サムエル記第二11−12章 「ダビデの罪」
アウトライン
1A 罪への道 11
1B 目の欲、肉の欲、暮し向きの自慢 1−5
2B 隠蔽できない罪 6−13
3B 増幅する罪 14−27
1C 殺人 14−25
2C 表面的な解決 26−27
2A 罪示された後 12
1B 同じさばきの量り 1−6
2B 罪の刈り取り 7−14
3B 悔い改めるダビデ 15−31
1C あわれみへの信頼 15−25
2C 元の仕事 26−31
本文
サムエル記第二11章を開いてください。今日は11章と12章を学びます。ここでのテーマは、「ダビデの罪」です。これまで、主によって引き上げられたダビデですが、今日学ぶ箇所は、彼が主のみこころを損なう場面です。この話から、罪を犯すのはどのようにしてか、また罪を隠そうとするとどうなるか、そして罪の赦しについて、また神の懲らしめについても学ぶことができます。
1A 罪への道 11
1B 目の欲、肉の欲、暮し向きの自慢 1−5
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。・・その女は月のものの汚れをきよめていた。・・それから女は自分の家へ帰った。11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」
ダビデの、姦淫の罪の記録です。主に愛され、また主を愛していたダビデが、なぜこのような罪を犯してしまったのか、その理由をこの箇所から見出すことができます。
一つ目は、ダビデは、主に与えられた務めを全うしていなかったことです。前回、アモン人が、真実を尽くそうとするダビデを侮辱して、侮辱しただけでなく、戦いを仕掛けてきたところを読みました。アモン人は自分たちの町に逃げかえったので、今度イスラエルは、その町を攻略しなければいけません。しかしダビデは、その戦いに出陣せず、自分はエルサレムに残っていました。しかも、2節を見ると、夕暮れに床から起き出しています。
私たちが霊的に一番危険なときは、試練や困難や弱さの時ではなく、祝福されている時であるとよく言われます。イスラエルに対して、主はモーセを通して、約束の地で祝福されたイスラエルが、高ぶって「自分たちの手で、このように繁栄しているのだ」と言うことがないように、そして他の神々に従うことがないように、と戒められました。主が祝福してくださっているとき、私たちはすでに自分は目標のものを得てしまったかのような錯覚に陥ります。そのため、キリストの義にあずかるための競走を中断してしまいます。パウロがこう言いました。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14)」けれどもダビデは、主がこの国を立ててくださったことに安住し、一心に走ることを怠っていました。
そしてダビデは、月のものを洗っている裸のバテ・シェバを見ました。このときにダビデは、「これはいけない・・・」と思って、その場から立ち去れば良かったのですが、好奇心から彼女の裸体を見続けてしまいました。聖書の中に、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:16)」とあります。ダビデは、夕暮れに起きてエルサレムの宮廷の屋上を歩いていた、つまり暮らし向きの自慢がありました。そして今、目の欲に惹かれています。エバも同じでしたね、食べるのを禁じられていた実をじっくり見ることによって、蛇に惑わされました。目の欲です。
そして三つ目は、肉の欲です。彼は、その女を調べさせて、それで他人の妻であることを知って、それでも欲情を抑えることができず、彼女と寝ました。だれでも誘惑はあります。実に人間として来られたキリストが、人間のあらゆる弱さを身にまとわれて、試みを受けられました。問題は、その誘惑に自分をゆだねてしまうことです。ペテロはこう言いました。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。 (1ペテロ2:11)」私たちの思いに肉の欲が戦いを挑んできますが、それを遠ざけるのです。
ダビデは、他人の妻と寝たところで、それだけのことだ、と考えていたかもしれません。けれどもそうではありませんでした。5節にあるように、バテ・シェバは身ごもりました。それもそのはず、彼女が月の汚れをきよめていました。(ところで、月の汚れをきよめるのは、衛生的な意味合いだけでなく、聖書のレビ記で定められている神からの命令です。レビ記15章に書かれています。)ということは、排卵期に入っているということです。このときに性的関係を持ったら妊娠する可能性は大です。ダビデはそのような危険を考えることができたはずですが、自分の肉の欲はそうした冷静な判断を狂わせていました。サムソンがデリラと寝ていたときもそうでした。
2B 隠蔽できない罪 6−13
11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。11:7 ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。
