列王記第二18−19章 「主を信頼する戦い」


アウトライン

1A 脅し 18
   1B 戦いの始まり 1−8
   2B 努力の限界 9−16
   3B 弱みに付け込む言葉 17−37
      1C 神信仰への挑戦 17−25
      2C 屈服後の甘い約束 26−37
2A 祈り 19
   1B 産道の赤ん坊 1−13
   2B 主の宮へ 14−37
      1C 主に手紙を読ませるヒゼキヤ 14−19
      2C 救いの約束 20−34
      3C 18万5千人の死 35−37

本文

 列王記第二18章を開いてください、今日は18章と19章を学びます。ここでのテーマは、「主を信頼することの戦い」です。ユダの王ヒゼキヤが主に拠り頼み、アッシリヤとの戦いで勝利を収めました。

1A 脅し 18
1B 戦いの始まり 1−8
18:1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。18:2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。

 前回、イスラエルの王ホセアがアッシリヤに服従しなかったために、北イスラエルがアッシリヤによって囚われの民となったことを学びました。そのホセアがまだ王であったとき、つまり北イスラエルがまだ倒れていないとき、その倒れる直前に、南ユダではヒゼキヤが王となりました。その父アハズが、南ユダの中でもっとも悪い王の一人であったことをこの前学びましたが、対照的に、ヒゼキヤはもっともすぐれた王の一人でありました。

18:3 彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。18:4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。

 歴代のユダの王は、主の目にかなうことを行なっていたが、高き所は取り除きませんでした。けれどもヒゼキヤは違います。たとえヤハウェを礼拝していたとしても、主が定められたエルサレムの神殿ではないところで勝手にささげている祭壇は、主の目にかなうことではありません。それで彼は高き所も取り除きました。

 そして父アハズ王が導入させた異教の神々の像を打ち壊しました。それだけではありません。かつて、モーセが作った青銅の蛇を打ち砕いたのです。ここの記述は非常に興味深いです。時代は紀元前1400年ごろ、ヒゼキヤの時代から七百年前の話です。その時に、イスラエルが荒野の旅をしていたときに、彼らは水がないことや、いつもマナばかり食べていることについて不平を鳴らしました。すると、主は燃える蛇を民に送られて、民は蛇にかみつかれて、死んでいってしまいました。そこで民は、「私たちは主とあなたに罪を犯しました。」と告白します。そこで主はモーセに変てこな命令を出されます。「青銅の蛇を作って、それを旗ざおにつけよ。それを見る者は、生きる。」という命令です。モーセがその通りにすると、蛇を見た者は、かまれても生きることができました。

 イエスさまがこの出来事を引用されて、ニコデモに対して、「モーセが蛇を上げたように、人の子も上げられなければいけません。(ヨハネ3章参照)」と言われました。つまり、モーセの青銅の蛇は、十字架につけられたイエス・キリストご自身のことを表わしていたのです。蛇はエバを惑わし、アダムに罪を犯させたあの蛇を思い出します。つまり罪の象徴です。そして青銅は、聖書ではいつも神の裁きを表します。つまり、木の上で罪がさばかれたことを青銅の蛇が表しているのですが、主は、十字架の上で全人類の罪を負われて、その罪によって父なる神からの裁きを受けられました。

 したがって、これは記念すべき物であり、主がいかにイスラエルの民を死に至る病から救われたかを思い出させるものだったのです。けれども、彼らはその蛇そのものを拝んでいました。主なる神のわざを思い出させるべきものが、かえって偶像礼拝の対象となっていたのです。

 ヒゼキヤはよく見抜いていました。たとえ、まことの神に関する事柄であっても、それを礼拝の対象にするならば偶像礼拝であり、粉砕させなければいけないことを知っていました。「ネフシュタン」とありますが、これは「青銅の物」という意味です。人々が青銅の物と呼んでいたのにふさわしく、粉々に砕いて、青銅という物質にしか過ぎないことを示したのです。

 私たちキリスト者、特に日本人のキリスト者にはこれは切実な問題です。何でも神秘的なものを見出してそれを礼拝の対象にする、アニミズムが深く根づいている日本においては、キリスト者でさえも、神に関する事柄を、神を知るための手段ではなく、拝む対象にしてしまう傾向があります。例えば、牧師の言葉です。教会の牧者はあくまでも、人々がキリストにあって成長するのを助けるために、主にみことばの教えによって整える働きをしているのですから、非常に重要な役目を担っています。けれども、牧師が言うことによって自分の行動を決定してしまうという、受動的な態度によって、神ではなく、神によって用いられている器を拝むようになっています。ヒゼキヤは、「青銅の物だ」と言いましたが、私たちも、「単なる人間にしかすぎない」と牧者のことをみなさなければいけないでしょう。

