申命記12−15章 「主の前の祝宴」

アウトライン

1A 主の選ぶ場所 12
   1B 御名を住まわせる場所 1−14
   2B 血を抜いて食べる肉 15−28
   3B 神々への好奇心 29−32
2A そそのかす者たち 13
   1B 偽預言者 1−5
   2B 近親者 6−11
   3B 町の住民の迷い 12−18
3A 主の聖なる民 14
   1B 死人への儀式 1−2
   2B 食べ物 3−21
   3B 十分の一 22−29
4A 財産の手放し 15
   1B 負債の免除 1−11
   2B 奴隷解放 12−18
   3B 初子のいけにえ 19−23 

本文

 申命記12章を開いてください。前回の学びで私たちは、主が私たちが神を忘れてしまう危険について、その教訓を与えられました。荒野での苦しみを思い起こさせ、約束の地で富んでも高慢になり、自分の力によって富を得たと言わないようにすること。そして異邦の民を追い出すけれども、自分が正しいから追い出しているのでは決してないこと。むしろ、彼らはうなじのこわい民であったことを思い起こさせました。主の命令に従うとは、主の前にへりくだることに他なりません。

 そして12章から26章までの長い箇所で、主の命令の具体的な適用が始まります。今日は15章まで読んでみたいと思います。

1A 主の選ぶ場所 12
1B 御名を住まわせる場所 1−14
12:1 これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。12:2 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。12:3 彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。12:4 あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。12:5 ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。12:6 あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。12:7 その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

 モーセは具体的な戒めを語るのに初めに教えたのは、礼拝そのものです。カナン人が偶像崇拝をしているところは破壊し、そして主が選ばれた一つの場所でいけにえを捧げるよう命じておられます。ここで大事なのは、「偶像礼拝の特徴は、それぞれ自分が欲するところで自分の神々を拝んでいた」ということです。けれどもまことの生ける神をあがめる時にはそうではない、イスラエル全十二部族が、一つになって主をあがめるのだ、ということです。

 カナン人が拝んでいたところは、高い山の上、丘の上があります。そこが天に近いところとみなされていたからです。そして青々と茂った木の下は生命力を表していました。そこで行なっていたのは、石の柱とありますが、おそらくは男性の性器をかたどったもの、繁殖を祈願したものであったと考えられます。アシェラ像はバアル神の配偶者と考えられ、彼女も豊穣の女神でした。そこでカナン人は忌まわしい不品行にふけっていたのです。

 したがって、いろいろなところで宗教行為を行うというのは、自分の欲するままで行うことができることを表しています。これが偶像礼拝です。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5」そしてその反対に一つの所で集まることは、まことの神をあがめることにつながります。教会は私たちが一つになるようにする所であります。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12:13

 なぜ一つに集まると、まことの神をあがめるようになるのでしょうか?そこにはへりくだりが求められるからです。忍耐が求められるからです。御霊の一致を保つ時には、自分ではなく他者を尊び、そしてキリストを求めることができるからです。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2-3」もし自分自身を求めたら、そこにキリストはおられなくなります。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:21」ですから、私たちは一つの所に集まることによって一致を知り、一致を知ることによってキリストをキリストとしてあがめることができます。

 そしてモーセは12章から15節にかけて、主への捧げ物による祝福を繰り返しています。家族が共に自分たちが主に捧げた物をもって祝宴を開き、そして自分たちの手のわざを喜び楽しみます。私たちは、自分たちが与えて自分たちが貧しくなるのだ、という「ど根性」的な感覚で礼拝を捧げてはいけません。そうではなく、与えればそれだけ自分も与えられるのです。捧げることによって自分自身が豊かにされるのです。

12:8 あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。12:9 あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。12:10 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、12:11 あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。12:12 あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。12:13 全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。12:14 ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

 モーセは、主の御名が置かれるところ、選ばれる場所でいけにえを捧げることを再度、戒めています。荒野においても、会見の天幕にいけにえを携えてゆき、そこで家畜をほふることが命じられていましたが、結構、いい加減になっていたようです。それをモーセは、「おのおの自分の正しいと見ることを何でもしている」と言いました。

