サムエル記第一8−11章 「王なる神を退ける時」

アウトライン

1A 王の要求 8
   1B 民の声を聞き入れる神 1−9
   2B 神を王としない民 10−22
2A 状況による導き 9
   1B 雌ろばの行方不明 1−14
   2B 予見するサムエル 15−27
3A 王の任命 10
   1B 油と御霊の注ぎ 1−16
   2B 民の前での承認 17−27
4A 王権創設の宣言 11
   1B 敵からの救い 1−11
   2B 大いなる喜び 12−15

本文

 サムエル記第一8章を開いてください。私たちは、サムエルが預言者として働き、イスラエルがペリシテ人の圧制から解放されたところを読みました。そしてサムエルは、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回しながら、預言を行ない、また祭壇にいけにえをささげて、イスラエルを霊的に正しい方向へ導いていました。そして8章では、その長年の奉仕を終えるために、次世代に指導者を受け継ぐために動き出すサムエルの話から始まります。

1A 王の要求 8
1B 民の声を聞き入れる神 1−9
8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。8:2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。8:3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。

 サムエルがいかに優れた預言者であったとしても、ここに彼の欠けたところを見ることができます。私はこの箇所を見て驚くのですが、思い出すのはノアです。主の前に正しく生きたノアが、泥酔して裸になって寝ていたことが書かれています。そこに、人にはどんな人であっても神の栄誉にあずかることのできない罪があるということを思い起こします。

 二人の息子はすでに「ベエル・シェバ」で士師でした。ネゲブ砂漠の入口であり、サムエルのいるところから遠く離れています。しかし彼らが利得を追い求め、賄賂を取り、そのさばきを曲げていたというのは、まさに自分の霊的な父であったエリと同じようになっています。ここで、「父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:7」を思い出します。親がしていることを、子も行なってしまうという鎖を見ます。しかし、神は福音を教えています。その鎖を断ち切ることができることを、エゼキエル18章で読むことができます(特に14-18節)。そして事実、聖書には断ち切っている人々がたくさん出てきます。

8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 長老たち、つまり長年サムエルと共に歩み、イスラエルを見てきた者たちがサムエルのところに来ました。そして、サムエルが自分の息子を士師にするのは間違っているという懸念も正しいものでした。けれども、彼ら自身が大きな過ちを犯しています。「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。

 イスラエルは、主がモーセによってこの民を立てた時以来、神ご自身が王として君臨する共同体として立てられていました。モーセが律法を与え、アロンが祭儀を執り行いましたが、イスラエルの生活を規定するのはあくまでも、神ご自身でありました。これを神政政治と言います。今で言うならば、キリスト教会は、キリストが牧者を立てられ、牧者の指導によって聖徒が奉仕の働きに整えられるのですが、治めておられるのはキリストご自身です。キリストが頭であられて、各人がキリストに結びついていなければいけません。

 ところが、彼らは人間の王を立ててほしいと願っています。確かに、過去に神はヤコブの預言によって、ユダから王権が出てくることを約束されていました。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:10」この約束のとおりに、神は後にユダ族のダビデを選び、イスラエルに君主制を確立されます。けれども、彼らの動機が異なるのです。「ほかのすべての国民のように」とあります。周囲の国々では当たり前のように王がいて、王が統治していました。けれどもイスラエルは独特でした。神が治められる、神の国でした。これを放棄しようとしているのです。

 長老たちの言っていることは、一見まともに聞こえますが、本音が後に出てきます。「私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。(8:20」サムエルがペリシテ人と戦った時のことを思い出してください。イスラエルが自分の罪を悔い改めて、そしてサムエルが祭壇でいけにえを捧げて、イスラエルのために主に叫びました。すると主がペリシテ人に雷鳴をとどろかせて、混乱を与えられました。周囲の民との戦いで、いちいち、自分の罪を悔い改めて、いけにえを捧げて、預言の言葉を聞き、そして祈るということをやりたくなかったのです。こんなことをいちいち行なわなくても、王がいれば、王が戦ってくれるではないか、ということです。

 これを現代的な表現を使うなら「丸投げ」状態です。個々の信者が、神の前に出て、御言葉に取り組み、犠牲を払い、礼拝を捧げて、主に叫び求めなければいけません。こうした霊的な営みを一切放棄してしまい、大変なこと、難しいことは他人に任せていこうという願いです。信者でない人はそれをやっています。年に一度だけ賽銭を投げて、祈願すれば、後はそこにいる祭司さんたちが何とかしてくれる、と思っています。キリスト者はそうではありませんね。個々人が神との緊密な関係があってこそ、初めてキリストの体が建て上げられていくのです。

