ダニエル書7章 「四頭の獣」

アウトライン

1A ダニエルの見た夢 1−14
   1B 四頭の大きな獣 1−8
   2B 天の御座 9−14
2A 御使いの解き明かし 15−28
   1B 四人の王15−18
   2B 第四の獣 19−28

 (ダニエル書の夢と幻の略図があります。こちらをクリックしてください。)

本文

 ダニエル書7章を開いてください。私たちは前回、ダニエルの生涯の最後の部分を学びました。バビロンが崩壊してから、メディヤ・ペルシヤの国が支配してもなおも王に仕える役人として、最後まで責務を全うしました。王だけでなく、神にも忠実に従い、獅子の穴に投げ込まれるという禁令が出ても、いつものように祈りをささげた所を読みました。

 そして7章です。7章から12章は歴史的な話ではありません。もっぱらダニエルが見た夢と幻の記録です。彼がバビロンの終わりの時期に見た夢と、メディヤの王ダリヨス、そしてペルシヤの王クロスの治世の時、彼が王の事務を執ったときに見た夢です。

 私たちは既に、ネブカデネザルの見た人の像の夢を通して、終わりの日に至るまでの異邦人の時代の姿を見ました。この預言をさらに詳しくしたものが7章であり、そしてその後の幻です。バビロンが支配し、それからメディヤ・ペルシヤ、そしてギリシヤ、最後にローマが現れます。けれども、ローマは崩壊しても、その影響は長いこと続き、最後にこれら人間の国をこなごなにする永遠の国を神がメシヤによってお立てになることを、ネブカデネザルの見た夢から知ることができました。

 3章から6章にもこの主題は一貫して流れていましたね。ネブカデネザルも、自分の国より高い所に神がおられ、この方の国と主権が永遠に堅く立つことを告白しました。ベルシャツァルは、それを認めなかったので殺されました。そしてメディヤ人ダリヨスも、獅子の穴からダニエルを救い出された神をほめたたえ、この国は永遠に堅く立つと宣言しました。

 「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10」これが、私たちキリスト者の祈りです。私たちはこの世に生きていますが、そして神を知らない異邦人の支配の中に生きていますが、私たちの主が戻ってきてくださる。そして、私たちのために神の国を立ててくださる、という希望を持っているのです。その希望によって、今の自分を生かすことができるのです。

1A ダニエルの見た夢 1−14
1B 四頭の大きな獣 1−8
7:1 バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。

 時はおそらく紀元前553年です。ベルシャツァルが王となった元年に見た夢ですが、彼がいかに身勝手で、神を敬わない人であったかは、私たちは5章で学びました。ダニエルもいささか、不安であったかもしれません。いったいこれからバビロンはどうなるのだろうか?また、その後の世界はどうなるのだろうか、と思っていたに違いありません。その不安に答えるべく、神は彼に夢をお与えになりました。

7:2 ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、7:3 四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。

 大海の中から四頭の獣が出てきました。海は、しばしば国々の姿を表します。黙示録17章の大淫婦の幻において、「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。(15節)」とあります。そしてこれは穏やかな大海原の姿ではなく、暴風によって荒れ狂う海を描写しています。イザヤ書に「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、(57:20」とあります。諸国の民が暴れている姿、その横暴な様子を描いています。

 「天の四方の風」がそれを引き起こしていますが、神がご自分の力と主権によって、それらの国々を掌握されている様を描いていると言えます(黙示7:1参照)。これまでも出てきた主題でしたが、国々がどんなに暴れていても、すべては主の御手の中にあります。

 そしてそこから四頭の大きな獣が出てきています。これから読んでいきますが、それぞれがネブカデネザルの見た人の像の夢に匹敵します。バビロンが金の頭でありますが、ここでは獅子のような獣です。メディヤ・ペルシヤは銀の胸と両腕でしたが、ここでは肉を食らう熊のような獣です。そしてギリシヤは青銅の下腹と太ももでしたが、ここでは四つの翼と四つの頭を持つ豹です。そして、ローマは鉄のすねと足でしたが、ここでは得体の知れない、自然界には存在しない鉄のきばを持つ獣として登場します。