18:5 彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。18:6 彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。

 これがヒゼキヤの特徴でした。主に信頼していた、ということです。どんなことがあっても、主に堅くすがって、離れることがなかった、とあります。そして、その結果として戦いのおける勝利を収めました。

18:7 主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。18:8 彼はペリシテ人を打ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。

 アッシリヤの脅威がさらに大きくなっているときに、父アハズとは異なり、ヒゼキヤはこの国の言いなりにはなりませんでした。父アハズは、貢物を納めただけでなく、エルサレムの神殿に、アッシリヤの異教の祭壇と同型のものを置き、神殿の器具を取り壊して、アッシリヤの王が来ても満足できるようにさせました。けれども、主がともにおられたので、そのようなことをしなくても、ユダの国は滅びないで済んでいました。国を守っただけでなく、ペリシテ人との戦いにおいて領土も広げていきました。

 私たちが勝利を収めたいなら、ただ一つの方法しかありません。それは、主に信頼することです。力を尽くして主に拠り頼め、そうすれば主がその道をまっすぐにしてくださる、と箴言に書かれてあるとおりです。

2B 努力の限界 9−16
 しかしヒゼキヤは、この信仰が試される、試練の時を経験することになります。

18:9 ヒゼキヤ王の第四年、すなわち、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリヤの王シャルマヌエセルがサマリヤに攻め上って、包囲し、18:10 三年の後、これを攻め取った。つまり、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリヤは攻め取られた。18:11 アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。18:12 これは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行なわなかったからである。

 前回学んだことと同じことが書いてありますが、ヒゼキヤがユダを治めていたその時に、アッシリヤが北イスラエルを倒しました。そしてアッシリヤはユダにも進出して来ます。

18:13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。18:14 そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。18:15 ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。18:16 そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。

 アッシリヤの王セナケリブは、ユダの町々をことごとく倒し、残るはエルサレムだけとなりました。包囲されたことを知ったヒゼキヤは、降伏したほうが良いと判断して、そのことを、ラキシュにいるセナケリブに伝えます。(ラキシュは、エルサレムの南西にあるユダの町の一つです。)そこで、セナケリブが要求してきた通りの金銀を、主の宮と王宮の中にあるものから取って支払いました。

3B 弱みに付け込む言葉 17−37
 ところがアッシリヤの王はこれで満足しません。ユダを倒すために、脅迫するメッセージを送ってきます。

1C 神信仰への挑戦 17−25
18:17 アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。

 タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケというのは、名前ではなく役職の名称です。アッシリヤの王は三人の大使を大軍とともにエルサレムに送りました。そして、城壁の中に向かって声を上げます。ちなみに、「水道」とありますが、歴代誌第二には、ヒゼキヤがアッシリヤの侵略に抵抗するために、城壁の外にある水源を地下水道を作ることによって、エルサレムの町に水が回ってくるようにさせました。現在でも、エルサレムの町にヒゼキヤのつくった水道が残っています。

18:18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフが、彼らのもとに出て行った。18:19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。

 ラブ・シェケは、王ヒゼキヤがもっとも大事にしているところに焦点を当てて攻めてきています。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」と、ヒゼキヤが主に拠り頼むことをいつも口にしているところを、突いて来ています。

18:20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。18:21 今、おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。

 ラブ・シェケは、心を尽くして主に拠り頼んでいるヒゼキヤの、わずかな非難すべきところを探して、そこに焦点を当てます。ヒゼキヤは、アッシリヤの侵略に備えて、いくつかの国と同盟を結んでいたのです。その一つがエジプトだったわけですが、「エジプトなど、いたんだ葦の杖である」と言って、その同盟の無力さを指摘しました。

 そして実際に、そうだったのです。エジプトに拠り頼んでも無力なのです。このように敵は、相手のわずかな非を拡大鏡によって誇大化し、そしてその問題を責め立てます。ラブ・シェケが行なっていることは、悪魔がキリスト者に対して行なっていることと全く同じです。黙示録1210節には、悪魔のことが「兄弟たちの告発者」であると書かれています。そしてローマ8章には、悪魔のことも意識して書いていると思われますが、「神に選ばれた人々を訴える(33節)」「罪に定めようとするもの(34節)」と書かれています。私たちは、自分の心の中で、このような告発のささやきを聞くことがあるでしょう。また実際に、ラブ・シェケと同じように、あからさまにキリスト者を告発する者たちがいます。その手法は決まって、私たちの肉の弱さや欠けたところに、集中砲火を浴びさせます。最終的な目標は、相手を気落ちさせて、主に拠り頼むことを止めさせることにあります。