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。8:9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」

 サムエルの心は傷つきました。サムエルは、長年のこと主に仕え、そして民が神と共に歩むことができるように労してきました。しかし今、このような形で彼の士師としての働きを否定したのです。「あなたにはもうイスラエルを導く資格はない。」と言われたようなものです。

 それで彼は祈りました。すばらしいですね、この苦悩を主に打ち明けました。すると意外な返事が主からありました。「民の声を聞き入れよ」であります。なぜ主が聞き入れられたのか、後で説明します。その前に、「あなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのである」という言葉に注目しましょう。モーセに対しても反抗したコラがいました。主の働きをしているのですから、その僕を拒むということは、主ご自身を拒んでいるのと同じです。

 サムエルは、王を立てた後にイスラエルに再び話しました。123-4節です。「さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」」主に仕えている者が、もしこのような悪いことをしているのであれば、罷免されても仕方がないでしょう。けれども、誠実に主に仕えているにも関わらず自分たちの欲のために退けるのであれば、それは、主ご自身を退けたのと同じです。

 これは、すべてのキリスト者に対する迫害でも同じです。キリスト者が罪を犯し、悪いことを行なって責められるのであれば、その責めを受けなければいけません。けれども、そうではなくキリストの御名によって行ったことを拒む者がいるならば、例えば福音を分かち合って、その人が自分を受け入れないのであれば、それはそのキリスト者を拒んだのではなく、キリストご自身を拒んだのです。

 では、どうして主は民の声を聞き入れよ、と言われたのでしょうか?それは、主は前もって民がかたくなで、言うことを聞かないことを知っておられたからです。彼らがかたくなに拒むのであれば、主は彼らの自由意志を侵してまでご自身による統治はできません。神の統治は、あくまでも本人たちの自由意志による、神を愛するがゆえにその支配を受ける統治であり、強制ではないからです。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1:13」とあるとおりです。強制は暗やみの力、悪魔からのものです。

 これは残念なことです。私たちが自分の要求を主張し続けるならば、神が私たちの水準にまで降りて来なければいけなくなります。本来なら、私たち自身が御霊によって変えられて、神の水準に引き上げられなければいけません。御霊によって、キリストの似姿に変えられていかなければいけません。自分が変えられなくないと言い張るなら、その所で主が自分といっしょにいてくださいます。けれども、それは悲しい状態です。

2B 神を王としない民 10−22
8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」

 人間を王として立てるならば、自分たちで神に近づき、敵から救われていくという手間は省けるのかもしれません。けれども、人の支配を受けます。神の支配を拒むなら、それで自由になるのではなくむしろ人の専制の中で蹂躙されます。そしてイスラエルは、すでに異邦人による圧制で苦しんだのを忘れていたようです。異邦人の国々は、外国の民であるイスラエルに対してでなく、自国民に対してもこのような圧制を行なっていました。それが、神を知らない者が王となると起こっていることなのです。

 イエス様は、ご自身の支配と異邦人の王の違いをこのように説明されています。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:42-45」イエス様は僕の姿を取られて、人から取るのではなく与えることによって私たちを支配されます。イエスを主とすることはそういうことです。恵みがあり、いのちがあり、自由があります。けれども、異邦人の王たちの支配は異なるのです。

 そして大事なのは、「その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」と18節にあるところです。ちょうど一人の人と結婚するようなもので、結婚した後で後悔しても、その結婚を破棄してはいけないのと同じです。だから、厳しく警告しなさいと神はサムエルに命じられました。今の不満によって、これから恒久的に続く体制を選び取ってよいのか?と厳しく問われているのです。

8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」8:21 サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。8:22 主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。

 サムエルは言うべきことは、言いました。けれども民は聞きませんでした。主は実は、モーセの時からこのことを知っておられました。モーセはヨルダン川の東岸で、イスラエルの民にこう語りました。申命記1714節からです。
 

14 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、15 あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。

