ダニエル8章 「背きの罪」

アウトライン

1A 幻 1−14
   1B 雄羊と雄やぎ 1−8
   2B 小さな角 9−14
2A 解き明かし 15−27
   1B ガブリエルによる託宣 15−19
   2B 終わりの憤りの時 20−27


(ダニエル書の夢と幻の略図があります。こちらをクリックしてください。)

本文

 ダニエル書8章を開いてください。私たちは前回からダニエル書の預言の部分を読んでいます。1章から6章まで、ダニエルが異邦人の国の中で王に仕えていた生涯を読みましたが、7章からはダニエル自身が見た夢と幻を書き記しています。

 7章では、2章でネブカデネザルが見た夢に匹敵する四つの国の幻がありました。四頭の大きな獣が大海から現われ、それらがバビロン、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、ローマを表していました。けれども、2章にはなかった新しい人物が登場しました。ローマを表す第四の獣の十本の角の間から、小さな角が現われました。それが大きくなり、三本の角を倒し、人間の目を持ち、そして大きな口を持っていました。

 彼が、世界の終わりに、主イエス・キリストが再臨される直前に現われる反キリストであることを学びました。この人物こそ、ダニエル書の後半部分の中心人物です。「異邦人の時」を描くダニエル書は、異邦人の王たちによる横暴な統治の行く末が、この荒らす忌むべき者、背きの罪をもたらし、天の神を冒涜する者の出現なのだ、ということを教えています。

 私たちもこの「異邦人の時」の中に住んでいることを忘れないでください。イエス様は、「異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。(マタイ20:25」と言われました。この世は横暴なのです。けれどもイエス様は続けて、「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(26節)」と言われました。私たちは、徹底的に仕える姿勢をもってこの世に臨むのです。

 そして7章には、「聖徒たちが永遠の御国を受け継ぐ」という主題がありました。小さな角、反キリストが聖徒たちに打ち勝ち、彼らを滅ぼし尽くそうとするが、人の子が戻ってこられて彼らに御国を与えられます。

 思い出していただきたいのですが、2章4節から書き記されている言語が、ヘブル語からアラム語に変わっていました。それはイスラエル人に関わる事から、異邦人に関わる事に移ったからでした。そして8章にて再びヘブル語に戻っています。つまり、再びユダヤ人に対して語るべき事柄が始まるからです。

 8章では、「星の軍勢」が小さな角によって踏みにじられ、聖所の基がくつがえされるとの預言があります。後で詳しく説明しますが、それは聖徒たちが踏みにじられ、エルサレムの神殿が荒らされることを意味しています。再び、イスラエルの民とエルサレムの事柄に戻っているのです。主の民に対して何が起こるのかを描いています。

1A 幻 1−14
1B 雄羊と雄やぎ 1−8
8:1 ベルシャツァル王の治世の第三年、初めに私に幻が現われて後、私、ダニエルにまた、一つの幻が現われた。

 「初めに現われた幻」とは7章の幻のことです。7章の幻はベルシャツァル王の治世の元年でしたから約二年後の幻です。

8:2 私は一つの幻を見たが、見ていると、私がエラム州にあるシュシャンの城にいた。なお幻を見ていると、私はウライ川のほとりにいた。

 「エラム州のシュシャンの城」は後にペルシヤ帝国の首都となる所です。エステル記の舞台がシュシャンの城です。彼はそこの運河である「ウライ川」のほとりにいました。

 これが、実際にダニエルがそこにいたのか、それとも幻の中だけでそこにいたのかは分かりません。もしかしたら預言者エゼキエルのように御霊によって幻の中で移動したのかもしれません。いずれにしても、ペルシヤの都になる場所にいたことが大事です。

 なぜなら、これからメディヤ・ペルシヤ帝国の幻を見るからです。バビロンが倒れるのは間もなくです。ベルシャツァルの治世によってバビロンが終わるので、その後のことを主はダニエルに伝えようとされています。

 バビロンが終わるということは、捕囚生活も終わるということです。エルサレムに帰還してから起こる事柄、ユダヤ人とエルサレムに起こる事柄に焦点が向けられます。

8:3 私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二本の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。

 メディヤ・ペルシヤの姿を実に鮮やかに描いています。二本の角はもちろん、メディヤ国とペルシヤ国を表しています。そして「一つがほかの角よりも長かった」のは、ペルシヤがメディヤよりも強くなり、実質的にペルシヤの国になったからです。けれども、メディヤ国のほうがペルシヤよりも先に出ていました。したがって、「その長いほうは、あとに出て来たのであった。」とあります。

