申命記14−16章 「主の聖なる民」

アウトライン

1A 食物において 14
   1B きよい動物と汚れた動物 1−21
   2B 収穫の十分の一 22−29
2A 慈善において 15
   1B 負債の免除 1−11
   2B 奴隷の解放 12−18
   3B 初子のささげ物 19−23
3A 祭りにおいて 16
   1B 例年の祭り 1−17
   2B さばきつかさ 18−22

本文 

 申命記14章を開いてください。今日は、14章から16章までを学びます。ここでのテーマは、「主の聖なる民」です。

 前回私たちは、「主にとって正しいこと」というメッセージ題で、12−13章を学びました。5章から11章までは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という命令にあるように、主と私たちとの間の、愛の契約について書かれていました。12章から26章までは、その一般原則を貫くために、具体的にどのような生活をしていなかえればいけないか、その細部について書かれています。そして、12章には、選ばれた場所で礼拝をささげることが書かれていました。主を愛する彼らは主を礼拝するときは、自分の好きなところで礼拝するのではなく、御名が置かれている一つの場所のみで礼拝をささげます。そして13章には、彼らは、自分たちのうちから他の神々に仕えるように誘う者たちは、ことごとく死をもってさばかなければいけないと命じられました。自分の好きなところで礼拝するのも、また身近な人をあわれんで、死刑にしないことにするのも、とても簡単です。それは、私たちにとって「良い」ことのように思われます。しかし、主はそう思っておられません。自分たちの方法ではなく、主の方法によって生きることの必要性を学びました。

 そして14章、15章、16章を読みます。ここでも、主を自分の神として、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛するという戒めの中で、語られている命令です。

1A 食物において 14
1B きよい動物と汚れた動物 1−21
 あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。

 死人のために自分の身を傷つけたり、額をそり上げたりしたのは、カナン人など原住民たちが行なっていたことなのでしょう。彼らには異教のならわしがありました。けれども、彼らと同じようなことをしてはならない。あなたは、神の子どもであり、主の子どもだからだ、とモーセは話しています。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。(エペソ5:1」とパウロは言いました。「子ども」と呼ばれるのは、その親が行なうことをまねるからであり、また、その父が命じることに服従するからです。「倣う」ことと「服従する」ことが、聖書では「子ども」という言葉に含まれている意味です。例えば、ペテロは、「たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。(1ペテロ3:6」と言いましたが、サラの血縁の子孫だから「サラの子」と呼ばれているのではなく、サラにならう者であるから、サラの子と呼ばれます。アブラハムを異邦人の私たちも「父」とみなすことができるのも、「約束が・・・アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。(ローマ4:16)」私たちと神との関係は、このように「模倣」と「服従」がその土台となっています。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

 今、異教のならわしに従わないことが戒められていましたが、主はイスラエルの子らを、「わたしの聖なる民である」と宣言しておられます。「聖」という言葉は、「区別される」とか「分離される」という意味があります。例えば、私はペットショップに行き、たくさんいるハムスターの子たちから、一匹だけを取り出して、自分のペットに決めました。今、3階にいるハムスターは、私だけのハムスターであり、他の人のものではありません。これと同じように、世界にはいろいろな国民がいますが、イスラエルだけは特別で、主によって選び分けられた民なのです。他の民と区別されており、彼らが主のものであることを明らかにしていかなければいけません。

 今、キリストに召し出されたクリスチャンも、「聖なる国民」と呼ばれています。ペテロが言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(1ペテロ2:9」これは、ペテロの手紙第一に書いてある聖句ですが、同じ第一の手紙にペテロはこう書いています。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。(1ペテロ1:15-16」私たちは主のものであり、私たちは他の人たちと異なるのだ、異なる生活をしなければいけない、ということが大事な点です。

 あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。

 モーセはこれから、イスラエルが聖なる民として生きるために、食べてよいきよい動物と、食べてはいけない、汚れた動物を区別していきます。

 あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。

 獣、つまり陸上の動物は、反芻をし、かつひづめが分かれているかどうかで、きよいか汚れているかが区別されます。

 反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。

反芻しても、ひづめが分かれていなければ汚れています。またひづめが分かれていても反芻しないなら、これもまた汚れています。

 すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。

 水の中にいる生き物は、ひれとうろこがあるものはきよく、そうでないものは汚れています。

 すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。

 鳥の中で、いわゆる「猛禽」と呼ばれているものは汚れています。

 羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。

 これは昆虫です。羽があって群生するとは、羽があっても地を這っているような昆虫です。

 これらのきよい動物と汚れた動物の区別については、すでにレビ記11章で学びました。多くの場合、食べてはいけない動物を眺めると、衛生上の理由からも寄生虫や菌があって、人を病気にさせるものが多いです。けれども、私は、律法の目的は衛生上のものではなく、霊的なものであると思っています。

 つまり、私たちの霊、魂、からだにおける、きよめを、目に見えるかたちで、主が示そうとされているのではないか、というものです。これら一つ一つの基準を考えてみましょう。ひづめが割れているものは、その足が地面に直接触れていないのに対して、ひづめが割れているものは、ライオンや猫など、足裏が地面についています。反芻する動物は、地上にある食物をそのまま体の中に入れるのではなく、噛み砕いてから入れるのに対して、豚など反芻しないものは、地にあるものを直接からだの中にはいっていきます。「地に属するものから、離れているか、それともくっついているか」という一つの基準を見出すのです。

 同じように水中動物を見ると、うろこやひれがあるものは、水に直接からだが触れていません。たこやいかは、直接触れています。虫は地面を這うものは汚れていますが、羽があって飛ぶことができるのは、それほど地面にふれていません。

 つまり、聖なる民は、聖なる民として、この地上のものから分離されている、区別されているということが、この食物規定によって明らかにされるのです。イエスさまは言われました。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:20-23」これらの汚れた思いは、みな地に属するもの、世に属するものです。私たちは、このような思いを実に自然に、ありふれたかたちで触れています。けれども、離れなければいけません。ヤコブも、地に属するものと、天に属するものの違いを、次のように列挙しています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブ3:14-18」私たちは、主に選ばれた民であり、他の人たちとは違います。それは特別な選民意識ではなく、今読みましたように、上から知恵、天からの属性を受け取っていることによって、選ばれた民なのです。この部分において、イスラエルの民のように私たちも聖なる者とされ、汚れたものから離れなければいけません。

 あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。

 すでに死んだ動物を食べてはならない、というのも、衛生上においても賢いことでありますが、ここでも、罪によってもたらされた死に関わりを持たない、という霊的な意味があります。

 子やぎをその母の乳で煮てはならない。

 これは、動物に対しても神が、あわれみを持っておられることを表す律法です。この聖句から、ユダヤ人は、食事の時に酪農製品と肉製品をいっしょに食べません。例えば、朝食にコーヒーにミルクを入れ、そしてソーセージを食べることはしません。けれども、これは誇大解釈です。ここは単純に、動物に対する神のいたわりを教えています。

2B 収穫の十分の一 22−29
 次は、十分の一を主におささげする律法です。あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。

 食事において、自分が聖なる民であることを区別させるだけではなく、収穫においても区別させます。収穫物のすべてを自分のものとするのではなく、その十分の一を礼拝のためにささげます。

 もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。

 収穫物をたずさえて、エルサレム、またはシロやギルガルまで旅をすることは、遠くに住んでいる人は大変です。そのような人は、その収穫物の十分の一を売って、その金を携えて、そして近くで牛や羊、ぶどう酒など、ささげるものを購入します。

 そして、家族とともに、主の前でそれらを食べて、喜びます。礼拝は、国の税務署のように、ただ取り立てる場ではありません。自分がささげたものも楽しむように、主はしてくださっています。主は何も欠けたところがなく、私たちのささげ物を必要とされていません。神が、これらのささげ物を通して望まれているのは、「交わり」です。ささげることによって、主とともに交わることができるのです。