 興味深いです、イスラエルの言った言葉と全く同じことを話していますね。イエス様は律法学者から、離婚のことについて「モーセは離婚状を渡せと言っているが。」と尋問した時に、「モーセはあなたがたの心がかたくななので、それを許したのです。しかし二人を神が結び合わせたのだから、切り離してはいけません。」と言われました。ここも同じです。周囲の国々と同じように王を立てることは神の御心ではありません。けれども、彼らがその道を選んだ時に主からそれ以上離れることのないように、規制を与えておられるのです。一つ目は、イスラエル人から王を選びなさいということです。
 

16 王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。17 多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。

 王であれば、その力を武力と政治、そして経済力に求めます。馬は戦力の支柱にありました。また妻は政略結婚によって政治力と外交力を強める手段です。残念ながら、これらをダビデの子ソロモンがことごとく行ってしまいました。
 

18 彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。20 それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

 たとえ王であっても、祭司また預言者による霊的指導の中におり、王自身が神の支配を受けなければいけません。ダビデは、このことが最もよくできている人でした。彼は礼拝者であり、また神の律法を愛する者でした。彼が多くを編集した詩篇は、その第一篇に次の言葉があります。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(2節)

 けれども、後の王たちがこれを行なっていたかと言いますと、その記述を列王記、歴代誌を読みますと、ほとんど行っていないことに気づきます。ヨシヤが統治した時に、神殿の奥にしまわれていた律法をたまたま発見して、それを書記が王に読んで聞かせました。するとヨシヤは自分の衣を引き裂き、主の前にへりくだり、泣いて祈りました。自分たちが律法に書かれていることをことごとく行っていなかったことを知ったからです。ですから、人間を王に立てて、なおのこと神の支配を受けるというのは並大抵なことではありません。これをサムエルは厳しく警告したわけです。

2A 状況による導き 9
 けれども民が言うことを聞かなかったので、主が民の要求に合わせた王を選ばれます。

1B 雌ろばの行方不明 1−14
9:1 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。・・キシュはアビエルの子、順次さかのぼって、ツェロルの子、ベコラテの子、アフィアハの子。アフィアハは裕福なベニヤミン人であった。・・9:2 キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

 彼が、主がイスラエルに与えられる新しい王です。出身は「ベニヤミン人」です。私たちは既に士師記で、ベニヤミンがほとんど絶滅しそうになったのを読みました。集団暴行という罪を働き、その罪を悔い改めることをしなかったため、全イスラエルがベニヤミンと戦ったためです。かつて主がヤコブによって約束された王はユダから出てくるのですから、これは明らかに神が、イスラエルの民にカスタマイズされた(?)王であります。

 彼は裕福なところから来ています。そして、美しく若い男です。背も高いですね。人間的には王の要件を満たしています。異邦人は、王になる者として容姿も重要視していました。ダニエル書で、ダニエルとその三人が王のごちそうを食べて、その体格や容姿までも規定されていたことを思い出してください。イスラエルが望んでいたことは、このような人です。王の職務についてサムエルから聞いた時には、その警告を無視しました。中身を彼らは要求していたのではなく、このようなイメージを要求していたのです。

9:3 あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。そこでキシュは、息子サウルに言った。「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」9:4 そこで、彼らはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、見つからなかった。さらに彼らはシャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いたが、見つからなかった。

 サウルは、父の言いつけを守る従順な息子でした。これも王にしたらよいと思われる素質であります。そして、彼らは雌ろばを捜しに言っていますが、これが既に主の導きがあることを教えています。

9:5 彼らがツフの地に来たとき、サウルは連れの若い者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」9:6 すると、彼は言った。「待ってください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」9:7 サウルは若い者に言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、その神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」9:8 その若い者はまたサウルに答えて言った。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。私がこれを神の人に差し上げて、私たちの行く道を教えてもらいましょう。」9:9 ・・昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう。」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。・・9:10 するとサウルは若い者に言った。「それはいい。さあ、行こう。」こうして、ふたりは神の人のいる町へ出かけた。

 連れの若い者はサムエルの存在を知っていました。けれども、前もって見て、それを告げることのできる予見者としての噂しか知りませんでした。その雌ろばについて言い当ててくれるだろうという程度のものだったのです。サウル自身はサムエルの存在さえも知りませんでした。ここに、サムエルは神についての事柄についてほとんど何も知らない、未信者であることが分かります。けれども礼儀正しい人です。「贈り物を持っていかなければならない」という、日本人にも通じるような礼儀を持っています。