8:4 私はその雄羊が、西や、北や、南の方へ突き進んでいるのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。それは思いのままにふるまって、高ぶっていた。

 メディヤ・ペルシヤの国がどのように拡大していったのか、その方角と順番が歴史通りになっています。まず「西方」です。バビロン、シリヤ、そしてパレスチナ地方、さらに小アジヤにまで進出しました。さらに後に、ギリシヤにまで遠征しました。あの有名な「マラソンの戦い」があったその遠征です。

 そして「北方」に向かいました。アルメニア、スキテヤなど黒海の付近の地域です。さらに「南方」にも向かいました。クロスの子カンビュセスによるエジプト遠征です。

 けれども「東方」には向かっていません。ですから、「西や、北や、南の方へ突き進んでいる」というのは歴史的にぴったりの表現なのです。まだバビロンのベルシャツァルが生きている時に行なった預言ですから、まだずっと先の話をこのように正確に伝えています。

8:5 私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角があった。

 これはギリシヤの預言です。7章のギリシヤは豹であり、しかも四つの翼を持つ豹でした。ここでは地に触れずに全土を飛び回っている雄やぎです。これは、驚異的な速度で当時知られた世界を征服した、ギリシヤ出身のアレキサンダー大王を預言しています。

 ここに「目と目の間に、著しく目だつ一本の角」とありますが、まさしくアレキサンダー大王の形容にぴったりです。彼の天才的な軍事指揮者としての才能が、敏速な遠征を可能にしました。

8:6 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激しく、これに走り寄った。8:7 見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折ったが、雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を雄やぎの手から救い出すものは、いなかった。

 これは、アレキサンダー大王がペルシヤのダリヨス三世と戦った時の模様です。かつてペルシヤはギリシヤに遠征してきましたから、その仕返しを込めて戦いました。小アジヤ西部で行なわれたグラニコス川での戦い、東南部で行なわれたイッススの戦い、そしてイラクにあるガウガメラの戦いです。これでついにダリヨス三世が倒れました。紀元前331年のことです。

8:8 この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。

 アレキサンダー大王は、30歳そこそこの若さで死にました。征服できる所はすべて征服したアレキサンダーは、バビロンの宮殿で酒に酔いしれました。それがきっかけで病に伏し死にました。「その強くなったときに、あの大きな角が折れた」との表現の通りです。

 そして、彼の息子はあまりにも幼少であり後継者になることはできませんでした。彼の死後、主導権を得るための戦いが続きましたが、ついに彼の四人の総督に分割されることになりました。西方のギリシヤとマケドニヤはカッサンドロスが、小アジヤとトラキアはリュシマコスが、そしてシリヤとバビロンはセレウコスが、最後にエジプト、アラビア、パレスチナ地方はプトレマイオスが引き継ぎました。

 後にエジプトのプトレマイオス朝とシリヤのセレウコス朝とが勢力を伸ばします。その二つの戦いはダニエル書11章で詳しく見ることができます。

2B 小さな角 9−14
8:9 そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。

 7章と同じく、高ぶる王たちから再び「小さな角」が出てきました。けれども、7章ではローマを指す第四の獣の、十本の角の間から出てきたのに対して、ここではギリシヤを示す四本の角の一本から、さらに一本の角として芽を出しています。異なる人物です。

 彼の名は「アンティオコス・エピファネス」です。セレウコス朝の八番目の王です。紀元前175年から164年まで統治していました。この人物が8章の他に11章にも現われます。そして8章と同じように、最後のほうで反キリスト本人に関わる預言に移ります。7章の「小さな角」は反キリスト本人ですが、8章、11章のアンティオコス・エピファネスは、反キリストの仕業を予め指し示すような「型」の働きをしています。

 彼の名前「エピファネス」の意味は「顕現」です。彼は自らを「セオス・エピファネス」と名のりました。「神の顕現」ということです。自らを高く引き上げ、自らが神になったことを宣言する反キリストを指し示すにふさわしい人物です。