ダビデはアモン人との戦いの場にいた、バテ・シェバの妻ウリヤを自分のもとに連れて来させました。これはもちろん、ダビデは自分の行なったことを隠蔽するためです。ウリヤがバテ・シェバのところに入れば、生まれてきた子はウリヤとの子であるとごまかすことができます。それでウリヤを労うふりをしました。
11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
非常に実直で、神を愛するウリヤです。いつもダビデなら、まさにウリヤのようであります。まさに、指導者ダビデの下で、その良い霊的影響を受けている人です。けれども今、罪を犯しているダビデにとって、その実直さが邪魔になっています。なんという皮肉でしょうか。
11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。
こうしてダビデは、自分の罪を隠すことはできませんでした。罪は、その一つの罪だけで終わらせられない性質を持っています。ダビデはこの時点で、自分の罪を神の前に言い表わし、神からのあわれみを求めれば良かったのですが、そうしませんでした。そこで彼は新たな罪を犯します。少量のパン種をパンの粉に入れると、パン種が粉全体に広がるように、一つの罪が増幅されていきます。
3B 増幅する罪 14−27
1C 殺人 14−25
11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
なんとダビデはウリヤを殺すことを考えました。殺人の罪です。しかも、分からないように戦場で死ぬように考えていました。サウルがかつてダビデをペリシテ人の手に陥るように仕向けたのと同じです。そして、よりによって、ウリヤ殺害の命令の手紙をウリヤ本人に渡しています。
11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか。』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』と言いなさい。」
アビメレクとは、士師ギデオンがそばめとの間で生んだ子です。彼はギデオンの息子70人を虐殺しました。けれども一人だけ逃れて、彼がアビメレクに対する神ののろいを宣言しました。はたしてその通りになり、アビメレクはひとりの女が城壁から投げたひき臼の上石によって殺されました。ダビデが、そこから教訓を学び取ることができなかったのか、と叱責するかもしれないと、ヨアブが使いの者に言いつけました。
11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」
ウリヤだけでなく、家来たちも死んでいます。これもダビデの罪の結果です。
11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」
ダビデは何事もなかったかのように返答しています。
2C 表面的な解決 26−27
11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。
ダビデと数人の使いの者、またヨアブ以外は、このことについての真実は知らなかったでしょう。けれども、もちろん、ウリヤが死んだこと、ダビデがその妻を迎え入れたことについては、何か変だと勘付いていた人たちもいたかもしれません。いずれにしても、人間的には上手に罪を覆い隠すことができました。それに、当時は、やもめになると、自分を支える人がいなくなり、物乞いに近い貧しい生活を強いられます。勇士の死によって残された妻をめとることは、逆に称賛された可能性もあります。ダビデはなんと弱い者に目を留める人なのか、すばらしい、という称賛があったかもしれません。
おそらくはこの時の心情を書き記しているであろう箇所が、詩篇の中にあります。ダビデが罪を隠していたときの心情です。詩篇32篇3−4節です。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ」彼は霊的に、また感情面に渇きをおぼえていました。また肉体の疲労までももたらしていました。これが、罪がもたらす結果です。私たちに、主とのいのちある関係、親しい関係を奪い取ってしまいます。
2A 罪示された後 12
そして預言者であり、友人であるナタンがダビデを叱責しに来ます。箴言に、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(27:5)」とあります。彼は真の友人として、ダビデをあからさまに責めます。
1B 同じさばきの量り 1−6
12:1 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」
これはもちろん、多くの妻がいるダビデが、たった一人の妻しかいないウリヤからその妻を取り上げたことのたとえです。
12:5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。12:6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
ダビデは、自分自身が羊飼いであったことからも、たった一匹の子羊をねんごろに育てているその貧しい人の気持ちがより一層わかったのでしょう。その富んでいる男は死刑であり、また、四倍にして償わなければいけないと言っています。出エジプト記22章1節に、羊を盗んだ場合は、羊四頭で償いをしなければいけない、と書かれています。
