申命記26−28章 「御民となったイスラエル」

アウトライン

1A 主のもたらす収穫 26
   1B 約束の記念 1−15
      1C 主が成し遂げられたこと 1−11
      2C 自分が果たしたこと 12−15
   2B 主の明言 16−19
2A 主の律法の宣言 27
   1B 律法の書き記した石 1−8
   2B 山からの呪い 9−26
3A 祝福と呪い 28
   1B 祝福 1−14
   2B 呪い 15−68
      1C 疫病 15−24
      2C 敵による喪失 25−37
      3C 害虫の災い 38−48
      4C 大国の包囲 49−57
      5C エジプト時代への回帰 58−68

アウトライン

 申命記26章を開いてください。ついに私たちは、モーセが命じている掟について終わりに入ってきています。モーセは1章から4章までで、イスラエルがホレブの山からヨルダン川の東岸までいたりついた旅程を話し、「主の命令に聞き従いなさい」という呼びかけを行なっています。そして5章から、その教えと戒めと定めをモーセは語りました、5章から11章までは十戒についての主な教え、12章から25章までは具体的な生活の場面においてどのように生きるかの教えがありました。そして26章において、そのまとめがあります。

1A 主のもたらす収穫 26
1B 約束の記念 1−15
1C 主が成し遂げられたこと 1−11
26:1 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、26:2 あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。26:3 そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。26:4 祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。

 イスラエルは、荒野における放牧に近い生活を長らく送っていましたが、確かに主が約束の地に入れてくださったことを、農耕生活に変わったその証拠として初物を神に捧げにいきます。民数記19章に、初物を民が祭司に捧げるときは彼らのものとなるという掟がありますが、ここでの命令は一回だけ行ないます。約束の地に入ったことを主に報告しにいくためのものです。その時には、幕屋は移動しておらず、ここにあるように「主が御名を住まわせるために選ばれた場所」とあります。

26:5 あなたは、あなたの神、主の前で、次にように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。

 この「さすらいのアラム人」とは、ヤコブのことです。ヤコブが、親戚にあたるアラム・ナハナイムにいるラバンのところに行き、妻を得、子供を得、そして家畜や奴隷とともに約束の地に戻ってきました。「さすらい」というのは「年老いた」とも訳すことができるものです。彼は百三十歳の時にエジプトに下りました。そして、「わずかな人数」とありますが七十人の家族です。ここで強調しているのは、そのような弱く、小さい者たちが、成年男子で約六十万人という強い国民になったということです。

26:6 エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。26:7 私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。26:8 そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、26:9 この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。26:10 今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。

 主がかつてアブラハムに、暗闇の中でこう言われました。「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。(創世15:13」そしてそこから出てきて、ヤコブがエジプトに下ってから五百年近く経っています。ようやくのことで、今、このようにして初めに神がアブラハムに約束された、その子孫がカナン人の地を所有しているという約束が実現しているのです。彼らの時代の者たちが、神の御言葉の成就だったのです。それで、主にその証拠となる初物によって礼拝しているのです。

 私たちを主がいかに守り導き、今の自分にまでしてくださったのか、その恵みを感謝し、主にお捧げする時が必要ですね。ダビデは、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2」と言いました。

26:11 あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。

 主に選ばれた場所にいけにえや捧げ物をする時には、相続地を持っていないレビ人や在留異国人にその恵みを分かち合いながら喜びなさいということを、既にモーセは申命記12章で命じていました。

2C 自分が果たしたこと 12−15
26:12 第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、26:13 あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。26:14 私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。26:15 あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」

 申命記1428節に、主は三年ごとに収穫物の十分の一を全部持ち出して、町囲みのうちに置いておかなければいけないと命じられていました。その第一回目を、主に対して行ないます。しかしこれも、初めて約束の地に入った時に行なう特別で、一回限りの戒めです。その十分の一は、弱い人、貧しい人と分け合い、彼らが食べて満ち足りることによって、その人の手のわざを主が祝福してくださると約束してくださいました。それで、このようにして「命令のとおり、行ないました」と主の前に出て言うのです。その他、自分を聖く保ってきたことも報告しています。死人に触る人は汚れますがそのようなことはやっていない、また死体に供えるというようなカナン人の慣わしにも関わっていないことも報告しています。そして、主への義務を果たしたことのゆえに祝福してください、と願い出ています。