18:22 おまえたちは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む。』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め。』と言ったそういう主ではないか、と。

 ラブ・シャケの責め立ては、誇張から中傷に移ります。ヒゼキヤが、モーセの律法にしたがって、高き所を取り除いて、エルサレムの神殿のみでの礼拝に立ち返らせたことを、無慈悲で排他的なとんでもない行為であると責めました。ラブ・シャケが、多神教信仰の背景を持つ者であるので、ヒゼキヤの宗教改革を、こうやって非難することができるのです。

 これは、実は私たちキリスト者が、異教の社会の中に住んでいる時に受ける中傷です。まことの神を知った私たちは、これまでの先祖供養・神社参拝を止めることによって、ただ止めただけで、不信者にこれを強要など一切していないのに、「お前たちは、原理主義者だ。自分たちの神だけを拝み、他のものを排斥するのだ。」と責め立てるのです。しかし、ここで、まことの神と、主イエス・キリストに拠り頼む営みを止めてしまってはいけないのです。

18:23 さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。18:24 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。

 ラブ・シェケは、自分たちの軍隊とユダの軍隊があまりにも差がありすぎるということで、皮肉を込めて、「二千頭の馬を与えよう」と言っています。

18:25 今、私がこの所を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ。』と言われたのだ。」

 これは半分、当たっているでしょう。アッシリヤが北イスラエルを攻めることができたのは、主がイスラエルをさばくためでした。アッシリヤが神のさばきの器となったからでした。ところが、それでは、主に拠り頼んでいるヒゼキヤにまでアッシリヤが触れる権利を持っているとでも言うのでしょうか?いいえ違います、彼らは自分たちの分を超えて思い上がり、高ぶっているにしか過ぎないのです。

 悪魔の特徴は高慢です。彼は初めに、高ぶりの罪を犯すことによって堕落しました。箴言にも、主が忌み嫌われるものとして初めに高慢が列挙されており、また、高慢は滅びに先立つ、ともあります。同じようにして、キリスト者を告発する者たちは、高ぶりによって分を越えて行なっていることが多いです。

2C 屈服後の甘い約束 26−37
18:26 ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」18:27 すると、ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」

 ラブ・シャケはこれまで、ヘブル語で話していました。けれども、彼が立っているところからは、ヒゼキヤの三人の家来だけでなく、一般民衆もいます。話が分かってしまうから、あなたがたの言葉であるアラブ語に切り替えてくれないか、と頼んでいます。高官たちはアラム語は話せていたようです、ちょうど現代の政府の高官たちの多くが、英語を話せるようなものです。

 けれども、ラブ・シャケは聞き入るどころか、ますます声を大きくしていきます。今度は、一般民衆に対して話して、彼らの心がヒゼキヤから離れるように仕向けます。

18:28 こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、語って言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。18:29 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。18:30 ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。18:31 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。

 ラブ・シャケは、主に拠り頼むことと引き換えに、食べる物、飲む物に困らないようにさせてあげるぞ、と誘っています。ここまま包囲が続けば、食物はお前の糞、飲み物はお前の尿になるが、主に拠り頼むのではなく、アッシリヤの言うとおりにすれば、大丈夫だ、と言っているわけです。

18:32 その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。それはおまえたちが生きながらえて死なないためである。たとい、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言って、おまえたちをそそのかしても、ヒゼキヤに聞き従ってはならない。

 先週話しましたように、アッシリヤの征服方法は、原住民を大量に他の地域に移住させて、その外国の地での生活に追われていくようにさせ、アッシリヤに反逆させる力を殺ぎ落とすことにありました。その地域で、穀物とぶどう酒、パン、オリーブと蜜が味わえるぞ、と誘惑しているのです。

18:33 国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。18:34 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。18:35 国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」

 ラブ・シェケの最後の言葉は、「神、神、といって、たわごとを言っているが、神を拝んでいる者たちが、ことごとくやられてしまったではないか?」という問いかけです。私たちも、このような責めを心の中のささやき声で、あるいは、実際の声として聞くことはないでしょうか?「イエス・キリストと言っているけれども、全然、神によりすがっている者の状況は良くなっていないではないか?あなたがたの神とは何者だ?」という問いかけです。

18:36 民は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな。」というのが、王の命令だったからである。