 私たちの目には正しく見えることがあります。個人の部屋でインターネットを使って説教を聞き、自分で賛美を歌えばそれが礼拝ではないか、なぜわざわざ足を運んで教会の礼拝に集わなければいけないのか、同じように主のご臨在を感じることができるのに、というようなことを言うのであれば、それは自分の感覚ではそうかもしれないけれども、主から来た感覚ではありません。もちろん、私たちは個々人でデボーションの時を持ち、個人が主をあがめ、礼拝をすることができます。けれどもダビデは詩篇の中で、サウルからの逃亡生活の中で、主の民とともに賛美することを求めて、魂があえいでいることを言いました(42:4参照)。民と共に主を賛美するところにある神の臨在に彼は飢え渇いていたのです。

 具体的にイスラエルの歴史において、主が選ばれた場所は変遷しました。ヨシュア記においては、ヨルダン川を渡ったギルガルに神の箱が安置されました。それから土地を征服して「シロ」に移しました。けれどもペリシテ人との戦いで神の箱を持ち出したため、ペリシテ人に奪われてしまい、しばらくペリシテ人の手に渡りました。けれども戻ってきて、しばらくキルヤテ・エアリムにありましたが、ダビデがそこからエルサレムに移し、それからはずっとエルサレムが礼拝の所となりました。

 ここの箇所では家族のみならず、奴隷も含めて主の前で喜び楽しみなさいと命じています。教会は第一に神の家族のためのものです。定期的に礼拝に出席し、ここが自分の教会だと思っている人々のためのものです。けれども、常にその恵みを他の人々に分け与えなければいけません。つまり、キリストの愛に満たされたのであれば、新しく来る方々、周囲におられる人々を暖かく受け入れ、迎え入れ、そして神の恵みを分かち合います。

 そしてもう一つ大切なのは、レビ人をないがしろにしないことです。彼らは主に近づくためにイスラエルの民の仲介の務めを果たします。彼らの生活の必要を満たさなければいけません。御言葉と祈りの奉仕に専念する福音の働き人を、物質をもっても尊敬しなさいというのが新約聖書における教えです。それがないというのは、自分自身が主への礼拝をおろそかにしていることにつながります。

2B 血を抜いて食べる肉 15−28
12:15 しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。12:16 ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。12:17 あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。12:18 ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。12:19 あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。

 これは新しい戒めです。荒野の旅をしている時はイスラエルの民は、すべての肉を祭壇のところに携えて、火による捧げ物として捧げ、そしてその肉を食べるように命じられていました。けれども、約束の地においては主が豊かに肉をも与えてくださり、たくさんあります。礼拝のためでなければ、それらを自分たちの住んでいる所で屠って食べてよいと主は言われます。

 けれども、礼拝のためのいけにえの肉は、その礼拝のところで食べなさいということです。礼拝をして、そして食物を通して互いに交わりなさいということです。私たち教会が、自らが捧げた物によって互いに交わる必要があります。私たちは献金を「取られる税金」のように考えてはいけません。むしろ神の恵みにあずかり、互いに交わるためのものなのだ、ということです。主にあって共に使うことのできる財産です。

12:20 あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。12:21 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。12:22 かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。12:23 ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。12:24 血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。12:25 血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。12:26 ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。12:27 あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。12:28 気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。

 これまでの荒野の旅とは異なり、広大な土地にイスラエルの民は住みます。幕屋や神殿があるところに行くには何日もかけなければいけない人々も出て来ます。ゆえに、食べたいものはそこで食べることができます。

 けれども、血を食べてはいけないことが強く戒められています。23節に、「血はいのちだからである」とあります。血を食べないことによって、それは命を自分は奪うことができない、それは神のみに属するものであり、神聖なものであることを表しています。ゆえに祭壇においては、そこに血が注ぎだされるのです。極めて尊い命が、自分の身代わりになって注ぎだされたことを、流された血は表しています。

 これを私たちに当てはめるなら、互いにキリストにあって一人ひとりの命を大切にする、ということでしょう。相手をキリストにあって配慮し、祈り、仕え、キリストがその人にために死なれたことを認めることです。そしてもう一つは、決して罪を軽々しく思わないということでしょう。そのために、尊い血潮が流されました。神の御子の血潮が流されました。

3B 神々への好奇心 29−32
12:29 あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、12:30 よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。12:31 あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。

