申命記2019-20節 「実を結ばない木」

アウトライン

1A 木を切り倒す
   1B 土地の荒廃
   2B 実を結ばない木
2A イエス様が呪われた木
   1B 葉だけの木
   2B 忍耐の期限
3A 良い行ないのための救い
   1B 聖霊の実
   2B イエスに留まる

本文

 申命記20章を開いてください。午後礼拝では20章と21章を学びたいと思いますが、今朝は2019-20節に注目します。

19 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。20 ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。

 20章、21章においては、いろいろな掟をモーセは教えていますが、主に、イスラエルが戦争する時に守らなければいけない掟をモーセは教えています。戦う時には、敵の馬や戦車の多さに恐れてはいけない、主がともにおられる、ということ。自分の家のことが気になる者たちは、戦友の心をくじけさせるから帰りなさい、ということ。そして町を攻略するときは、まず降伏を勧めなさい。それでも相手を戦うのであれば、男を殺し、女子供は残し、略奪物は取ってよい。けれども、カナン人たちに対しては聖絶しなければならない、という教えです。

1A 木を切り倒す
1B 土地の荒廃
 その中で、極めて興味深い掟があり、いま読んだところです。町を包囲しているときに「木を切り倒してはいけない」というものです。モーセは少しユーモアを込めて、「まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。」と言っていますが、なぜわざわざそのようなことを彼は言わなければならないのでしょうか?それは、異邦の諸国が戦う時には、敵に対してこのようなことを行なっていたからです。敵に対する怒りを表すために、そこに生えている木々をも切り倒し、敵の土地を荒れ果てさせるようなことを行ないました。イスラエルが戦うのは、相手が戦うから最後の手段として応戦するという自衛行為であり、自分の怒りや憎しみを発散させる手段ではないからです。

 アラブの国では、慣習として、一人の指導者や政権が倒れると、その指導者を街に引きずり出し、首吊りの公開処刑を行なったり、その死体を引きずり回すというような残虐な行為を行う話を読んだことがあります。それは、そのようなことをすることによって初めて、権力が移行したことを明らかに示すことができるからだそうです。いわば通過儀礼です。けれども、私はなぜそこまで憎悪をむき出しにできるのか、と驚いてしまいます。けれども、当時の国々の戦いにおいて、敵対している国の土地の木々を切り倒すということによって、相手を打ち負かしていることを示していました。

 けれども、それは神の目においては横暴な振る舞いです。神は、ご自分が造られた被造物をむやみに破壊することを望まれていません。自然に対するいたわりをなくすことは、自然を造られた神ご自身を痛めつけることです。メシヤが地上に来られて、イスラエルを回復された後に、今度はイスラエルをかつて滅ぼしたバビロンに対して、神は裁きを宣告されます。イザヤ書144節から読みます。

 「あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』(4-8節)」神はバビロンを横暴な振る舞いをしたと言って責めておられます。そして、国々だけでなく、木々に対してもそれを行なっていました。レバノンの杉は背丈が高く、極めて美しいと言われていますが、それらがバビロンの倒れたのを見て、喜びの声を上げているのです。

2B 実を結ばない木
 けれども神は、実を結ばない木については、それを切り倒してよいと言われます。人が実を食べることができなければ、それは切り倒されてよい、包囲のためのやぐらを立てるために使いなさいと言われています。

 興味深いことに、聖書は世界の初めと終わりに、実を結ぶ木々を神が置いておられるのを見ます。「神である主は、その土地(エデンの園)から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世2:9」そして、新しい天、新しい地を再創造された神は、ご自分の都に川を流しておられます。「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(黙示22:2」神は、木々に実が結ばれ、それを人が食べることを望んでおられます。反対に、実を結ばせないのであれば、神はそれを塩気のなくした塩と同じように役に立たない物とみなし、切り倒してもよいと考えておられるようです。

2A イエス様が呪われた木
1B 葉だけの木
 イエス様ご自身、木を枯らしたことがあります。主がエルサレムに入城されてからのことです。メシヤとしてイエスを迎える群衆の歓喜の中でイエス様はエルサレムに入られましたが、翌日、イエス様がお腹を空かせて、いちじくの木から実を取って食べようとされました。ところが葉の中には実がありませんでした。それで、イエス様は木に向かってこう言われたのです。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。(マルコ11:14