 つまり、こういうことができます。同じ国々をネブカデネザルもダニエルも夢の中で見たのですが、まったく違う姿であったということです。光り輝く貴金属をネブカデネザルは見ましたが、獰猛な獣をダニエルは見ました。ネブカデネザルは異教徒であり、人間の国の王です。人間が、神を信じない人がこの世を見るとき、そこには栄華があり繁栄があります。けれども、神の人であるダニエルがこの世を見るとき、それは横暴で、荒れ狂う獣なのです。私たちは、この世の栄光に誘惑されているでしょうか?もう一度、主の栄光を仰ぎ見て、この世をこの世として見、それを愛さないという決断が必要です。

7:4 第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。

 「獅子のようで」とありますから、実際の獅子ではありませんでした。鷲の翼を持っています。

 ところで獅子は、王権を表す動物として聖書の中でも、歴史の中でも現れます。例えば、ソロモンの王座のわきには雄獅子の彫刻が立っていました。王座の階段にも、「十二頭の雄獅子が、六つの段の両側に立っていた。(1列王10:20」とあります。獅子は動物界の王であります。同じように鷲は鳥類の王であります。エゼキエル書17章には、バビロンとエジプトを大鷲に例えています(3,7節)。

 そしてバビロンの王の宮殿の入り口には、翼のついた獅子の門がありました。ダニエルは、この獅子を毎日というほど見ていたに違いありません。

 その獅子の翼が抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本足で立たされ、人間の心が与えられたのですが、これは4章に出てきたネブカデネザルの姿です。彼が人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、七つの時が過ぎてから、理性が戻ってきました。

7:5 また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ。』との声がかかった。

 メディヤ・ペルシヤ帝国を表す熊ですが、聖書では、獅子に次ぐ第二の動物として出てきます。ダビデがサウルにゴリヤテと戦う時に、自分にそれができることを説明するときこう言いました。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取っていくと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。・・・このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。(1サムエル17:3436」そしてアモス書519節には、「人が獅子の前を逃げても、くまが彼に会い、・・・」とあります。

 ダニエルが、人の像の、銀の胸と両腕を「あなたより劣るもう一つの国が起こります。(2:39」と解き明かしましたが、この獣の幻の中でも第二の動物として表れているのです。

 そして「横ざまに」寝ているという状態が興味深いです。これは、メディヤとペルシヤの二つの国を表しているのではないかと考えられます。メディヤ・ペルシヤ帝国というと連合国のように聞こえますが、事実上、ペルシヤがメディヤを吸収しました。ですから、ペルシヤがメディヤを凌駕しているということで、ペルシヤ側がメディヤ側よりも高くするために、横ざまになっているのではないかと思います。

 そして「口のきばの間には三本の肋骨があった」とありますが、おそらくはこの肋骨は、メディヤとペルシヤ、そしてバビロンを表していると考えられます。メディヤの国土とペルシヤの国土に加えて、バビロンを倒してバビロンの国土を得ました。

 そしてさらに、「起き上がって、多くの肉を食らえ。」との声がかかりましたが、小アジヤ(今のトルコ)の西部にあったルデヤとエジプトを征服しました。「肉を食らう」という残忍さはイザヤ書13章に出てきますが、こう書いてあります。「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らを胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。(17,18節)

7:6 この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。

 豹はもちろん、獲物を追うときの敏捷さが特徴です。ダニエルが、「見ていると、また突然」と言いましたが、あまりにも急に出てきたので驚いているのです。さらに、その走る速度を加速させるかのように、背に鳥の翼があります。これはギリシヤの特徴をよく表しています。