 このように、聖なる民は、自分の得た収入の十分の一を、主へのささげ物としてささげることが命じられています。食べ物でもそうでしたが、収入も非常に生活に密着した類いのものです。私たちはとかく、自分の信仰を知性化させたり、精神化させたりします。主の愛や平和について語れても、また、霊的な事柄について口で語ることができても、実際の生活の中で、たとえば自分の所得や時間を主におささげしていなければ、それは主の民であるとは言えないのです。生活に密着したところにまで、主がおられることを認めるためには、このような実際の事柄について、自分をささげることが必要となります。

 あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。

 12章においても強調されていました、レビ人をないがしろにしてはいけない、という教えです。彼らは主への奉仕に専念するために、その収入口となるべき相続地が与えられていません。ですから、他のイスラエル人たちが支えなければいけません。これは新約聖書にも貫かれている教えであり、福音の働きに専念している者たちを、その他の人たちが支えるべきであることが命じられています。

 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

 収穫の十分の一は、礼拝のためにささげることの他に、生活の糧を必要としている人々に分け与えるためにも用意しなければいけません。

2A 慈善において 15
 そこで15章からは、貧しい人、負債のある人、また奴隷の人々に対して、イスラエル人が行なわれなければいけないことについて、モーセが語り始めます。

1B 負債の免除 1−11
 七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。

 七年ごとに、負債の免除をしなければいけないという命令です。外国人に対しては取り立てることはできるが、聖なる民であるイスラエルの中では負債を免除してあげなければいけません。それは、イスラエルの民の中に貧しい者がいないようにするためです。こうすることによって、自分が損をするどころか、主が彼らを豊かに祝福してくださいます。

 このことを行なう理由も、霊的なものであることがわかります。新約聖書に示されている真理に照らすと、負債を持っているということは、罪を犯したことにおいて語られています。もちろん、新約聖書においても、貧しい人に対する施しが勧められていますが、もっと中心的に教えられているのは、罪を犯すことにともなう負債です。負債には、責任がともないます。自分が100万円借金したのであれば、その100万円とまた利子を支払わなければいけません。その責任関係がはっきりしています。同じように、罪を犯すときにも、その責任がともない、必ず償わなければいけないものとして数えられます。日本語にある「水に流す」ということはありません。「罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)」とパウロが言っているとおりです。

 ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。

 ある国が他の国を支配するという言葉を聞くと、現代、「平等」や「共存」などの標語が使われている今、犬猿されがちですが、けれども、国々は、個々人と同じように、決して一つ均一化されるのではなく、豊かな国が貧しい国に貸し、豊かな国が貧しい国を結果的に支配することは、自然の理にかなったことでもあります。終わりの時に、御国が立てられたとき、イスラエルが祝福されて、異邦の諸国がイスラエルに従属することが預言されています(イザヤ14:1−2)。これは、人々を虐げるところの従属関係ではなく、祝福を分け与えるところの従属関係です。

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。

 貧しい兄弟に惜しみなく与えなさいという命令です。

 あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた。」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。

 第一年目や第二年目に貸し与えたのなら、貧しい兄弟は返すかもしれません。けれども、第六年目に借りたのなら、返すまえに免除されてしまうかもしれません。そのような時も、決して物惜しみをしてはならず、貸し与えなさいと主は命令しておられます。

 必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。

 与えることに伴う祝福です。未練を残してはならないというのは、パウロも教会のメンバーに教えていることであり「分け与える人は惜しまずに分け与え」なさいと勧めています(ローマ12:8)。