 ヒゼキヤの賢い判断です。敵の目的は、民の心を煽ることです。自分の議論の中に、相手を引き込みたいことです。しかしその手に乗るな、とヒゼキヤは戒めています。

18:37 ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフは、自分たちの衣を裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。

 三人の高官は、悲しみの象徴的行為である衣裂きを行なって王に報告しました。

2A 祈り 19
1B 産道の赤ん坊 1−13
19:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。

 やぎの毛で作られた荒布は、自分を痛める象徴として、悲しむときに身につけていました。

19:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。

 イザヤの登場です。前回話しましたように、イザヤの影響があって、ヒゼキヤは父アハズと正反対の善王になったのではないか、と思われます。

19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。

 ここの直訳は、「子どもが産道にはいったのに」だそうです。陣痛が激しく、その極みにまで至っているのに赤ちゃんが出てこない、つまり激しい痛みが続いているのに何も為す術がないと言うことです。

19:4 おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」

 ラブ・シャケは、ヒゼキヤの信仰、また民衆のヒゼキヤ王への信頼について責め立てましたが、それは、生ける神をそしっていたに過ぎません。キリスト者を告発する者は、結局、キリストご自身を告発しています。主が弟子たちに、「世があなたがたを憎むのは、わたしを憎んでいるからです」と言われたとおりです。

19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。19:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

 イザヤは、励ましの言葉をヒゼキヤに伝えました。アッシリヤの王は引き上げて、それから、あるうわさを聞き、アッシリヤに戻ったまま、ここには来なくなる。そして王は、アッシリヤの中で殺される、という預言です。これでヒゼキヤはたいそう、励まされたことでしょう。ところが、言葉による攻撃は執拗に続きます。

19:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリヤの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いたからである。19:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている。」ということを聞いたとき、再び使者たちをヒゼキヤに送って言った。

 クシュとは今のエチオピア、スーダン北部、リビアのあたりにあった国です。そこの国が戦いに出てきたといううわさが、アッシリヤ王の耳にはいって、国に引き返しました。イザヤの言ったとおりです。ところが、アッシリヤ王は駄目押しの一言をいわないで帰ることはありませんでした。

19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。19:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。19:12 私の先祖たちはゴザン、カラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したのか。19:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」

 アッシリヤが征服した国々を列挙しています。そしてそれぞれの王が自分たちの神々を持っていたことを話しています。

2B 主の宮へ 14−37
 このことで再びヒゼキヤは、打ちひしがれてしまいました。主に信頼する戦いは、このように一度限りのものではなく、山に谷ありの難所を通らなければいけません。次にヒゼキヤは、正しいことを行ないました。

1C 主に手紙を読ませるヒゼキヤ 14−19
19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

 神殿の中に入って、主の前に手紙を広げました。主に読んでいただくかのように、広げました。彼は、正しいところに、自分の思い煩い、不安、恐れを持っていったのです。主ご自身のところに、主のご臨在があるところに持っていきました。ダビデは、自分が敵に追い回されているとき、いつも、「主は我が避け所。私の隠れ家」と歌いました。パウロはピリピにある教会の人たちに、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6」と勧めました。牧者チャック・スミスが、ここの聖書箇所を説明するとき、文字通り、告発・非難の手紙を受け取るときは、それを主の前に持っていって祈る、ということを話していました。

19:15 ヒゼキヤは主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

 ヒゼキヤの祈りは、自分が信頼している神を表現するところから、始まっています。ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、と言っていますが、これは天におられる神、ということです。神の啓示どおりに、そのまま御使いケルビムの上の座におられる神を信じていました。

 そして、アッシリヤの告発は、他の異教の神々とイスラエルの神との混同にありました。他の神々はことごとく敗れたではないか、お前も同じだ、という責め立てです。けれどもヒゼキヤは、あなたがけが、地のすべての王国の神であられ、天地万物を造られた創造主であると、明確化させています。

19:16 主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。

 目を開いてください、耳を傾けてください、とお願いしています。神は霊ですから、当然、物理的な目も耳もありません。そして偶像にはあります。けれども、実際は、神は私たちの状況を実際に見ることがおできになり、私たちの祈りを実際に聞くことがおできになります。

19:17 主よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。19:19 私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

 アッシリヤの告発は、真実と嘘のどちらもがありました。アッシリヤが神々に打ち勝ったのは事実です。しかし、その神々とイスラエルの神を同列に置くところに偽りがあったのです。悪魔は本当のことも言って、嘘を垂れ流すことを行ないます。狡猾です。