 8章また11章に、ギリシヤを帝国にまで拡大させたアレキサンダー大王の預言があります。彼は数年のうちに、当時知られた文明化された地をすべて征服しました。西はマケドニヤから南はエジプトまで。そして東はペルシヤだけでなくインドにまで及びました。

 けれども豹の頭は四つあります。翼も四つあります。これもギリシヤ史にあるとおりです。アレキサンダーは若くして夭折しましたが、その後、帝国は四人の総督に分割されました。シリヤ、小アジヤ、マケドニヤ、そしてエジプトです。このうちシリヤのセレウコス朝とエジプトのプトレマイオス朝が優勢になり、シリヤ・エジプト戦争を何度となく行ないました。これらの預言も8章、そして11章にあります。

 ダニエルの見た夢は、次からが中心です。彼が後でこの第四の獣がいったい何なのか、御使いに解き明かしを求めています。

7:7 その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。

 第四の獣は、地上にいる野の獣に形容することができませんでした。その恐ろしさ、ものすごさ、強さはこれまでの獣の比ではないようです。そして「大きな鉄のきば」を持っています。覚えていますね、ネブカデネザルの見た夢では、ローマは鉄のすねでしたが、それが同じく鉄で出来た牙を持っています。

 この様子は、ローマ帝国を実によく表しています。ローマの征服は、それまでの帝国の比ではありません。紀元前241年のシチリヤ占拠から始まり、カルタゴを叩いた後、すみやかに地中海周囲にある国々をみな征服しました。軍人ポンペイウスは紀元前63年にエルサレムに侵入しました。その後、ヨーロッパを北上し、英国の南部、フランス、ベルギー、スイス、そしてドイツにまで支配を広めました。他の帝国と異なり、四世紀という長期に渡り拡張を続けました。その衰退も長期に渡り、英国を去ったのは紀元後407年、そして最後のローマの支配者が1453年にコンスタンティノープルで倒れました。

 そして2章の学びでお話したように、倒れた後もその影響はヨーロッパとロシアに残りました。そして欧米列強時代に入り、その影響は全世界に及んでいるという次第です。

 そして、鉄の牙は「食らって、かみ砕いて」、残りの獣を「足で踏みつけた」とあります。これもローマの征服をよく表しています。ローマの前のギリシヤの場合は、アレキサンダーは征服しても、その被征服民を虐げることはありませんでした。もし蹂躙していたら、あれだけすばやく進出できなかったでしょう。けれどもローマは違います。征服した国々と民の文明を破壊して、粉々にし、捕虜を何千人も殺し、また奴隷として十数万人売りました。

 そして第四の獣に非常に特徴的なのは「十本の角」です。ネブカデネザルの見た夢の「足の指」に相当します。(足の指はもちろん十本ですね。)そして次の「小さな角」は、2章の夢にはない新しい啓示です。

7:8 私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

 この角が、ダニエル書において「荒らす忌むべき者」と呼ばれるようになり、異邦人の時、神の御国が到来する直前に、世界を荒らす人物として浮き彫りにされています。もちろんダニエル書の中心は神ご自身でキリストであられますが、その次にこの男がどのようなことを行なうのか焦点が当てられています。

 私たち聖書を信じるキリスト者は、次のように世界を見なければいけません。これから世界は荒廃します。その荒廃は、一人の人物によってもたらされます。しかし、その人物を再臨のキリストが滅ぼされ、そしてキリストが神の国をお立てになります。

 新約聖書にも、この人物が出てきます。主ご自身がオリーブ山で弟子たちに、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば(マタイ24:15」と言われました。そして使徒パウロはこう言いました。「なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(2テサロニケ2:34」そして黙示録では「」として現われ、13章には獣の国の姿が描かれています。ヨハネはこの人物を、「反キリスト」と呼びました。

 イエス様は終わりの日について、「目を覚ましていなさい(マルコ13:37等)」と何度も言われました。私たちが、これからどのような世界に突入していくのか、しっかりと見据えていなければなりません。

