申命記241-4節 「主が望まれる結婚」

アウトライン

1A 神を信じる
2A 男が頭となる
   1B 両親から離れる
   2B 女と結びつく
3A 一体となる
   1B 夫が妻を愛する
   2B 妻が夫に従う
4A キリストと教会

本文

 申命記241-4節を今朝はお読みしたいと思います。午後礼拝では22章から25章まで学びます。

1 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。2 女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

 離婚についてのモーセの教えです。私たちは申命記の学びで、「現実に起こってくる諸問題への対処」について学んでいます。正論を語るのは簡単です。理想を掲げるのは簡単です。けれども、その正論や理想に達することができない人たちは、何の指針もないまま置き去りにされるのでしょうか?そうではありませんね。現代社会において、調停離婚などの法律があります。もちろん離婚は望ましいものではありません。結論から言えば、これは神の基準からすれば列記とした罪です。けれども、離婚をするようなことが起こった時にそれ以上の悪を行なわないよう抑制しているのが、ここに書いてあるモーセの律法です。

 ここでは、女性の尊厳と権利を守る目的があります。当時の一般社会は男が女を好きなようにできる習慣がありました。気に入らなければ離婚できるのです。そしてまた機嫌を取り戻したら、その女を自分のものにすることができます。そのことを見計らって、女を家から追い出すときに正式な離婚にせずに追い出すだけ追い出します。そうすれば女は路頭に迷い、社会からは追放されるのです。そのようなことが起こらないように、離婚を正式に行ない、かつ他の男のところに彼女が行ったなら彼女が戻って来られないようにさせているのです。軽々しい離婚を強く戒めているのです。

 そしてもう一つは、結婚の神聖さを教えています。男と女が結び合わされば、一体となるという真理があります。女が他のところのところに行けば、その純潔がなくなるので、彼女を自分のところには戻すことはできない、ということです。神とイスラエルとの関係が、「わたしのみを神としなさい」というものであるように、一対一の真実な愛に基づくものだからです。

 このように、現実に過ちを犯している者たちに対する抑制としての教えを、イエス様が地上におられたときは、律法を厳格に守っているはずのパリサイ人たちは、離婚をしてもよいという離婚の是認であるという解釈を施していました。自分たちの都合に合わせた解釈していたのです。マルコによる福音書10章を開いてください。2節から、その出来事について学びます。
 

2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。7 それゆえ、人はその父と母を離れて、(7 妻に結びついて)8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

 イエス様は、モーセがそのような教えをした意図をお話になりました。「あなたがたの心がかたくななので、この命令を書いた。」と言われています。離婚においての問題は、性格の不一致であるとか、経済的な問題であるとか、いろいろ挙げられるかもしれませんが、神の意図された結婚について心をかたくなにしている、ということが根底にあるのだよ、ということであります。つまり、自分の相手、配偶者を相手にしているのではなく、神の前に出て、その心を注ぎだすことを行なわなければいけないことを教えています。

 そして、イエス様は申命記にあるモーセの律法の前に既に存在していた、神の掟を示されました。創世記224節です。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とあります。神が初めに男を造られ、それから女を男から造られました。そして男は女と結びあい一体となりました。離婚はそれを引き離す行為であり、神の心を傷つけるということです。そこで今朝は、結婚の制度について学んでみたいと思います。

1A 神を信じる
 私たちが、幸せな結婚生活を望んでいるとしたら、まず何を求めたら良いでしょうか?今は独身で、将来、独身でいようと思っている人であったとしても、他の人が「結婚生活で成功するのはどうすればよいのでしょう。」と尋ねてきたらどう答えるでしょうか?初めに言うことのできる答えは、「神を信じることです」です。男女の関係という横のつながりの前に、誰がそのつながりを始めたのかと言えば、「神は、人を男と女に造られた」ということから始まります。

