サムエル記第二15−16章 「子の怒り」

アウトライン

1A 子の反逆 15
   1B 巧みな誘い 1−12
      1C なめらかな舌 1−6
      2C 欺き 7−12
   2B 悲しみを共にする者たち 13−37
      1C 忠誠者 13−23
      2C 先見者 24−29
      3C 間者 30−37
2A 子のうぬぼれ 16
   1B 現われた本心 1−14
      1C 便乗 1−4
      2C 恨み 5−14
   2B 苦みの根 15−23

本文

 サムエル記第二15章を開いてください。今日は15章と16章を学びます。ここでのテーマは、「子の怒り」です。私たちは前回、「親の罪」というメッセージ題で13章と14章を学びました。ダビデの長男であったアムノンが、半兄弟アムノンの妹タマルをはずかしめました。それを聞いたダビデは、非常に怒りましたが、アムノンを懲らしめることをしませんでした。そのうちアブシャロムは、アムノンへの憎しみを募らせ、ついにアムノンを殺害します。

 アブシャロムは、自分の母方の、親戚ゲシェルの王のところに逃げます。ダビデはアブシャロムのことを許せませんでした。それを見たヨアブは、賢い女を使って、ダビデを説得します。アブシャロムは三年後にエルサレムに戻ることができました。けれどもダビデは息子に顔を合わせませんでした。二年後、アブシャロムはヨアブの畑に火をつけて、無理やりヨアブを自分のところに呼び、王に会いたいと言います。それでようやく、王はアブシャロムに会い、彼に口づけしました。

 こうして一件落着であるかに見えます。けれども、ダビデが息子たちをしつけ、訓練するのを怠ったことは、子に怒りを引き起こします。アブシャロムはダビデの王位を奪う工作を開始します。

1A 子の反逆 15
1B 巧みな誘い 1−12
1C なめらかな舌 1−6
15:1 その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた。

 これは、戦争に備えるためのものではなく、いかにも格好良い王子、貴公子のように見せるためです。

15:2 アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、15:3 アブシャロムは彼に、「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、15:4 さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。」と言っていた。

 イスラエルの人々は、地元において自分の訴えをつかさたちに聞いてもらえないとき、王に直訴することができました。聖書で町の門が出てくるときは、多くの場合、役所の役割を果たしています。ですから今、イスラエルの人たちは、最高裁判所のところにやって来ました。そこにアブシャロムがいました。そして、あなたの訴えは正しい、けれども王は忙しいから、聞き入れてくれないだろう、私をさばきつかさにしてくれたら、私が正しくさばくのだが、と言いました。

 彼は王に対して、苦みを持っています。「王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」というのは、作り話ですが、彼にとっては真実です。民のいうことは聞いてくれたのに、自分のことは聞いてくれなかった。自分の妹をはずかしめた者を懲らしめることをせず、ヨアブの畑に火をつけなければ、王に会うことさえできなかった、という思いがあったのでしょう。

15:5 人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。15:6 アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。

 アブシャロムは、持ち前の容姿と、いま読んだ演技によって、巧みにイスラエルの人々の心をダビデから自分のほうになびかせていきました。ダビデは、その主に対する愛の心と、民に対する思いやりの心によって、イスラエルの民は彼について来ましたが、アブシャロムはそのことを利用したのです。
2C 欺き 7−12
15:7 それから四年たって、アブシャロムは王に言った。「私が主に立てた誓願を果たすために、どうか私をヘブロンへ行かせてください。15:8 このしもべは、アラムのゲシュルにいたときに、『もし主が、私をほんとうにエルサレムに連れ帰ってくださるなら、私は主に仕えます。』と言って誓願を立てたのです。」15:9 王が、「元気で行って来なさい。」と言ったので、彼は立って、ヘブロンへ行った。

 ヘブロンは、かつてダビデがユダの人々によって王として立てられた町です。彼はそこから七年間、王として統治しました。それからエルサレムに移ってきました。アブシャロムは今、ヘブロンにいっていけにえをささげたい、と嘘を言います。

15:10 そのとき、アブシャロムはイスラエルの全部族に、ひそかに使いを送って言った。「角笛の鳴るのを聞いたら、『アブシャロムがヘブロンで王になった。』と言いなさい。」15:11 アブシャロムは二百人の人々を連れてエルサレムを出て行った。その人たちはただ単に、招かれて行った者たちで、何も知らなかった。