 いわゆる「好奇心」の罠です。今まで自分は目にしたことがないものなので、いったいどういうものなのかが気になります。けれども、カナン人がそれらの儀式によって行なっている恐ろしいことを神は明らかにしておられます。息子、娘をいけにえに捧げているのです。私たちキリスト者も悪に対する好奇心が戒められています。「私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。(ローマ16:19」知らなくて良いのです。

2A そそのかす者たち 13
 こうしてモーセは、十戒の「わたしの前に神々があってはならない」「偶像を造ってはならない」の二つの戒め、主への礼拝に焦点を当てて話しましたが、13章も同じです。今度は、それら神々に仕えるようそそのかす者たち、イスラエルの民を迷わせる者たちに対する死刑を命じています。

1B 偽預言者 1−5
13:1 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、13:2 あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、13:3 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。13:4 あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。13:5 その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

 偽預言者が現われることの警告です。彼らに対して警戒が必要なのは、「しるしと不思議」を行なうからです。目に見えるものが見せつけられると、「その力はどこから来ているのだろう」と思うのは当然です。自分が見るには、それは神からのものだと思います。けれども、それでも主を恐れて、主の命令を守ることを優先させることが必要です。

 偽預言者を見分けるための方法は「実を見る」ことです。彼らは「他の神々に仕えよう」とそそのかします。イエス様も警告されました。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:15-20」とどのつまり、どこに導くのか、何を求めているのかを見分けるのです。

 以前、アメリカでエホバの証人の人たちが家に来ました。私はいろいろ質問をしました。「あなたはイエスを神の御子であると信じていますか。」そうしたら、「もちろんです、神の子であると信じていますよ。」いろいろと神学的、教理的な質問に対してニコニコしながら即答していました。私は質問を変えました。「あなたは本当にクリスチャンなんですか?」気分を害したようです、「何を言っているのですか、私はきちんと教会に通っています。私の両親は監督派の教会員です。」私は答えました、「教会に行くことが、あなたをクリスチャンにするのではありません。教会に通っても救われません。」ものすごく怒って出て行ってしまいました。彼女たちは羊のなりをしています。あたかも聖書の教師のように見えます。けれども、救いについての基本さえ知らないのです。

 イエス様は、終わりの日においてイスラエルの残された民に、偽預言者が現われることを警告しておられます。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:23-24」反キリストも自分がよみがえるようなことをして、それで全世界の民が彼をメシヤだとあがめます(黙示13:34)。私たちは、単に目覚しい徴があるからといって、それに飛びついてはいけません。専ら主の御言葉によって吟味するのです。

 興味深いのは使徒ペテロが、ここの律法によって誘導尋問を受けたことがあることです。生まれつき足のきかない男をイエス様の名によって立たせたペテロまたヨハネは、ユダヤ人に捕らえられて議会に立たせられました。そして祭司らはこう問い質しました。「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。(使徒4:7」ペテロは何のことか分かっていたことでしょう、不思議を行なったけれども、他の神々に仕えるようにそそのかす偽預言者に仕立て上げようとしていることを気づいていたと思います。けれども、彼は臆することなくこう答えました。「私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(9-10節)」そして、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(12節)」と思いっきり答えました!ペテロは罰せられることを、全然恐れることなく大胆に伝えました。

2B 近親者 6−11
13:6 あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、13:7 地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。13:8 あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。13:9 必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。13:10 彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。13:11 イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。

 これは苦渋の決断になります。自分の身近な人から偽預言者が出てきたら、どうするのか?ということです。聞き入ってはならず、むしろ自分の手で彼を殺さなければいけません。イエス様は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37」と言われました。主に対する愛が、家族や愛する友人に対する愛よりも勝っていなければいけないのです。

 ある日本人の宣教師の話を読んだことがあります。南太平洋の島での働きをしていましたが、その宣教師の奥様を島の一人の男が陵辱しようとしたとのことです。その村は宣教師夫婦が福音を語り、そのほとんどが信仰を持っていたところでの出来事でした。その男を彼らの前に出すように宣教師は促しました。ところが出さなかったのです。キリストの命令よりも、村の共同体を守ることを優先してしまいました。宣教師は別れる時に、「最後の審判の時にこのことは明らかにされます。」と告げた、と記憶しています。人間関係を神との関係より優先させてはいけません。

