列王記第二6−7章 「信仰の目」
アウトライン
1A 主の働き人 6:1−23
1B 必要な時の助け 1−7
2B 霊の世界 8−23
2A 国の人々 6:24−7:20
1B 神の呪い 6:24−7:2
2B 意外な神の器 3−15
3B 不信仰の代償 16−20
本文
列王記第二6章を開いてください、今日は6章と7章を学びます。ここでのテーマは、「信仰の目」です。エリシャの預言活動がエリヤから引き継がれましたが、続けてエリシャを通しての神の奇蹟のみわざを読んでいきます。
1A 主の働き人 6:1−23
1B 必要な時の助け 1−7
6:1 預言者のともがらがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたといっしょに住んでいるこの場所は狭くなりましたので、6:2 ヨルダン川に行きましょう。そこからめいめい一本ずつ材木を切り出して、そこに、私たちの住む所を作りましょう。」と言うと、エリシャは、「行きなさい。」と言った。
聖書には、エリヤのときからこのような預言者学校があったことを記しています。ここはおそらくはエリコにある預言学校であったと考えられますが、エリシャを師匠とするこの学校に数多くの人々が勉強しはじめました。そして人数が増えてきたので、その宿舎が手狭になってきました。そこで学徒の一人がエリシャに、ヨルダン川のところに生えている木を切り出して、それで宿舎を作りましょう、と持ちかけて、エリシャは「行きなさい」と言っています。
6:3 すると、そのひとりが、「あなたもどうか、思い切ってしもべたちといっしょに行ってください。」と言ったので、エリシャは、「では、私も行こう。」と言って、6:4 彼らといっしょに出かけた。彼らは、ヨルダン川に着くと、木を切り倒した。6:5 ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。」
なんと斧の頭がはずれて、ヨルダン川の中に落ちてしまいました。そしてエリシャに、それは借り物であるといって、慌てています。
6:6 神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。6:7 彼が、「それを拾い上げなさい。」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。
おそらくは鉄で出来た斧の頭が水に浮かぶという奇蹟を、エリシャは行ないました。私は、この出来事から預言学校と、いまの聖書学校と似ているところがあると思いました。一つは、神の器が師匠となっている学校では、このように人が増えて、増えたからこそいろいろな問題が出てくることです。そしてもう一つは、その学校を運営するための資金はなく、自分たちで宿舎を作り、また斧も借りなければいけないほど、物が豊富にあるわけではないことです。けれども、このような不足の中で主が働かれて、主が働かれているので、人の必要を満たしてくだいます。主の奉仕者は、自分が奉仕や活動をしているなかで、このような奇蹟をいろいろ経験していることと思います。
2B 霊の世界 8−23
そして別の出来事に話が変わります。6:8 アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」
前回、アラムあるいはシリヤの将軍ナアマンが、エリシャの指示によって自分のらい病がいやされた話を読みました。その時、シリヤの王がイスラエルの王に、ナアマンをよろしく頼むという手紙を送っています。シリヤとイスラエルは休戦状態の時もありましたが、ここにあるように小競り合いをしている時もありました。
6:9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」6:10 そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。
シリヤの奇襲部隊が待ち伏せしているところを、エリシャは逐一イスラエルの王に伝えていました。彼には知識のことば、超自然的に人の状況を神に示される賜物がありました。それで、シリヤのいかなる作戦も、失敗に終わっています。
6:11 このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」6:12 すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
面白いことに、シリヤの王はスパイ行為がある、情報漏洩があると疑っています。けれども、部下のひとりが、あなた様の奥様との、寝床での会話のような非常にプライベートなものでも、エリシャはみな知っていて、それをイスラエルの王に告げているのです、と言っています。
6:13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。6:14 そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
ドタンは、サマリヤから北に数十キロ離れている町です。たった一人の預言者を、このような大軍で包囲しています。情報が盗み取られていることに、そうという脅威を感じていたのでしょう。
6:15 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
非常に大切な箇所が出てきました。この箇所から私たちは、霊の世界を見るための信仰について学ぶことができます。私たちは、二つの世界が同時に存在しているところで生きています。それは物理的な肉の世界と、目に見えない霊の世界です。霊の世界は、物理的な世界と同じぐらい現実に存在して、私たちの周りにこの二つが同居しています。
この霊の世界は、神のみことばによって、はっきりと啓示されています。目には見えないけれども、神のみことばに書かれていることを真実であると信じることによって、見えないものを見るようにして生きることができます。ヘブル11章1節に、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあるとおりです。
