終わりの時に生きるキリスト者 − ダニエル書の学び
第八回 七十週 @ (九章)



以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。


 私たちの学びは、反キリストが終わりの時に出現し、その前座として、ギリシヤ国にアンティオコス・エピファネスが現われたところまで来ました。彼は、麗しい国イスラエルを踏み荒らし、大祭司を殺して、聖所に豚を供えました。しかし、彼は滅びました。その生涯は、将来の反キリストの行動を予表するものとなりました。

 そして九章に入ります。時はすでに、バビロン国が滅び、メディヤのダリヨスが王となっていました。ダニエルは、エレミヤの預言書を読み、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを知りました。つまり、間もなく、捕囚のイスラエルの民が帰還できるということです。そこで彼は祈りました。イスラエルの民が罪を犯して、それゆえ神が彼らをさばかれたことを認め、告白しました。そして、エルサレムの町が荒廃して、民が周りの国々のそしりとなっていることを申し上げ、「そこは、あなたの名がつけられていますから、どうか、御顔の光をあなたの聖所に輝かせてください。」と祈りました。


イスラエルとエルサレムの回復

 すると、御使いガブリエルが彼のところにやって来ました。ガブリエルは、彼の祈りが神に聞かれたことを伝えました。そしてこう言いました。「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」(24節)イスラエルの民と、聖なる都エルサレムには、七十週が定められています。エレミヤの預言において、エルサレムの荒廃が七十年であることが預言されていましたが、神はその回復のために、七年の七十回分、すなわち490年という期間を定めてくださいました。(「週」は七年を意味します。)

 この期間によって神が行なってくださることは、主に二つあります。一つは、「イスラエルの罪をやめさせ、咎が贖われる」ことです。イスラエルが神の御声に聞き従わなかったことをダニエルは告白しましたが、主がその祈りに答えてくださいます。そしてもう一つは、「神の御国を立てる」ことです。永遠の義、預言の確証、至聖所の油注ぎはみな、神の国において実現します。

 「そむきと罪をやめさせる」のは、主イエス・キリストが地上に戻ってくる再臨の時に起こります。ゼカリヤがこう預言しました。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(12:10)エルサレムに世界中の国々が攻めて来ます。イスラエル人たちは、自分たちの力が尽き果て、メシヤを求めるようになります。彼らが絶滅の危機に瀕しているときに、天からメシヤが来てくださいます。しかし、彼らが見るのは、自分たちの先祖が以前十字架につけて殺した、あのナザレ人イエスでした。そして、彼らは、自分たちが初めにイエスを受け入れなかった愚かさを嘆き悲しみ、悔い改めます。そして、御霊による罪のきよめを受けます。パウロは、このことを思ってこう言いました。「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。』」(ローマ11:26)

 そして、「神の御国が立てられる」ことは、再臨されたイエス・キリストが、エルサレムからイスラエルと世界を統治されることによって実現します。永遠の義については、エレミヤがこう預言しました。「その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」(23:5-6)そして、至聖所に油を注ぐことについては、エゼキエル書四十章以降に、エルサレムに神殿が建てられることが詳細に預言されています。預言と幻の確証については、神が初めにアブラハムに約束されて以来、延々と預言されてきたイスラエルについての事柄は、再臨の主によってすべて成就します。


現在のイスラエル

 イスラエルの民とエルサレムの町に七十週が定められていましたが、現在の状態を見ると、この期間がまだ完結していないことを知ります。70週が過ぎれば、そむきと罪がやみますが、多くのユダヤ人は福音を信じておらず、依然として罪の中にとどまっています。そして、エルサレムの町は、永遠の義とはほど遠い、紛争と対立が起こっています。

 イスラエルとパレスチナの対立は、現在ますます混迷化しており、解決の糸口はないように見えます。先日、エルサレム市内と近郊に住む子供たちにインタビューした映画の試写会に行ってきました。彼らの口から出た言葉を聞くと、人間的な解決は何一つないことを感じました。あまりにも相容れないことを双方が話しているからです。

 世界中の人々は、この地域に対して何らかの解決が与えられてほしいという強く願っています。そこで、イスラエルが軍事的に強者であるから、彼らに非があると言う人たちがいます。解決策として、国連軍が進出すべきとの主張まであります。イスラエル自身も、平和に暮らしたいと心底願っているのにも関わらず、物事が反対の方向に動くので疲れ切っています。しかし、これら解決への思い入れや平和への希求が強ければそれだけ、反対に、世界に荒廃をもたらす反キリストを受け入れる素地を作ってしまっています。

 その理由は、「キリストこそ私たちの平和である」(エペソ2:14)という真理を否んでいるからです。世界平和は、平和の君であるキリストが地上を支配されないかぎり決して訪れません。キリストを通さない平和は、すべて偽物です。私たちの救いが、努力や行ないによらず、キリストの十字架と復活のみわざによるのと同じように、世界は、キリストにある神の一方的な介入によって救われるのです。主は言われました。「だから、こう祈りなさい。『・・・御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』」(マタイ6:9-10)御国を待ち望みましょう。そして、周囲の人々に、キリストにこそ希望があることを証ししていきましょう。

 次回は、七十週という期間に、何が起こり、どのような進展があるのかを眺めてみたいと思います。


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