3B 町の住民の迷い 12−18
13:12 もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、13:13 よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、13:14 あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、13:15 あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。13:16 そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。13:17 この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。13:18 あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。

 イスラエルの共同体における偶像礼拝は、ちょうど伝染病のようなものです。そそのかす者によって一つの町全体が迷ってしまったのであれば、よく調べて、その通りなのかどうか問い質した後、その通りであれば聖絶する必要があります。民の他の者たちが同じように滅ぼされず、生きて増えるためです。

 そして、異邦の民の町をイスラエルの民が聖絶するように命じられているのと同じように、絶ち滅ぼさなければいけません。ここでも先ほどと同じ原則、「たとえ同胞の者であっても、神との関係を優先させる」が働いています。

3A 主の聖なる民 14
1B 死人への儀式 1−2
14:1 あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。14:2 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

 14章は、イスラエルの民が周囲の異邦の民とは異なる、主のために聖別された民であることを強調しています。異教の慣わしを真似しないようにモーセは戒めています。身に傷をつけること、額を剃り上げることは、死者への儀式として周囲の民が行っていたことです。けれども、それを行なわないことによって主に属する民であることを表しなさい、と命じています。モーセは、「あなたがたは、主の子どもである」「あなたがたを選んでご自分の宝の民とされた」と強調していますが、主は私たちが自分の身を傷つけるようなことを決して願われません。

 私たちは、死者の葬儀について、まさにイスラエルの民と同じ慣わしに取り囲まれています。それは、死者を葬るのではなく、死者に対して礼拝行為をする、ということです。仏式においては、死者の霊がそこにあるとみなして、その霊に仕えることが中心になっています。香を焚くことはもちろんのこと、遺影の前でお辞儀をすることも、棺おけに花を飾ることも、すべてが死者の霊に仕えていることです。ですから、例え私たちがそのつもりがなく行なっていたとしても、その慣わしに関わることはまさに、私たちが主にのみ属している聖なる民であることを否定することに他なりません。

 エルサレムに行った時に、正統派ユダヤ教徒の人から、なぜ神殿の入口が東から入るようになっているのかについての説明を受けました。東の門から入れば、礼拝者は西を向きます。それは当時の異邦の民の礼拝とは正反対の方向でした。異教では、太陽を神として拝んでいたので、必ず日の出の方向、東を向いていたのです。それにあえて背を向けることによって、自分はまことの神をあがめていることを身をもって表していました。私たちは異教の中で、キリスト者としての信仰をはっきりと行動によって示す必要があります。

2B 食べ物 3−21
14:3 あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。14:4 あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、14:5 鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。14:6 および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。14:7 反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。14:8 豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。

 食物規定です。もう既にレビ記11章で、私たちは詳しくこの規定にある霊的意義を学びました。モーセはここでは、詳しく話すのではなくて、あくまでもイスラエルの民が神に聖別された者たちであり、食べ物においてもその区別をしなければいけないことを教えています。食事という、毎日のことで他の民と異なるものを食べることによって、彼らは異なる民族なのだということを示していました。

 事実、この食物規定によってユダヤ人は異邦人と交わることなく、ユダヤ性を保ってきたと言うことができるかもしれません。むろん、キリストにあってその隔ての壁は壊されました。パウロは、アンティオケで、異邦人と食事を共にしていたペテロが、エルサレムからのユダヤ人たちが来たときに、いつの間にか席を離れていたことに対して責めました。ですから、キリストにあるユダヤ人はこの規定を守らなくて良くなったのですが、それでも神は主権の中でユダヤ人を、食事を通して他の民から引き離し、今もユダヤ民族が埋没せず、存在していることは確かです。

 ここの箇所では、陸上動物についての教えです。ひづめが分かれ、かつ反芻する動物だけを食べることができます。

14:9 すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。14:10 ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。

 水中の動物についての教えです。ひれとうろこのあるものだけですから、貝類やイカやタコなどは食べられません。

14:11 すべて、きよい鳥は食べることができる。14:12 食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、14:13 黒とび、はやぶさ、とびの類、14:14 烏の類全部、14:15 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、14:16 ふくろう、みみずく、白ふくろう、14:17 ペリカン、野がん、う、14:18 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。