 私たちは申命記で「主なる神を愛しなさい」という戒めを学びました。そしてレビ記において、「自分自身のように隣人を愛しなさい。」という戒めを学びました。十戒では、第一から第四までの戒めが神と人との関係であり、第五から第十までの戒めが人と人との関係を取り扱っています。対人関係という横のつながりは、実は神と人とのつながりという縦の関係の延長である、ということです。

 私たちは、横の関係を保つことに神経を使います。例えば、相手が自分に悪いことを言ってきたら、「言い返してはいけない」と我慢しています。けれども限界があります。言い返したり、あるいは自分の中にためて鬱になったり、体の調子を悪くしたりします。けれども自分がそのように反応すれば、自分は満足するかもしれませんが、今度は相手が心理的負担を受けます。相手が心理的負担を受けて辛くなっているのを見て、今度は自分の良心が痛みます。このように、まるでシーソーに乗っているように、自分と相手の間でやりとりをして上下に揺れ、いつまでも均衡状態を保つことができないのです。

 ここで忘れられているのは、縦の関係です。今、シーソーで二人の関係を例えましたが、仮にこういうシーソーがあったと考えてみましょう。シーソーの真中に縦の棒がくっついています。シーソーが右や左に傾くのをその棒を掴むことによって抑えることができる人がいるとします。その人が神様です。神に自分の対人関係について願い出るときに、そのシーソーの均衡状態が守られることになるのです。

 聞いておられる方の多くは既に神を信じ、キリストを信じているかもしれません。ですから、「私は神とキリストを信じているから、対人関係の均衡状態は守られるはずなのに、ぜんぜんうまくいっていません。」とおっしゃるかもしれません。実に残念なことに、アメリカでは信者ではない人の離婚率が33パーセントであるのに対して、信仰を持っている人の離婚率が32パーセントとほとんど変わっていません。これは一体どういうことでしょうか?

 「縦の関係」の意味を分かっていないために起こっている問題です。イエス様のところには大勢の人がついてきていました。けれども、その人たちにイエス様はこう言われたのです。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:26-27」イエス様を信じるということは、あらゆる関係にまさってイエス様を第一にしていく、ということです。主が語られた御言葉に対して、自分の感情や知性がたとえ真っ向から対立しても、それでも主イエスを愛しているという理由だけで応答するという、熾烈な愛の献身を主に対して持っていなければなりません。

 多くの人が横の関係に集中して、そこで後追いで神との関係を考えます。反対なのです。縦の関係に立ち返って、それから横の関係に適用させるのです。例えば、「今日、あの人が私に振り向いてくれました。これは神の導きでしょうか?」という相談は前者になっています。あの人のことが好きだという横の関係に集中していて、それに後おいで神との関係をくっつけています。けれども、そうではなく、イエス様のことが大好きで、いっぱい愛していて、そして感情を越えて「この人だ」という思いが与えられて祈り始めるのであれば、後者であります。

 驚くかもしれませんが、聖書はその多くが見合い結婚、いや見合うこともしないで結婚しています。結婚してから、相手を愛することを学び、愛を育み、そして恋をします。現代の結婚観と正反対ですね。恋を燃やし、それで結婚しますが恋に焦がれて何も残っていない。だから離婚する、というパターンです。愛とは感情ではなく、献身です。そして献身のうちにある真実です。

 イエス様が言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33」どんなに感情があろうとも、どんなに知性がうんと言わなくても、神の国とその義を第一にしてください。そうすれば、横の関係にある必要を神は加えて与えてくださいます。

2A 男が頭となる
 そして次に結婚において大事なことは、「男がその父母を離れ」となっています。男がその責任において結婚をするのです。結婚といえば、女性の憧れです。男も結婚をしたいと願いますが、結婚式に憧れを覚えるのは女性です。女性雑誌に結婚式のことが書かれていても、男性雑誌には掲載されていませんね。けれども、男が頭となり結婚をする決断をするのです。

 聖書では興味深いことに、「人」と日本語の聖書で訳されているところは「男」と訳すことのできるものです。創世記127節には、「神はこのように、人をご自分のかたちに造られた。」とありますが、そこは「男をご自分のかたちに造られた」と訳すことができます。そして、「神のかたちに彼を創造し、男性と女性とに彼らを創造された。」と訳すことができます。男が造られ、そして男から女が造られたので、女は男の中にいる、男から出てくるように神はされたのです。222節には、男から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げた、とあります。

