終わりの時に生きるキリスト者 − ダニエル書からの学び
第四回 反ユダヤ主義 (三章)


以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。


二章において、ダニエルは、ネブカデネザルによって高い位につけられ、三人のヘブル人の友人もバビロン州の事務をつかさどることになりました。それはダニエルが、ネブカデネザル王の夢が、人の像であることを教え、また解き明かしたからです。

そして三章に入ります。「ネブカデネザル王は金の像を造った。(1節)」とあります。これは、全身金の像です。これをバビロンが支配している諸民に拝ませました。ダニエルは、バビロンは、人の像の中において「金の頭」であると教えました。しかし、王は全身金にして、これを世界に拝ませようとしました。神がお定めになっている領域から離れて、ネブカデネザルは高ぶり、バビロンの威光が永遠に続くと思ったのです。

この傾向は、その後の王たちのうちにも見出されるものであり、その究極の支配者である「荒らす忌むべき者(反キリスト)」が、終わりの時に猛威を奮うというのが、ダニエル書のシナリオになっています。ネブカデネザルが自分の像を世界中の者たちに拝ませるのは、後に来る反キリストが行なうところの予型となっています。(2テサロニケ2:4;黙示13:14−15)

諸国は、ネブカデネザルが立てた金の像を拝みました。ところが、カルデヤ人が王のところに進み出て、ユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・メゴが像を拝まないと言って訴えました。ネブカデネザルがそのことを三人に問いただすと、彼らは、王の命令に従うのをはっきりと拒みました。そして、王は怒りに満ち彼らを燃える火の炉に投げ入れますが、三人は、第四の者すなわち御子イエス・キリストともに炉の中を歩き、火の害をまったく受けずに救い出されました。

このヘブル人たちの次の言葉は、世から妥協を迫られるクリスチャンが倣うべき姿勢です。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。しかしそうでなくとも、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(3:17−18)」神は試練や困難の中にあっても私たちを救い出してくださること、また、たとえ救い出されなくとも、全き心をもって神におゆだねすることは、迫害下の中にいるクリスチャンにとっての金科玉条です。(2コリント1:9−10;1ペテロ4:19)


聖書から見る反ユダヤ主義

ただ、この三章は、聖書預言の視点からは、文字通りユダヤ人が、異邦の諸国から迫害を受ける型となっています。カルデヤ人たちが三人を王に訴えたのは、三人が外国人のユダヤ人であり、バビロン国の重要なポストにいることを妬んだからです。ネブカデネザルが三人を燃える火の炉の中に入れたのは、イスラエルの神を信じる彼らをとおして、自分が高ぶっていることを自ずと明らかにされたからで、その脅威から彼らを迫害しました。このシナリオは、イスラエルの民が誕生したときから始まり、聖書時代から現代までの歴史の中で続いています。そして、終わりの時は、ユダヤ人に対する最大のホロコーストが起こり、彼らが滅びそうになっているところに、メシヤなるイエス様が戻ってこられて彼らを救われます。(黙示12章;マタイ24:15−31)

 神はその歴史の初めに、アブラハムに対して「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう(創世12:3)」と仰せになりました。イスラエルがエジプトの地で、神が約束されたように、その子供の数が増え、強くなってきました。その神の働きを妨げようとしたのが、エジプトのパロです。彼は、イスラエル人を苦しめ、その赤子をナイル川に投げ込ませましたが、同じように、パロは紅海の水の中で溺れ死にました。アブラハムに語られた神のことば通りのことが起こったのです。その一方、イスラエルの神を畏れたラハブは、イスラエル人のスパイをかくまいました。それゆえ、エリコに下った神の裁きから救い出され、さらにイエス・キリストの先祖となる恵みにあずかっています(マタイ1:5)。同じように、国や民族レベルにおいて、人々は、ユダヤ人が神によって祝福されるのを妬み、自分たちの高ぶりが彼らの存在によって露わにされます。ユダヤ人の存在がやっかいとなり、彼らこそが問題の根源であるとします。これを「反ユダヤ主義」と呼びます。


キリスト教界の反ユダヤ主義

 キリスト教界は、他の不信者たちと同じように、ユダヤ人迫害と虐殺の歴史を持っています。それは、ユダヤ人に対する聖書の厳しい言葉を歪曲、乱用しているために起こったもので、「ユダヤ人は、イエスを殺した、呪われた民だ」というのが論拠になりました。これは名ばかりのキリスト教徒だけによって行なわれたのではなく、一般に尊敬されている教会指導者たちの口からも、出てきました。例えば、マルチン・ルターは激しい反ユダヤ・レトリックをその著書の中に残しています。けれども、このようなキリスト教会による反ユダヤ主義も、実は聖書の中で預言されています。(ローマ11:19−22)キリスト教会も高ぶりが生じることを、パウロは警告しており、実にそのことが教会史の中で起こってしまったのです。

 日本のキリスト教界も、例外に漏れないことを指摘しておきましょう。日本に入り込んでいる反ユダヤ主義は、主にヨーロッパで培われた、ナチスに代表されるユダヤ人謀略説です。「ユダヤ人が世界征服の陰謀を持っている」と主張します。また、左翼による反シオニズムが、日本のマスコミ界を占めています。「パレスチナ人の地にイスラエルが不法に占拠し、彼らを虐げている」というものです。日本の福音界で中東問題が語られるときに、巧妙にこの左翼的な反ユダヤ主義が入り込んでいるのを見ます。また、日本の経済不況や世界情勢の不安定要因が説明されるときに、ユダヤ人のグループが裏で支配しているという主張もあり、ここには右翼系反ユダヤ主義が忍び込んでいるのを見ます。

 終わりの時は、本紙1月20日号で報じられたように、イエスの御名のみに救いがあるという真理に対する攻撃があります。けれども、それだけでなく、イスラエルに対する攻撃も激しさを増すこと知らなければいけません。大患難で生き残った者たちがイエス様から問われるのは、迫害下のユダヤ人をどのように取り扱ったかによるのです。(マタイ25:31−46)


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