ダニエル書10章 「御使いの戦い」

アウトライン

1A 御使いの顕現 1−9
   1B 三週間の断食 1−4
   2B キリストの栄光 5−9
2A ダニエルを力づける御使いたち 10−21
   1B 立ち向かうペルシヤの君 10−14
   2B 聞く力を得るダニエル 15−21

本文

 ダニエル書10章を学びます。ついにダニエルが見た幻の最後になりました。1節にあるとおり「大きないくさ」についての幻です。これが11章と12章の始めまで続きますが、これまで見た夢と幻をさらに詳しくし、まとめあげたような幻です。

 この、大きな戦の幻を御使いがダニエルに伝える前に、御使い本人が戦いの中に巻き込まれている様子を10章が描いています。国と国の衝突の中で、イスラエルの民がどのような境遇に置かれるかについて、御使いが他の御使いと戦っています。目に見える血肉の戦いの背後には、目に見えない霊の戦いがあるのだ、ということです。では本文を読みましょう。

1A 御使いの顕現 1−9
1B 三週間の断食 1−4
10:1 ぺルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。

 時はついにクロス王の第三年に入っていました。6章でメディヤ人ダリオスの下で王に仕えているダニエルの姿を見ましたが、ダリヨスは暫時的な統治を行なっただけです。さらに二年ぐらいで死んだためクロスが統治を始めました。紀元前536年のことです。第三年なので二年後の534年であると考えられます。 

 ダニエルは気をつけて「ベルテシャツァル」と自分のバビロン名を名乗っています。公式の文書として書き残すために、公式の名前を使いました。後世に偽者が書いたのだと言わせない意図もあったかもしれません。

 そして「そのことばは真実で、大きないくさのことであった。」とあります。11章を読めば分かりますが、その戦いの様子があまりにも詳細であり、そして規模の大きいものなので、真実だとは受止めにくいからです。ヨハネが黙示録の中で天のエルサレムの情景を記した時も、御使いが「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。(22:6」と念を押しました。ですから私たちもシートベルトをしっかり締めて、主がこれからダニエルに与えられる啓示を受け入れられるように心備えをしなければなりません!

 そしてダニエルは、「そのことばを理解し、その幻を悟っていた」と言いました。彼は一回目と二回目に幻を受けた時には、驚きすくみ、おぼえていました(7:28,8:27)。幻を悟ることができなかったからです。けれども、けれどもこれでもう四回目になるので、大体のところを把握できるようになっていました。

 私たちも預言については、初めて聞くときには分からないことがたくさん出てきて、たいてい戸惑います。けれどもそこであきらめずに、二度、三度、聞いているうちに「なるほど、こういうことを言っているのだ」と納得できるようになります。既にキリストが来られて神の奥義が開かれた今、私たちはダニエルよりもさらに知識を得やすい立場にいます。

10:2 そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。10:3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。10:4 第一の月の二十四日に、私はヒデケルという大きな川の岸にいた。

 彼が喪に服していた理由は、おそらくエルサレムのことを思ってのことだと思います。ユダヤ人たちは既にエルサレムに帰還しています。クロス王が元年に、ユダヤ人にエルサレム帰還と神殿再建の布告を出したからです。けれども、そのエルサレムの姿は瓦礫の山であり、荒れ果てており、どこから手をつければよいか分からない状態でした。さらに、神殿再建の工事を始めるや否や、周囲の住民からの強い反対運動を受けて、エズラ記によると工事を中断しました。

 紀元前516年に神殿はなんとか再建されましたが城壁はなく、紀元前445年にはネヘミヤが、エルサレムの惨状を聞いて泣いて祈っています。ダニエルもおそらくは、エルサレムの様子を聞いて悲しんでいたに違いありません。帰還はできたものの、彼らは非常な困難の中にいたからです。

 ところでなぜダニエルがいっしょに帰還しなかったのか?という疑問を持つ人がいるかもしれません。理由は単純だと私は思います。この時点でダニエルは80代後半の年寄りでした。長旅はもうできない体になっていたと思います。そして彼は重要な役職に就いていました。そう簡単に止めることはできません。