そして実は、霊の世界のほうが物理的な世界を支配している、操作しています。私たちは、天使であるとか悪霊であるとか、神話か空想話のように聞こえるかもしれませんが、実はこれら霊的存在の活動によって、そして何よりも神ご自身の霊の主権的な働きによって、目に見える世界が動き、私たちはその現象を視覚によって、初めて認めることができます。
ですから、私たちはいつも、信仰によって霊の目を神さまに開いていただいて、それで目に見える世界に対処していく術を体得しなければいけないのです。エペソ人への手紙1章を開いてください。パウロはこの手紙の初めに、私たちがキリストにあって、天におけるあらゆる霊的祝福をもって、神が私たちを祝福してくださったことを書いています。もうすでに完全で十分な祝福が与えられているのですが、パウロはそこで17節からこのような祈りをしています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(17-19節)」御霊によって、目に見えない神の霊的祝福と力を知り、それを、信仰をとおして体験することができるように、という祈りです。
今、エリシャのところで仕えている若者は、シリヤの大軍しか目に見えていません。この大軍と自分たちを比べて、もうだめだ、と思ったのです。けれども、エリシャが祈ったように、私たちがしなければいけないのは、自分と敵を比べるのではなく、神と敵を比べることです。自分たちの味方の軍勢が、敵の軍勢よりも圧倒的に優勢であることを知ることです。このことによって、私たちの目に見える生活の中でも影響が与えられ、勝利することができるのです。
6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。6:20 彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。
エリシャは、圧倒的な霊的な力をもって、シリヤ軍を誘導しています。彼らを盲目にし、イスラエルの首都サマリヤの真ん中に来させ、完全に捕虜状態としました。
6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」
イスラエルの王ヨラムは、すっかり興奮しています。けれども、エリシャはユーモアある方法で、敵を圧倒させます。
6:22 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」6:23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。
もてなしをされた軍隊は、神の圧倒的な勝利の証言者となってくれます。生かして、もてなすことによって、却って彼らをおびやかせてシリヤの王をたじろがせる方法です。これで奇襲攻撃は二度と来なくなりました。
2A 国の人々 6:24−7:20
けれどもシリヤの王、ベン・ハダデ二世はくやしくてたまらなかったようです。しばらくして全面戦争をするためイスラエルに攻めてきました。
1B 神の呪い 6:24−7:2
6:24 この後、アラムの王ベン・ハダデは全軍を召集し、サマリヤに上って来て、これを包囲した。6:25 そのころ、サマリヤには、ひどいききんがあった。そのうえ、彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。
シリヤ全軍が攻めてきて、サマリヤの町を包囲しました。包囲戦によって、町の中での生活必需品の補給が途絶え、町の住民は徐々に息絶えていきます。その上、包囲されていたとき、サマリヤは飢饉で苦しんでいました。そこで食糧の欠乏と、それに伴う過剰なインフレです。ろばはイスラエル人にとって汚れた動物とされており、さらにろばの頭など、食べられる代物ではありません。栄養価は低く、味はまずいでしょう。それが銀80シェケル、だいたい5千円で売られていました。そして、普通ならただ同然の鳩の糞が300ミリリットルぐらいのものが、数百円で売られていたわけです。
6:26 イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、ひとりの女が彼に叫んで言った。「王さま。お救いください。」6:27 王は言った。「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか。打ち場の物をもってか。それとも、酒ぶねの物をもってか。」
つまり、「私は王であっても、何もあげるものはないよ」と言うことです。
6:28 それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう。』と言ったのです。6:29 それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう。』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」
なんと人食い、です。けれども、イスラエル人が人食いをすることを、はるか前にモーセが預言していました。主に民が反抗しつづける結果として、「あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。(レビ26:29)」と言いました。そして、ヤロブアムの道を歩んでいるヨラム王の治世において、この言葉が実現してしまったのです。
6:30 王はこの女の言うことを聞くと、自分の服を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は服の下に荒布を着ていた。6:31 彼は言った。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」