9:11 彼らはその町の坂道を上って行った。水を汲みに出て来た娘たちに出会って、「ここに予見者がおられますか。」と尋ねた。9:12 すると、娘たちは答えて言った。「ついこの先におられます。今、急いでください。きょう、町に来られました。きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげますから。9:13 町におはいりになると、すぐ、あの方にお会いできるでしょう。あの方が食事のために高き所に上られる前に。民は、あの方が来て、いけにえを祝福されるまでは食事をしません。祝福のあとで招かれた者たちが食事をすることになっています。今、上ってください。すぐ、あの方に会えるでしょう。」9:14 彼らが町へ上って行って、町の中央にさしかかったとき、ちょうどサムエルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た。

 この娘さんたち、少しサウルにうっとりしていたかもしれません!尋ねる二人に対して、積極的に答えていますが、サムエルの預言活動を垣間見ることができます。高き所でいけにえを捧げますが、それは和解のいけにえでしょう。主に礼拝をささげ、感謝してから、民とその食事をします。

2B 予見するサムエル 15−27
9:15 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。9:16 「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」9:17 サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 雌ろばが迷子になったことの出来事は、すべて主の導きでした。ベニヤミンの地からエフライムの山地にいるサムエルに、サウルを会わせるためだったのです。このような何気ない出来事に、主が介入してくださいます。私たちが通っている何気ない日常生活に主が導きを与えます。

9:18 サウルは、門の中でサムエルに近づいたとき、言った。「予見者の家はどこですか。教えてください。」9:19 サムエルはサウルに答えて言った。「私がその予見者です。この先のあの高き所に上りなさい。きょう、あなたがたは私といっしょに食事をすることになっています。あしたの朝、私があなたをお送りしましょう。あなたの心にあることを全部、明かしましょう。9:20 三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」

 サムエルは、確かにこれが主の導きであることを、雌ろばのありかを教えることによってサウルに教えました。そしてサムエルは突然、「あなたが、イスラエルの王になる人物である。」ということを、サウルに示唆したのです。

9:21 サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」

 サウルはあまりにも驚いて、まだ状況が把握できていません。「つまらないものである」と言っていますが、これは遠慮です。彼の家は裕福でした。

9:22 しかし、サムエルはサウルとその若い者を広間に連れてはいり、三十人ほどの招かれた者の上座に彼らを着かせた。9:23 サムエルが料理人に、「取っておくようにと言って渡しておいた分を下さい。」と言うと、9:24 料理人は、ももとその上の部分とを取り出し、それをサウルの前に置いた。そこでサムエルは言った。「あなたの前に置かれたのは取っておいたものです。お食べなさい。私が客を招いたからと民に言って、この時のため、あなたに取っておいたのです。」その日、サウルはサムエルといっしょに食事をした。

 これは、すでにサウルを王になる者として迎え入れている態勢であります。サウルが上座に着き、サウルを中心にして食事をしています。

9:25 それから彼らは高き所から町に下って来た。サムエルはサウルと屋上で話をした。9:26 朝早く、夜が明けかかると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。「起きてください。お送りしましょう。」サウルは起きて、サムエルとふたりで外に出た。9:27 彼らは、町はずれに下って来ていた。サムエルはサウルに言った。「この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」

 サムエルの家でサウルは泊まりました。屋上でサムエルはサウルに話しかけ、またサウルも語りました。この中でサムエルはサウルがどのような人物か、その人物像をある程度つかんだことでしょう。そして若者を先に行かせました。それは二人だけで、彼が王になるための油注ぎを行なうためです。

3A 王の任命 10
1B 油と御霊の注ぎ 1−16
10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。

 サムエルが油を注ぎました。油注ぎは、私たちは以前、祭司が任職する時に受けたのを見ました。これは、神がその人をお立てになったことを示すものです。「油注がれた者」がメシヤ、すなわちキリストを意味しています。そして、油はまた聖霊の働きを指すときが多いです。これから、サウルに主の霊が下るところを見ます。

10:2 あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。10:3 あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。10:4 彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。

 サムエルは、サウルが油注がれた王であることを証しするために、これから起こることを詳細に伝えています。聖霊に満たされることが、決して偶然ではなく神の導きであることを知るためです。イエス様も、ご自身がキリストであることを公にするためにエルサレムに入城される時に、弟子たちにご自分が乗られるろばについて、詳しい指示を前もって与えられました。これが神によるものであることを弟子たちに明らかにされるためです。