 ところでこの「小さな角」の特徴についてですが、一つ目はもちろん「小さい」ということです。初めから王のように権力を持っているのではなく、むしろ何でもない所から現われます。二つ目は、「三本の角を引き抜く」ことです。巧みに既に権力を持っている者たちを引きずりおろして、自らがその座に着きます。三つ目は、「人間の目」があることです。ゼカリヤ書や黙示録には、キリストに七つの目があり、その目は御霊であることを教えています(ゼカリヤ3:9、黙示5:6)。彼は、神の見方で物事を見るのではなく、人間の見方で物事を見ます。そして四つ目、「大きなことを語る口」があります。話がうまいです。すべて言葉で相手を巧みにだまします。そして大言壮語をいい、神に対して暴言を吐きます。

2B 天の御座 9−14
 そして夢はこれで終わりません。むしろ次がクライマックスです。ネブカデネザルの夢を思い出してください、人の像がありましたがそれは粉々に砕け、最後は大きな山になりました。人手によらず切り出された石が、足のところに当たり、それで像が砕けて、その石が大きな山になったのです。それが、神がキリストによって人間の国を倒され、ご自分の国を立てられるのです。9節からは、神が御国を地上に立てられるに際して、天において行なわれることを示しています。

7:9 私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、7:10 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。

 「年を経た方」が御座におられます。永遠の神です。「幾つかの御座が備えられ」とありますが、黙示録4章には、ここの幻の詳細が書かれています。24人の長老が座に着き、四つの生き物と共に礼拝を捧げています。

 神の御姿は白い衣、そして白髪でした。白髪といっても老人だからではなく、清さを表しています。そして御座から火が出ています。神から出る火はいつも、神の裁きと臨在を表しています。シナイ山に主が降りてこられた時も、「主が火の中にあって、山の上に降りてこられた(出エジプト19:18」とあります。

 そして「幾千のもの、幾万のもの」が主の前に立っていますが、黙示録5章には万の万、千の千の御使いが小羊イエスに賛美をささげています。そして、さばく方が座に着いて「幾つかの文書が開かれ」ました。黙示録20章の終わりには、「これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。(12節)」とあります。

 これらが天における情景です。地上においては獰猛な獣、殊に第四の獣が暴れまわっていますが、私たちが見るべきは天です。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:1-2」私たちは、毎週の礼拝、そして日々、主の前にささげる祈りがいかに大事であるかを知らなければいけません。

7:11 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。

 天からの裁きによって、あの角、反キリストは滅びます。黙示録19章にはっきりと書かれています。獣と偽預言者が、再臨のイエス・キリストによって殺され、そして硫黄の燃える火の池に生きたまま投げ込まれます。

7:12 残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。

 「その時と季節まで」とは、「定められた日まで」ということです。バビロンも、メディヤ・ペルシヤも、そしてギリシヤもみな、帝国が倒れた後も続いています。バビロンは今のイラク、ペルシヤはイラン、そしてギリシヤはギリシヤです。

7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

 キリストが父なる神の前に出て行かれている様子です。黙示録5章に、小羊が御座におられる方から七つの封印の巻き物を渡されて、それで天は賛美と礼拝で満たされた姿が描かれています。このことによって、これまでダニエル書に書かれていた永遠の主権が確立されます。

 イエス様が、ご自分が戻って来られるとき「天の雲に乗ってくるのを見るのです。(マタイ24:30」と言われました。雲は聖書の中で神の栄光を表していますが、大能と輝かしい栄光をもって戻ってこられます。

 そしてユダヤ人の裁判を受けられていた時、大祭司の前でイエス様は、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。(マタイ26:64」と言われました。ユダヤ人たちはすぐに分かりました。イエス様がご自分をダニエルが預言した「人の子」であると主張し、ご自分が神の子であり、キリストであることを主張していることが分かったのです。そしてこの宣言によってイエス様は死刑に定められました。