 ダニエルは断食をしていますが、食事の一部だけを断っています。「ごちそう」「」「ぶどう酒」です。少しぜいたくな物はすべて控えたようです。断食というと私たちはすべてを断つ、あるいは水だけを飲むことを考えますが、このように、ごく基本的な粗食だけをして時間を過ごすのも断食の一つです。そして、ダニエルは「身に油を塗らなかった」と言っていますが、当時はちょっとした身だしなみとして油を塗っていました。それも彼は断ちました。 

 そして幻を受けた時が記されています。「第一の月の二十四日」です。過越の祭りが十四日にありますから、彼は過越の祭りの間もずっと断食していたのでしょう。そして幻を受けた場所は、「ヒデケル」という川の岸辺です。ティグリス川のことです。ユーフラテス川からそう遠くはありません。

2B キリストの栄光 5−9
10:5 私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。10:6 そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。10:7 この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。

 ダニエルは何人かの人とティグリス川沿いを歩いていたのでしょうか、ちょうどその時、この物凄い幻を突然見ました。他の人たちは幻そのものを見ませんでしたが、その気配はしっかりと感じ取ることができました。震え上がって逃げ隠れています。ちょうど、サウルにダマスコに行く途上で、復活されたイエス様が現われた時と似ています。同行していた人は、音は聞こえましたが、声は聞こえませんでした。またその御姿も見えませんでした(使徒9:7,26:14)。

 そしてこの「ひとりの人」は誰なのでしょう?黙示録1章を読むと、イエス・キリストご自身であることが分かります。ヨハネもダニエルと同じようにその幻を見て倒れる経験をしましたが、こう書き記しています。「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(13-16節)

 イエス様はこの地上におられた時は、人の姿を取っており、人が慕うような見栄えもしませんでした(イザヤ53:2)。けれども、イエス様が高い山に上られたときに、その御姿が変貌したのを覚えておられると思います。「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないような白さであった。(9:3」とマルコは記しています。主が天におられる栄光の御姿をもって、ヨハネに臨まれたのです。

 けれども、「そうではない、ひとりの力強い御使いであってイエス・キリストではない」という人たちもいます。なぜなら13節に問題を感じるからです。「ぺルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、」とあります。このペルシヤの君は堕落した天使の一人ですが、その抵抗によってダニエルの所に来ることができなかった、そしてミカエルが来て助けてくれたので私はあなたの所に来たのだ、と言っています。全能の神であられるイエス・キリストが、堕落した天使の抵抗に打ち勝つことができず、ミカエルの助けを必要とすることは考えられない、と考えるからです。

 確かに、天使について聖書の中にある姿をじっくり調べると、その栄光は神ご自身そのものではないかと錯覚してしまう程の輝きがある時があります。黙示録で最後の七つの災害、七つの鉢を持っている御使いは、「きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。(15:6」とあります。イエス・キリストご自身の御姿と似ていますね。そして、使徒ヨハネ自身が天使を礼拝しようとする過ちを犯しました。「そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。『いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。』(黙示19:10」ですから、非常にイエス・キリストに似ていながら、実は他の天使であったという解釈もあり得ます。

 けれども、やはりこの人はイエス・キリストご自身だという人たちもいます。13節で話している人は、5,6節の人物とは異なるとも考えられるからです。10節に「一つの手が私に触れ」とあります。この人物が必ずしも、5,6節の人物とは限らないのです。同じように、16節に「人の姿を取った者18節に「人間のように見える者」とありますが、これも他の天使だとする解釈です。

 確かにここに複数の天使がいることを12章で確認することができます。125,6節にこうあります。「私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。」二人の天使が川の両岸にいて、そして川の水の上に亜麻布の衣を着た方がいます。

 ここは、どの解釈が正しいか断定できない所があります。私自身は、ダニエルが見た第一の人はイエス・キリストご自身であり、他に複数の天使がいて彼に話しかけていると思います。イエス様は、旧約の時代には「ヤハウェの使い」として何度も現われておられます。多くの「主の使い」とありながら主ご自身が語られ、そして主の使いを見た人は、「私は神を見た」と告白しているからです(例:士師記13章)。

