終わりの時に生きるキリスト者 − ダニエル書の学び
第六回 反キリストの出現 (7章)



以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。


 私たちは前回、異邦の諸国は高ぶって、自分を神の地位にしようとする動きを持っていることを学びました。そして7章から最後の章まで、一人の人物が中心になって預言されています。「荒らす忌むべき者」あるいは「反キリスト」と呼ばれる人です。彼は、「大きなことを語る口」(7:8)として知られ、横柄で狡猾であり(8:23)、神の神に対してあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える(11:36)とされています。そして、神は、このようなことが起こるのを許し、最後にその不義をさばくご計画を持っておられます。したがって、この連続性が大切になります。異邦の国、言い換えれば人間の国は、神を知らないで高ぶり、その究極の姿として反キリストが現われる、ということです。これがダニエル書の全体的な流れになっています。


人の視点と神の視点

 7章において、ダニエルが、四頭の獣の幻を見ています。大水の中から現われた、獰猛な獣たちです。四匹目の獣から出てくる「角」が、この章で中心的に語られていますが、これが反キリストです。この獣らは、2章におけるネブカデネザルが見た人の像の夢に匹敵します。獅子は金の頭のバビロンです。熊は銀の胸のメディヤ・ペルシヤです。ひょうは青銅の腹ともものギリシヤです。四匹目のえたいの知れない獣は、鉄のすねであるローマに匹敵します。この獣は十本の角を持っていますが、人の像では十本の足の指を持つ、粘土と鉄の混じり合った状態に匹敵します。

 このように、ネブカデネザルが見た夢が金属による、光り輝く人の像であったのに対して、ダニエルが見たのは肉を食らう獣たちです。ここに、人が見方と神の見方の違いがあります。人間的には、諸国の繁栄と栄光はすばらしいものですが、神が見るときは、おぞましいものなのです。ですから、私たちがどこまで、神の視点から世界を眺めることができるのかが大切になってきます。


大患難時代

 ダニエルは御使いに、第四の獣の意味を確かめます。御使いは、十人の王の間から一人の人が出てきて、彼が、十人のうち三人を打ち倒す、と説明しました。古代ローマにおいて、このようなことが起こったことを確認することはできないので、これは将来にローマが復活することを意味します。人の像の足と足の指にあったように、粘土と鉄のようなゆるい結びつきではありますが、十の支配圏が台頭します。現在、ローマが昔あった同じ場所に、ヨーロッパ連合が登場し、彼らはヨーロッパ合衆国に向けて動いています。そして、北米、東アジアなど、諸国が地域ごとの連合を形成しようとしています。人々は、「民主主義」「共生」「多様化の時代」「地球村」など聞こえの良い言葉を使っていますが、キリストなしに、多様化も共生もあり得ないことを知るべきです。キリストなしの偽りの平和は、見ためは寛容であっても実は非常に排他的です。ですから、このような緩やかな連合体が世界に出来つつあるとき、突如として、全土を食い尽くす独裁者反キリストが登場します。

 そして、彼の正体は、「ひと時、ふた時、半時」という期間において全開します。(25節)彼は、この三年半の期間に、さまざまな活動を通して、世界を荒廃へと至らせます。黙示録13章には、彼の活動について詳細に記されていますが、ダニエル書7章には、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとすることが書かれています。この聖徒たちは、教会のことではありません。イエスさまは、教会に対してハデスの門も打ち勝つことはできないと約束されましたが(マタイ16:18)、反キリストは聖徒たちに打ち勝っています。(21節)むしろ、ここの聖徒は、旧約聖書の中で語られている、神を信じるイスラエル人であり、また彼らをとおして主を信じる異邦人です。教会は、反キリストの活動を見ることなく、天に引き上げられ(2テサロニケ2:1−12参照)、地上に残された人々で主を信じる人々が、彼の手に渡されます。しかし、反キリストの現われが近づいている今、クリスチャンたちも、この世から受ける迫害がますます激しくなっていることに気づかなければいけません。

 けれども、反キリストには、神のさばきが定められています。天において、年を経た方がさばきの座に着き、文書を開かれるとあります。(10節)また、雲に乗ったキリストが年を経た方から、諸国、諸民、諸国語の者たちに対する主権が与えられることが書かれています。反キリストは、このさばきによって、燃える火に投げ込まれます。そして、主が地上に再臨されて神の国を立てるときに、教会も、大患難時代に殉教する信者も、主が再臨されるときイエスさまを信じて救われるイスラエルもみな、この神の国を受け継ぐことになるのです。(22、27節)世界中のクリスチャンが二千年間祈り続けた、「御国を来たらせたまえ。みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ。」ということばが、この時にかなえられるのです。


真理への愛

 このように、ダニエル書7章は、2章との対比の中で、神の視点から見た終わりの時について述べられていました。終わりの時には、見ためは良いかもしれないが、実を否定するような動きがあり、人々は、キリストを信じないので、この偽りの中に入っていくようになります。反キリストの活動について説明したパウロは、こう言いました。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるための真理の愛を受け入れなかったからです。」(2テサロニケ2:9−10)終わりの時に生きるキリスト者の戦いは、偽りと真理との戦いです。平和も正義も愛も、すべて良いものはキリストから来ます。キリストにあって、すべてのものは成り立っており、キリストから離れて希望はありません。しかし、このことのゆえに、世から迫害を受けるようになります。世は、「なんと、あなたは独善的で、排他的なのか。キリストにしか救いがないなんて、愛と平和を教えるクリスチャンらしくない。」と言います。けれども、私たちはしっかりとキリストの栄光を見て、真理に対する愛を保っていなければいけません。

「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」(2テモテ1:13−14)


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