けれども、ダビデはこれが自分自身に対することであることに気づきませんでした。自分が責め立てている事は、少し状況を変えて自分に当てはまれば、まったく同じように自分も行なっていたことに気づいていなかったのです。これが、イエスさまが言われた、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」という戒めです。またパウロがローマ人への手紙2章にて、こう言っています。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(1節)」
2B 罪の刈り取り 7−14
12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。12:8 さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
ナタンは、初めに主の恵みを話しています。私たちも読んできました、主がいかにダビデに良くしてくださり、ダビデもそのことを知って、言葉にならない感謝の祈りを、主にささげています。にも関わらず、彼はむさぼったのです。「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」とナタンは言っています。私たちがむさぼることのないようにする方法は、主の恵みを知ることです。主がいかに、自分たちの必要を満たしてくださり、祝福を豊かに与えてくださっているのかを知ることです。そしてそれを忘れないことです。
12:9 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。12:10 今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。
ナタンは、ダビデの罪の結果を告げています。これからあなたの家の中で剣が離れない、と言っています。これが実に次から読む13章以降で実現していきます。
12:11 主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
ダビデの子アブシャロムが、エルサレムにダビデが残したそばめ十人と、王宮の屋上で、全イスラエルの目の前で寝ました。この預言も実現します。
12:12 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。
イエスさまが同じことを言われました。「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ12:2-3)」
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
ここには、二つの大事なことが書かれています。一つは、神は私たちの罪を赦すのに早い方であるということです。ダビデは、自分の罪をすぐに言い表わしました。ここで彼が非常に怒って、ナタンを殺すことも、王ですから出来たのです。けれども彼はすぐに悔い改めました。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)」とあるとおりです。ダビデは、罪が赦されたことの喜びを、先ほど引用した詩篇32篇で次のように言っています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。・・・私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(32:1-3,5)」彼は、隠していた罪を主に言い表わすことにより、罪の赦しの解放を体験することができました。
けれども、もう一つ大切なことは、罪を犯して、罪の告白をすれば、罪が赦されるけれども、神は私たちがその罪から離れるために、罪を犯した結果を刈り取ることもされる、ということです。ダビデの子が死んでしまうこと、また、自分の家で剣が離れないこと、そばめが他の者によって奪われることなど、彼が王であるがゆえに課せられている責任に応じて、罪の結果を招きました。例えば、自分が犯罪を行なったとします。その犯罪について、私が悔い改めれば、神は赦してくださいます。自分がこのことによって、神によって罪に定められる、地獄に行くようなことはなく、パラダイスに迎え入れてくださいます。けれども、犯罪者として刑罰を受けなくても良くなるのか、と言ったらそうではありません。結果があるのです。
しかし、その結果を刈り取ることは、聖めのために大切です。罪がもたらすものがいかに酷いものであるかを知っている人は、その罪を憎み、その罪から自ら離れるようになります。神は私たちを愛するその愛のゆえに、そうした懲らしめを与えられるのです。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)」とヘブル書にあります。
3B 悔い改めるダビデ 15−31
次に悔い改めるダビデの姿を見ることができます。
1C あわれみへの信頼 15−25