 ところでアンティオコス・エピファネス、またその後に出てくるユダヤ人のマカバイ家についての記録は、プロテスタントの聖書では「外典」とされている「マカバイ記」にあります。旧約聖書はもちろん「マラキ書」で終わっていますが、このダニエル書によって新約時代にまでの歴史がつながっています。マラキが預言したのはペルシヤ時代ですが、ダニエルはペルシヤからギリシヤ、そしてギリシヤからローマに至るまでそこで起こることを預言しています。(そしてゼカリヤ書にも少し、ギリシヤとローマの預言があります。)

 けれども「マカバイ記」の第一、第二には、このダニエルの預言を確認するような歴史的な記録がたくさん載っています。確かにこの書物は神の霊感を受けていないものであり、外典にすべきものですが、それでも歴史的には貴重な史料です。お読みになることを勧めます。(外典付きの新共訳の聖書がキリスト教書店に売っています。)

 そして、「南と、東と、麗しい国に向かって」とありますが、彼はエジプトのプトレマイオスに何度か遠征を行なっています。そして東には、アルメニアやバビロンやの方に向かいました。そして「麗しい国」とありますが、これは一貫して「イスラエル」の地のことです。

8:10 それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、8:11 軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。

 この「天の軍勢」「星の軍勢」は何なのか、そして「軍勢の長」は誰なのかでありますが、まず、「星」と言えば黙示録9章や12章にあるように、天使を表しています。けれども、ここでは「軍勢の長」にまでのし上がった後に、常供の捧げ物が取り上げられた、聖所の基がくつがえされた、とあります 

 確かにアンティオコス・エピファネスは天の軍勢、天使らに対して高ぶったのですが、具体的には神を敬うユダヤ人たちに対して、そして神殿の祭司らに対して高ぶりました。神の聖なる民に対して挑みかかったということは、そのまま彼らを守っている天使らに対して挑んだのです。ダニエル書10章に、イスラエルの君としてミカエルが登場します。そしてここ8章そして9章でガブリエルがユダヤ人とエルサレムについて神からの託宣を受け、ダニエルに話しています。その他、律法は天使から与えられたものであることを聖書は教えていますし(使徒7:53等)、彼らには天使らが付いていたのです。

 そして神の聖なる民自身についても、聖書ではしばしば「星の輝き」に例えています。アブラハムに対して、子孫が数多くなることを「星」のように増えると言われました。そしてマタイ1343節には、星ではないですが「正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。」とイエス様が言われました。ダニエル書自体にも、123節で「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」と言っています。

 ですからアンティオコス・エピファネスは、ただ麗しい国イスラエルを物理的に荒らしただけではなく、彼らの信じる神の宗教を荒らしたという点で他の異邦人の王と異なるのです。雄羊であるペルシヤも、雄やぎの大きな角であるアレキサンダーも高ぶってはいましたが、ユダヤ人の神に対して挑みかかることはしませんでした。入ってはならない神の領域、つまり神を冒涜するところまで高ぶったのです。

8:12 軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。

 具体的にアンティオコス・エピファネスが行なったのは、次のことです。彼は、ユダヤ人を完全にギリシヤ化させようとしました。ユダヤ人の中でもヘレニズム文化を受け入れる者もいたため、この者たちを高く起用して、伝来のヘブル人としての信仰を破壊しようとしました。オニアス三世が大祭司でありましたが、エピファネスは彼の兄弟ヤソンを無理やり大祭司にしました。ヤソンは律法を捨てたギリシヤ化したユダヤ人だったのです。それで11節の、「軍勢の長にまでのしあがった」というのは大祭司の地位を自分のほしいままにした、だと解釈できます。

 そして、「常供のささげ物」が取り上げられたとありますが、これは日毎に青銅の祭壇の上で捧げなければいけないと神が命令された掟です。出エジプト記2938節以降にありますが、朝に夕に、それぞれ雄羊をささげなさいと命じられています。これをエピファネスは止めさせました。止めさせただけでなく、同じところにゼウス神の祭壇を造り、そして豚を捧げさせました。そして豚の血液を聖所中に撒き散らしたのです。それでここに「そむきの罪がささげられた」とあるのです。

 その他彼は、安息日を守る者、割礼を男の子に授ける者などを虐殺し、異教の祭りに強制的に参加させ、神に忠実なユダヤ人たちを徹底的に滅ぼし、さもなくは堕落させました。この「荒らす者のする背きの罪」というのが、後に「荒らす忌むべき者」という反キリストの称号となり、イエス様もオリーブ山で「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば(マタイ24:15」と言われたのです。

