終わりの時に生きるキリスト者 − ダニエル書の学び
第九回 七十週 A (9章)



以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。


 私たちは前回、七十週の期間の後にイスラエルが回復することについて学びました。イスラエルが霊的に救われて、イエスさまがエルサレムからイスラエルと全世界を統治し、また、新しく神殿が再建されます。


断たれるメシヤ

 七十週が開始されるのは、ユダヤ人たちがバビロンから引き揚げて、エルサレムを再建せよとの命令が出るときです(25節)。これは、ペルシヤのアルタシャスタ王がネヘミヤにエルサレムの町の城壁再建を許可することによって成就しましたが、それが紀元前445年のことです。

 そして、七週と六十二週、すなわち69週の後に、「油注がれた者(=メシヤ)は断たれ、彼には何も残らない。」(26節)とあります。メシヤが初めに来られるとき、彼は拒まれることが預言されていました。事実、69週すなわち483年後にメシヤが来られて、ちょうどその日に、イエスさまがろばの子に乗り、エルサレムに入城されました。そして、「やがて来るべき君主の民が町と聖所を破壊する。」(26節)とあります。「やがて来るべき君主」とは、ダニエル書7、8章に預言されている反キリストのことです。反キリストは、十本の角を持っている第四の獣から出てくるのですが、それはローマ帝国のことです。したがって、「やがて来るべき君主の民」とはローマ人のことであり、事実、紀元70年に、ティトゥス率いるローマ軍が、エルサレムの町を破壊して、その神殿も破壊しました。

 そして、「その終わりには洪水が起こり、その終わりには戦いが続いて、荒廃が定められている。」(26節)とあります。イエスさまはこの荒廃を「異邦人の時」と呼び、こう言われました。「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国々に連れて行かれ、異邦人の時が終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)実際に、エルサレムの町とイスラエルの地にはユダヤ人がおらず(少数いましたが)、さまざまな諸国の支配権の中で荒廃していました。


来たるべき君主

 ところが、27節に、「彼は一周の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。」とあります。いけにえとささげ物とをやめさせる、ということは、いけにえがささげられる神殿が存在していることになります。この預言が成就するためには、神殿が再建されていなければなりません。そして、神殿が再建されるということは、そこにユダヤ人の住民がおり、またイスラエルの国が建てられていることが前提になっています。したがって、イスラエルが1948年に建国されたことは、27節の預言が成就するための前提条件を満たす重要な出来事であったということができます。

 来るべき君主は、イスラエルの多くの者と契約を結ぶことになります。この契約締結によって、最後の第七十週が開始されます。しかし半週すなわち三年半後に、彼は一方的に契約を破棄して、いけにえとささげ物をやめさせ、かつてのアンティオコス・エピファネスと同じ、「荒らす忌むべきこと」を行ないます。自分が宮の中に入り、自らを神とします(第二テサロニケ2:4)。彼を神として拝まない者は、殺されます(黙示13:15)。そして、「定められた全滅が荒らす者の上にふりかかる。」(27節)とありますが、彼は、まことの君主であるイエス・キリストが戻って来られて、その御口の剣によって殺され、ゲヘナに投げ込まれるのです(黙示19:20)。

 このようにして、イスラエルの民とその都エルサレムに定められた七十週は、初め、イスラエルがメシヤを拒むことによって荒廃がもたらされ、偽りのメシヤを受け入れて大患難の中に陥り、それからイエスが再臨されてイスラエルが回復することによって、完結します。ユダヤ人が初めにまことのメシヤを受け入れないことによって偽のメシヤを受け入れますが、このことを主ご自身がお語りになったことがあります。「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」(ヨハネ5:43)現在、ユダヤ教指導者は、「イエスはメシヤではない。なぜなら、彼は自分を神の御子としたからだ。メシヤはモーセが『私のようなひとりの預言者』と言った人であり、人間でなければいけない。」と言います。そこで、「では、どのようにしてその人がメシヤであることを判別するのですか。」と尋ねますと、「神殿を再建するように導く人である。」との答えが返ってきます。イスラエルが、来るべき君主を受け入れる時が熟していると言えます。

 さらに、もう一つ、多くの者が反キリストと契約を結ぶであろうと考えられる兆候としては、彼らの平和への希求があります。イスラエルの軍事行動が強硬であるとの非難を多くの人が行ないますが、私は逆に、なぜこんなに控えめな行動しか取らないのだろうかという驚きを抱いています。周辺イスラム諸国やパレスチナ指導者らの言動から、彼らが、イスラエルとユダヤ人を抹殺することしか考えていないことが分かりますが、このことを知りながら、ラビン元首相は、アラファト議長とオスロ合意を結びました。そしてイスラエル人の大半は、現在のような連続的な自爆テロを受けているにも関わらず、パレスチナ人との二民族、二国共存を願っています。したがって、反キリストが、パレスチナとの和平を政治的に可能にさせる案を持ち出してくるときに、大半のイスラエル人がそれを受け入れることは、十分考えられることです。


今は終わりの時

 ところで、六十九週と最後の一週との間がすでに二千年近く経っているのですが、それは、新約聖書において、「キリストの奥義」(エペソ3:4)である教会が誕生したからです。キリストが現われた時からすでに「終わりの時」は開始されています(ヘブル1:2)。人間の歴史は、預言的には「終わりの時」という永遠の空間の中に固定されていると言えます(第二ペテロ3:8)。使徒たちや初代教会のクリスチャンと同じように、現代の私たちも聖書の時代に生きています。「聖書に書かれていることを文字通りに受け入れることは、おかしい。」という風潮がキリスト教界の中にありますが、歴史は、聖書時代から脱皮して新しい時代に発展したのでもなく、また、人類がかつてよりも進歩したのでもありません。私たちは、変わらない神のことばを握りしめて生きるべきです。


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