 イエス様と弟子たちは神殿の境内に入りましたが、そこで売り買い人々を追い出し、両替人の台を倒し、鳩などの売り買いもさせないようにしました。そして彼らにこう言われました。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。(マルコ11:17」そして通りがかりに、先にイエス様が呪われたいちじくの木を見ると、それが根まで枯れていたのです。

 イエス様は、お腹が空いて実が結ばれていない木に腹を立てて呪われたのではありません。神は、人を、ことにイスラエルの民をご自分の木とみなしておられたのです。木から実を取って人が食べるように、主は、ご自分の民からご自分の性質、正義や憐れみというご性質が実として結ばれることを願われておられたのです。旧約聖書の中には、イスラエルはぶどうの木やいちじくの木に例えられています(ヨエル1:7)。主がイスラエルに対して、手塩をかけて育てられたのは、あくまでも実を結ばせるためであり、もしそうでなければ、あまりにも嘆かわしいことだったのです。神殿での礼拝は盛んに行なっていたのに、そこが強盗の巣になっている姿は、まさに葉は生い茂っているのに肝心の実が結ばれていないのと同じでありました。

 実を結ばせることのない宗教ほど、いかがわしく、醜いものはありません。信者ではない人が、こうなってはいけない姿として「献身のない宗教」と言っていました。教えがたくさんあり、儀式や活動はたくさんあるのに、肝心の教えられている内実を見ることのできない姿は、むしろその宗教をしないほうがましだ、ということです。

 神はこの嘆きをイスラエルに対して持っておられました。イザヤ書5章を1節から読んでみたいと思います。「1さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。3 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4 わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。5 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。6 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」7 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」神に関わっている民が、それにふさわしい実を結ばないことは、極めて悪質な酸いぶどう酒に似ている、ということです。

2B 忍耐の期限
 ルカによる福音書13章においては、イエス様は、実を結ばないいちじくの木を切り倒せと言っている、ぶどう園の主人の例えを話しておられます。主人は番人にこう言っています。「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。(ルカ13:7」レビ記において、植えつけてから三年は収穫をしてはならず四年目に刈り取ってよいという掟があります(19:23)。けれども、このいちじくの木は三年経っても実を結ばなかったのです。それで番人はこう言います。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。(ルカ13:8

 つまり、イスラエルは実を結ばせるのに十分な期間が与えられているのに、一向に結ばれていないのでもう裁かなければいけないという神の思いと、それでも何とか実を結ばせるために肥やしをやってみようとする神の忍耐が交差している話です。この例えの前に、不幸な目に遭っている人々についてそれは神からの罰ではないかと言っているユダヤ人に対して、「あなたがたより悪いから災難を受けたとでも思うのですか。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びる。」と言われたのです。神から、変わらなければいけないという呼びかけを受けているのに、いつまでも罪の中にとどまり、罪を捨て去ろうとしない、自分を変えようとしないかたくなな心に対する警告であります。

3A 良い行ないのための救い
 バプテスマのヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(マタイ3:8」と言いました。目で見えるかたちで、外の人が認めることのできる形で、悔い改めたことを表しなさいということです。私たちは、良い行ないによって救われるのでは決してありません。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。(エペソ2:5」と使徒パウロは言いました。けれども、良い行ないのために救われたのです。パウロは続けて、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(10節)」と言いました。

1B 聖霊の実
 私たちにとっての実とは何でしょうか?旧約聖書には数々の掟があります。それらを行なうことが実なのでしょうか?新約時代に入り、あらゆる律法が一つにまとめられました。「愛の律法」であります。神を愛し、そして自分自身のように隣人を愛することです。そして、パウロは他の箇所では次のようにまとめています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23」ここの「御霊の実は」は単数であります。愛、喜び、平安など複数の実があるのではなく、御霊の実は愛であり、愛の特徴が喜びであり、平安であり、寛容、親切だ、ということになります。