 パウロはこのことを次のように話しています。コリント第一11章です。「なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。(1コリント11:8-9」これは、女が男の道具のように誤解するかもしれませんが、そうではなく、男がキリストに対してとてつもない責任が与えられている、ということであり、自分の妻に対しては自分が責任を負っている、ということです。パウロは誤解を避けるために、こうも記しています。「女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。(1コリント11:12」男も女も神にあって平等であります。 

 したがって、男はこう自分に問わなければいけません。「人のせいにできない。」私たちは政治家に「結果責任を取ってください。」というのは得意ですが、実はすべての男が自分の妻、また家庭で起こっていることに対してその責任を神の前で申し述べなければいけないのです。男のかしらはキリストであると、コリント第一にはあります。聖書を見ると、神についていった男のストーリーで満ちています。アブラハム、モーセ、ダビデ、彼らはみな神と一対一の関わりを持っていました。ゆえに自分にゆだねられた人々を導いていくことがいけたのです。たくましい男は、神の前に出て行ける男です。

1B 両親から離れる
 そして男は、「その父母を離れ」という決断があります。つまり結婚するとは、独立した一つの家庭を築くこということです。これがまず、男にとって最もできないことです。しかし乗り越えて、克服しなければなりません。数多くある女性の悩み、結婚をしようとしているけれども、それができないでいるのは、女性は結婚することに心の準備ができているのに、男がその決断ができないことです。これまでの生活は両親を初めとして、周囲の人の期待に応える形で生きてきました。それが、自分独りで決断して、全責任を負わなければいけない立場に置かれるのです。

 けれども、これをできずして結婚すると、その妻は決断できぬ夫の下に置かれることになり、その結婚は次第に破綻していきます。東洋において結婚に問題が起こる大きな原因の一つは、夫と妻の間に親が入ってくることです。結婚する前のように、夫と妻の間にある課題に対して、夫が親にその決断や判断を丸投げしてしまう問題があります。

2B 女と結びつく
 そして、「妻と結び合」います。この「結び合う」というのは、「くっつく」というような意味です。くっついて離れられない、ということです。少し例えが悪いかもしれませんが、奇形児で双子の赤ちゃんが、体が一つになって生まれてくることがありますね。ちょうどそのようなイメージであり、ゆえにイエス様は、「神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」と言われました。

 しばしば、妻のことを「ベスト・フレンド」と呼ぶ人がいます。これは適切な呼び名です。いろいろな友がいますが、妻がもっとも優先されるべき友であり、イエス様が「友のために命を捨てる」愛について語られましたが、そのような愛を彼女に傾けるべきであります。その優先順位が崩れると、結婚に亀裂が生じます。

3A 一体となる
 そして「一体となる」という約束です。これは以前、説明しましたように、単複形と呼ばれており、「一つの手」の中に複数の指があるような状態であり、「主なる神はひとりである」というのは、同じ言葉が使われています。これはもちろん夫婦関係によって一つになるという意味であり、そしてその後に子どもが生まれることによってその具現を見ることができます。けれども、それだけでは当然ありません。「一心同体」という訳がありますが、心が一つになっていることが前提です。そこでエペソ書5章を開いてみましょう。そこに、あるべき夫婦関係が詳細に描かれています。
 

22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

 極めて単純な命令が、それぞれ妻と夫に与えられています。妻は、「キリストに従うように夫に従いなさい」、夫は、「キリストが教会を愛されたように、妻を愛しなさい」であります。夫と妻それぞれが、それぞれに与えられた命令を守っていれば夫と妻が一体になることができます。