10:5 その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、10:6 主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

 ギブアはサウルの家のある所です。ペリシテ人の守備隊のある所とあり、サウルがペリシテ人からイスラエルを救わなければいけないことを暗示しています。後に息子ヨナタンが、ギブアのすぐそばのゲバにいる守備隊長を打ち殺します(13:3)。

 そして預言者の一団がやってきました。後に、サムエルが預言者の一団を監督している場面が出てきます(1サムエル19:20)。そしてエリシャの時代にも預言者の若者たちがエリシャから訓練を受けています。いわば「預言者学校」です。おそらくダビデは、このような預言者の一団から多くの歌や楽器を習ったのではないかと思われます。あれだけの詩を書き上げ、そして預言を行なっているのですから、そのような人々に触れていたであろうと考えられます。

10:8 あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます。」

 サウルが神の霊に満たされてから、つまり王としての働きを始めてから、ギルガルに行かなければいけません。ギルガルはベニヤミン領とまた、ヨルダン川の西、ヨシュアたちが川を渡り終わったところの二つがありますが、もし後者であれば、ヨシュアたちがしたように、主の戦いを戦うにあたって、身を聖別する必要があったということです。王は、預言者また祭司の霊的指導の下にいて主に従っていくのです。先にモーセの言葉を読んだとおりです。それをサウルは守ることをしませんでした(138節以降)。

10:9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。10:10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。10:11 以前からサウルを知っている者みなが、彼の預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」10:12 そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう。」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」ということが、ことわざになった。

 周囲の人々の驚きは、サウルが預言者というのと全く縁のない人のはずなのに、という類のものです。日本の設定にするなら、「あいつ全く俗物だったのに、丸坊主にして寺で修行してるよ。」みたいな驚きです。それだけ、サウルは神に関することについて遠い存在だったのです。

10:13 サウルは預言することを終えて、高き所に行った。10:14 サウルのおじは、彼とその若い者に言った。「どこへ行っていたのか。」するとサウルは答えた。「雌ろばを捜しにです。見つからないのでサムエルのところに行って来ました。」10:15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」10:16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。

 自分の周りで起こっていること、自分自身に起こっていることにまだ実感が湧いていない、というとまどいがあったのでしょう。おいに真実を話すことができませんでした。

2B 民の前での承認 17−27
10:17 サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、10:18 イスラエル人に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたをしいたげていたすべての王国の手から、救い出した。』10:19 ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。」

 サムエルは、イスラエルをミツパに集めました。以前、ここでイスラエル人は悔い改め、ペリシテ人が襲ってきた時に、主が彼らを救い出してくださったところです。主はエジプトから始まり、このような導きによって彼らを救ってくださいました。それを人間の王に代えたのはあなたたちだ、と責めています。

 そして、これからサムエルは誰が王になるかをくじ引きで決めます。すでにサウルが油注がれているのですが、イスラエルの民の前でこれを承認します。主が油注ぎ、それから人々に認められるという順番は正しいです。牧師においても、宣教師においても、その人がまず主の任命を受けて、それから人々に認められます。その反対はないです。

10:20 こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。10:21 それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。10:22 それで人々がまた、主に、「あの人はもう、ここに来ているのですか。」と尋ねた。主は、「見よ。彼は荷物の間に隠れている。」と言われた。10:23 人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

 人々が集まる時に、自分たちが持って来た荷物を一つのところに集めます。それは、ペリシテ人が襲ってきた時に、少しでもバリケードにするためです。なんとサウルはそこに隠れていました。まだ彼は自分が選ばれたことに対して自信が持てていなかったのです。

10:24 サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。10:25 サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。こうしてサムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。

 「王の責任」とは、おそらくモーセが申命記17章で語ったことであると考えられます。

10:26 サウルもまた、ギブアの自分の家へ帰った。神に心を動かされた勇者は、彼について行った。10:27 しかし、よこしまな者たちは、「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた。

 「神に心を動かされた勇者」たちがいます。すばらしいですね、このような人々が集まっている交わりは神が大いに用いてくださいます。その一方で軽蔑していた人々がいました。サウルは黙っていました。賢いです。

