サムエル記第一5−7章 「真のリバイバル」


アウトライン

1A 証しを続ける神の箱 5−6
   1B さばき 5
      1C 偶像に対して 1−5
      2C 住民に対して 6−12
   2B 贖い 6
      1C 罪過のいけにえ 1−9
      2C まっすぐ歩く雌牛 10−18
      3C 変わらないイスラエル 19−21
2A まことの礼拝 7
   1B 主への飢え渇き 1−4
   2B 主への叫び 5−12
   3B 取り戻された平和 13−17

本文

 サムエル記第一5章を開いてください。今日は5章から7章までを学びます。今日のメッセージ題は、「真のリバイバル」です。前回の学びのことを思い出してください、イスラエルがペリシテ人との戦いのときに、契約の箱を戦場に持っていきました。彼らは神の箱が来たことで大歓声を挙げ、地がどよめきましたが、無残にも戦いに敗れました。それだけでなく神の箱がペリシテ人に奪われました。彼らの大歓声は、主の御霊によらない感情的なもの、表面的なものであったことが分かります。

 けれども今日読んでいく箇所には、そうした彼らが本当の意味で主に立ち返ることができ、主に叫び求める中でペリシテ人に打ち勝つ事ができる話を読んでいきます。そこから真のリバイバルとはなにか、真の霊的勝利とは何かを考えていきたいと思います。

1A 証しを続ける神の箱 5−6
1B さばき 5
1C 偶像に対して 1−5
 ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。

 イスラエルと戦ったとき、イスラエルはエベン・エゼルのところに陣営を張っていましたが、ペリシテ人はそこに攻め入って、神の箱を奪い取りました。そしてエベン・エゼルから、ペリシテ人の主な5つの町の一つである、アシュドデに移しました。アシュドデは、地中海に面する南部の町です。

 それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。

 ダゴンは、ペリシテ人たちが拝んでいた神であり、男の人魚の形をしていました。頭と両腕は人間なのですが、胴体から下は魚のしっぽになっていました。

 アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。

 主はここから、ペリシテ人に対してご自分のことを証しし始められます。ペリシテ人はダゴンを神の箱と並べて安置したけれども、ダゴンだけが倒れ、頭と両腕が切り離されているということは、イスラエルの神のほうが強いことを示しています。そして彼らの拝んでいる神へのさばきを意味しています。ペリシテ人は、天地万物を創造した神についての知識はほとんどありませんでした。けれども、このように目に見えるようなかたちでイスラエルの神が優勢であることを主が示されました。

 前回私たちは、イスラエルの民がまったく主のみこころを理解することがなく、主の証しを立てるどころか、主の御名を引き落とすようなことをしたことを見ました。ペリシテ人に負けたわけですが、このようなイスラエルの不真実にも関わらず、主はご自分でご自分が生きておられることを証しすることがおできになります。ダニエル書にも、その様子が伺えます。イスラエルの罪によって、エルサレムが滅びましたが、主はバビロンの地でご自分が天の神であり、王の王であることをバビロンの王にも、メディヤ・ペルシヤの王にも証しされました。ですからローマ書にはこう書いてあります。「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。(3:3-4

 それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。

 こうして、彼らの神に対するさばきが行なわれました。

2C 住民に対して 6−12
 さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。

 ペリシテ人に対しても、神のさばきの手が置かれます。種物とありますが、これがどのような病気であったのかは定かではありません。ヘブル語の文字から、痔のようなものではなかったか、と言われています。

 アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。

 ガテは、ペリシテ人の主要な5つの町のもう一つの町です。アシュドテから内陸に入って、もっと南側にあります。

 それがガテに移されて後、主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。

 そして、今度はガテの人々に種物ができました。

 そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」

 ペリシテ人の5つの町の三つ目はエクロンです。エクロンの人たちは、もう気づいています。神の箱を持ってくるな!と叫んでいます。

 そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。

 相当人数が死んだようです。そこで神の箱をイスラエルのもとへ戻すことを考え始めました。

2B 贖い 6
1C 罪過のいけにえ 1−9
 主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった。

 主の箱はどこの町にも入れることができず、野原に置かれたままになっていました。そこでペリシテ人たちは集まって考えます。

 ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。」すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。それに対して、必ず罪過のためのいけにえを返さなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」人々は言った。「私たちの返す罪過のためのいけにえとは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数によって、五つの金の腫物と、五つの金のねずみです。あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じであったからです。あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。」