 けれども、他の解釈も十分に妥当性があると思います。なんせ天におけるものですから、地上に住んでいる人間には、どうしても言葉で表現しきれないものがたくさんあります。使徒ヨハネも、ダニエルも、そしてその他の聖徒たちも、見ることは見ても、それを完全に表現し切れないのは当然です。パウロも、「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(2コリント12:4」と言いました。天には、とてつもない神の栄光が、その聖さと正しさが満ち満ちていると言うことができるでしょう。

10:8 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。10:9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。

 聖書の中には、他にも天にあるものの幻を見る特権にあずかった人々がいます。既に話した使徒ヨハネがそうです。またイザヤもいます。彼は主の御座の幻を見て、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(6:5」と言いました。パウロも、パラダイスに引き上げられた後、サタンからの棘が肉体に与えられたことを話しました(2コリント12:7)。

 肉体の内にいる者が天に触れるということそのものが、ものすごい衝撃を受けます。その肉体そのものが損なわれる衝撃を受けます。私たちはダニエルがいかに直ぐな人であったか、神を愛した霊的な人であったかを読んできました。けれども、私たちの見る聖さと正しさと、天におけるそれはとてつもない大きな開きがあるのです。ダニエルでさえ、地上の肉体にある汚れと罪から免れていることはなかったのです。

 私たちは、実際的な聖めの前にこの根本的な聖めを体験する必要があります。実際的な聖めとは、日々の生活の中で祈りと御言葉により、御霊によって罪を捨て、肉の行ないを殺す営みのことです。ガラテヤ書にある言葉、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(5:16」です。嘘をつく、怒る、情欲を燃やす、妬むなどの肉の行ないに対して、ご聖霊によって勝利するのです。

 けれども、その前に根本的な聖めがあります。それは、聖なる神ご自身に真正面から出会い、自分がとんでもない人間だ、もう死ぬしか他はないどん底にいる存在だ、もう生きていくことはできないという、ダニエルやヨハネに見ることのできるような衝撃を体験しなければなりません。

 イエス様が山上の垂訓において八つの幸いについて語られましたが、その始めは「心の貧しい人」でした。「天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3」と言われました。ある牧師がこの箇所について次のように説明しました。「この『貧しい』は窮乏状態です、何も持っていない人のことを言います。あなたの心で大事だと思っているものが全て剥ぎ取られた時、あなたは幸いですということです。私たちの誇り、自尊心がこれを認めません。私たちにとっては不可能な業です。」

 この貧しさを知って初めて天を味わうことができます。言い換えれば、天に触れたときに私たちは、自分の内には何も良いものがない、私は窮乏状態だと初めて告白することができます。表面的に「嘘をついた」「人をねたんだ」というような罪によって罪人という認識を持つのではなく、根本的な所で自分が罪人であることを悟ることができます。

2A ダニエルを力づける御使いたち 10−21
1B 立ち向かうペルシヤの君 10−14
10:10 ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。10:11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。 

 御使いがダニエルを力づけています。彼はようやく立ち上がることはできましたが、この御使いの言葉を聞いて再び力を失っています。それで御使いは、15節で二度目、18節で三度目、彼を力づけています。それでダニエルはようやく、「わが主よ。お話ください。あなたは私を力づけてくださいましたから。(19節)」と答えることができています。

 なぜそこまでして天使たちは、彼に伝えようとしていたのでしょうか?「神に愛されている人ダニエルよ」と呼んでいます。この言葉は923節にもありました。ガブリエルが、「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。」と言いました。神が親しく思っておられるから、愛しておられるから、ダニエルの願いをすぐにでも聞いてあげたい、そして神の言葉を伝えたいと思ってらっしゃるからです。

 9章の学びでも言及しましたが、その第一人者はアブラハムです。三人の旅人がアブラハムの所に訪れて、そして二人はソドムの方に発ちました。残された一人は主ご自身であり、イエス・キリストですが、こう考えられました。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世18:17」ヤコブ書またイザヤ書(41:8)に、アブラハムが「神の友(2:23」と呼ばれています。親しい友に隠し事をしたくない、全てを話したいという神の願いです。

