は立てることはできませんでしたが、自分の心の中に、十字架につけられ、三日目によみがえられたキリストを受け入れることができました!

 似たような人が身近にいます。私の父です。私がクリスチャンになったので、彼は不安になりました。自分が死んだ後に葬儀を挙げてくれないのではないか?と思ったのです。私が、お盆の墓参りに行っても、線香はあげないし、祈ることもしないのを見たからです。それで彼はこう言いました。「清正、キリスト教式でいいからどうか、お父さんのことをちゃんと弔ってくれ。」葬儀をきちんとやってもらえれば、自分はいいところに行く、と思ったのです。けれども私は、はいともいいえとも言いませんでした。心では、「生きているうちにイエス様を信じてもらわなければ、キリスト教式で上げても、気が狂っちゃうほど苦しむよ。」と言っていました。けれども、彼もまた自分の罪のためにキリストが十字架につけられ、三日目に復活されたことを信じて、イエス様を心に受け入れたのです。

 私たちは午後礼拝で、イスラエルがこのような道を歩んでいくところを4章から7章にかけて読んでいきます。初めは、宗教的用具によって神の力を得ようと思っていたけれども、罪の悔い改めと信仰によって、神の力を真に受けた復興の歴史を読みます。

1A 初歩的な神の知識
 イスラエル人は、完全に神について無知ではありませんでした。41節を見てください、「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ」とあります。神についてのことを、サムエルの預言によって少しずつ聞いていたのです。

1B 理解できぬ出来事
 ところが、自分たちには理解できぬことが起こりました。自分たちは神の民であるはずなのに、ペリシテ人に打ち負かされたのです。こんなことはありませんか、「私は教会に通い始めたのに、どうしてこんな悪いことが起こるんだろう?」

1C 主の前に出ない心
 私たちは前回、ハンナの祈りを学びましたが、ハンナも主が彼女の胎を閉じられたという、理解できぬことを経験しました。その時、彼女は何をしたでしょうか?そうです、「主の前に心を注ぎだした」のです。ここにいるイスラエル人はどうでしょうか?3節を見てください、「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。」その後に・・・あれれ?祈りはどうしたのでしょうか?「主がなぜ、このようなことを行なわれたのだろう。」という疑問が出てくるのはまだしも、立ち止まって全く祈っていないのです。

 いかがでしょうか?自分には対処できない問題や課題が出てきた時に、主を思い出しているでしょうか?立ち止まって、主の前に出ているでしょうか?そうではなく、自分のやりたいことをどんどんやっていって、結局、願っていることを得られないことが多いのではないでしょうか?私たちが生活を歩んでいる時に、つまずくような石が道に転がっていれば、そのまま歩けば転んでしまうのです。まずは立ち止まって、神に祈るのです。ヤコブは手紙の中で、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(4:2」という言葉があります。「神はこうしてくれない。」と言う前に、「そういえば、このことについて神に祈ったか?」と吟味してください。

2C 自分の方法の先行
 そしてイスラエルの長老らは、「シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。」と言いました。神の前に出て、神の下にへりくだるのではなく、「とりあえず、神に来てもらおう。」という態度であります。自分らが神に用いられるのではなく、自分たちが神を用いようとしているのです。あたかも、便利な道具のように神に来てもらってこの問題を処理してもらうという、神を自分の僕にしているという完全に本末転倒な事を行なっています。これはもちろん、異教徒であればいつもしていることです。偶像はいつも、自分たちの欲求を満たす手段であります。

 聖書ではこの態度を別の言葉で、「主を試す」あるいは「主を試みる」と言います。イエス様が悪魔の誘惑を受けられた時に、悪魔は、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(マタイ4:6」と言いました。イエス様は、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。(7節)」と答えられました。神が今、それを御心としているかどうか探ろうともせず、天使が自分の足を支えるような状況に神を無理やり押し入れさせようとしている訳です。これを「主を試す」と言います。

3C キリスト教式お守り
 そして、「そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」と言っています。神の箱が物理的にあるから、そこに神がおられて戦いを勝利に導いてくださる、と勝手に思い込んでいたのです。神社に「お守り」がありますが、言わばキリスト教式お守り、と言ったらよいでしょうか?