 鳥類ですが、猛禽類を中心として食べてはいけません。

14:19 羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。14:20 羽のあるきよいものはどれも食べることができる。

 昆虫類のことですが、レビ記11章には詳しく説明があります。飛び跳ねる脚のある昆虫は食べてよいのです。いなごをバプテスマのヨハネは食べていましたね。

14:21 あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。子やぎをその母の乳で煮てはならない。

 死んだものは、罪から来るものを表していました。ゆえに、イスラエル人は食べてはいけません。興味深いのは、他の在留異国人は食べてよいし、外国人に売りなさいと命じているところです。主の子供であるから、してはいけないことがあります。例えば下品な冗談があります。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。(エペソ5:3-4」周囲の人は当たり前にしているかもしれないのですが、主の民は関わらないのです。

 そして「子やぎを母の乳で煮てはならない」というのは、おそらくカナン人の宗教の慣わしでこれが行なわれていたと考えられます。主は、いけにえの動物にでさえ憐れみの心を示しておられます。親子を同時に料理するという残虐性を避けさせています。

3B 十分の一 22−29
14:22 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。14:23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。14:24 もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、14:25 あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。14:26 あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。14:27 あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。

 十分の一の教えです。約束の地において、遠くに住んでいる人がどのようにして主に捧げるのかという、新しい課題に対して答えています。家畜を売った金を手に巻きつけて、そして現地で購入しなさい、というものです。私たちが、そのような形で献金の時にお金を分けているでしょうか?「この額は主に対して捧げるものであるから、自分のために使ってはならない。」という、はっきりとした区別をしているでしょうか?パウロはコリントの教会に人たちにこう言いました。「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリント16:2」思い出したかのように、急にその場で慌てて用意するのではなく、前もって用意するのです。収入に応じて、手元に貯えておきます。

 ところで、この掟でさえも人の欲望にために利用されていたことを思い出せますか?イエス様が宮清めをされた理由の一つが、牛や羊を追い出したことがあります。それは、彼らがこの律法によって神殿のところに家畜を用意していたのですが、べらぼうに高い値段で売りつけていたのです。

 そしてここでも先ほどと同じように、主に捧げたものを自分たちの家族やレビ人が共に喜んで食べることを教えています。主に捧げるものは、結局は自分のものになります。主と自分が分かち合う、交わりになるのです。教会の礼拝における献金も同じです。献金を捧げたら、自分の知らない用途、自分とは関わりのない用途に使われていると決して思わないでください。むしろ、自分自身もその恩恵をたくさん受けるべきなのです。初代教会は、全財産を売ってそれを一つのところに集めていました。全て捧げたと偽ったアナニヤに対して、ペテロは、「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。(使徒5:4」と言いました。財産を売ることは、自分と他の教会の仲間とを一つにつなぐための手段に過ぎなかったのです。

14:28 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。14:29 あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

 三年毎に、特別な什一がありました。町囲みのうちに、収穫物を置いておきます。それは貧しい人、生活基盤がないレビ人のために与えるものです。つまり、献金には礼拝をすることの目的だけでなく、貧しい人に対する施しという側面もあります。

 そして大事なのは祝福の約束です。「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるため」とあります。次の章15章に、この言い回しが繰り返して出て来ます。与えることによって、かえって祝福を受けるのです。この世は、「受け取ることによって、豊かになる」と教えます。けれども神は、「与えなさい。そうすれば受けます。」と教えられます。

4A 財産の手放し 15
1B 負債の免除 1−11
15:1 七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。15:2 その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。15:3 外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。15:4 そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。15:5 ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。15:6 あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。

 覚えているでしょうか、レビ記の土地についての掟において、「安息年」というものがありました。土地を一年間休ませる掟です。その時に、負債の免除もします。これは大きな決断です。外国人からは取り立てても良いですが、兄弟の間ではそうであってはいけません。

 教会においては、「愛以外において借りがあってはならない」というパウロが言った言葉があります。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。(ローマ13:8」私たちが貸し借りをするときに必ず生じるのが、従属関係です。借りている者が貸している者に従属することになります。そうすると、そこではキリストにあって一つであるという、麗しい神の働きを壊すことになります。ゆえに、貸し借りを教会では奨励されていないのです。