 イエス様は弟子たちに同じことを言われました。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:14-15

 アブラハムの方に戻りますが、主が行なおうとされたことはソドムを火で裁くことでした。これは、到底アブラハムには受け入れられませんでした。そこに自分の甥ロトが住んでいるからです。それで彼は必死にソドムの町のために主の前で執り成しました。主は、ものすごい大きな寛容でその町を赦すと約束されました。十人の正しい人がいれば、町全体を赦すと言われたのです。けれども残念なことに十人も正しい人はいませんでした。けれどもロトについては、彼が逃げるまで裁きを待っていてくださったのです。

 ダニエルがこれから受ける幻も同じような重い内容です。大きな戦についてのことであり、そして終わりの日に至るものであり、その中でイスラエルの民が大きな試練を受ける内容です。そのことを伝えることは、それなりの耳がなければ聞き入れることができません。そして実際、ダニエル自身は死んでしまったようになるぐらい、その声を聞くことができない状態でしたが、それでも御使いは彼を力づけて、聞くことができるようにしてあげました。それは、神がご自分の愛している友に、ご自分のなさることを知らせたいと願っておられるからです。

10:13 ぺルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をぺルシヤの王たちのところに残しておき、10:14 終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」

 ダニエルの祈りは、すでに聞かれていました。12節に「あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。」とありました。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14」とあるとおりです。

 ところが御使いは、祈りが聞かれたことを届けるにあたって妨害に遭いました。「ペルシヤの国の君」とありますが、人間の君主のことではなく天使のことです。天使長の一人ミカエルが戦ったのですから、相手も天使なのです。そしてもちろん神に仕える天使ではなく、神に反逆する堕落した天使です。パウロがエペソ書6章で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(12節)」と言った、その主権や力のことを指しています。つまり、ダニエルの祈りを巡って、天使たちの熾烈な戦いが繰り広げられていたのです。

 私たちは、祈りを中心にして霊の戦いの中に突入します。祈りが聞かれているのか聞かれていないのか分からないと感じる時が多々あると思います。けれどもまさにダニエルのように、神には聞かれているけれども悪魔や悪霊どもに妨害されていることがあるのです。エペソ書6章の霊の戦いの箇所には、「そのためには絶えず目をさまして、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(18節)」とあります。忍耐の限りを尽くす必要があるのです。

 信仰をもって間もない人々は、この霊の戦いの実体が理解できず、とまどうことがよくあります。祈ったら、逆に状況がさらに悪化するのです。祈ったら、祈っていることと反対の出来事が起こるのです。「だったら、祈らないほうが良いではないか。」という結論を出す誘惑に会うのです。

 けれどもよく考えてみてください、実際の戦争の時に敵陣に攻撃を始めたら、敵は猛反撃を始めます。反撃があるということは、攻撃が的中していることの証拠です。攻撃できているから、相手からの攻撃があるのです。祈りも同じなのです。祈り始めて状況が悪くなったということは、むしろ悪魔や悪霊に打撃を加え始めていることの証しなのです。だから、もっともっと祈ってください。そして叩きのめしてください。

 物理的な戦争と霊的な戦争の違いは、勝者が既に決まっていることです。「なぜなら、神によって生まれた者は、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(1ヨハネ5:4」「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37」「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。(2コリント2:14

 だから悪魔は、真正面からキリスト者に攻撃を加えることはありません。負けることを知っているからです。悪魔は、私たちが神とキリストの下にいるから強いことを知っています。だから、何とかしてそこから出てくるように仕向けます。陽動作戦を取るのです。

 それはつまり、神の大能の力によって戦うのではなく、自分たちの力で戦おうとさせることです。問題が起こった時、混乱が起こった時、試練にあう時、反対に直面する時、私たちが神の前に出て、へりくだって、そして祈るのではなく、私たちの肉に訴えて、私たちの肉を刺激して、私たちが自分の肉の力で対処するように仕向けてくるのです。そして神とキリストではなく、私たちだけになった私たちに集中砲火を浴びせて滅ぼす企みを持っています。