 自分がダビデから王位を奪う準備を密かに行なっています。

15:12 アブシャロムは、いけにえをささげている間に、人をやって、ダビデの議官をしているギロ人アヒトフェルを、彼の町ギロから呼び寄せた。この謀反は根強く、アブシャロムにくみする民が多くなった。

 イスラエル人の多くがアブシャロムにくみしているのは、単にアブシャロムの巧みな策略によるものだけではないでしょう。今、ダビデの議官をしているアヒトフェルがアブシャロムに付いていっています。後で分かりますが、彼はもともとダビデに対して苦みを持っていた者です。ダビデの友人であり、同じ釜の飯を食っていたような親しい仲でしたが、ダビデがバテシェバをウリヤから奪い取った一件があって、ダビデへの怒りを募らせていたようです。また後で、詳しいことを説明します。

2B 悲しみを共にする者たち 13−37
1C 忠誠者 13−23
15:13 ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエル人の心はアブシャロムになびいています。」と言った。15:14 そこでダビデはエルサレムにいる自分の家来全部に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を打つといけないから。」

 ダビデはアブシャロムが根強い支持母体を得ていることに気づきました。そして、逃げることに決めました。エルサレムは要塞の町ですから、アブシャロムに対抗することも可能でしたが、そうすれば多くの血が流れます。ならば、アブシャロムにエルサレムに取られるほうがましであると思って、逃げることにしました。

15:15 王の家来たちは王に言った。「私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。」15:16 こうして王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人のそばめを残した。

 後で、このそばめたちが、アブシャロムによって陵辱されます。

15:17 王と、王に従うすべての民は、出て行って町はずれの家にとどまった。

 ここでおそらくは、逃げるための最終準備をしたのです。荷物をまとめて、まとまって逃げるための準備です。

15:18 王のすべての家来は、王のかたわらを進み、すべてのケレテ人と、すべてのペレテ人、それにガテから王について来た六百人のガテ人がみな、王の前を進んだ。

 イスラエル人ではない異邦人が、ダビデの家来として従っていました。けれどもガテ人は、自分の国からやって来て、ほんの1日か2日しか経っていません。

15:19 王はガテ人イタイに言った。「どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。15:20 あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。あなたはあなたの同胞を連れて戻りなさい。恵みとまことが、あなたとともにあるように。」

 ガテという町を思い出せるでしょうか。ダビデがサウルの手から逃げていたとき、ペリシテ人アキシュがガテの町の領主でした。ダビデは偽って、アキシュに忠誠を尽くすふりをして、自分をサウルの手から守ろうとしていました。おそらくは、ガテ人イタイは、そのときのダビデを見ていたのでしょう。彼がアキシュに忠実であったこと、すばらしい戦士であったことなどを見ていたに違いありません。イタイは、ガテの町で何か問題があって、それでダビデのところに亡命者としてやって来ました。けれどもダビデは、これから大変な旅になる、逃亡生活になる。いま来たばかりのあなたに、そのような苦しみに会わせたくない、戻りなさい、と言います。

15:21 イタイは王に答えて言った。「主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。」15:22 ダビデはイタイに言った。「それでは来なさい。」こうしてガテ人イタイは、彼の部下全部と、いっしょにいた子どもたち全部とを連れて、進んだ。

 すばらしい王への愛と献身です。ちょうどルツがナオミに対して行なったのと同じですね。夫も息子も失ったナオミが、ベツレヘムに戻ろうとするとき、嫁ルツとオルパに、あなたたちの故郷モアブに帰りなさい、と説得しました。けれども、ルツは言うことを聞きませんでした。「あなたが行かれるところに私は行きます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私は死に、そこで葬られたいのです。(ルツ1:16参照)」と言いました。だれから頼まれるのでもなく、ただその人を愛しているから、いつまでもついて行くという決心です。

15:23 この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。王はキデロン川を渡り、この民もみな、荒野のほうへ渡って行った。

 キデロン川とは、エルサレムの町の右側に走っている谷です。谷の向こう側にはオリーブの山があります。そしてオリーブの山を越えると、ヨルダン川の方面へ、荒野に行きます。

2C 先見者 24−29
15:24 ツァドクも、すべてのレビ人といっしょに、神の契約の箱をかついでいたが、神の箱をそこに降ろした。エブヤタルも来て、民が全部、町から出て行ってしまうまでいた。15:25 王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。15:26 もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」

 祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の箱をもってエルサレムを出ようとしました。けれどもダビデが止めさせます。理由は、「主の恵みにかなうならば、私はエルサレムに戻ることができるし、もしそうでないなら、主が良きことを私にしてくださる。」であります。ダビデはまた、以前のダビデに戻っています。すべてのことを主にゆだねて、神の主権にすべてを任せるダビデがいます。ウリヤから彼の妻バテシェバを奪ったときのような、むさぼりはありません。

15:27 王は祭司ツァドクにまた言った。「先見者よ。あなたは安心して町に帰りなさい。あなたがたのふたりの子、あなたの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンも、あなたがたといっしょに。15:28 よく覚えていてもらいたい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。」15:29 そこで、ツァドクとエブヤタルは神の箱をエルサレムに持ち帰り、そこにとどまっていた。

 ダビデが祭司二人をエルサレムに戻したもう一つの理由は、ツァドクが先見者だということです。当時、預言者が先見者と呼ばれていました。アブシャロムがエルサレムにやって来ても、その後の動静を見据えるために、あなたがエルサレムに必要である、と言っています。そしてダビデは、アヒアマツとヨナタンも彼らとともに行かせますが、動静が見極められたら、彼らを通して私に伝えなさい、ということです。今、諜報活動を準備しようとしているわけです。

3C 間者 30−37
15:30 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。

 ダビデは今、後に自分の世継ぎの子であるイエス・キリストが登られた坂を登っています。イエスが最後の晩餐を弟子たちとともにしてから、オリーブ山にあるゲッセマネの園でもだえながら祈られました。ダビデは自分が行なった罪の結果として、悲しみながら登っていますが、イエスは、人類全体の罪を負うために、悲しみながら登っていかれました。

15:31 ダビデは、「アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している。」という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」

 これはダビデにとって、もっとも傷ついた知らせだったことでしょう。アヒトフェルは、先に話したように、ダビデが最も信頼していた議官の一人だったからです。ダビデがこの時の心境を詩篇のいくつかの箇所で書いています。初めに、詩篇55篇12節からです。「まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。(12-14節)」そうです、キリスト教のキの字もいやがる、キリスト教とは無縁の人が自分に敵対しているのならば、冷静に対処できるでしょう。けれども、クリスチャンで、しかも今まで仲良くしていたクリスチャンが自分に敵対するときは、これほど辛いことはありません。

 それから、詩篇41篇9節を読みます。「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」これは、ダビデのアヒトフェルへの言葉でありながら、同時に、ダビデの子イエス・キリストが、イスカリオテのユダから裏切られることの預言になっています。イエスさまは、最後の晩餐のとき、弟子たちの足を洗われた後こう言われました。「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。(ヨハネ13:18」ここでも、ダビデが世継ぎの子イエス・キリストの予表となっています。

15:32 ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。15:33 ダビデは彼に言った。「もしあなたが、私といっしょに行くなら、あなたは私の重荷になる。15:34 しかしもし、あなたが町に戻って、アブシャロムに、『王よ。私はあなたのしもべになります。これまであなたの父上のしもべであったように、今、私はあなたのしもべになります。』と言うなら、あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる。15:35 あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたといっしょにいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げなければならない。15:36 それにあそこには、彼らのふたりの息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンがいる。彼らをよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。」15:37 それで、ダビデの友フシャイは町へ帰った。そのころ、アブシャロムもエルサレムに着いた。

 アヒトフェルが謀反に加担した話を聞いてすぐに、フシャイがダビデに着いてきました。ダビデはすぐに、彼がアブシャロムの側につくように見せかけて、アヒトフェルの助言を無きものにするよう命令しました。後で出てきますが、アヒトフェルの助言にしたがえば、必ず成功しました。彼に聞くことは、神に聞くことのようなものだ、というように書かれています。ですからダビデは、彼の助言と異なる助言をアブシャロムに行なう人が必要だったのです。フシャイがやって来たので、それを頼みました。

 こうやって見ると、ダビデを愛して、ダビデに忠誠を誓っている人たちでも、必ずしもいっしょに逃げたわけではないことが分かります。エルサレムに残ることによって、ダビデに仕える者もいれば、フシャイのようにアブシャロムの側につくふりをしてダビデに仕える者もいました。教会も同じですね。同じかしらであるキリストに仕えるのですが、それぞれがそのからだの器官であり、与えられている賜物は異なり、奉仕も、働きも異なってきます。けれども同じキリストに仕えています。