 これは、いろいろなことで起こります。最も簡単なのは、「私は教会に来ているから、それで自分の永遠の行き先は安全だ。」と考えることです。教会という物理的な守りの館があるので、地獄に引きずり降ろそうとしている悪魔は自分に手を触れることはできないと思います。また、「このような形の賛美音楽を奏でていれば、神は必ずここに来てくださる。」と考えます。このようなことは、賛美の方式について教会員が意見を戦わせる時に顕著に現れます。これは本当の話ですが、ある時に牧師が週報を持ってくるのを忘れました。そうしたら、「週報がなければ、礼拝を始めることができないではないか。」と突っかかってきた人がいたそうです。ということは、週報という紙があって初めて礼拝ができる、という信仰を持っていた、ということです。他にもいろいろあると思いますが、礼拝堂のどこの席に座ると聖霊が強く働くとか、牧師が声を大きくしたときは、聖霊の降り注ぎが顕著になってきた、とか、何でもありです。

 このような「形があれば、中身が必ず伴う」という考えは、神社のお守りと何ら変わらないのです。イスラエルの民はこの間違いを犯してしまいました。

2B 神のおられない熱狂
 そして、5節を読みますと、「主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。」とあります。イスラエルが大熱狂になりました。このように、皆が興奮したり、喜んだり、意気投合したりしたら、それは神が臨在されている証拠なのでしょうか?いいえ、この歓声でペリシテ人は初めうろたえますが、士気を取り戻しなお勇気を出して反撃に出ました。その結果、三万人が倒れたのです。

 どのようにして、それが単なる肉的な騒ぎや喜びなのか、それとも聖霊の喜びなのかを区別することができるでしょうか?それはひとえに聖霊の実であります。その喜びに聖霊の実が結ばれているかどうか、であります。ダニエル書3章に、バビロンの王ネブカデネザルが金の像を平野に立てました。そしてバビロン諸州の役人がその前に来てひれ伏す儀礼を命じました。その時に麗しい音楽を奏でるのです。「それで、民がみな、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民、諸国、諸国語の者たちは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。(7節)」ところが、拝まない者が三人いました。ダニエルの友人です。

 そのことを知ったバビロンの王は、「怒りたけった」(13節)とあります。もし、これが神の御霊によるものであれば、彼は自制を働かせ、温和に三人に語りかけたと思います。この素敵な音楽とその儀式を妨げられたことによって、大いに気分を害しているのです。その気持ち良さは、全然、聖霊によるものではなく、むしろ自分の気にそぐわない人がいるときに、それでも主の御霊によって相手を憐れむ思いが与えられて接する時に、その人に実を見るのです。

3B 去っていく神の栄光
 このことによって、イスラエルはしばらくの間、神の箱を失ってしまいます。エリも神の箱が奪われた話を聞いたときに、倒れて、首を折って死にました。祭司の息子ピネハスの妻は、身ごもっていました。子が産まれる時に、助産婦たちが「男の子が生まれましたよ。」と言っても気に留めることなく、彼女はその子を「イ・カボデ」つまり、「栄光がない」と名づけました。主の栄光がイスラエルから去ったことを話しています。

 私たちが祈らず、自分の考えや思いを先行させ、主を試すようなことをすれば、残っているのは神の栄光のない空しさです。何もない、荒涼とした砂漠に風が吹いているような、命のない空しさしか残っていません。

2A 成熟した神の知識
 彼らは、神の言葉を聞いてはいましたが、成熟に向かっていなかったのです。神の箱について、それが一体、神にとって何を意味するのか、どのようにしなさいと神が命じておられるのか、神はすでに教えておられましたが、彼らは知らなかったのです。聞いていたとしても悟っていなかったので、知らなかったと等しかったでしょう。ヘブル書で、信者に対してこのような叱責があります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(5:12-14」この堅い食物を食べることが、彼らには必要だったのです。

1B 主の御座
1C 至聖所(天)
 主は、シナイ山のふもとにいるイスラエルに民に、幕屋を造りなさいと命じられました。契約の箱を作り、その上に贖いの蓋を純金で作り、ケルビムという天使を彫りなさいと主は命じられました。そして、こう言われました。「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。(出エジプト25:22」主がそこにいてくださいます。そして、そこから主が語ってくださいます。