12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。
家来たちは、ダビデの悲しみが、その死を告げ知らされることによって増し加わると心配していました。けれどもダビデは正反対の反応を取ります。
12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。12:21 すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」12:22 ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。12:23 しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
ダビデは悔い改めることによって、元の神にゆだねるダビデに戻っています。ダビデは、自分の子がまだ生きているときは、神があわれんでくださるかもしれない、と思って祈りました。そして、そうならなかったら、その子が死んだことは神のみこころであると受け入れ、主にお任せしました。私たちも同じです。私たちがどんなにひどい罪を神に対して行なっても、私たちは神のあわれみを求めることができます。神は実にあわれみ深い方です。そして、もしその願いを聞き入れていただかなかったとしても、神を疑ったりするのではなく、かえって神の御手にそのことをゆだねます。あわれみを請い、そしてみこころにゆだねる、非常に大切な原則です。
ところで、ダビデが、「私はあの子のところに行く」と言っているところから、乳児や幼児で死んだ子は天国に行ける、という考えがあります。私はこのことについては、分からない、と答えます。福音を聞く機会がなかった人、また知的に福音を認識することができない乳児や、知的障害者の人たちが、天国に行けるのか、行けないのかは、ただ主にお任せすることしかできません。ダビデがここで「あの子のところに行く」というのは、旧約時代における陰府(よみ)のことであると考えられます。死者が行くところであり、旧約時代には、新約にあるような明確な、天国と地獄のビジョンが与えられていません。ですから、この箇所から、すべての乳児が天に行けると断言することはできません。
12:24 ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、12:25 預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。
ダビデはバテ・シェバと罪を犯しましたが、けれども悔い改めた後は、その結婚を大切にしました。彼女を慰め、愛することに専念しました。なぜなら、神は、たとえ罪を犯しても、その悪いものから良いものを生み出してくださる、恵みの神だからです。そのバテ・シェバとの間からダビデの後継者となるソロモンが生まれました。そしてご存知のとおり、マタイ伝1章には、イエス・キリストの系図の中に、バテ・シェバの名前が出てきます。もし私たちが一度、失敗して、それで神に用いられなくなると考えたら、イエスさまの系図にバテ・シェバの名が出てくるようなことは決してありません。神は私たちが失敗しても、またやり直しを与えてくださる方です。
2C 元の仕事 26−31
12:26 さて、ヨアブはアモン人のラバと戦い、この王の町を攻め取った。
話は11章の初めに出てきた、アモン人との戦いも戻ります。ヨアブは、その王の町を攻略しました。
12:27 ヨアブはダビデに使者を送って言った。「私はラバと戦って、水の町を攻め取りました。12:28 しかし今、民の残りの者たちを集めて、この町に対して陣を敷き、あなたがこれを攻め取ってください。私がこの町を取り、この町に私の名がつけられるといけませんから。」
町を包囲したとき、水の供給を断ち切れば、その町はもう生き延びられなくなります。水の供給ラインが、包囲戦の勝敗を決定します。ヨアブは水の町を攻め取った、つまりその供給ラインを断ち切ることに成功しました。あとは勝利があるのみです。王に、やってきてほしいと頼みます。
12:29 そこでダビデは民のすべてを集めて、ラバに進んで行き、これと戦って、攻め取った。
エルサレムで一人だけ王宮に残っていたダビデとは違って、ダビデは再び戦いの中に自分の身を投じます。
12:30 彼は彼らの王の冠をその頭から取った。その重さは金一タラントで、宝石がはめ込まれていた。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持ってきた。
1タラントは34.3キログラムあります。ものすごい思い王冠ですね。
12:31 彼はその町の人々を連れてきて、石のこぎりや、鉄のつるはし、鉄の斧を使う仕事につかせ、れんが作りの仕事をさせた。ダビデはアモン人のすべての町々に対して、このようにした。こうして、ダビデと民のすべてはエルサレムに帰った。
こうしてアモン人を制圧しました。ダビデは神に立ち返りましたが、先ほど話したように、自分の家の中でたいへんなことが起こります。13章以降に、ダビデが犯した罪の影響が自分の息子たちに及んでいくのを読みます。
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