2A 子のうぬぼれ 16
1B 現われた本心 1−14
1C 便乗 1−8
16:1 ダビデは山の頂から少し下った。見ると、メフィボシェテに仕える若い者ツィバが、王を迎えに来ていた。彼は、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二百個、干しぶどう百ふさ、夏のくだもの百個、ぶどう酒一袋を載せていた。

 覚えていますか、サウルの息子ヨナタンに、メフィボシェテがいました。彼は幼いときに、敵から逃げようとしていた乳母が彼を落としてしまったため、足なえになってしまいました。けれどもダビデがエルサレムで王となってから、ダビデはサウル家の子どもに恵みを施したい、と言いました。そこでツィバという人がダビデの前に連れて来られました。サウル家のしもべでした。それでダビデは、メフィボシェテという者がヨナタンの息子であることを知り、彼を連れて来て、サウルの地所を彼に返して、またメフィボシェテを自分の食事の席にいつもいることができるようにしました。ツィバに対しては、メフィボシェテのものとなった地所で作物を耕し、そこで出来た作物はメフィボシェテのものとなることにしました。メフィボシェテが失ったものをダビデは返し、失ったもの以上のものを彼に与えました。今、そのしもべツィバが食べ物を持って、ダビデのところにやって来ています。

16:2 王はツィバに尋ねた。「これらは何のためか。」ツィバは答えた。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏のくだものは若い者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」

 逃亡中のダビデの一行のため、それらの食糧をツィバは持ってきました。

16:3 王は言った。「あなたの主人の息子はどこにいるか。」ツィバは王に言った。「今、エルサレムにおられます。あの人は、『きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。』と言っていました。」

 これは嘘です。後で分かりますが、メフィボシェテは、ダビデ王といっしょに行こうとしていました。けれどもツィバが中傷しました。ツィバは、王がこのような苦しみの中にいるので、この苦境を利用して、自分が欲していたものを得ようと企んでいたのです。すべてメフィボシェテのものとなっていた地所を自分のものにしたいと思っていたのです。

16:4 すると王はツィバに言った。「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのものだ。」ツィバが言った。「王さま。あなたのご好意にあずかることができますように、伏してお願いいたします。」

 ダビデは、誤った判断をしました。一方的な情報によって、判断を下してしまったからです。私たちもしばしば、このような間違いを犯します。すぐにさばいてしまう過ちです。聖書では、二人か三人の証言によって、それが事実であると確かめられるという律法がありますが、それは一人だけの証言では、その者が嘘、あるいは誇張したことを言っているかもしれないからです。二人か三人ならば、事実である可能性がぐっと上がります。ですから、さばくのに遅く、よく調べなければいけません。

2C 恨み 5−14
16:5 ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。

 再びサウル家の者がダビデの前に現われました。シムイという人間です。のろいのことばを吐きながら出てきています。

16:6
そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。16:7 シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。16:8 主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」

 これはもちろん中傷です。ダビデが、サウルやサウル家の者たちを殺したのではありません。彼ら自身が、戦いの中で死んでいったのです。けれどもダビデは、さらに一歩進んだ考えをしていたようです。たとえこれが中傷であっても、その中には自分が学ぶべき真理の一面がある、と思ったのでしょう。自分がバテシェバをウリヤから奪い取って、血を流したことによって、自分の家から剣が離れなくなったことを彼は知っていました。神からの懲らしめと訓練を、このようにして全面的に甘んじて受けるダビデは、本当にたいしたものだと思います。

16:9 すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」

 ツェルヤはダビデの姉妹です。アビシャイは彼の従兄弟であり、将軍ヨアブの兄弟でありました。彼らは粗暴な兵士であり、また有能な兵士でした。このような馬鹿げたことをしているシムイなど、すぐに殺してしまえばよい、と考えました。イエスさまの弟子にも似たような人たちがいますね。ヨハネとその兄弟ヤコブです。彼らは、「雷の子」という名をイエスから付けられました。この二人は、サマリヤ人がイエスさまを受け入れなかったので、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカ9:54」と言いました。

16:10 王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。16:12 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」

 ダビデは、今、シムイのことが大きな問題ではないことを知っていました。問題なのは、自分の子アブシャロムが自分に反逆を企てていることです。「私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。」と言っています。そして、彼はそれゆえに、シムイののろいもあるのであり、これは主から出たものだ、と言っています。主にゆだねた心です。

