終わりの時に生きるキリスト者 − ダニエル書の学び
第七回 霊と型 (8章)
以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。
私たちは、前回の学び7章において、反キリストが終わりの時に出現することを学びました。四つの獣がダニエルの幻の中に登場しました。そして、第四の獣は十本の角を持っており、その一本から小さな角が生え出て大きくなりますが、これが反キリストでした。彼は、全土を食いつくし、聖徒たちに戦いを挑み、神を冒涜する言葉を語ります。三年半の間、彼は暴れ狂いますが、再臨の主イエスによって、殺され、燃えるゲヘナに投げ込まれます。
8章では、雄羊と雄やぎの二頭の獣が出てきますが、それぞれ、メディヤ・ペルシヤとギリシヤを指しています。そして、ギリシヤである雄やぎから、一本の小さい角が生え出て、7章でも語られていた反キリストの活動を行なうことが預言されています。一方ではローマから出てきて、他方ではギリシヤから出てきています。この理由は、前者は、実際の反キリストの出現を預言しているのに対して、後者は、反キリストの出現を予め示す、同じような特徴を持つ人物が出て来ることを預言しているからです。実際に、古代ギリシヤ史は、ダニエルが預言した人物が登場したことを確認しています。その名は、「アンティオコス・エピファネス」です。
アンティオコス・エピファネス
ギリシヤを表している雄やぎは著しく目だつ一本の角がありましたが、これはアレキサンダー大王のことです。「著しく目だつ四本の角が生え出た」(8節)とありますが、アレキサンダーの死後、四人の総督にギリシヤが分割されました。マケドニヤ、小アジヤ、シリヤ(セレウコス)、エジプト(プトレマイオス)の四国です。
そして、「そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。」(9節)とあります。これが、セレウコス朝から出現した王、アンティオコス・エピファネスです。彼の名前の意味は「現神」です。まさにこの者が行なったことを言い表わしています。彼は南のエジプトに攻め入り、そして「麗しい国」イスラエルをも征服しました。「それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、軍勢の長にまでのし上がった。」(10−11節)とありますが、「星の軍勢」を聖徒たちと考えると、アンティオコス・エピファネスは、大祭司オニアスを殺して、大祭司の地位にまでのし上がったと解釈できます。
そして、「それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。」(11−12節)とあります。アンティオコス・エピファネスは、エルサレムの神殿の中に入り、豚を供え物としてささげました。律法によって豚は汚れた動物とされていましたから、これは公然と神を冒涜し、神殿を汚している行為に他なりません。けれども、この荒らす者のするそむきの罪は、「二千三百の夕と朝が過ぎるまで」であり、そのときに聖所がその権利を取り戻します(14節)。マカベヤ家の勇士たちがアンティオコスの軍に勇敢に戦い、打ち破りました。大祭司オニアスが殺されてから、きっかり2300日後、紀元前165年12月25日に彼らは神殿を奪還し、宮きよめをしました。それから、神殿奉献祭、すなわちハヌカーとして祝われることになりました(ヨハネ10:22参照)。
そして、この人物が行なうことについて、御使いガブリエルがダニエルに解き明かしますが、23節から25節までの描写をお読みください。ここは、アンティオコス・エピファネスが行なったこと以上に、終わりの日に現われる反キリストが行なうことに合致します(2テサロニケ2章、黙示録13章参照)。したがって、彼は反キリストを予め示す「型」であり、彼のうちに働いていた霊が、反キリストに宿ることになると言えます。
多くの反キリスト
私たちはとかく、「反キリスト」という言葉を聞くと、一人の人物に焦点を当ててしまいがちです。確かに、終わりの時にはひとりの人物として現われるのですが、霊としてはすでに働いていることを知る必要があります。「あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」(1ヨハネ2:18)ですから、過去にエピファネスが行なったことが再現される流れは、絶えず存在します。けれどもパウロは、「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」(2テサロニケ2:7)と言いました。聖霊を宿す教会が、反キリストの完全な現われを引き止めているのです。なぜなら、教会が、霊が神から来たものかどうかを試すことができる、地上における唯一の機関であり(1ヨハネ4:1−2)、クリスチャンは内に油(聖霊)をとどめているので、その見分けをすることができます(1ヨハネ2:27)。
ですから、ダニエル書で語られている終末預言は、私たちの生活にとっても身近な存在なのです。例えば、本紙にてかつて天皇制の論議がされていましたが、私は、アンティオコス・エピファネスを思い出していました。その名の意味「現神」が、天皇にも用いられていたからです。また、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義や、世界にある反イスラエルの潮流も報道されていますが、アンティオコスが麗しい国を踏みつけて、聖所を汚したことを思い出します。米同時多発テロ後話題になったイスラム教もまた、この視点で考えました。ヨハネは、イエスが人として来られたことを否定するのが反キリストと言いましたが、イスラム教ではイエスが「神の御子」であることを否定され、十字架でつけられた事実も否定されています。このように、キリストの御霊をいただいている者は、何が神から来て、また来ていないかを見分けることができます。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。」(1ヨハネ5:19−20)
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