 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

 先ほどお話しましたように、負債は、罪を犯したときにも負債のようになります。その時に負債を免除することは、「赦す」ことを意味します。借金を帳消しにすることです。イエス・キリストは、ご自分のいのちを贖い金として差し出し、私たちの負債を帳消しにしてくださいました。私たちはもはや、自分が犯した罪の負い目の中に生きなくても良いようになったのです。「七年の終わりごとに(1節)」負債が免除されるという点も大事です。「七」という数字は、神のご性質、あるいは御業が完成したことを表しています。神が六日で天地を創造し、七日目に休まれた、とあるようにです。キリストが、「完了した」と十字架の上でお語りになられたときに、私たちが支払わなければならない罪の代価は、すべてこの十字架の上で支払われたのでした。

 そして、この負債の免除は、自分に対して罪を犯した人に対しても実践しなければならないものです。神が私たちをキリストにあって赦してくださったのですから、他の人をも赦さなければいけないという教えです。あの有名な、一万タラントの借りのあるしもべのたとえ(マタイ18:21−35)にあるように、私たちの間では、負債フリーとなっていなければなりません。クリスチャンが、キリストにあって互いに赦しあっていく中で、人々は罪の負い目を持つことなく教会として集うことができます。

2B 奴隷の解放 12−18
 次は奴隷を自由にしなければならないとの命令です。もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。

 7年目に自由にさせることは、出エジプト記の十戒の後に与えられた、主の定めです。出エジプト記21章に書かれています。

 彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。

 奴隷は自分のものは何も持っていなかったのですから、自由にするときは自由人として生きることができるための財産をあてがってあげなければいけません。さもないと、再び奴隷として他の主人のところに行かねばならないでしょう。

 あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

 奴隷を自由にしなければいけない根拠は、エジプトからの奴隷解放にあります。イスラエルが奴隷から解放されたのであるから、あなたがたの中に奴隷状態のままでいる者を作ってはならない、というおきてです。この奴隷ということ、また贖い出すことについても、新約聖書では、罪との関係で語られています。人は悪魔の奴隷となっており、罪の支配下の中に入っていると、聖書では教えられています。罪を犯さなければならないという、罪の奴隷となっているのです。しかし、キリストが十字架につけられ、よみがえられたゆえに、キリストに結びつけられた私たちも、罪に対して死に、キリストに対して生きる者とされました。ですから、もはや罪に従う必要はなくなり、罪から自由にされたのです。ですから、私たちは、罪を赦された者だけではなく、罪の力からも解放された者なのです。

 私たちが聖なる民として生きるときに、このことは大事です。互いの間に罪の赦しがなければいけません。また各々が、罪の力に支配されることなく、御霊によって支配されていなければなりません。霊的に、罪の負い目を持っている人、罪の力の中にいる人があってはならないのです。ですから、赦すこと、また御霊の力によって、罪から自由にされていることが、この世とは異なる、この世とは分離された、聖なる民の特徴なのです。

 その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。

 自分の意思で奴隷にとどまる人もいます。そのような人は、イヤリングをする人のように、耳に穴をあける行為をします。こうして、いつまでも奴隷でいるようになります。これは、キリストに仕える私たちの姿でもあります。私たちは、強いられてキリストに従うのではありません。むしろキリストを愛するがゆえに、あえてこの方のしもべとなり奴隷となることを選び取ります。

 彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、主は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる。

 こうして、奴隷を解放しなければいけないという教えでした。次は、牛と羊の初子についての教えです。

3B 初子のささげ物 19−23
 あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。

 神はつねに、「初めのもの」をご自分にささげるよう、私たちに命じておられます。アベルは、初子の子羊を主にささげ、それが受け入れられました。そして出エジプト記で、ここにあるように、家畜の初子は、主のものであると宣言されています。レビ人は、これら初子の代わりに取られたものであると、民数記には書かれています。収穫も初物を主におささげします。