4A 王権創設の宣言 11
1B 敵からの救い 1−11
11:1 その後、アモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。「私たちと契約を結んでください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」11:2 そこでアモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件で契約を結ぼう。おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ。それをもって全イスラエルにそしりを負わせよう。」11:3 ヤベシュの長老たちは彼に言った。「七日の猶予を与えてください。イスラエルの国中に使者を送りたいのです。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたに降伏します。」

 アモンは、以前、士師エフタが戦い、ギルアデの地から追い出された経験を持っています。それで復讐にやって来ているのかもしれません。「ヤベシュ・ギルアデ」は、士師記に出てきたのを覚えていますか?ベニヤミンがイスラエルとの戦いで敗れ、成年男子の数が六百人しかいなくなった時、イスラエルはベニヤミン族がなくなることを嘆き悲しみました。彼らに女を与えなければ滅んでしまいます。そこで、この戦いに参加しなかった者は殺されなければいけないと言う誓いを立てていたので調べたら、ヤベシュ・ギルアデの人たちでした。彼らは殺されて、処女の女四百人を生かし、ベニヤミンに与えました。つまり、そこはベニヤミンにとって自分たちの故郷なのです。

11:4 使者たちはサウルのギブアに来て、このことをそこの民の耳に入れた。民はみな、声をあげて泣いた。11:5 そこへ、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、どうしたのですか。」そこで、みなが、ヤベシュの人々のことを彼に話した。

 なんとサウルは、王として就任してからも通常の農作業をしていました。これは、すばらしいです。主の御霊が働かれるのは、王が王としての務めを果たす時であります。王としての働きがないのに王づらをしているのはおかしいです。

11:6 サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。11:7 彼は一くびきの牛を取り、これを切り分け、それを使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルとに従って出て来ない者の牛は、このようにされる。」と言わせた。民は主を恐れて、いっせいに出て来た。

 以前、ギブアでレビ人が殺されたそばめを十二の部分に切り分けて、それを全イスラエルに送りましたが、サウルはそれを牛で行ないました。激しい怒りの現れです。これは必ず戦わなければいけない主の戦いであることを知らしめるためです。民が正しく反応しています。「主を恐れて」いっせいに出てきました。そしてサウルは、「サウルとサムエルに従って出て来ない者は」と言っています。自分だけでなく、サムエルを加えることによって、人間の戦いではなく神の戦いであることを強調していたのでしょう。

11:8 サウルがベゼクで彼らを数えたとき、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。

 ソロモンが死んだ後にイスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂しますが、この時から既にイスラエルとユダという分れがありました。ユダはそれだけで一つの大きな部族でした。

11:9 彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言わなければならない。あすの真昼ごろ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って来て、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。11:10 ヤベシュの人々は言った。「私たちは、あす、あなたがたに降伏します。あなたがたのよいと思うように私たちにしてください。」11:11 翌日、サウルは民を三組に分け、夜明けの見張りの時、陣営に突入し、昼までアモン人を打った。残された者もいたが、散って行って、ふたりの者が共に残ることはなかった。

 見事に追い払うことができました。

2B 大いなる喜び 12−15
11:12 そのとき、民はサムエルに言った。「サウルがわれわれを治めるのか、などと言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」11:13 しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」11:14 それからサムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルへ行って、そこで王権を創設する宣言をしよう。」11:15 民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。

 すばらしいです。サウルは、人をまとめるのが何であるかを知っていました。主が救われたのだから、ということで、自分を認めぬ者を多めに見ました。これで民は一つにまとまることができたのです。サムエルはこの姿を見て、改めて王権を創設する宣言をすることに決めました。ギルガルで行なっています。そして結果はすばらしいです。和解のいけにえをささげて、それで大いに喜びが残っています。これぞ聖霊がなされる業です。

 サウルがこの中に留まっていることができれば、すばらしいのですが、先ほどから見たように、人間的には悪い所のない人である一方、霊的な事柄から遠ざかっていた人であることを私たちは見ました。そこで問題が生じます。外側の働きが大きくなればなるほど、心のうちに主をとどめるという歩みをしていなかったので、どんどん主の道から外れたことを行ないます。けれども、それを民は願っていたのです。人として、イメージとしての王を彼らは願っていました。自分自身が神を求めるために仕える指導者ではなく、神とは関係のない生活を送っても安全であるように願った結果だったのです。私たちは、だれを支配者に求めているでしょうか?

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