 そして聖書では、借金をすることを「罪を犯す」ことの例えとして使われています。そして罪を赦すことを借金の帳消しにしています。ゆえに、借りをつくるということは罪が赦されていない状態を表すことにもなっているので、ここでは兄弟に対する負債の免除を教えているのです。

 貸した者はそれを返してもらうのは当然の権利です。けれどもそれを放棄するところに、霊的豊かさがあります。愛に満ちています。私たちはそれぞれの権利を主張することもできるのですが、愛するというのは、それをあえて捨てると言い換えることもできるでしょう。相手に対して怒って、見捨てるという権利も持っているのかもしれませんが、それでも愛するがゆえにそうしない、という選択もあるのです。

 そしてイスラエルには、とてつもない大きな祝福の約束がともなっています。「あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。」取ること、奪うことばかりを考えている国にとっては、到底このことが理解不能でしょうが、神の与えておられる原理はこうなのです。アメリカという国は、最も他の国々に無償供与をしている国でありますが、貸すことはしても借りることはない、他の国を支配することはあっても、支配されることはない国として有名でした。(今は、クリスチャンの原則から離れてしまっているので、貸す国ではなく借りる国になってしまっていますが・・・。)

15:7 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。15:8 進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。15:9 あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた。」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。15:10 必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。15:11 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

 与えるときには、どうしても素直になれない誘惑があります。与えるのを惜しむ、または与えても未練を持っている、ということです。パウロは、コリントにある教会に対してこう励ましました。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(2コリント9:6-7」喜んで与える人、惜しみなく与える人が神に愛されます。

2B 奴隷解放 12−18
 負債の免除の次は、奴隷解放です。

15:12 もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。15:13 彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。15:14 必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。15:15 あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。15:16 その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、15:17 あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。15:18 彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、主は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる。

 この掟もすでに出エジプト記21章にて、主が十戒を与えられ、その後にさばきつかさのための定めとして与えられたものとして初めに主が与えられたものです。けれども、ここ申命記で強調されているのは、「自由の身にするときは、何も持たせず去らせてはならない」というところです。七年目に無償で自由にすること自体、当時の奴隷社会では考えられないことでしたが、さらに彼に当面生きていくことのできるものを与えるのです。そしてその根拠として、18節に「雇い人の賃金の二倍分仕えたからである」とあります。奴隷ですから確かに生活費をあてがっていたのですが、それでも雇い人よりははるかに低い費用で働かせることができました。このように、人を人とみなしている、奴隷であってもその人権が認めています。

 そしてもう一つ、自ら望む奴隷は一生涯、主人の奴隷となることもできます。これは、まさに私たちキリスト者の姿であり、特に主に仕える奉仕者の姿です。パウロは自分のことを、「イエス・キリストのしもべ(ローマ1:1」と言いました。「しもべ」という訳よりも「奴隷」のほうが適切でしょう、ローマ時代の奴隷を表している言葉だからです。けれども、それは強いられてではなく、自らイエス・キリストのゆえに奴隷となっている姿です。

 そして先ほどから何度も、「あなたを祝福してくださる」という約束があります。主が、約束の地で彼らを本当に祝福したいと願われていることが伝わってきます。礼拝においても、また十分の一においても、そして負債の免除や奴隷解放においても、みなそれは彼らが祝福されるための一貫であります。

3B 初子のいけにえ 19−23
15:19 あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。15:20 主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。15:21 もし、それに欠陥があれば、足なえか盲目など、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない。15:22 あなたの町囲みのうちでそれを食べなければならない。汚れた人もきよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。15:23 ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。

 最後は初子をささげることについての教えです。必ず、それが欠陥のあるものでなければ、主に捧げます。「牛の初子を使って働いてはならない」という戒めがありますが、人間の世界でも農家において一番上の息子はもっとも貴重な人材です。けれども、それを主に対して手放す必要があるのです。

 ですから、貸しているお金においても、奴隷においても、家畜という財産においても、「手放す」という行為を行います。すべてが主のものであるという認識から、自分のものにしているものを手放すのです。当然の権利を捨てるのです。これができるのは、もっぱらその人が自ら進んで、自分自身を捧げる時であります。主は私たちを祝福したいと願われています。捧げる人には、ご自分の前における祝宴を用意してくださっています。

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