 ここに男女の違いがはっきりと現れています。男はいつも、「人が従ってくれることを願っている」ということです。自分の仕事が評価されること、妻から尊敬されること、妻が従ってくれていること、これらのことに生きがいを感じます。女はいつも、「人に愛されていることを願っている」ということです。愛されているという安心感を夫から得たいと願っています。この両者がそれぞれ必要を満たそうとするときに、良循環が起きて二人が一つとなっていることができます。

 けれども、この循環が崩れると悪循環に陥ります。例えば夫が遅く家から帰ります。妻はずっと待っていました。けれども仕事の疲れから、またそこで受けた業務の難しさから、彼女に自分の心を打ち明けることはしません。それで、妻は自分は大事にされていないと感じます。それで不安になるので、夫の仕事について疑いをかけます。はたしてそこまで難しい業務なのか?もしかして、自分に隠れて他のことをしているのではないか?と。すると、自分の仕事に対する尊敬を最も欲している妻からそのような疑いがかけられるので、ますます妻から自分を遠ざけます。そして妻はますます夫から愛を欲しているのに愛されていると感じることができず、夫のすることなすことに疑いをかけたり、従わなくなったりするのです。

 この悪循環を断ち切る方法は、「自分のほうから率先して行う」ことです。たとえ尊敬の目で見られなくても、キリストが妻を愛しなさいと命じているように、妻を愛することを選び取るのです。妻も、たとえ夫が自分に愛を示してくれなくても、夫に従いなさいと命じられたように従うのです。相手がこうしているから自分がこうする、という反応として行動するのではなく、自分のほうから率先して神の命令を守ります。

1B 夫が妻を愛する
 男は女の必要を知るべきです。けれども、知ろうとしても自分は感じ取ることはできないので、どうやって知ることができるでしょうか?28,29節に、「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます」とあります。自分自身のように愛する、とではなく、自分のからだのように愛する、とあります。自分の体の必要を考えればよいのです。非常に敏感に反応しますね。喉が渇いた、お腹が空いた、そして室内の温度が一度でも違うと寒い、あるいは熱いと感じます。風邪を引けば、全神経が痛い部分に引き寄せられます。このように妻を考えなさい、ということです。つまり、頭で考えるのではなく感じるのです。

2B 妻が夫に従う
 そして妻は、男の必要を知るべきです。キリストがかしらであるように、夫に従いなさいとありますが、キリストに従うときに、自分の必要に合わせることができるでしょうか?いいえ、感じようが、感じまいが、主がこう言われたのだから従います、というのがキリストへの信仰であります。男は、こうした一貫した支えを女から願っています。状況が変わっても、自分自身は変わらずに従っていますよ、という姿勢を貫くのです。その時に男は、「自分は必要とされている。」と感じることができ、そのような支えを受けている男は、今まではできなかったすごいことを成し遂げることができることがあるのです。

4A キリストと教会
 そして最後に、この箇所がキリストと教会を模範にしています。夫と妻をキリストと教会になぞらえています。実に最後には、男が妻と一つになるという創世記の箇所は、キリストと教会を表す秘儀であるとパウロは言っています。もしかしたら、結婚について、夫婦については私にはあまり関係がないと思われた方がいたかもしれません。いいえ、大いに関係があります。私たち教会がキリストを仰いで、この方を礼拝し、この方に従うことは、まさに花婿を待ち焦がれ、花婿が来るのを待っている花嫁の姿なのです。私たちはまだキリストを見ていません。けれども、いずれ、近いうちにこの方に見えるのです。その時のために、私たちはキリストの御言葉によって聖められ、恥ずかしくないように備えている必要があります。

 聖書の最後の書物である黙示録は、花婿キリストと、花嫁たる教会が、愛の言葉を交わしている部分で終わっています。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。(22:17」「『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。(22:20」いかがですか?イエス様をこのようにして愛していますか?今にでもイエス様に会いたいと願っていますか?イエス様にお会いするときに、自分に恥ずかしいもの、傷がしみがあるもの、これらのものをなくしたいと願いませんか?この方のものになっていたいと思いませんか?これらがみな、花嫁の心です。そしてこの方に何があっても私たちは従っていきたいと願います。この方が私たちの主です。

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