 私たちはしばしば、「愛」を感情であると誤解します。この世が愛をそのように定義するからです。「互いに愛しているならば、どんなことを行なっても許される。」という哲学がこの世にはあります。それは、愛ではなく情欲と呼びます。聖書の定義する愛は、感情ではなく真実な行ないであります。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3:17-18」「私は愛しているのに、これこれのことをしていない。」と言うのであれば、それは偽りなのです。行ないの伴っていない愛は感情であっても、真実ではないのです。

 「そうであれば、私たちは心が伴わなくても、行ないを示していればよいのか。」ということを言われるかもしれません。「気持ちがこもっていない行ないは偽善ではないのか。」と言われるかもしれません。いいえ、心は気持ちではありません。心を気持ちや感情と混同してはいけません。心は私たちを行ないへと駆り立てる、行ないよりももっと深いところにある内なる部分です。そして、愛はその心から出てくるものです。

 お母さんになったばかりの女性は、これから眠れぬ夜を過ごすことになります。乳児は眠っても三時間も経てば起きて、お乳を求めます。お母さんも起きてお乳を与えますが、いかがですか、気持ちは「寝ていたい」ですよね?だれも、起きたいと思って起きているでしょうか?気持ちは眠っていたいけれども、それでも起きるのです。その「起きる」という行動を引き起こすのが愛なのです。私たちは結局、自分の愛していることを行なっています。暗闇を愛しているから、暗闇の業を行なうし、神を愛しているから神の命令を守るのです。

2B イエスに留まる
 ですから、私たちの心は奥深いところにあります。感情の領域をはるかに超えています。そして私たちの行ないをも決定します。これだけ大切な部分であります。イエス様は、「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24」と言われました。礼拝行為では、神の御霊と私たちとの霊の活発な交流が持たれます。賛美の中で、献金の中で、ここで唯一、私たちの心のすべてを知っておられる神、私たちの心を変えることのできる神に触れることができます。私たちは、自分の心を知り尽くすことができないし、そしてその邪悪さを直すこともできないと聖書には書いています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(エレミヤ17:9-10」ですから私たちは、ただ自分の心と思いと体をイエス様に明け渡し、この方に自分の心を変えていただくほかはありません。

 そして主はそのことをおできになります。「新しく生まれる」という言葉を使ってイエス様は説明されました。肉によって生まれた私たちは、神の御霊によって、霊的に新しく生まれることができます。「生まれる」のですから、私たちのできるものではありません。だれが自分の行ないで生まれることができたでしょうか?完全に神に拠り頼んでいたのです。同じように私たちの霊そして心は、神の御霊が力強く働くことによって、新たにすることができるのです。

 イエス・キリストを自分の救い主として信じて、受け入れた人には聖霊がその人の心に住んでくださいます。そして、私たちはこの方に自分の心を明け渡すのです。そうすれば、主が私たちをご自分のかたちに造り変えてくださいます。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22-24」脱ぎ捨てる、身につけるということは私たちがしなければいけませんが、その新しい性質はすでに神が与えてくださっています。

 イエス様は、実を結ばせることについて私たちを「ぶどうの枝」と呼ばれたことがありますね。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5」これが私たちの自己認識になっていなければいけません。自分が何かできるのではなく、自分ができることは幹につながっていることだけです。枝だけでは何もすることができません。そして実を結ばせるのは、あくまでもぶどうの木である主ご自身であり、私たちはこの方につながっていることが仕事です。

 そして、イエス様は「とどまりなさい」という言葉を何度も使われました。他の箇所では「宿泊する」とも訳されています。イエス様の内に宿泊するのです。時間を過ごして語り合うのです。知り合いになるのです。私たちはこの方を心から受け入れました。この方の言葉を信じました。この言葉を咀嚼し、心に沈下させ、そして行動に移すのです。

 イエス様はまた、四つの種類の土に対する種まきの例えを用いられました。「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカ8:15」分かりますか。「正しい、良い心で」みことばを聞きます。知性で理解するのではないのです。また感情で受け入れるのではないのです、心で神の言葉を聞きます。そして、「それをしっかり守り」ます。聞いて忘れるのではなく、心にとどめておくのです。それから、「よく耐え」ます。時間がかかるのです。すぐに結果は見えないのです。だから忍耐が必要です。けれども、植物が育ち実を結ばせるまで時間がかかるけれども、確実に育っていくように、主が確実に私たちの人生から実を結ばせてくださいます。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME