申命記1814-22節 「私のようなひとりの預言者」

アウトライン

1A 追従すべき預言者
   1B モーセのような預言者
      1C 仲介者
      2C 御言葉の授与者
   2B 言うことが実現しない偽預言者
2A 預言者以上の方
   1B とこしえの独り子
   2B 聖霊降誕
   3B メシヤの即位
      1C 神性の公示(復活)
      2C 右の座への着座(昇天)
      3C 敵の蹂躙(再臨)

本文

 申命記18章を開いてください。今日は申命記16章から19章までを学びたいと思いますが、今朝は1814節から22節に注目してみたいと思います。

14 あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。17 それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。20 ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」

21 あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、22 預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

 モーセは、イスラエルの民に様々な戒めを与えている中で、レビ人と祭司を尊びなさいということを教えました。彼らを尊ぶことによって、彼らが仕えているまことの神を敬うことができるからです。そして占いやまじないをする者に絶対に聞き従ってはならないと強く戒めています。周りのカナン人はそうしているが、あなたがたの神は決して許さないとモーセは言っています。いかがでしょうか、占いは女性雑誌には必ずありますが、それは心の不安があり、何かに頼りたい、追従したいという思いがあるからでしょう。けれども、決して行なってはいけないと戒めています。

1A 追従すべき預言者
 その代わりに、従うことのできる預言者をあなたがたに遣わすと主は約束されています。モーセのような預言者を、あなたがたの中から、つまりイスラエル人の中から起こすと約束されました。ですから占いや霊媒のようなものに頼るのではなく、安心して、自分の身を委ねて付いていくことができるのです。

1B モーセのような預言者
1C 仲介者
 モーセのような預言者とは一体どういうことでしょうか?16-18節を見れば、ホレブの山でイスラエルの民が、直接、神の声を聞いて恐れました。もう一度聞けば、私たちは死んでしまうと言いました。それで彼らの代わりに神の言葉を聞きに行く仲介者が必要で、それはモーセあなただ、ということです。モーセはシナイ山に上ったり、降りたりして、イスラエルと神との仲介を行なっていたのです。

 この天地を造られ、万物を造り支配しておられる方に、この小さな私たち人間がどのようにすれば近づくことができるのでしょうか?無限の神に有限の人が近づくことは不可能なことです。幼稚園の子が電車の吊り革が高すぎて掴むことができないように、私たち人間はどんなに背伸びしても、いと高き所におられる神に接することはできません。そこにはいつも隔てがあるのです。かつて苦しみの中にいたヨブは、「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。(9:33」と言いました。仲裁者あるいは仲介者がいないのです。

 ですから、唯一のアッラーがいるだけで、神の御子はいないと主張するイスラム教は、自己矛盾をきたしています。ただ服従することを要求されますが、アッラーとの交わりを体験することはできません。ゆえに天国の中に入るという絶対的な確信を得ることができません。仏教も同じです。欲から解脱し、涅槃の領域に入ることを教えるのですが、どんな熱心な仏教徒もその境地に達したという人はいません。人が神に近づこうと努める宗教というものは、自己破綻しているのです。

 しかも、神は無限であるだけでなく、聖なる方です。この方に少しでも近づくものならたちまち火の中で滅ぼされてしまいます。私たち人間は、そのままの姿では決して天に入ることはできません。天は神の王座があるところであり、完全にされた者しか見ることのできない所だからです。だから、神と人との間に立つ仲介者が必要だったのです。

 それでモーセのような預言者が出てきて、神と人との仲介をすると神は約束されました。バプテスマのヨハネが現われた時に、エルサレムから来たパリサイ人たちは、「あなたは誰ですか。エリヤですか。」ヨハネがそうではないと答えると、「あなたはあの預言者ですか。(ヨハネ1:21」と聞いています。ユダヤ人たちは、イエス様が地上におられた時にもこの預言者を待っていたのです。そして現代のユダヤ教の中でも、メシヤがこの言葉を成就すると信じています。

 そしてイエス様がこの預言を成就されました。主は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6」完全に神であられ、かつ完全に人であられたイエス・キリストが、神と人との仲介者になられたのです。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5」そしてヘブル書では、イエス様は「新しい契約の仲介者(9:15」と呼ばれています。

2C 御言葉の授与者
 そしてモーセのような預言者についてまた別の面を考えてみたいと思います。他の神の預言者とモーセはどのように違うのか?ミリヤムが、モーセがクシュ人の女を娶ったということで、彼を非難しました。ミリヤムは、「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。(民数12:2」と言いました。けれども主はミリヤムに対してこう言われました。「もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。(6-8節)」そしてこの後に彼女は一週間、らい病にかかりました。

 モーセは、このように神の言葉をそのまま受けた預言者でした。幻や夢のような曖昧なものではなく。口と口で主はモーセに語られました。ですからモーセが語ることはそのまま、神の言葉なのです。イエス様も同じでした。イエス様は、何度も強調されました。「イエスは言われた。「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している・・・(ヨハネ8:28

 そして、イエス様はこの方自身が神の預言でした。ヘブル書の冒頭にはこう書いてあります。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(ヘブル1:1-2」ヨハネ114節には、「ことばは肉となった」とありますが、まさに主ご自身が神の言葉の実現でありました。

2B 言うことが実現しない偽預言者
 そしてモーセは、どうして彼が主によって語ったのかどうか、ということを思った時には、22節には「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」とあります。イエス様は、このような目的のためにあらゆる尋問を受けられました。パリサイ人から、律法学者から、またいろいろなユダヤ人指導者から試されました。