 そして聖書を続けて読んでいくならば、主なる神は、天においてご自分の座を設けておられることが書いてあります。そしてケルビムの上におられることも書いてあります。そして黙示録を読むならば、使徒ヨハネが見た幻は、神の御座が天にあり、その周りをケルビムが囲み、そこでケルビムが主を礼拝しているのです。そうです、神の幕屋は、天にある神の御座を表していたのです。天にあるものの地上の模型だったのです。

2C 大祭司(キリスト)
 そして、その契約の箱と贖いの蓋は、幕屋の中の聖所のさらに奥にあった部屋である「至聖所」に安置しなさい、と神は命じておられます。手前の聖所には祭司が燭台に火を絶やすことのないよう油を注ぎ、供えのパンを週ごとに代えるのですが、聖所と至聖所の間には垂れ幕があり、その中には入りませんでした。年に一度、大祭司が、自分の罪のためのいけにえを外庭の祭壇で捧げてから、またイスラエルの民のための罪の赦しのためのいけにえをささげて、その血を携えて、また香を焚いて、中に入ります。そしてその血を契約の箱の前で振りかけて、イスラエルのための罪のきよめを神の前で果たすのです。

 もし、これらを少しでも異なる方法で行なえば、レビ記の事件のように、聖なる火によってたちまち焼き殺されてしまうのです。そこは天の御座を表しており、全く聖なる方がおられるのであり、少しでも欠陥があればたちまち滅ぼされてしまうほど聖いからです。

 けれども、年に一度、イスラエルのすべての罪の赦しを願う大祭司の姿は、罪の永遠の赦しをただ一度、天の聖所に入って願ったイエス・キリストのことを表していました。イエス様が十字架につけられたのは、当時の人々のためだけでなく、永遠の赦し、つまり二千年後に生きている私たちの罪のための赦しと清めを与えるためのものだったのです。ただ一度で、キリストはそれを行なわれました。

2B 契約が動く時
 神の箱と言っても、こういう霊的な意義があったのです。だから、彼らは「ただ動かせばよいではないか。」と人間的に考えましたが、全然そうではなく、むしろ神の裁きを招いたのです。

1C 命令と信仰
 大事なのは、神の命令があるかないか、であります。神の箱が動く時がありました。祭司がそれをかつぎなさい、と命じられたことがありました。例えば、ヨルダン川を渡るときがそうでした。ヨシュアが主の前に出ている時に、主がそのようにヨシュアに命じられました。大事なのは神の命令であって、神の箱を動かすそのものに力があるのではありません。神の命令に聞き従うところに、神の力が働きます。

 そして、ヨシュアは信仰をもってレビ人に運びなさいと命じました。ヨルダン川には水があふれていました。祭司がその水に足を踏み入れた時に始めて、川が堰をなしたのです。それまでは、何のしるしもなかったのです。神の箱を動かすときは命令があり、そしてそれに聞き従うための信仰が必要でした。これは、すべての人に当てはまることです。神はことばで命じられます。そして、それを、信仰をもって聞き従います。その時に、物理的に神の箱がなくても主が共におられるのです。

2C 神の裁き
 そして主は、ヨシュアたちがエリコの町を回る時も、神の箱をかつぎなさいと命じられました。それによって表していたのは、エリコにいる住民、そしてカナンの地にいる者たちに、神が裁かれることを表していました。神ご自身の怒りによって、彼らは罪と不法の中で滅ぼされることを意味していました。黙示録には終わりの日が預言されていますが、そこにも天の御座におられる神が、地上に恐ろしい災いを下す場面がたくさんでてきます。これを行なうためだったのです。

3A 形と中身の関係
 ですから、一つ一つの事柄に意味があります。私たちが見るものには、その背後に多くの霊的真理がつまっています。それを知っているからこそ、行なっていることに霊的意味を持ちます。つまり神の力を体験できるのです。