2A 御使いの解き明かし 15−28
1B 四人の王15−18
7:15 私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。

 ダニエルはこれまで異邦人の王たちが見た夢や幻を解き明かしてあげました。けれども、自分自身が見た夢と幻については分かりませんでした。この悩みは最後の最後まで続き、12章で御使いとダニエルが話しているとき、御使いが、「このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。(9節)」と、元々、今の時点では解き明かすことのできない部類のものであることを伝えたのです。これほどまでに生々しい幻なのに、それを知ることのできないもどかしさが伝わってきます。

 そしてダニエルの恐れは、獣どもの凄まじさ、そしてその獣を滅ぼす神の御力にあったでしょう。私たちはダニエル書や、また七つの教会に対して主が与えられた黙示録をしばしば読むべきです。なぜなら、そこにはこの世の不義と、神の容赦ない裁きが記されているからです。私たちキリスト者が、この世には属していないのだということ、だからこの世ではなく神を愛さなければいけないこと、それから神は裁き主であることを思い出す必要があるからです。

 裁きというのは重いテーマです。あまり取り扱いたくありません。けれども、私たち自身のため、またまだ救われていない人々のために思い出す必要があります。「救い」がいかに尊いものなのか、その救いにある恵みがいかに大きいものなのか、正義の神の姿を見なければ本当には知ることはできません。そして救われていない人が、なるべく早く救いにあずかってほしいという情熱は、神の裁きから出てくるからです。

7:16 私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。

 ダニエルに解き明かしをするのは、御使いたちです。その一人として、後に主イエス・キリストご自身が現われてくださいます(10,12章)。

7:17 『これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。7:18 しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。』

 短く解き明かしました。次にダニエルが第四の獣について尋ねます。その後で詳しく解き明かしますが、「四頭の大きな獣は、地に起こる四人の王である」と解き明かしました。

 そして2章のネブカデネザルの夢にはなかった、新たな啓示があります。私たちの主イエス・キリストが国々を打ち砕いて、神の国を立てられるだけではなく、聖徒たちがその国を受け継ぐということです。

 神は人をご自分のかたちに造られてから、ご自分が造られた物を人に支配させることを考えておられました。「彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。(創世1:26」ご自分が全てのものを支配されているように、ご自分に似せて造られた人にもその支配と所有を与えようと意図されました。だから、人は、所有し、統治をするということにおいて神の目的を果たすことができます。

 けれどももちろんアダムが罪を犯して、その支配権を喪失しました。悪魔に移ってしまいました。それを奪還するために神はキリストをこの地に遣わされて、キリストの血によって私たちを贖ってくださったのです。そして贖われた者たちが、神の国をキリストにあって支配する王とし、神の祭司とすることを意図しておられます。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王(国)とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。(黙示1:6

 ガラテヤ書にも、「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(4:7」とあります。エペソ書にも、「天にあるもの地にあるもの、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることになるのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。(1:1011」とあります。そしてペテロの第一の手紙にも、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1:4」とあるのです。

 聖徒たちには、こんなにすばらしい約束が与えられています。けれども、パウロが「神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。(使徒14:22」と言ったように、御国に入る前の苦難を預言しているのが、次からの箇所です。

2B 第四の獣 19−28
7:19 それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。7:20 その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。

 ダニエルは第四の獣のことが知りたいと興味を持ちました。そしてその描写を繰り返していますが、先ほどの描写にはなかったものを二つ加えられています。一つは爪が青銅であることです。もう一つは、小さな角が三本の角を倒した後、他の角よりも大きくなっていることです。

7:21 私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。7:22 しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。