 種物だけでなく、ねずみによる土地荒らしも起こっていたようです。

 ペリシテ人たちはもちろん、まことの神の預言者や祭司はいませんでした。そして、まじない師を呼び寄せました。けれども、まじない師や占い師でさえも、これがイスラエルの神の手が置かれたものであり、神のペリシテ人に対するさばきであることを知りました。さらに、その罪を償わなければいけないことも考えています。異教であっても、方法が間違っていても、イスラエルに神に対する恐れが、ここに証しされています。

 なぜ、あなたがたは、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。神が彼らをひどいめに会わせたときに、彼らは、イスラエルを自由にして、彼らを去らせたではありませんか。

 前回も学びましたが、神がエジプトに対して行なわれたことが、400年以上経った当時でさえも、ペリシテ人の間で恐れられていました。

 それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。また主の箱を取ってその車に載せなさい。罪過のためのいけにえとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。」

 まじない師らが提案しているのは、本当にこれがイスラエルの神の御手によって起こったものか、確かめてみることです。くびきをつけたことのない雌牛を使えば、自然の成り行きとしては、慣れないものと付けられているので、嫌がって牛小屋に戻ってしまいます。また、子牛を引き離せばなおさらのこと、母親の本能で自分のところに戻るでしょう。そうした条件があっても、なおかつ牛がペリシテ人の土地からイスラエルの地へつながるところにある、ベテ・シェメシュに行くのであれば、それはわざわいが、神が起こしたことを現わすことを示します。

2C まっすぐ歩く雌牛 10−18
 人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。そして主の箱を車に載せ、また金のねずみと腫物の像を入れた鞍袋を載せた。すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。

 私はベテ・シェメシュに行ったことがあります。そこから北西にエルサレムが遠く見えますがあり、そっち方面は山になっています。けれども東には広い平原になっています。その地中海沿岸地域がペリシテ人の土地でした。そこから山間にある町ベテ・シェメシュに、雌牛がまっすぐにやって来たことになります。

 ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にはいり、そこにとどまった。そこには大きな石があった。その人たちは、その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとして主にささげた。レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物のはいっている鞍袋とを降ろし、その大きな石の上に置いた。ベテ・シェメシュの人たちは全焼のいけにえをささげ、その日、ほかのいけにえも主にささげた。

 ベテ・シェメシュ人たちは、以前のイスラエル人たちと同じように、主の箱を見て大いに喜びました。そして、レビ人に頼み、雌牛を全焼のいけにえとしてささげました。

 五人のペリシテ人の領主たちは、これを見て、その日のうちにエクロンへ帰った。ペリシテ人が、罪過のためのいけにえとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また、金のねずみは、五人の領主のものであるペリシテ人のすべての町・・城壁のある町から城壁のない村まで・・の数によっていた。終わりに主の箱が安置された大きな石は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。

 ペリシテ人たちが行なったことがまとめられています。5つの種物は、ペリシテ人の五つの町のためでした。

3C 変わらないイスラエル 19−21
 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

 なんと、彼らは契約の箱の中を見てしまいました。モーセの律法によって、それを取り扱うのはレビ人だけであり、しかも、契約の箱に触れないように、かつぐための棒まであったのです。その中を覗くのは言語道断です。そのために、悲しいことに5万70人もの人が死んでしまいました。

 ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」

 彼らもペリシテ人と基本的に同じでした。彼らは聖なる神、主の前に立ちえようか、と言っていますが、自分たちだけでは立ちえないのは当たり前です。けれどもイスラエルには、どのようにして聖なる神に近づくか、その儀式の方法がきちんと啓示されていました。そして、その方法によって神に近づく特権を彼らは持っていたのです。にもかかわらず、その方法を守らなかったら、死んでしまったのです。一方で、方法が間違っていたけれども神への恐れを少なからず持っていたペリシテ人がいます。他方で、表面的には主を知っていたけれども、同じように神の方法をないがしろにしたイスラエルがいます。彼らは、表面的な信仰以上のものを必要としていたのでした。

 そこで、彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、それをあなたがたのところに運び上げてください。」

 キルヤテ・エアリムには、レビ人がいたようです。彼らが神の箱を運びました。

2A まことの礼拝 7
 こうして私たちはイスラエルの、なかけない状況、霊的敗北の姿を見てきました。表面的な行為では何の益にもならず、異教の人々と何ら変わらないことが分かりました。けれども、7章ではイスラエルの様子が少しずつ変わっていく様子を見ます。