2C 救いの約束 20−34
 ヒゼキヤの涙の祈りに主が答えられます。

19:20 アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』

 主が祈りの答えを、ヒゼキヤ本人ではなくイザヤにお与えになりました。

19:21 主が彼について語られたことばは次のとおりである。処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘はあなたのうしろで、頭を振る。

 これは、アッシリヤがことごとく主の前で敗れて、エルサレムの住民がその勝利を喜び祝っている姿であります。

19:22 あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。

 ヒゼキヤが言っていたように、アッシリヤが行なっていたのは、ヒゼキヤに対するというよりも、イスラエルの聖なる方に対する高ぶりです。

19:23 あなたは使者たちを使って、主をそしって言った。『多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての宿り場、木の茂った園にまではいって行った。19:24 私は井戸を掘って、他国の水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた。』と。

 アッシリヤがレバノンやエジプトを倒したことを、誇っている場面です。

19:25 あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。19:26 その住民は力うせ、おののいて、恥を見、野の草や青葉、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。

 アッシリヤは自分たちの手柄だ、と誇っていましたが、すべては神の主権の中で起こっていたことでした。

19:27 あなたがすわるのも、出て行くのも、はいるのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。

 主は、すべてのことを知っておられます。私たち人間は、あたかも神は知っていないかのようにふるまいますが、すべてを、心の中に至るまでご存知です。

19:28 あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。

 アッシリヤは、自分たちが蒔いた種を刈り取ることになります。鼻に鉤輪を、口にくつわを、というのは、アッシリヤが文字通り、征服した民を捕え移すときに行なっていたことです。ですから、移動中、もし歩くのが遅くなったら自分の鼻や口にものすごい痛みが走るので、急いでついていくしかなかったのです。これをアッシリヤも経験する、ということです。

19:29 あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。

 これはユダに対する預言です。エルサレムは、アッシリヤによって包囲されたために、作物を栽培することができませんでした。けれども食べ物には困らない、という預言です。一年目は落ち穂から生えたものが自然に出来ており、二年目は、その生えたものからさらに種が落ちて、自然に生えたものを食べるようになり、そして三年目は自分たちが種蒔いたものによって食べることができる、という約束です。

19:30 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。19:31 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。

 ユダの中でも、主に信頼する残りの者たちがこの救いにあずかる、という約束です。信頼する者が救われます。

19:32 それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。19:33 彼はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない。・・主の御告げだ・・19:34 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」

 先に預言したとおり、再びイザヤはヒゼキヤに、アッシリヤの王は引き返す、と言っています。

3C 18万5千人の死 35−37
 そして次に驚くべきことが書かれています。

19:35 その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。

 主の使いは、受肉前のイエス・キリストご本人でしょう。けれども、神から遣わされた使者、つまり御使いの働きをされています。ひとりの御使いが、今、18万5千人を一度に打ち殺しています。天使というと、私たちは古代欧州にあった異教の神話の中にある、かわいい赤ちゃんの天使や、女性の天使を思い出すでしょうが、聖書の天使はまったく違います。とてつもなく力強い存在です。事実、ダニエル書には、ペルシヤの君、ギリシヤの君など、世界帝国の長として天使が動いていることを話しています。主が復活されるときには、御使いがやって来たことによって、大地震が起こり、ローマ兵たちは死んだようにありました。

 その力強い天使について、主が捕えられる前に、ペテロに言われた言葉を思い出します。「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。(マタイ26:53」一軍団は6千人編成ですから、7万2千人以上の御使い、ということになります。主は、ご自分を捕えに来た者どもを、一瞬にして滅びすことは、あまりにも容易くおできになったのです。それを、「わたしの願いではなく、あなたのみこころのままになりますように」と祈られたように、父なる神のご計画が実現するよう、ご自分の身をゆだねられたのです。

19:36 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。19:37 彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。

 アッシリヤの王は、イザヤの預言どおり、剣で殺されました。しかも皮肉なことに、自分が偶像を拝んでいたとき、自分の息子によって殺されたのです。イスラエルの神をののしっていたセナケリブは、自分の神によって救われることはできませんでした。

 ここに、主に拠り頼むことへの激しい戦いがあることがお分かりになられたかと思います。主は必ず勝利を与えてくださいます。けれども、主ご自身への信頼を何とかしてなくしてしまおうと、悪魔や悪霊どもは、執拗に挑みかかってくるのです。自分たちの敗北はすでに決まっていますから、あと攻撃できるとすれば、私たちが勝利者であられる主に拠り頼むところなのです。ダビデが歌ったように、「神に望みを置け。恐れるな、心を強くせよ。」と自分を励ましていきましょう。


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