 ここに「聖徒たち」とありますが、旧約時代の啓示は難しさがあります。小さな角、つまり反キリストが聖徒たちに戦いを挑み、「打ち勝った」とあるからです。けれどもイエス様はペテロに教会の約束を与え、「ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18」と言われているからです。すでに主は、ご自分の血と復活によって世と悪魔に打ち勝ち、教会もすでに勝利者とされています。けれどもここでは反キリストが打ち勝つ、と言っているのです。

 旧約聖書では、キリストがまだ到来していないために、神が与えておられる啓示が新約聖書ほどはっきりしていません。イエス様が弟子たちに、「多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:17」と言われました。キリストが到来されたことにより開かれた神の啓示があり、それをしばしば「奥義」と呼んでいます。

 神を信じて、この方に仕える者がみな聖徒ですが、新約聖書に与えられた知識に従うと、主に三つの種類の聖徒を挙げています。一つはもちろん教会です。ユダヤ人でも異邦人でも、キリストを信じることにより、御霊のバプテスマによって一つの体になった共同体です。

 そして、もう一つは患難期における聖徒の姿が、黙示録に出てきます。教会が天に引き上げられ、天で賛美をささげている姿を5章で見ることができます。それから神の怒りが地に下りますが、6章、7章にその間に信仰のゆえに死ぬ、殉教者の姿を見ることができます。そして20章に、ヨハネが、天において教会と区別して、患難期に死んだ魂が復活し、千年王国を受け継ぐことを教えています。「また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(4節)」教会は、「多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。(4節)」とありますから、教会と患難期の殉教者を区別しているのです。

 そして、イスラエルがいます。ローマ11章の最後に、異邦人の救いの完成の後に、イスラエルがみな救われることを教えています。その初穂として贖われた14万4千人のイスラエル人が、黙示録14章に出てきます。そして患難中期に荒野に逃げる女イスラエルの姿が12章に出てきます。黙示録の最後には天のエルサレムの門にはイスラエル12部族の名が記されています。ですから、イスラエルが悔い改めて、再臨のイエス様を自分たちのメシヤとして受け入れるのです。

 ですから、御使いがダニエルに話しているのは、教会に対してではなく、患難期における聖徒たち、殉教する聖徒たち、またイスラエル人で神を信じる残された民であると考えられます。特にダニエルはユダヤ人であり、ユダヤ人を意識して、彼らのこれからのことを語っている可能性が高いです。教会というのは、新約時代の使徒たちや預言者たちに与えられた特別な啓示です(エペソ3:56)。

 けれどももちろん最終的には、殉教者もイスラエルの残りの民にも勝利を与えられます。「年を経た方が来られるまでのことであって」と、期限付きなのだと御使いは励ましています。

7:23 彼はこう言った。『第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。7:24 十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。

 ここは、これからの世界の行く末を詳細に知ることのできる、貴重な預言です。23節から25節は黙示録13章において、さらに詳しく明らかにされています。

 ローマ帝国はもちろん滅びました。けれども先ほどお話したとおり、その影響は今に至るまで残っています。ネブカデネザルが見た夢では、鉄と粘土が混じり合った足と足の指が、それに当たります。

 けれどもその後で、ここにあるように世界が一つになります。「全土を食い尽くし、踏みつけ、かみ砕く」とあるとおりです。当時のローマ帝国はいくら膨張したと言え、全土は食い尽くしていません。これは将来についての預言です。これからは世界統一化が進みます。

 そこから、世界が十の区域に分かれる時が来ます。ちょうどかつてローマ帝国であったヨーロッパが、EUとして統一しました。まだ経済の領域での統一ですが、これから政治統一もされるでしょう。彼らが目指しているのは「合衆国」です。アメリカ合衆国のように連邦政府としてヨーロッパを一つに国にする予定です。同じように世界各地で、今、地域毎の統一の動きが活発になっています。G8などでは米ドルに代わる、世界共通通貨の議論も起こっています。世界が十に分けられます。

 そしてその一つから、反キリストが登場します。先ほどお話したとおり、彼は名の知られない人であり、不意にやって来ます。巧言を使って勢力を得ます。ついに十の地域のうち三つを自分のものとします。そして最後に全世界を自分の足元に置き、自分が世界総統になります。

7:25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

 小さな角にあった口は、このように「いと高き方に逆らうことば」を吐きます。彼は巧言により勢力を得て、そして同じく口によって神に逆らいます。「言葉」による神への反発をもって世の終わりが来ます。

 言葉の力は今の時代、非常に強いです。「表現の自由」という考えは、近代になって現われました。民主主義が、他の政治制度より優位にあると考える時代に私たちはいます。ちょうど鉄と粘土が混じり合った時に何が武器になるかというと「言葉」です。

 けれども、その言葉を使い誤るとその被害は甚大です。ヤコブは、「舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さな火があのような大きな森を燃やします。(3:5」と言いました。そして終わりの日に偽教師が出てきて、権威ある者に対してそしると、ペテロとユダが警告しています。ペテロは第二の手紙でこう言いました。「彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。(2ペテロ2:10」ユダも同じく、「夢見る者たちであり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。(8節)」と言っています。

 私は今の時代を見るに、まるでマスコミが最も大きな政党であるような気がします。民主党でも自民党でもなく、マスコミの論評で世論が動き、そして政治家が反応して日本の政治全体の舵取りをしているような気がします。同じように、アメリカのオバマ大統領はその演説のうまさが特徴ですが、なぜ口がうまいだけで大統領職が務められるのでしょうか?イランのアフマディネジャド大統領も、その口のうまさで特に貧しい人から支持を得ていますが、イスラエルとアメリカに核ミサイルをぶちこもうと公言してはばかりません。

 そしてイエスの御名によってのみ救われると宣言するキリスト教会は、いつか他のテロ団体と同じように、危険思想を持っている者たちとして攻撃を受けるでしょう。「差別的だ」「排他的だ」「非寛容だ」という名の下で、言葉の巧みさではなく真理によって立っている教会を迫害するのです。そしてその先には、神さえも冒涜する世界総統が現われることを考えてください。

 そして彼は「時と法則」を変えようとします。これまであった秩序を変えようとするのです。12章に、彼は「どんな神々にも心にかけない(37節)」とありますが、既存の宗教、風習、習慣、従来の価値観などを全て変えようとします。

 もちろん私は、日本人の人々が偶像崇拝を離れて、まことの神に立ち上がってくださることを願い、祈り求めています。神社や寺ではなく、教会に通う姿をあちこちで見かけるようになってくれればなあと切に願います。けれども、キリストの福音によって心が変えられることなしに、神社や仏教寺院、またその他の日本の伝統を変えてほしいとは願いません。これまである既存のものに不満を抱き、何か変革しなければいけない、"CHANGE"だ!と叫ぶ声に私は不安を抱きます。 

 どこが最も保守的な団体かと問われれば、神社や仏教の団体より、キリスト教がはるかに保守的です。頑固に、聖書のみが神の真理であると唱え、キリストの十字架と復活のみが人に命を与えると二千年に渡って変えることがなかったのです。それゆえ、世界はキリスト教によって時も定められました。紀元前はB.C."Before Christ"です。「キリストの前」であり、そして紀元後はA.D."Anno Domini"で「主の以後」であります。

 このような既存の秩序に対して強い不満を抱かせ、神の権威ではなく人の権利を強調し、人を高慢にさせ、そして既存のものをひっくり返そうとする動きは、とどのつまり反キリストが行なうことなのです。神が人に尊厳を与えたということをすっかり忘れ、「人権」という名の下で神の名を否定するなど、もっての他です。

