申命記23−25章 「弱い者の味方」

アウトライン

1A 主の臨在 23
   1B 主の集会 1−14
   2B 困っている人へのあわれみ 15−25
2A 人権 24
   1B 女 1−5
   2B 貸し 6−15
   3B 在留異国人 16−22
3A 公正なさばき 25
   1B 裁判の出頭 1−4
   2B 家系 5−12
   3B 正しい量り 13−16
   4B アマレク人 17−19

本文

 申命記23章を開いてください。今日は、25章までを学びます。ここでのテーマは、「弱い者の味方」です。

 前回私たちは、20章から22章までを学びましたが、そこでのテーマは、「思いやりの律法」でした。戦争や殺人、強姦や紛失など、いろいろな悪いことが起こっている中で、神さまは、上から「それはいけない!」と責めたてるのではなく、現実的な対処方法を教えてくださっていました。人間のいろいろな現実の中に主がともにおられて、弱い私たちを支え、導びいてくださる姿を読むことができました。

 23章から25章までも基本的に同じようなことが書かれています。ここではさらに、弱い立場にいる人たちを受け入れ、守り、しいたげないようにする律法が書かれています。この3章には何回か、「思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを」と主が言われている個所があります。彼らがエジプトで奴隷であったのだから、あなたがたもやさしくしなさい、ということです。それでは、23章から読みましょう。

1A 主の臨在 23
1B 主の集会 1−14
 こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。

 今、モーセは、イスラエルの成年男子が参加することになっている、主への例祭のことについて話しているのだろうと思われます。「主の集会」というのは、過越の祭り、五旬節、そして仮庵の祭りなど、主への祭りに参加することであると思われます。

 その時に、こうがんがつぶれていたり、陰茎が切り取られた者は入ることができないとのことです。また、不倫の子も入ることはできません。私はこの個所、また次に続く、入ってはいけない人たちが列挙されているのを見て、なぜそのように主は人々を排除されるのだろうか、と不謹慎ながら思いました。けれども、むろん主が正しく、私が間違っています。ここで大事なのは、この時代は、律法が与えられている時代であり、今の恵みの時代とは異なる、ということです。

 律法の目的は、聖なる神がどのような方なのかを示すものであり、律法によって神がどのように正しい方なのかを知ることができるためのものです。パウロは、「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。(ローマ7:12)」と言いました。したがって、ここでは、イスラエルの民が集まってくることにより、それを見ている人が、主がどのような方であるかを知ることができるようにならなければいけません。主は完全な方であり、欠けたところは何一つありません。そして、なによりも、神は、イスラエルの子孫からキリストをお送りになられます。キリストは、「女の子孫」とも呼ばれました。この子孫は「種」つまり精子とも訳すことができ、生殖器官に欠陥があったり、不倫などの汚れを持っているのであれば、それはキリストを示すことになりません。そのため、象徴的に、儀式的に集会の中に入ってはいけない、ということになります。

 しかしながら、このような聖なる神に、今は、キリストの血によって近づくことが赦されています。キリストは私たちの平和であり、隔ての壁をこわして、大胆に父なる神に近づくことができるようにされました。

 アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。

 アモン人とモアブ人は、どちらもロトとその娘の間から出てきた子孫です。彼らは、イスラエルがヨルダン川東岸を北上しているときに、イスラエルにパンと水を与えることを拒みました。モーセは、このような彼らの仕打ちは、子孫たちにも受け継がれていくことを見越して、このように話しているのだと思われます。けれども、もちろん、彼らの中に、イスラエルの神を求めて、義を求める者がいれば、モアブ人ルツのように、イスラエルの中にはいることができます。

 そして、モアブの王バラクは、まじない師バラムをやとって、イスラエルをのろうようにさせました。主がアブラハムに、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」と言われましたが、モアブ人たちにそのとおりのことが起こったのです。

 しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。

 民数記の時の話を思い出してください。まじない師バラムは、イスラエルをのろうために雇われましたが、彼はイスラエルを祝福することばを語りました。その祝福のことばには、すばらしいメシヤ預言もあります。「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。(民数記24:17)」というものです。イスラエルからの星とありますが、これは、主がベツレヘムでお生まれになったとき、星が羊飼いを導いたところで成就しました。

 このように、主はのろいを祝福に変えられましたが、このようなことは、聖書のほかの個所でも多く見ることができます。例えば、ヨセフは兄たちによって、奴隷として売られてしまいました。けれども、このことのおかげで、ヨセフはエジプトでパロの次に偉い者となり、さらにヤコブの一家をカナン人の地からエジプトに連れて行くことができるようにしたのです。同じように、私たちの主イエス・キリストが、ユダヤ人指導者たちによって、木にかけられるというのろいを受けられました。けれども、神はこのことを、永遠の救いのご計画を実行するために、用いられたのです。私たちにも、いわゆる「のろい」が自分の身にふりかかることがあるかもしれませんが、主はそれを働かせて、益としてくださいます。

 エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。

 エドム人は、ヤコブの兄でした。兄弟であるから、忌みきらってはいけないと命じられています。

 エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、主の集会にはいることができる。

 エジプト人は、もちろん、イスラエルの民を奴隷としてしいたげた民です。けれども、彼らを忌みきらってはいけない、と命じられています。それは、彼らはそこで「在留異国人」だったからだ、ということです。これは面白いです。つまり、イスラエルは、自分がされた仕打ちを仕返しするのではなく、彼らは今、自分たちのところで在留異国人になっているのだから、優しくしてあげなさい、と命じています。「悪に対して善で報いなさい」と、聖書には書いてありますが、ゆるしの原則、また敵を愛するところの原則がここに働いています。

 あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。

 ここから、イスラエルが戦いに行っているときについての命令です。汚れたことから身を守れ、と主は命じられています。

 もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。

 精をもらせば、一日、陣営の中にはいることはできません。

 また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。

 排泄物も、陣営の外で、しかもおおってこなければいけません。

 あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。

 ここに、陣営の中を汚してはいけないことの理由が書かれています。それは、主が彼らのために戦われて、主がその陣営の中におられるからです。ここでも、先ほどの主の集会と同じように、イスラエルが神に受け入れられるための条件としての戒めではなく、主ご自身が戦い主であることを示すための掟です。彼らによごれたものをなくすることによって、そこには聖なる主がおられることを、人が見ることができます。

 私たちは今、聖なる御霊によって、この世にある戦いを戦っています。主がどんなところにもおられること、たとえ電車に乗っているときも、読書をしているときも、どのようなところにいてもともにおられることを知ることは、私たちにきよめをもたらします。

2B 困っている人へのあわれみ 15−25
 主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。

 当時の世界では、逃げてきた奴隷はその主人に引き渡すことが慣例となっていたそうです。したがって、ここで主が命じられていることは、その慣例に反することです。けれども、主は、イスラエルの民に知ってもらいたかったのです。自分たちが奴隷であった。あなたがたは、その苦しみを知っている。だから、あなたがたは、自分たちが受けた慰めによって、彼らを慰めることができる。彼らに優しさをかけることができる。もとの主人に引き返してはならない、と言われているのです。

 イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。

 これは、主の集会や、また主の陣営と同じように、主が聖なる方であるがための戒めです。汚れたものは、たとえそれが金銭であっても、主の家にたずさえてきてはならない、と命じられています。私たちはとかく、目的のためには手段を選ばないことをしてしまいます。その手段の中で、神に喜ばれないものがあれば、たとえ目的が良くてもそれは主を喜ばせることにはならないのです。例えば、伝道のためにということで、伝道ビデオの複製をたくさん行なって、人々に渡していくようなことをしたとします。けれども、それは著作権違反です。「いや、福音が一人でも多くの人に伝わるではないか。そのビデオで、人の魂が救われるのかもしれないのだよ。」と言ってもだめなのです。目的も、また手段も主が喜ばれるものでなければいけません。

 金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。

 同胞に利息をつけて貸してはいけません。その理由は、彼はすでに貧しいから借りているのであり、彼をそれ以上貧しくさせてはいけないからです。レビ記25章の、ヨベルの年のところでこのことを学びました。貧しくなって、土地を売ってしまったら、近親縁者がそれを買い取り、また彼が本当に貧しくなって奴隷になったら、その奴隷をイスラエル人が買い取ることなどです。イスラエル人は、奴隷となってはいけないという律法であり、それはクリスチャンにとって、罪の奴隷から解放されたことを示すものでした。

 そして利息を取ってはならないもう一つの理由は、イスラエル人が利息によって私腹をこやすことのないようにするためです。新約聖書では、ヤコブがこのことを話しています。「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。(5:4-5」このような、金を愛する心への戒めとして、利息をつけてはならない、という意味もあります。

 あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。

 イエスさまは、「誓ってはならない。」と言われました、それは、ここに書かれてあることを否定しているのではなく、むしろ補強しているものです。誓うというのは、簡単に言うと、「自分で言ったことは実行する」ということです。「私は、これこれのことをします。」と言っておきながら、それを行なわなければ、それは罪になります。嘘の罪ですね。ですから、行なわないなら、行ないません、と正直にはっきりと言ったほうが良いのです。ですから主は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われました。

 隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。

 ここで教えられているのは、「惜しみなさ」です。気前の良さと言っても良いかもしれませんが、ぶどう畑にはいったときに、いちいち取って食べる人を禁止することをしてはいけません。けれども、もしそれを持ち帰るのであれば、それは盗み、あるいは貪りになります。同じように麦畑で穂を摘んでもよいけれども、かまを入れてはいけません。

 私たちは、「惜しみなく与えなさい」と新約聖書で命じられています。日本人はとかく、義理人情によって、受け取ったものをお返しする習慣の中に生きていますから、気前の良さの中にある、主の寛容を味わうことがとても少ないです。ですから、ただで何かを与えるとなると、我こそはとばかりに、飛びついてなるべく取っていこうとします。しかし、このような気前良さを知ることによって、神ご自身が気前の良い方であることを知ることができるのです。

2A 人権 24
1B 女 1−5
 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

 有名な、離婚上についての律法です。これは、パリサイ人たちがイエスさまのみもとに来て、尋問したときに使われた律法です。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているのでしょうか。」とパリサイ人は聞きました。イエスさまは、「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。」と答えられました。神が初めに男と女を創造されたときは、結婚するために造られたのであって、それを引き離すようには造られていない、ということです。けれどもパリサイ人は、「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と聞きました。これが、ここに書かれている申命記24章1−5節の個所です。けれども、これは、「離別せよ」という命令ではなく、あるいは「離別してよい」という許可でもなく、「離別したときは、離婚状を書いて女に渡しなさい」と、離婚状を書くことを命じている部分です。前回お話したように、神は、人間が犯す過ちを許容しているのでもなく、ましては命令しているのでもありません。けれども、その過ちに陥ったときに、その中でさらに酷いことを行なわないように、戒めているのです。イエスさまもこのことをご指摘されて、パリサイ人には、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」と言われています。

 この個所は1節から4節まで読まないと、その真意が伝わりません。4節まで読むと、この戒めは、離縁状を初めに出す夫への戒めとなっていることが分かります。自分が妻を気に入らなくなって離縁状を出したところで、後で、やっぱり戻って来ておくれと願ってももう遅いよ、というメッセージなのです。自分の好き勝手な理由で離婚したり、結婚したりさせないための戒めと言えましょう。この律法にも、神が初めに創造された、男と女が一心同体になるという原則が貫かれているのです。

 このことは、男と女の関係だけのことではなく、キリストと私たちの間にも当てはまる関係です。今は苦しいから、迫害を受けているから信仰を捨てよう。そして、迫害がやんだらまた信仰生活を始めよう、ということを、ヘブル人クリスチャンたちは考えていました。今、ヘブル人への手紙を学んでいますが、そのようなことをすれば、決して戻ってくることはできない、神の怒りの中にはいってしまう、という警告が書かれています。キリストに結ばれた者が、一度離れて、また結ばれるということは、後になったら、神のあわれみによって行なわれるかもしれませんが、しかし初めからそのことを考えて、信仰から離れるのであれば、もう戻る先はないのです。

 人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。

 この戒めは、結婚している人には、説明するまでもなく理解できるでしょう。私はこの分野で失敗しました。結婚してからも、独身生活のように、会社、教会、友達関係を保っていました。けれども、新婚はとても大切な期間です。教会の奉仕者は、奉仕の時間を減らしてでも、妻との時間を取らなければいけません。

 ということで、離婚上の話も、この新婚の話も、女が守られるため、男によってなぶりものにされないための、神の戒めなのです。ですから、神は女性の権利を守っておられるのです。現在、権利という言葉が、神から遊離して使われているため、社会の秩序が乱れていますが、しかし、もともとは神が弱い人たちを守られる、という神への恐れから弱者に心をかけます。

2B 貸し 6−15
 ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。

 質についての戒めです。支払いを滞納しているとき、「では、これを持っていきます。」と取り立てる場面は、私たちも容易に想像できますが、その時に、ひき臼や上石を取ってはいけません。彼らが食事をするために必要なものを取っては、彼らは食べていくことができなくなるからです。このような窮状に、さらに拍車をかけて貧しい人から取り立てることは、神の怒りにふれます。

 あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

 これは誘拐についての命令です。金がほしいなあ、と思って、イスラエル人をさらってきます。そしえ奴隷として取り扱ったり、売りとばしたら、彼は死刑です。ここで神がもっとも忌み嫌っておられることを知ることができます。奴隷状態です。神は、イスラエルが奴隷状態になることを、もっとも避けるべき状態であるとみなしておられます。クリスチャンにとっては、先ほど説明しましたように、罪の奴隷状態です。罪の奴隷状態から解放されて、神の奴隷となったのが私たちクリスチャンです。しかしもし、罪の中にはいって、良心を殺して、以前の生活を同じことをするのであれば、初めの状態よりもさらに悪い、と使徒ペテロは言いました。ですから、イスラエル人を奴隷に売ることは、死刑に値します。

 らい病の患部には気をつけて、すべてレビ人の祭司が教えるとおりによく守り行なわなければならない。私が彼らに命じたとおりに、それを守り行なわなければならない。あなたがたがエジプトから出て来たとき、その道中で、あなたの神、主がミリヤムにされたことを思い出しなさい。

 らい病人についての教えは、私たちはレビ記において学びました。らい病の患部を祭司がよく調べて、らい病であると判断されたら、隔離してもう一度調べて、・・・と医者のような診断を祭司が行ないます。そして、きよめられた者のみが宿営に戻ってくることができます。そして、モーセはここでイスラエル人に、ミリヤムのことを思い起こさせています。これは民数記に書かれていた出来事です。ミリヤムがモーセを非難したために、主の前に連れて来られて、その罪のためにらい病になりました。彼女は七日間、宿営の外にとどまっていました。

 隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家にはいってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。

 質のときと同じく、担保についても、貧しい人をしいたげることがないように、主は命じておられます。自分が生きていくための唯一の手綱を切り取ってはいけない、と主は言われます。

 貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。

 日雇い労働者についての戒めです。私が大学生の時に、この言葉を読んで、本当にそのとおりだと思いました。もしその日の金がなかったら、自分は飢え死にしてしまうかもしれません。だから、そのような人々の窮状を神は聞き入れてくださっています。ヤコブの手紙でも、金持ちに対して、ヤコブがこう言いました。「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。(ヤコブ5:4」神のさばきが与えられます。

3B 在留異国人 16−22
 父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。

 これは、裁判のときの主の命令です。罪を負うのは、その罪を犯した本人であり、家族のものが肩代わりすることはできない、ということです。当時は、だれかが罪を犯したら、被害者の家族が、加害者の家族に復讐を行なうことが行なわれます。このことは、裁判だけではなく霊的原則でもあります。自分が罪を犯したら、それを家族のせいにすることはできず、自分がその罪を負わなければいけない、ということです。罪を犯したため、「それは、家族のせいだ。あの時に、親がこんなことを自分に行なったからだ。」と言うことはできません。確かに、そのようなことを行なったかもしれなく、確かに自分が行なった悪いことは、家族からの影響かもしれませんが、けれども、本当に自分が罪と悪から立ち直るには、自分が罪人であることを認めることしかありません。自分が神の前に立って、そこで自分が行なったことを認めること、これがクリスチャンの霊的成長の第一歩です。

 在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

 在留異国人やみなしごの権利を侵してはいけませんが、その理由は、自分たちがエジプトで奴隷だったからです。

 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

 畑で残った収穫をそのまま残していくことも、命令されています。これも、自分たちが奴隷であったのだから、彼らにもやさしくしなさい、という命令です。このように、神は、いつもエジプトにいた時のことを思い起こさせて、そして、その贖いにしたがって生きなさい、と命じておられます。

 これはクリスチャンに当てはめるなら、罪の赦しでしょう。主人がしもべの1万タラントの借金を帳消しにしてあげたたとえを思い出してください。(マタイ18:23−35)このしもべは、1万タラントの借金があったことを忘れて、100デナリの借金をしている者を赦さずに、彼を牢に投げ入れました。そこで主人が怒って、このしもべを獄吏に引き渡したのですが、このことを、今、申命記においてモーセがイスラエルの民に語っていることです。あなたがたは在留異国人であった。あなたがたは貧しい者であった。あなたがたは、しいたげられた者であった。けれども今、あなたがたは解放されて、自由人となった。だから、今、在留異国人になっている人たちをあわれみなさい。貧しい人をあわれみなさい。と言っているわけです。私たちは、「罪赦されたのであるから、赦し合いなさい」という命令にしたがうのと同じことです。

3A 公正なさばき 25
1B 裁判の出頭 1−4
 人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。

 ここでは、犯罪者の権利が保護されています。むち打ちになっても、40回打たれたらはずかしめられるので、39回だけのむちです。これは、イスラエルだけではなく、一般的な習慣になったようです。イエスさまがむち打たれるとき、39回でしたが、それはローマによってでした。パウロも、39回のむちを受けました。

 脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

 これは、牛の権利に対する主の命令です。動物に権利があるのか、と思われるかもしれませんが、被造物であれば、動物でも植物でも、主のものを手荒に扱ってはいけないという考えが、前回から学んできたことです。牛が脱穀をして働いているときに、くつこを掛けたら、そこに落ちたものを食べることができません。自分が働いているものは、その報酬を受け取る権利がある、ということです。これは一般社会でも同じですね。私がスーパーマーケットに働いていたときに、そのスーパーで売られているものを、パートは食べることが許されませんでした。会社の貢献のために、自分のお金で買いなさい、ということだったのですが、こんなむごいことはありません。会社のものは、その社員は安く買ったりすることができるものです。これをやぶったら、「しいたげ」になります。

 けれども、このことを当たり前のように、牧師や伝道師、その他奉仕者たちに行なっているよ、と言っているのがパウロなのです。パウロはここの、脱穀している牛にくつこを掛けてはならないという律法を引用して、福音のために働く者がその報酬を受ける権利があると言っているのです。ところが、日本ではとくにそうですが、牧師は貧しくならなければいけない、という要求を信者がかします。これは、非常にむごいことであり、愛から程遠く離れたものであります。祈りと神のみことばに専念して、そしてそれを礼拝のときに、また伝道のときに分かち合っているのにもかかわらず、どうやってその人は暮らしていくことができるのでしょうか?みことばを聞いている人は、みことばを教えている人に、支払う義務があるのです。むろんこれは自発的でなければいけませんが、牧師も牛のように、福音の働きのおこぼれをもらう権利があるのです。

2B 家系 5−12
 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

 この律法は、サドカイ人とイエスさまの間で交わされた議論の中で引用されたものです。サドカイ人は、合理主義者、あるいは物質主義者でした。目に見えないものは信じていませんでした。そこで、サドカイ人がイエスさまに、こう言いました。「私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は死んで子がなかったので、次男が彼女の夫となりました。次男も死んだので、三男が彼女の夫となりました。同じようにして、七人の兄弟がみな死にました。すると、復活の際には、この女はだれの夫になるのですか。」イエスさまは、「あなたがたは、聖書も神の力も知らないからだ」と言われましたが、サドカイ人たちは、モーセの律法を使って、死者の復活などないことを論駁しようとしていたのです。

 しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。

 兄弟の妻と結婚しないことは、その妻に対する侮辱です。そこでイスラエルの裁判によって、この兄弟がいつまでも汚名をかぶるようにすることによって、兄弟が義務を履行するように促します。

 ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。

 これは、先の、イスラエルの名を残さなければならないことにつながる律法です。隠しどころをつかむことは、その男が子孫を残すことを阻むことを意味します。したがって、その罰は厳しく、手を切り落としなさいというものです。

3B 正しい量り 13−16
 あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。

 神は公正な方です。ある人が、「1キロとはこの重さだよ」と言って、また他の人が、「1キロとはこの重さだよ」と言い、二つの重さが異なる、ということがあってはならない、というのがここでの命令です。つまり、重さを標準化しなければいけないということです。

 私たちは、大小異なる天秤をよく手にします。それは、人には厳しいはかりを持っていて、自分には優しいはかりを持っていることです。人をさばくことを、私たちはしばしばします。けれども、神は公正な方です。へこひいきをされずに、人をさばかれます。

4B アマレク人 17−19
 あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。

 これは、イスラエル人たちがシナイ山に到着する前の出来事です。アマレク人が、イスラエル人が歩いているところの、子供たちや老人、また弱った人たちを襲って、切り倒しましたが、そのため、ヨシュアが率いるイスラエルがアマレクと戦い、勝つことができました。

 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。

 神は、アマレクを根絶やしにしなければ、アマレクがイスラエルを根絶やしにすることをご存知でした。それで、主はサムエルをとおして、サウルに、アマレクを徹底的に打ち滅ぼすように命じました。ところが、サウルは、アマレク人を打ち倒したものの、家畜がほしくなって生かしたままにしておき、またアマレク人の王を殺しませんでした。

 イスラエルが自分たちの弱い部分を打ち倒されたように、私たちも肉の弱さを持っており、そこに敵が猛攻撃をしかけてきます。しかし、神は、その弱さを助けてくださり、キリストの力を働かせて、弱い者を強いと言わせることを行なってくださいます。私たちに必要なのは、罪に対して自分が死んだものだとみなすことです。生かしてはいけません。殺すのです。

 このようにして、「弱い者の味方」という題で話しました。主は、弱まっている人、また私たちの弱いところに関心がおありです。その弱さを助け、また守ろうとしてくださいます。


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