 ですから私たちが初めにしなければいけないのは、神に服従することです。「ですから、神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7」私たちは悪い意味で賢いです。自分が今置かれている問題について、自分には理解があると思いあがっています。けれども神は何と言われますか?「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3:5」です。どんなに自分の理性、自分の感情に沿わなくても、主が言われたことなのだから、それを信じて従います、という決断が必要です。そうすることによって初めて、私たちは神の武器を見につけることができ、神が私たちの側にいてくださることを知るのです。

 そして次にしなければいけないのは、「立ち向かう」ことです。今、ヤコブ書の聖句を読みました。神の前にへりくだって祈り始める、御言葉に従う、これらのことを行なったのなら、相手に向かって対話するのではなく拒みます。エバが蛇に惑わされた時に彼女が弱くなったのは、彼の言葉に彼女が返答してしまったからです。悪魔は嘘をつくしかない者です。だから毛頭聞く必要はないのです。ただ、きっぱり拒めばよいのです。

 そうしたら、悪魔は逃げ去ります。確実に逃げ去ります。この体験を踏めば踏むほど、私たちは果敢に霊の戦いの中に突入することができるようになります。

 霊の戦いは祈りの領域だけでなく、福音宣教の領域でも激しくなります。パウロが、エペソ6章の霊の戦いのことを話している中で、「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私たちのためにも祈ってください。(19節)」と言いました。他にも、「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。(1コリント16:9」と言いました。福音の働きが開かれると、反対する力が必ず出てきます。反対があるということは戸が閉じているのではなく、むしろ開いている証拠なのだということを思い出してください。

 そして13,14節の内容そのものに戻ります。ペルシヤの君がこの御使いを阻んで、ミカエルの応戦によって自由にされたのですが、次に「私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき」とあります。ペルシヤ国に主権を持つ堕落した天使に対して応戦することができ、実際のペルシヤの王たち神の影響を及ぼすことができるようになった、ということです。特に、14節に「あなたの民に起こること」つまりユダヤ人たちに対する神の影響力です。彼らがペルシヤの国の中で守られるようにミカエルが立ち上がったのです。

 今、ダニエルはペルシヤの初代王であるクロスの治世にいます。11章でその後のペルシヤの王たちの預言がありますが、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記の中にペルシヤ時代におけるユダヤ人の姿を読むことができます。エズラ記では、神殿建設工事に反対するため、周囲住民が手紙を王アルタシャスタに送り、それによって王が工事をやめさせました。けれども預言者ハガイとゼカリヤが来てユダヤ人が工事を再開すると、また反対者が出てきましたが、今度は別のペルシヤの王ダリヨスがバビロンの文書保管所を調べさせた所、クロスが神殿建設の命令を出しているのを見つけました。それでダリヨスは反対に再建工事を実行するように命令を出します。

 この背後に、熾烈な御使いらの戦いがあったのです。神殿の工事についてペルシヤ王がそれを行なうようにするのかどうかを、その背後で堕落した天使、ペルシヤの君がそれを阻もうとさせ、けれどもイスラエルの君であるミカエルがそれを再開させるようにしむけたのです。

 さらにエステル記を思い出してください。同じアハシュエロス王のユダヤ人に対する法令が右から左へ大きく振り子が揺れました。側近のハマンがユダヤ人全員を撲滅する法令を作成し、王に署名させました。けれどもエステルの執り成しにより、王はハマンの陰謀に憤慨し、彼を処刑しました。そして今度は、ユダヤ人を攻撃する者に対して自衛の権利を認める法令に署名をしました。それでそのユダヤ人撲滅の日には、誰もユダヤ人に手を出す人がいませんでした。この背景にも、空中で激しい天使らの戦いが繰り広げられていたのです。

 ですから私たちは、自分の周囲で霊の戦いが起こっているだけでなく、世界の国々の動き、そしてイスラエルを取り巻く国々の動きにおいても起こっていることを知らなければいけません。イザヤ書14章には、バビロンの王の背後にルシファー、悪魔がいたことが暴かれていますし、エゼキエル28章には、ツロの王の背後に同じく堕落したケルブである悪魔がいたことを暴いています。そして黙示録12章では、イスラエルの子孫を滅ぼそうとする悪魔に対して激しく戦っているミカエルの姿があります。

 神を信じていない人は、政治と経済の物質的な面でのみ世界情勢を読み解こうとするのですが、私たち信仰者は、キリストが再び戻って来られるに際して、国々の背後で悪魔、悪霊どもが国々の指導者に働きかけ、また天使らがそれに対して戦いをしかけていることに気づかなければいけません。

 だからパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2:1」と言いました。第一に、福音の戸が開かれる国でありつづけるように祈る必要があるでしょう。そして第二に、神の義と平和に即した判断をすることができるように祈るべきでしょう。神の天使が日本に影響力を行使できるように祈るべきです。

2B 聞く力を得るダニエル 15−21
10:15 彼が私にこのようなことを語っている間、私はうつむいていて、何も言えなかった。10:16 ちょうどそのとき、人の姿をとった者が、私のくちびるに触れた。それで、私は口を開いて話し出し、私に向かって立っていた者に言った。「わが主よ。この幻によって、私は苦痛に襲われ、力を失いました。10:17 わが主のしもべが、どうしてわが主と話せましょう。私には、もはや、力もうせてしまい、息も残っていないのです。」

 先に御使いが「恐れるな。ダニエル。」と力づけましたが、彼の言葉を聞いているうちにダニエルは再び力を失いました。うつむいて何も言えなくなったので、再び御使いに彼が話せるように彼のくちびるに触れました。イザヤが神の御座の幻を見た後も、祭壇からの燃える炭で御使いが彼の口に触れました(イザヤ6:67)。主が聖めてくださらなければ、何も語ることはできないからです。

10:18 すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、10:19 言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」

 激しい葛藤です。もう自分はだめだとダニエルが感じているところに、御使いは再び「神に愛されている人よ」と呼びかけ、そして「恐れるな、安心せよ、強くあれ、強くあれ」と励ましています。

 祈りにおける激しい葛藤です。同じような激しい葛藤が、いやもっと激しい葛藤が、あのイエス様のゲッセマネの園における祈りにありました。その時、御使いが同じように力づけています。「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:42-44」全世界の救い、永遠の救いを決定する祈りにおいて、イエス様は血を流すほどの祈りを捧げられました。それを力づけていたのが御使いたちです。

 同じようにイエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた後も、御使いたちが仕えていたと福音書は記しています(マタイ4:10、マルコ1:13)。

 私たちには、神に与えられた尊い働きがあります。その働きが神のご計画の中で尊ければ尊いほど、私たちの祈りにも葛藤が生じます。その時に助けてくれるのが御使いです。その時に力を与えてくれるのが御使いです。

10:20 そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ぺルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。10:21 しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。

 ペルシヤの君との戦いの後ではギリシヤの君との戦いがあります。それは11章において、ペルシヤがギリシヤに倒れた後、ギリシヤの王たちの戦いがあるからです。その中でイスラエルの民が大きな試練の中に投げ込まれます。

 それゆえイスラエルの君ミカエルが奮い立ちます。彼はイスラエルのために戦う天使長です。黙示録12章でもイスラエルのために戦います。そして、ここの語っている御使いが立ち上がります。イエス・キリストご本人かもしれない使いです。ユダヤ人たちが反キリストのもたらす激しい苦難の中で、救い出される預言が12章に出てきます。

 これらのことが「真理の書」に書かれていると言っています。イエス様は「真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32」と言われましたが、時にその真理は私たちの心を引き裂きます。知ることによって自由にされるのですが、その知識は時に辛く、苦々しく感じる時もあります。ダニエルのように、押しつぶされてしまいそうな重圧感に悩まされることもあるかもしれません。

 すべての人が罪を犯して、死んで死後に神の裁きが定められていること、この真理に私たちは押しつぶされそうになったことがあるでしょうか?けれども、そこからもだえ苦しむような祈りが始まります。どうか、この愛する人をお救いくださいという祈りが始まります。そしてその祈りを御使いが助けてくれます。

 次回はこのダニエルに現われた御使いが、ペルシヤとギリシヤの王たちの幻を告げるところを学びます。


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