 なぜ初めのものかといえば、それはもっとも大切なもの、優先されるものだからです。彼らが主を自分たちの神としているかどうかの指標は、彼らのものの中で初めのものを主におささげしているかどうかで測られます。口で、「私は主を愛しています」と言っても、残りものを主にささげるのであれば、その言葉には意味がありません。そこで大事なことは、神ご自身が、もっとも大切なものを私たちにおささげになったという事実です。ご自分のひとり子イエス・キリストです。キリストは、コロサイ書1章15節から読みますと、万物の前におられた初めの方であり、この方によってすべてが造られ、この方のためにすべての物が造られました。また、死者の復活においても、この方が初めであり、すべてのことにおいて「初め」の方、長子であられる方なのです。

 したがって、ここでモーセが、牛の初子を働かせたり、羊の初子の毛を刈ってはならないと命じ、また、この初子をもって礼拝し、家族とともに食べなさいと命じているのは、まさに御子イエス・キリストをないがしろにせず、礼拝の対象にしていきなさい、という意味なのです。私たちがこの方を教会のかしらとし、この方と交わりを持つことが、もっとも大切となります。これが、私たちが聖なる国民である所以です。キリストを礼拝しているのか、そうでないかによって、人が聖なるものかそうでないかが区別されます。ですから、私たちの間に、罪の赦しがあり、罪の力からの解放があり、そして主イエス・キリストが礼拝されている、中心になっていることが、教会の姿であり、聖なる民であると言うことができます。

 もし、それに欠陥があれば、足なえか盲目など、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない。あなたの町囲みのうちでそれを食べなければならない。汚れた人もきよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。

 初子には欠陥があってはいけません。これは、神に受け入れられるささげものは完全でなければいけないからです。御子イエス・キリストだけが、罪の供え物として完全な方でした。

3A 祭りにおいて 16
 こうして、惜しみなく与え、奴隷を解放し、初子をもって礼拝しなければならない戒めを読みましたが、次からは例祭、すなわち、例年行なわれる祭りについての命令です。

1B 例年の祭り 1−17
 アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。

 初めに守るべき祭りは、過越の祭りです。アビブの月は、今の3月や4月に当たります。

 それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。

 種なしのパン、イースト菌の入っていないパンを、過越のいけにえをほふった次の日から七日間食べなければいけません。このため、種なしのパンの祝いと過越の祭りはしばしばワンセットにされ、一つの祭りとして語られる場合が、聖書の中にはあります。

 それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。

 ここに、過越の祭りの目的が書かれています。エジプトから出た日を、一生の間覚えていることが、その目的です。永遠に守りなさいと、出エジプト記には書かれていますが、エジプトから連れ出された出来事は、単なる一回性のものではなく、神は永遠に影響を与える出来事として、それを残されたのです。

 今、ユダヤ人の人たちは過越の祭りを守っていますが、私たちクリスチャンは守っていませんね。それは、この過越の祭りのとき、過越の食事をされた時、主イエスが弟子たちに、「これがわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」また、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われたからです。過越の祭りは、この御子イエスさまの永遠の犠牲を予め表していたものであり、それゆえ永遠に守るものとして受け止められているのです。

 ここでイエスさまの「わたしを覚えて、これを行ないなさい」と言われた部分が大切です。イスラエルが一生の間、エジプトから出たことを覚えているように、私たちも、主の死をいつまでも思い出し、一生思い出すことが必要なのです。それが、聖餐式の目的であり、主イエスがなされたみわざを思い出します。

 それでは続けて読みましょう。七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。

 パン種はどこにもあってはいけません。また、いけにえは朝まで残していてはいけません。これはどちらも象徴的なのです。パン種は、罪を象徴しているのですが、主イエスの血によって、すべての罪が、永遠に取り除かれたことを表さなければいけませんでした。また、いけにえも明日の食事のために残しておこう、ではなく、主の十字架を表すものだから、すべてをその日のうちに食べなければいけませんでした。

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。そして、あなたの神、主が選ぶその場所で、それを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。

 過越の祭りは、約束の地においては、選ばれた場所で守らなければいけませんでした。この命令によって、イエスが地上におられたころも、ユダヤ人たちが世界中からエルサレムにやって来ていました。