 そして最後に「ひと時とふた時と半時の間」という、預言の時間表を理解するのに非常に大切な期間が出ています。以前お話しましたが、「時」は一年です。ですから足すと三年半になります。この期間は、ダニエル書後半に何度か現われ、927節では第七十週の半週として表れます。ダニエル書の最後にも、亜麻布を着た方が天に向けて両手を上げて、永遠に生きる方を指して誓い、「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」と言われました。神が聖なる民、つまりイスラエルの民の力を打ち砕き、彼らがへりくだってメシヤを求めるようにする期間として定めておられるのです。

 黙示録にもこの期間が登場します。「彼らは聖なる都を四十二ヶ月間踏みにじる。(11:2」「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口が与えられ、四十二ヶ月間活動する権威を与えられた。(13:542ヶ月間は三年半です。そして「千二百六十日の間預言する。(11:3」当時の計算にしたがって一年を360日にすれば、1260日は三年半です。そしてそのまま「一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(12:14」とあります。

 これをイエス様は、「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難(あるいは大患難)があるからです。(マタイ24:21」と言われました。御使いガブリエルがダニエルに伝えた、第七十週の後半の三年半の期間です。

7:26 しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。

 偽のキリストがこのように世界を荒廃へと至らせましたが、本物のキリストが偽キリストに裁きを下されます。主が地上に戻って来る時にこれを行なわれます。テサロニケの手紙第二にはこうあります。「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。(2:8」黙示録にはこうあります。「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(19:19-20」ハレルヤ!です。

7:27 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』

 反キリストをキリストが滅ぼされた後、キリストが御国を立てられ、そして聖徒たちにもその統治を委託されます。異邦人の時代には、バビロン、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマなどの大国が統治していましたが、終わりの日には聖徒が神の国をキリストにあって統治するのです。

 私たちが統治するなど、実におこがましいと思われるかもしれません。けれども、その統治はあくまでもキリストにあって行なうものです。ちょうどイエス様が、ご自分の父が行なわれること、言われること、裁かれることは何事もしないと強調されたのと同じです。「子は、父がしておられることを見て行なう以外は、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19

 キリスト者として、キリストの内にいる者として、キリストにあってすべての判断を下し、すべての決定を行ないます。ですから、私たちというよりもキリストが私たちを通して世界を支配されると言った方がいいでしょう。

7:28 ここでこの話は終わる。私、ダニエルは、ひどくおびえ、顔色が変わった。しかし、私はこのことを心に留めていた。」

 ダニエルは夢の解き明かしを聞いたら、なおさらのこと恐ろしくなり、顔色も変わっています。けれども、「心に留めて」いました。今は分からないけれども、後に分かるかもしれないから心に留めていたのです。「いったいどういうことなのかなあ。」と思い巡らしながら日々を過ごしていました。

 同じように心に留めた人の話が聖書に出てきます。ヨセフが夢を見たときのことです。彼が太陽と月と星が自分に伏し拝んでいる、という夢を見たと話したとき、ヤコブは叱りました。けれども、「このことを心に留めていた(創世37:11」とあります。後にヨセフがエジプトの総理大臣になっている姿を見て、もちろんその夢の意味するところを知ることになりました。

 またイエス様の母マリヤもいます。イエス様が神殿で学者と話しておられたとき、心配していた両親が、「あなたを捜し回っていたのです。」と叱ったところ、「どうして、わたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(ルカ2:49」と言われました。この意味が分かりませんでしたが、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(51節)」とあります。

 私たちも、「これからどうなるのか?」と悩む時があると思います。「神がこう約束しておられるけれども、一向にその兆しは見えない。むしろ反対に見えることがいろいろ起こっている。でも、約束されたのが神なのだから、どうなるのか待っていよう。」と思い巡らすのです。今は分からないけれども、いつか神が全てを明らかにしてくださいます。

 長くなりましたが、異邦人の時の姿とその後の御国の到来の預言を私たちは読みました。異邦人の時には苦難があります。けれども、その報いを神は必ず行なってくださいます。その中間期に私たちがいることを忘れないでください。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』」「しかり、わたしはすぐに来る。(黙示22:17,20


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