8:13 私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語っている者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう。」8:14 すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」

 ここで二人の「聖なる者」が会話をしています。おそらく天使でしょう。ダニエルに聞こえるようにわざと話しています。この荒らす者のする背きの罪は「2300の夕と朝が過ぎるまで」と答えています。これも驚くべき正確さで、歴史上で成就しました。

 エピファネスによる徹底的な迫害とギリシヤ化によって、反旗を翻したユダヤ人たちがいました。マカバイ家の人たちです。ユダ・マカバイの率いる軍がセレウコス軍を打ち負かし、ついにエルサレムからも追放し、紀元前165年の12月、汚された神殿を清め、再び神に奉献することができました。エピファネスも164年にメディナで狂気の沙汰になり死んでいます。その2300日前、紀元前171年の初めに正統な大祭司であるオニアス三世が殺害されて、ギリシヤに取り入る祭司職が始まりました。ですから2300日は成就しました。

 ところで、マカバイ家のユダが神殿を清めたその日を、「ハヌカー」としてユダヤ人は祝っています。清めるに当たって、燭台を灯すための油は特別な調合が必要であり、時間がかかりました。一日分の油を合成して作ったのですが、次の合成まで八日かかりました。けれどもその八日の間、灯火は奇跡的に消えることがなかったそうです。それでハヌカーには、八本の枝のある燭台を使って光を灯してお祝いします。

 実は新約聖書に、この祭りのことが一箇所言及されています。ヨハネ1022-23節です、新改訳ですと、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」とありますが、新共同訳には「神殿奉献記念祭」と訳されています。ハヌカーのことです。ですから時は今の12月の季節であり「冬であった」とあるのです。

2A 解き明かし 15−27
1B ガブリエルによる託宣 15−19
8:15 私、ダニエルは、この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願っていた。ちょうどそのとき、人間のように見える者が私の前に立った。8:16 私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っている人の声を聞いた。

 「ガブリエル」という名前が出てきました。彼は、イエス様の御降誕と、その前にバプテスマのヨハネの誕生を告げに来た御使いです(ルカ1章)。クリスマスの時に出てくるので聞いたことが多いかと思います。けれども彼は既にここダニエル書に現れています。イエス様がお生まれになる約550年前に、既にダニエルの幻の中に現れています。

 彼は9章における、七十週の期間についての預言もダニエルに伝えました。そこで彼はメシヤが六週と六十二週の後に断たれると告げました。つまりキリストの十字架です。したがって、彼は神の定められた時を告げるための御使い、特にメシヤの到来について告げる御使いであることが分かります。

 その他、彼のように高い地位に着いている御使いがいますが、「天使長」と呼ばれている者たちです。ダニエル書10章に出てきますが「ミカエル」がいますね。イスラエルのために戦う君です。ユダの手紙や黙示録にも出てきます。その他、ケルビムがいます。神の御座のすぐそばで礼拝を捧げている御使いです。さらにルシファーがいます。彼はケルビムの一人でしたが、堕落して後にサタンになりました。

8:17 彼は私の立っている所に来た。彼が来たとき、私は恐れて、ひれ伏した。すると彼は私に言った。「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである。」8:18 彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場に立ち上がらせ、8:19 そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。

 ガブリエルは、神の栄光を放っていたようです。ダニエルが恐れ、彼の声を聞いただけで意識を失ってしまいました。彼は再び意識を失う時があります。10章で、栄光のイエス・キリストご自身の姿に見えるからです。

 そしてガブリエルが伝えたのは、これが「終わりの時のこと」そして「終わりの憤りの時に起こること」であるということです。2章で、ネブカデネザルの夢を解き明かした時にダニエルが、それが「終わりの日に起こること(28節)」と言ったのと同じです。一連の夢や幻が、単に当時の世界に起こることを示しただけではなく、究極的に、この世界の終わりが来るときにどうなるかを示すものであったのです。

2B 終わりの憤りの時 20−27
8:20 あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディヤとぺルシヤの王である。8:21 毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王である。8:22 その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。しかし、第一の王のような勢力はない 

 先ほど説明したとおりです。メディヤ・ペルシヤをギリシヤが倒した後、その王アレキサンダーは夭折します。それから四人の総督に国が分割されます。

8:23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。

 「治世の終わりに」とありますがアンティオコス・エピファネスが死んだ後は、ギリシヤの力は弱まりローマがその地域に勢力を持ちました。そして「そむきが窮まる」とあります。11章で詳しく学びますが、プトレマイオス朝とセレウコス朝の王たちの戦いは裏切りと憎しみと高ぶりが錯綜したものでした。その確執が頂点に達した時にエピファネスが現れたのです。