1B 中身から形へ
1C 神の言葉による人格的関係
 私たちが霊的力を知るにはどうすればよいでしょうか?一にも二にも、神の御言葉に聞き、それを信じて応答することです。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17」キリストについての言葉、あるいは神の言葉を聞きます。ここでの「ことば」とはレーマとギリシヤ語にあります。語られる言葉です。対して書かれている言葉はロゴスと呼ばれます。書かれているものではなく、神の言葉、キリストの言葉が自分のものであるという語りかけを受けて、それに応答するのです。これが信じることです。ですから、神を信じるというのは、神に信頼することであり、神と人格的な信頼関係を持つことに他なりません。

2C 心と口による告白
 そして次に、信じたことを心に蓄え、そして口で告白します。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:9-10」心で感じた、思った、というだけでは足りません。心で信じたことを、神に対して、また人の前でも告白するのです。自分の信仰を、言葉にして出すことによって初めて、神が救いの御業を行ってくださいます。

 「口で告白しなくても良いのでは?」と考える人は、まずイエス様の言葉を聞いてください。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32-33

 付き合っている男の人と結婚するときに、人の前で「私はこの人と結婚しました」といわずに、実質的な結婚生活は成り立つでしょうか?いいえ!「二人が愛し合っていれば、それで良いではないか。」ではありませんね。その二人は社会の中で生きているのであり、その社会の中で二人の関係が定められ、家の中の結婚生活の内実も出来上がるのです。これと同じです。信じて口で告白する、他の人の前にも自分の信仰を言い表すことは、イエス様との関係が実質的なものになるのに必要なことなのです。

3C 真実な行ない
 そして、口だけで言っているだけではいけません。それが真実な行ないに表れないといけないのです。それが、教会が存在する目的です。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34」イエス様が自分を愛してくださった、ということの中に生きるには、互いを愛することによってその愛を分かち合うのだ、ということをイエス様は言われています。イエスの愛を知っている者たちの間で、キリストの愛を実践するのです。「キリストを信じるけれども、教会はいらないのだ。」と言う人は、「結婚したけれども、具体的な夫婦の活動はする必要はない。」と言っている家庭内離婚と同じです。

2B 教会の活動と礼典
 ですから、初めに神の言葉があり、それを聞いて信じること。そして、口で告白していくこと。さらに行ないの中に表していくこと。その実践を互いにするところに教会があります。

1C 使徒の教え、祈り、交わり
 そして教会には、いくつかの活動が神によって定められています。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒2:42」使徒の教えとは新約聖書のことです。もちろん新約聖書は旧約を土台にしているので、聖書全体の教えを聞き、それを堅く守ることです。次に「交わり」をします。それから「パン裂き」つまり聖餐を持ちます。さらに、「祈り」をします。もう一つ、信じた者たちには水のバプテスマがあります。「彼(ペテロ)のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。(41節)

2C バプテスマとパン裂き
 このバプテスマと聖餐は、主を信じたという決意を持った者が行なうことができるものです。聖餐については、主が自分の罪のために肉が裂かれ、血を流されたということをわきまえずに行なえば、病気になったりするものが出てくる、と書かれているほど厳粛なものであります。この二つを「礼典」と言います。

3C キリストの賜物と御霊の賜物
 そして教会には様々な働きと奉仕があります。そのために主は賜物を与えてくださいます。指導的な働きをする人にはキリストからの賜物がエペソ4章に、具体的な奉仕についてはローマ12章に、そして超自然的な働きを含む賜物については1コリント12章に書いてあります。これらを用いていくのです。

4C 「卵と卵の殻」の例
 こうした活動、礼典、奉仕は、いわば「卵の殻」と言えるでしょう。殻であって卵自体ではありません。それを行なっているからと言って、卵があるとは限りません。けれども、卵が卵として保っているためには殻が必要なのです。ですから教会の活動、目に見えることをきちんと守っていることはその内実を保つのに必要なのです。

3B 中身を飛ばした形式
 いかがでしょうか?イスラエルはいわば、「卵がないのに殻だけ持ってきた」状態でした。霊的内実がないのです。皆さんはいかがでしょうか?中身をもって教会にいらしているでしょうか?持っていないと思っても安心してください、今、こうやって神の御言葉が語られています。御言葉が自分の心に響いたとき、自分に語られていると思ったときに、それを信仰によって応答してください。その時から神がご自分の御霊によって中身を入れてくださいます。それは神の命、永遠のいのちという中身を入れてくださいます。

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