 そして、「主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」と言っています。主は良い方です。私たちにとって大切なのは、状況を変えることではなく、状況の中で正しい心を保っていることです。そうすれば、主がこの悪いことを良いことのために変えてくださることが分かります。

16:13 ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。16:14 王も、王とともに行った民もみな、疲れたので、そこでひと息ついた。

 そして場面は、エルサレムの町に移ります。

2B 苦みの根 15−23
16:15 アブシャロムとすべての民、イスラエル人はエルサレムにはいった。アブシャロムがエルサレムに入ってきました。アヒトフェルもいっしょであった。16:16 ダビデの友アルキ人フシャイがアブシャロムのところに来たとき、フシャイはアブシャロムに言った。「王さま。ばんざい。王さま。ばんざい。」16:17 アブシャロムはフシャイに言った。「これが、あなたの友への忠誠のあらわれなのか。なぜ、あなたは、あなたの友といっしょに行かなかったのか。」16:18 フシャイはアブシャロムに答えた。「いいえ、主と、この民、イスラエルのすべての人々とが選んだ方に私はつき、その方といっしょにいたいのです。

 フシャイがダビデに言われたとおりに、アブシャロムのところにやって来ます。ここで興味深いのは、「主と、この民、イスラエルのすべての人々とが選んだ方に私はつく」と言っていることです。アブシャロムがその選んだ人であるとは言っていません。けれどもアブシャロムは、自分のことを言われていると思ったことでしょう。うぬぼれがアブシャロムの中にあります。

16:19 また、私はだれに仕えるべきでしょう。私の友の子に仕えるべきではありませんか。私はあなたの父上に仕えたように、あなたにもお仕えいたします。」16:20 それで、アブシャロムはアヒトフェルに言った。「あなたがたは相談して、われわれはどうしたらよいか、意見を述べなさい。」16:21 アヒトフェルはアブシャロムに言った。「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」16:22 こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところにはいった。

 ここで、預言者ナタンがダビデに告げたことが実現しました。「主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」(2サムエル12:11-12」今、アブシャロムが屋上でダビデのそばめたちのところにはいりましたが、もしかしたら、ダビデがバテシェバの裸を見た屋上と同じところだったのかもしれません。

 当時、王が他の王を倒して国を確立させるとき、前の王のハーレム、そばめや妻たちと寝ることが習慣としてありました。そのことによって、自分が前の王を征服したことを誇示したのです。このことをアヒトフェルが助言したのですが、彼はなぜこうも、ダビデに対して憎しみと、苦みを抱いているのでしょうか?サムエル記第二23章にダビデの勇士たちの名が連ねられていますが、そこにアヒトフェルが出てきます。「マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。(34節)」エリアムという人が、ダビデの勇士の一人でしたが、その父がアヒトフェルでした。そしてエリアムという人は、サムエル記第二11章3節によると、バテ・シェバの父であることが分かります。同姓同名の別人である可能性もゼロではないので絶対とは言えませんが、同一人物であればアヒトフェルは、バテ・シェバの祖父ということになります。バテ・シェバは自分の孫娘であり、ウリヤは孫婿であった。彼をダビデが殺し、自分の孫娘を奪い取った、ということになります。

 そこでアヒトフェルに苦みが生じたと考えられます。しかし、次回も学びますが、苦みは周囲に害を及ぼすだけでなく、自分自身を破壊します。どんなに自分が苦みを持つのに正当な理由があっても、滅ぼされるのは相手ではなく、自分自身なのです。ですから神は、「苦みをいっさいの悪意とともに捨て去りなさい。」とエペソ書で言われているのです。

16:23 当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。

 このように非常にすぐれた助言を持っているアヒトフェルですが、次回、主が彼の助言を無きものにされる場面を読みます。

 こうしてダビデが、エルサレムの町を離れました。それにともなって、彼に反抗する人もいれば、漁夫の利を得ようとするツィバがいたり、ののしるシムイがいたりと、いろいろな行動に移っています。私たちはどうでしょうか?自分の心で底で思っていることが、あることがきっかけで出てきます。それは苦みでしょうか、それとも忠誠でしょうか、それともともに悲しむあわれみの心でしょうか、それともむさぼりでしょうか?お祈りしましょう。


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