 けれども、イエス様が語られた言葉は何一つ地面に落ちて、そのままになることはありませんでした。中風の人に対して、「あなたの罪は赦された」と言われたら、心の中で律法学者が、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」と言ったので、イエス様はこう言われています。「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」(マルコ9-10」そして、「あなたに言う。起きなさい。」と言われたのです。もし、こう言われて中風の人が立つことができなければ、イエス様はいんちきになります。偽預言者になります。けれども、立ち上がりました。最も優れたしるしの一つは、ラザロの生き返りです。死んでから四日経っていましたが、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。(ヨハネ11:43」そして、そのまま出てきたのです。

 けれども、最後のしるしはご自身の復活でした。イエス様は何度もユダヤ人たちに、ご自身が生き返ることを語られました。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ12:40」つまり、三日目にヨナが魚から出てきたように、キリストも三日目によみがえると言うことです。そして最もユダヤ人を怒らせたのは、宮清めの時です。イエス様は、「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19」イエス様が神殿を壊すと言ったとユダヤ人は後に告発しましたが、ご自分の体のことを指していました。

 それでイエス様が十字架につけられ、葬られた時に、ユダヤ人指導者は総督ピラトにこう要請しているのです。「こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」(マタイ27:63-64」その言葉通りになることを、弟子たちよりも彼らのほうが恐れていたのです!そして実際にイエス様がよみがえられた後に、番兵たちに多額の金を渡して、「弟子たちがイエスを盗んでいったことにするのだ。」と言っています。

2A 預言者以上の方
 このようにイエス様は、偉大な預言者であられ、モーセのような預言者であられました。けれどもそれ以上でした。イエス様は復活された後、エマオの途上にいた二人の弟子に話しかけられました。弟子たちはイエス様ご自身であることを知らずに、イエス様のことを話し始めました。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。(ルカ24:19-21

 弟子は、イエス様のことを「行ないにもことばにも力のある預言者」と読んで、それだけで留まっていました。この方は贖い主であること、メシヤであることに望みをかけていました。けれども、大祭司はイエス様に対して、「あなたは神の子キリストなのかどうか、どうか。この答えを言いなさい。(マタイ26:63」と聞いています。ユダヤ教指導者は分かっていたのです、メシヤは神の御子であり、神ご自身であるということです。そして、そのことをイエス様はご自身の復活によって明らかにされたのです。

1B とこしえの独り子
 ヨハネ伝冒頭にはこうあります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。(1:1-2」ギリシヤ語は、「ことばは神とともにあった」というのは、次のようなニュアンスがあるそうです。「ことばは、神と顔と顔を合わせていた」イエス様は、永遠の昔から父なる神と親密な交わりを持っておられた、ということです。だからヨハネは18節で「父のふところにおられる独り子の神」と呼んでいます。そしてイエス様は、父なる神に対してこう祈られています。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17:5

 天と地を造られた神にはご自分の子が存在するのです。箴言304節にこうあります。「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」神は唯一であられます。けれども、唯一でありながら、複数の人格において存在しておられます。これが聖書の啓示する、神の姿です。

2B 聖霊降誕
 そして主が生まれる時にも神の御子であることが示されました。天使ガブリエルが、処女マリヤにこう告げました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(ルカ1:35」アダムから受け継いだ罪の性質をもたずして、聖霊ご自身がマリヤにイエス様を誕生せしめたのです。

3B メシヤの即位
 そしてイエス様は、メシヤとして神の御子であることを明らかにされました。メシヤは、神がこの世界を贖われ、ご自分の国をお立てになるとき、その代表として選ばれた存在です。贖い主、救い主と言いかえて良いでしょう。イエス様はヨルダン川でバプテスマを受けられたとき、聖霊が鳩のように下り、そして天から神からの声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17」そして高い山に上られ、御姿が変貌し、栄光に輝いた時に天から声がし、ペテロ、ヨハネ、ヤコブにこう語られました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5

1C 神性の公示(復活)
 そしてイエス様はよみがえられたのです。パウロはこう証言しています。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:3-4

 詩篇二篇には、神がメシヤによってご自身の国を立てられることを宣言されています。「「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(2:7-8」ご自分の子に国々を、地をゆずりとして与えられますが、それは「わたしがあなたを生んだからだ」と言われています。この「生まれる」というのは肉体の誕生のことではなく、神の御子として公に現すということであり、復活を意味しています。

 イエス・キリストがよみがえられた限り、世界は言い訳をすることはできません。天と地を造られた神がこの方をもって世界を贖われるのです。人は自分の罪を悔い改めて、この方を自分の主としてひれ伏すか、この方に反抗して滅びるかのどちらかしかないのです。

2C 右の座への着座(昇天)
 そしてイエス様は天に昇られました。そして父なる神の右の座に着いておられます。「右」は権威と力を表しています。父なる神の王子として着座しておられるのです。「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』(詩篇110:1

3C 敵の蹂躙(再臨)
 そして立ち上がって、再び地上に来られるのです。「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。(1コリント15:24-25」そしてキリストご自身が権威を父なる神に明け渡され、事実、神の国となるのです。

 ですから、私たちには弁解の余地はありません。パウロは何度も、神がイエスを死者からよみがえらせたのだから、今は神に立ち返る時なのだ、ということを主張しました。それがたとえ、異教徒であっても同じであり、偶像ではなく生ける神がおられることを、イエス様の復活によって示されたのです。イエス様こそが、神の選ばれたキリストであり、この方こそが神であられる方です。

 モーセはイスラエルの民に言いました。19節で、「わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」イエス様を単なる一人の預言者として受け入れるだけでは不十分です。他にも良い教えがあるけれども、イエスの教えも良いというものではないのです。この方を知らなければ、神そのものも知らないのです。この方こそが神の独り子であられ、この方と神は切り離すことができないからです。このことについて、責任を終わりの日に全ての人が問われます。

 イエス様のこの言葉を受け入れますか?それとも振り払いますか?お祈りしましょう。

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