荒布は、悔いたり、悲しんだりするときに着るものです。けれども、なんとヨラムは、この惨劇を自分のせいにするのではなく、神の人エリシャのせいにしました。けれども、これは実に人間の我儘を上手に表わしています。人間は、調子の良いときは神など要らない、自分でやっていく、「神よ、あなたは私の生活から出て行ってください」と言っています。けれども、何か不幸なことが起こると、その人は、「神は愛なのに、なんでこんな悪いことを起こすのか。」と神を非難するのです。自分が神を排除しているのだから、神がその人に何か良くする義務はありません。ましてや、自分が悪いことをしていて、その結果を刈り取るのは当たり前のことです。けれども、自分がへりくだるのを拒む時に、いつも神の名を持ち出して、神を非難します。
6:32 エリシャは自分の家にすわっており、長老たちも彼といっしょにすわっていた。王はひとりの者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。「あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのをご存じですか。気をつけなさい。使者が来たら、戸をしめ、戸を押してもはいれないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。」
エリシャたちは長老たちを集め、これからどうすればよいか話していたのでしょう。けれども、彼は再び、知識のことばによって、王からの使者がやってきたのを知りました。
6:33 彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。」
ずいぶん、不信仰な物言いです。けれども、イスラエル王ヨラムは、一貫してこのような神意識をもっていました。何か悪いことが起こると、それは神がもたらしているものだ、神は自分に敵対しているのだ、と捨て台詞的に話します。
7:1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
あすの今ごろ、です、24時間後に、7.6リットルの上質の小麦粉が数十円で、大麦も15リットル程度のものが同じく数十円で売られます。
7:2 しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
ここに、不信仰について、非常に大切なことを教えています。信仰を持たなければ、その事は起こらない、と考える人たちがいます。信仰がなければ、天国も地獄もなく生きているこの世だけだ、と思っている人たちがいますが、いいえ、信じようが信じまいが、神のみことばは真実であり、そのまま立ちます。信じることによる祝福は、その見ていないものを自分のものとすることができる、その祝福を自分で楽しむことができることです。逆に不信仰がもたらすものは、実際にあるのに、それを自分のものとすることができないことです。
2B 意外な神の器 3−15
前回のナアマン将軍の話で、捕らえ移されて、ナアマンの妻に仕えていたイスラエル人少女が、ナアマンのいやしのために大きく用いられたことを読みましたが、ここの出来事でも意外な人物が神さまに大きく用いられます。イザヤ書に、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる」とありますが、まさに心に思いつきもしないことが起こります。
7:3 さて、町の門の入口に四人のらい病人がいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」
らい病人四人が登場しました。彼らは、町の門の入口にいますが、それは神の律法によって定められているからです。らい病人は、イスラエル人の中に住むことはできず、だれかが近づいたら、「私は汚れている!」と叫ばなければいけませんでした。そこで彼らは町の門の入口にいて、そこで投機されるゴミから、自分の食料となるものを探して生きていたのです。
ところが、問題はそのゴミが出てこなくなったことです。そこで、彼らは飢え死にしそうになっていました。
7:4 たとい、私たちが町にはいろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営にはいり込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。
実は、このらい病人の言葉から、信仰によって一歩踏み出すことについて、大きなことを学ぶことができます。自分が何もしなければ、ただ死ぬだけなのは、はっきりしている。けれども、シリヤ軍の陣営に行けば、殺されるかもしれない。けれども、ここにいたら、ただ死ぬだけなのだから、殺されるかもしれないが、行ってみようじゃないか、ということです。
私たちは、自分たちの可能性に死ぬときに、同じような信仰による一歩を踏み出すことができます。今の、自分の現状のままでは、この安定した生活の中では、神さまによる豊かな実を結ばせることはできない。とりあえずで良いから、まず一歩踏み出して、神さまの働きの中に入ってみないか?自分で自分の生活を支配したところで、何ら良いものはでてこない。主によって導かれて、主によって必要が備えられて、主によって力強い働きをすることができる。失敗する恐れもあるが、その時はまた戻ってくればいいじゃないか、という姿勢です。このような信仰の踏み出しによって、神が生きて、働いてくださいます。
7:5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。7:6 主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。」と言って、7:7 夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。
すごいことが起こりました。四人のらい病人は、骨と皮だけで、しかも今は夜ですから、歩こうにもつまずきながら歩いていただろうと思います。その時に、「うぇ〜」といううめき声をあげながら、前に進んでいったことでしょう。ところが、その声を、監視をしているシリヤ軍の兵士が、「うん?これは、イスラエルがエジプト人やヘテ人を雇って、攻めに来ているんじゃないか?」と勘違いしたようです。それで、恐れ惑った兵士が他の兵士たちにこのことを告げ、たちまち宿営中に広がって、彼らは一目散に逃げたのです。
たった一歩の信仰の踏み出しによって、このように神が道を開いてくださるのです!