 そしてエピファネスの特徴は「横柄」と「狡猾」です。非常に知性的で攻略と巧言によって地位を得ます。人々は、あからさまに横柄なことを言っている人に対しては騙されませんが、彼は巧言を使いました。今も同じではないでしょうか?話が上手な人が高い地位に着いています。既存の権威や権力を批判して、上手に人々の人気を集めます。けれども口だけなのです。

8:24 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。

 「彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。」とありますが、確かに彼の背後には悪魔が働いていたでしょう。

 そして、エピファネスは先ほど話しましましたように「あきれ果てるような破壊」を行ないました。ユダヤ人に対してだけではなく、他の国々に対しても行ないました。「有力者たちと聖徒の民を滅ぼす」とありますね。

 また、「事をなして成功」したとあります。先ほど話した巧言です。11章を読むと分かりますが、彼は多くの者と同盟を組みます。そして地位を高くした後に、その同盟を破棄します。けれどもすでに高い地位に着いているので、その違反を責めることはできません。責めたところで、反逆の罪で裁かれます。

8:25 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。

 「君の君」つまり、イエス・キリストご自身に対して立ち向かいます。そして「人手によらずに、彼は砕かれる」とありますが、エピファネスは誰に殺されることもなく気がおかしくなって死にました。

 このようにエピファネスの生涯に沿ってこの預言を読むことができます。しかし、「終わりの憤りの時」のことであるとガブリエルは言いました。23節から25節を読むにあたって、エピファネスの行なってきたこと以上に、その背後に働いている反キリストの霊がその正体を現していると読むと良いでしょう。

 預言書の中に、地上の王に対する宣告の中で途中から、その背後で働いている悪魔に対する預言に変わっているものがあります。例えば、イザヤ書のバビロンの王に対する預言です。14章で、バビロンの王が倒れたので自然界が喜んでいて、地上でのことが初めに語られています。けれども9節から陰府に下った王の姿が書かれています。そこにすでに陰府に下った王たちが集まってきて、「私たちと同じになったね。」と語りかけています。それからさらに12節以降、「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。」と明確に、地上の王ではない、天使に対する預言に変わっているのです。

 エゼキエル書にあるツロの君主に対する預言も同じです。28章にありますが、1節は「ツロの君主に言え。」という呼びかけがあり、12節には「ツロの王について哀歌を唱え」とあります。君主(prince)から王(king)に格上げされているのです。地上の王の背後に、その王を支配している究極の支配者の姿を浮き彫りにしているのです。それがケルビムの一人であり、彼はその美のゆえに堕落してしまったことが書かれています。これはもちろん悪魔の姿です。

 同じようにここでも、途中まで明確にアンティオコス・エピファネスについての預言であると理解できるのが、ガブリエルは最後に「彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。」「君の君に向かって立ち上がる。」「人手によらずに、彼は砕かれる。」と伝えています。確かにエピファネスの生涯でもそうだったと言えばそうであり、先にそのように説明しました。けれども、そのまま彼の生涯の描写としては大袈裟に聞こえます。

 それは、同じ手法で神が預言を与えてくださっているからです。実際の反キリストはローマから現われます。けれども、その人物の姿を前もってアンティオコス・エピファネスの行動の中に見出すことができます。彼を突き動かしていたのは悪魔であり、悪魔が自分の力と位と権威を全て与えたのが、終わりの日に現われる反キリストなのです(黙示13:2)。

 紀元後90年代に福音書、手紙、そして黙示録を書き記したヨハネは、第一の手紙の中でこう書きました。「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来るのを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。(1ヨハネ2:18」反キリストは一人なのです。初めの「反キリスト」は単数です。けれども矛盾するかのように、彼は「多くの反キリストが現われています。」と言っています。なぜなら反キリストの属性を覗かせるような言動を行なっている者たちがたくさんいたからです。この正体は「反キリストの霊」なのです。

 同じく第一の手紙の4章ですが、「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。(3節)」と明確に言いました。この霊は今でも働いているのです。ヨハネの時代から働いていました。パウロも「不法の秘密はすでに働いています。(2テサロニケ2:7」と言いました。けれども引き止めているものがあり、「自分が取り除かれるまで引き止めているのです。(同節)」と言っています。