 六日間、種を入れないパンを食べなければならない。七日目は、あなたの神、主へのきよめの集会である。どんな仕事もしてはならない。

 七日目は安息する日として休まなければいけません。

 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。

 この祭りは、五旬節とも呼ばれ、ペンテコステとも呼ばれる祭りです。過越の祭りの時期には、大麦の収穫が始まりますが、それから50日が経ったときには、小麦の収穫が始まります。そこで、この初めの収穫を主におささげするのが、この祭りです。

 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。

 七週の祭りも、選ばれた場所で祝わなければいけません。そして七週の祭りの時には、イエスがよみがえられてから50日後、つまり、弟子たちがダビデの墓の上にある部屋で祈っていたときに、聖霊が臨まれ、彼らに異言が与えられた、あのペンテコステの日であります。御霊がくだってきてくださったことを表しています。

 ですから、私たちは、主イエスの十字架を思い出すだけではなく、御霊に満たされ、御霊に導かれた、いのちある集会を持つ必要があるというのが、ここの教えです。イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38」このいける水の川が、ご自身の心の奥底から流れているでしょうか。もしそうでなければ、聖霊を求めてください。そして、聖霊の賜物を受けてください。

 あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。

 仮庵の祭りは、いちじくやオリーブ、ぶどうなどのすべての作物の収穫が終わる、秋に行なわれる祭りです。10月ごろに行なわれます。

 この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。あなたの神、主のために、主が選ぶ場所で、七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。

 仮庵の祭りも、同じように選ばれた場所に行きます。そして、家族や、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ、すべての人がとも喜ぶ祭りです。すばらしいですね、だれもこの祭りにあずかれない者はなく、すべての人が大いに喜びます。

 この仮庵の祭りは、イスラエルの民が荒野の生活をし、仮庵をもって過ごしていたことを思い出す祭りです。主が、イスラエルを約束の地に導きいれてくださったことを祝います。これは、預言的には、主が再臨されて、神の御国をこの地上に立てられるその時を預言しています。私たちが、「御国を来たらせたまえ」と主が祈るようにいわれたその祈りが、かなえられる日です。

 したがって、私たちクリスチャンは、主イエスの十字架を覚え、聖霊に満たされ、そして主が来られるのを待ち望む者たちであることが分かります。これが、周りの人々が見て、たしかにそのとおりだとうなずくような、顕著な特徴となっていなければいけません。十字架のことばにおいて、妥協すること。また聖霊の働きを認めず、自分たちの知恵や力で教会を運営していこうとすること。また、主の再臨を思わずに、今さえ良ければよいというような考えを持っていること。そうなっていれば、教会が教会でなくなってしまいます。教会が教会であるため、聖なる国民であるためには、この三つが、真理の柱となっていなければならないのです。

 あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。

 この三つが年に行なわれる主な祭りでした。

2B さばきつかさ 18−22
 次にモーセは、町囲みにおける公正な裁判について教えます。

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。

 裁判を行なうときに、絶対に守らなければいけないのは正義です。さばくときに、その人が貧しいとか、富んでいるとか、そのような見かけの判断材料が決して入ってはいけません。そして、もっとも判断を狂わすのが、わいろです。わいろを取ってはいけません。

 あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない。

 先ほどからずっと、「選ばれた場所」という大事な場所について語られていましたが、その近くにアシェラ像など、偶像を決して立ててはいけません。私たちが集まり、主を礼拝し、互いに赦しあい、罪から解放され、また主の死を思い、聖霊に満たされ、主の再臨を待ち望む、これらはすべて、主を神としてあがめている、その中心があるからです。ここに偶像を持ち込むことは、中心軸を失うことになります。

 こうして、「主の聖なる民」という題で、14章から16章までを学びました。私たちは、他の人々から区別されていること。主のものとされていることを自覚することは、主を愛し、主に聞き従うときに非常に大切なことです。食物という身近なところから、また所得という生活に密着しているところまで、自分が主のものであることを認識していなければいけません。