1B 主への飢え渇き 1−4
 キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。

 アビナダブはレビ人、またアロンの子孫であったのかどうかは分かりません。けれども、彼の子エルアザルを聖別しているところに、彼らの主への畏敬を感じとれます。

 その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。

 実際には、アビナダブの家に神の箱が100年間、安置されていました。ダビデがエルサレムにそれを移そうとしますが、その時までここに安置されます。

 そしてアビナダブの家に安置されてから20年たち、イスラエルの心に、主を慕い求める心が与えられました。主は、これを待ち望んでいたことでしょう。あるいは、彼らの心を20年という月日をかけて、徐々に溶かしていかれたのかもしれません。私たちが、表面的な行為ではなく、深く、人格の奥にまで探ってくださる御霊の働きを受け入れなければ、本当の意味の信仰復興、リバイバルは起こりません。

 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。

 サムエルの言葉にイスラエル人たちは、応答しました。前回学んだように、神のみことばに心から従っていくとき、主との本当の関係を持つことができます。サムエルはまず、「心を尽くして主に帰りなさい」と言っています。心を尽くして、です。感情の奥深い部分、自分を突き動かしている主な情熱の部分です。これを主に向けなさい、と言っています。

 
そして、「あなたがたの間から外国の神々を取り除きなさい」と言っています。表面的な宗教的行為ではなく、自分の生活のど真ん中から、神と自分との間に立ちはだかっているものを取り除きます。大きな集会にいって、大声で主に賛美をささげても、家の中で罪を犯していたらまったく何の意味もありません。何時間もの賛美よりも、家の中での一言の悔い改めの祈り、自分を変える神のみことばをいただくことのほうが有効です。

 そして、「心を主に向け、主にのみ仕える」と言っています。二心ではなく、主にのみお仕えします。そして、約束が、ペリシテ人の手から救われる、というものです。真の霊的勝利は、私たちの間から、心からの刷新から与えられます。

2B 主への叫び 5−12
 それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。」

 ミツパは、イスラエル人たちがしばしば集まるところでした。士師記にて、イスラエル人がアモン人と戦うとき、ミツパに陣を敷きました(10:17)。イスラエルの間で、女を陵辱するという恥ずべきことが行なわれたとき、全イスラエルはミツパに集合して、何をすればよいか話し合いました(20:1)。後にサムエルが、ミツパで王として人々の前に立ちます(1サムエル10)。

 彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。

 イスラエル人が罪の告白をしています。これがリバイバルへの第一歩です。神のみことばをサムエルが語りましたが、神のみことばがまっすぐ語られて、その中で聖霊によって罪が示されます。その時に、主に罪の告白を行ないます。

 イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに攻め上った。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」

 イスラエル人の変わりようを見てください。ペリシテ人たちが攻めて来たときに、彼らは武器でもなく、もちろん以前のように神の箱でもなく、祈りに訴えました。主に叫ぶのを止めないでください、とサムエルに訴えています。主こそが、自分たちを救ってくださるという信仰が与えられたのです。

 サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。

 以前とまったく違います。主ご自身が戦ってくださっています。雷鳴と混乱を通してペリシテ人を倒してくださっています。

 イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。

 サムエルは、主が助けてくださった場所を記念としました。これは大事なことです。私たちが、主によって救われた経験、助けられた体験を思い出し、忘れないことによって、今、そして将来も主が自分を救ってくださることをさらに確信することができます。パウロは言いました。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10

3B 取り戻された平和 13−17
 こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。ペリシテ人がイスラエルから奪った町々は、エクロンからガテまで、イスラエルに戻った。イスラエルはペリシテ人の手から、領土を解放した。そのころ、イスラエル人とエモリ人の間には平和があった。サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。

 サムエルは実は士師の一人です。彼で最後の士師になります。サムエルが生きている間、ペリシテ人はイスラエルを襲ってくることはありませんでした。エクロンからガテまで、主要なペリシテ人の町になっていたところが、イスラエルに戻ってきました。さらに、エモリ人との間にも平和がありました。主を第一にした国の姿です。

 
彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、それらの地でイスラエルをさばき、ラマに帰った。そこに自分の家があったからである。彼はそこでイスラエルをさばいた。彼はまた、そこに主のために一つの祭壇を築いた。

 サムエルの預言によるミニストリーは続きました。神のみことばによって、イスラエルの心が主に向けられました。これが、まことのリバイバルであり、霊的強さです。私たちは、何が表面的なもので、何が単なる宗教的行為にしか過ぎないのかを見分ける必要があります。そして、しっかりと心の奥底にまで届く、神のみことばによる刷新を求めなければいけません。霊的復興はテクニックではありません、心の変革です。


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