 私たちの時代でも、「この人、反キリストじゃないの?」と疑ってしまうような人をたくさん見ることができます。何年も前から「この人物が反キリストだ」という憶測がたくさん出ています。けれども、それは当たっていて間違っています。なぜなら、既に不法の秘密は働いており、終わりの日の反キリストに似ている側面をいろいろな人物に見ることができるからです。けれども、その属性を見ることができても必ずしも反キリスト本人ではないからです。

 例えば、ヨハネはグノーシス主義の異端と戦って手紙を書きましたが、異端の指導者の中にそれを見出します。非常に高慢です。けれども狡猾で口が上手なので、多くの人が騙されます。そして既存のキリスト教会をものすごく批判します。権威と言われているものを否定したいからです。

 政治家の中にも見ます。口がうまく、従来の国のあり方は間違っていると批判し、表向き世界に平和をもたらすかのように話しますが、実際は平和ではなく戦争の危機に近づいています。

 また、キリスト教会の中にも見ることができます。イエス・キリストの福音が強調されず、自分の書いた著作にあるプログラムを実行することによって神の国を広げることができると教えます。そして国の指導者と会合を持ち、それによって世界に影響力をもたせようとします。でもその人が私は反キリストだとは思いません。けれども、このような霊の動きにもっと気をつけてほしいという危機感を抱いています。

 歴史上ではヒットラーが極めて反キリストに似ていました。何でもないところから彼は出現しました。そしてその演説によって大衆の支持を得ました。彼が言っているトンデモ言説は、知識人にはあまりにも滑稽で、単なる言説に過ぎないだろうと思っていました。けれども、反ユダヤ主義がヨーロッパに以前から蔓延しており、彼の最終計画を実行させるに至りました。そして世界は、文字通りに世界大戦の中に突入していました。ユダヤ人は迫害され、そして世界戦争です。教会の中に「今こそ、主が語られている終わりの日だ」と思った人は多くいました。似ていたからです。でも違いました。

 このようにして反キリストの霊は働いているのです。私たちは目を覚まして、祈っていなければいけません。そうしていれば、神の憤りの時にそれを免れることができるとイエス様は約束してくださっています(ルカ21:36)。「主が再臨されると言ってから、もう10年も、20年も経っているではないか。」と言う人たちがいます。気をつけてください、同じことを言って主の来臨をあざける人々がペテロ第二3章に出てきます。いつでも現われて不思議ではないのです。けれども、引き止める者がいて、かろうじて不法の人は出てきていないだけなのです。

8:26 先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」8:27 私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。

 ダニエルは悟りたいと願ったのにできませんでした。「病気になったまま」とありますが、天使ガブリエル本人が神の言葉を告げたので、その栄光と聖さに触れたからでしょう。そして「驚きすくんでいた」とあります。理由が「悟れなかった」からです。

 ダニエルはあと二回、幻を見ます。最後の幻は、最後の戦いについてのことであり、彼は再び意識を失ってしまいました。けれども、その幻を御使いが告げた後に決まって、「この幻を秘めておけ」とダニエルに命じています。「封じられているからだ(12:9」と言っています。こんなにもはっきりした、鮮やかな幻であるにも関わらず、それを知ることのできないというもどかしさと驚きが、ダニエルを満たしていたことでしょう。

 私たちは知らない者たちではありません。パウロは、「知らないでいてもらいたくありません。(1テサロニケ4:13等)」と何度か言いましたが、私たちは知らされている者です。それが新約時代の大きな恵みです。先代の預言者らが自分たちの受けた啓示を知りたいと思っていたのに分からずに、調べていました(1ペテロ1:1112)。そして黙示録では、ダニエルまた他の預言者らが書き記した、封じられた巻き物が完全に開かれた状態になって(黙示10:2)、それで「イエス・キリストの啓示(黙示1:1)」という言葉をもってヨハネは黙示録を書き始めています 

 私たちは既に知っているのですから、ますます確信をもって残る日々を生きましょう。世はダニエルが預言したようにますますなっていきます。けれども、ヨハネは「世に打ち勝った勝利(1ヨハネ5:4」と言いました。なぜなら、神の御子に対するはっきりとした確信を持っているからです。どんなに悪くなっても、私たちは打ち勝つ力がすでに与えられているのです。


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