7:8 このらい病人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕にはいり、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行った。また、戻って来ては、ほかの天幕にはいり、そこから持ち出し、それを隠しに行った。7:9 彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」
天幕の中にはいったら、ごちそうがそのままになっていました。それをむさぼり食って、それから貴金属や服などを持ち出し、とにかく自分たちの物にしていきましたが、だんだん、これは自分たちだけでは、あまりにも多すぎる量であることに気づき始めました。
それで、イスラエルの家にこの良い知らせを伝えなければ、大変なことになる、と思ったのです。この四人は、すばらしい伝道者になりました。自分たちが、神の祝福をいっぱい受けたけれども、こんな良い話を他の人たちに伝えなければ、自分たちに罰が来る、と思ったのです。パウロも、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16)」と言いました。
7:10 彼らは町に行って、門衛を呼び、彼らに告げて言った。「私たちがアラムの陣営にはいってみると、もう、そこにはだれもおらず、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」7:11 そこで門衛たちは叫んで、門のうちの王の家に告げた。7:12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラムが私たちに対して計ったことをあなたがたに教えよう。彼らは私たちが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、あいつらが町から出て来たら、生けどりにし、それから町に押し入ろう、と考えているのだ。」
らい病人たちは、この良い知らせに興奮し、また門衛たちも興奮しているのに、王だけがいまだ、落ち込んでいます。イスラエルは必ず負ける、と決めかかっています。これもシリヤの罠だと思っているようです。不信仰は、あるものを手に入れなくさせてしまいます。
7:13 すると、家来のひとりが答えて言った。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭だけ取らせ、その者たちを遣わして偵察してみましょう。どうせ彼らはこの町に残っているイスラエルの全民衆と同じめに会い、または、すでに滅ぼされたイスラエルの全民衆と同じめに会うのですから。」
食べなかった馬が五頭だけ残っていたようです。それで、馬に乗って偵察する、と申し出ています。この家来も信仰の一歩を踏み出しているのですが、シリヤ軍が待ち伏せしていて殺したところで、どうせここにいても死ぬのですから、構いません、と言っているのです。
7:14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は、「行って、偵察して来なさい。」と命じ、アラムの陣営のあとを追わせた。7:15 彼らはアラムのあとを追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道は至る所、アラムがあわてて逃げるとき捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。
サマリヤからヨルダン川までかなりの距離ですが、そこまで行ってもシリヤ軍はいませんでした。むしろ、荷物を軽くするために落としていった衣服や武具でいっぱいでした。
3B 不信仰の代償 16−20
7:16 そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。7:17 王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。
見るけれども、食べることはできない、というエリシャの言葉は、このような形で成就しています。侍従は、混乱が起こらないように、門のところで管理に当てられましたが、民がなだれ込むようにして門を通っていったので、彼は押しつぶされてしまいました。このことを列王記の著者は強調したいようで、もう一度、繰り返しています。
7:18 神の人が王に、「あすの今ごろ、サマリヤの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる。」と言ったとき、7:19 侍従は神の人に答えて、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と言った。そこで、彼は、「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と言った。7:20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。
これが不信仰の代価です。あるけれども、楽しめないのです。私たちには、信仰の目が与えられています。信仰によって見える世界があります。そして、その世界を実際に、自分のものとして楽しむことができます。その反対に不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。
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