 私たちもこのように、自分の歩んできた道を確かめる時が必要です。主が命じられたとおりのことをしてきたか、その道に神の足跡を見ることはできるか、そして主の前で悔いることなく出て行くことはできるか、こういったことを確かめることが必要でしょう。

2B 主の明言 16−19
 そしてモーセは、今ここでヨルダン川東岸のモアブの草原で聞いているイスラエル人に対して、恐らくは声を大きくして語りかけます。

26:16 あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。26:17 きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。26:18 きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、26:19 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。

 モーセは一気に説教をまとめました。これまで語ってきた長い説教を、「きょう」という言葉で締めています。そしてイスラエルがその言葉に応答していることも、代弁して話しています。「あなたがたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている」と。さらに、「きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。」とも言っています。このようにして彼らの意志を確認して、それで三度目に「きょう、主は、こう明言された」と言っています。これで神がご自分の約束されたことを果たすという条約が締結されたのです。その約束は「主の宝の民」であり、また「主の聖なる民」であることです。

 しかし、これは、イスラエルが主の命令に聞き従うという条件によって成り立っている契約であることに気づいてください。午前礼拝でお話しましたが、これが、私たちが主イエス・キリストにあって結んでいる新しい契約と大きく異なるものです。新しい契約は、私たちの従順ではなく神の真実に基づいている契約です。私たちの務めは、神がキリストにあって行ってくださったことを、そのまま信じ、受け入れることであります。そこでローマ1章では「信仰の従順」とあります。従順と言っても、その性質が変わったのです。自分の行ないによって神が何かを行ってくださるという契約ではなく、神がキリストにあって全て救われるために必要なことを行ってくださったから、その計画の中に自分に入れていくという契約です。

 ゆえに、使徒たちの手紙の中には、私たちがこれから神の民になるという約束ではなく、すでに神の民とされたのだという宣言に満ちています。例えば使徒ペテロはこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(1ペテロ2:9-10」すでに神の民とされているのだから、これこれのことを行なうという順番です。自分が行っていることによって、神との関係が変わることはありません。けれども、神との関係が確立されているので、その関係にふさわしく今後の歩みを確かなものとしていくのです。

2A 主の律法の宣言 27
 そして27章以降は、モーセは「主の命令を守り行ないなさい」という具体的な戒めではなく、「守り行なえばこれこれの祝福があり、行なわなければこれこれの呪いがある。」という、律法の遵守に対する結果を語っていきます。

1B 律法の書き記した石 1−8
27:1 ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。

 モーセのみならず、イスラエルの長老たちも共に民に命じています。なぜなら、モーセはその中に入ることはできず、長老たちがその務めをになうからです。

27:2 あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かってヨルダンを渡る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。27:3 あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたがはいるためである。27:4 あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。

 エバル山はシェケムにあります。かつてアブラハムが約束の地に入ってきて、そこで主に「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と語られました(創世12:7)。そしてそこに祭壇を築いたのです。また、ヤコブもそこに住んでいたことがあります。そして、そこはイスラエルのほぼ真中に位置しています。そこに大きな石を立てて石灰を塗りなさいと命じています。

27:5 そこに、あなたの神、主のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。27:6 自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、主に全焼のいけにえをささげなさい。27:7 またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。27:8 それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。

 かつて十戒を主がシナイ山の上で語られた後に、石の祭壇を築きなさいと命じられました。自然のままの祭壇にすることによって、人為的な礼拝ではなく、ただ主の御霊によって行われるものにするためです。そして全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげそこで喜びます。そして、その石灰を塗った石には、モーセが語った戒めのすべてを書き記すのです。

2B 山からの呪い 9−26
27:9 ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。27:10 あなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行ないなさい。

 今度はイスラエルの長老ではなく、レビ人の祭司がモーセと共に立っています。律法の宣言を行なうからです。

27:11 その日、モーセは民に命じて言った。27:12 あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。27:13 また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。

 ゲリジム山はエバル山の向かいにあります。私は2010年シェケムに行きましたが、確かにエバル山とゲルジム山の間に、古代のカナン人のシェケムの町の遺跡があり、そこに大きな石がありました。それがイスラエルの立てた石なのかどうか分かりませんが、それぞれ六部族ずつ、ゲリジム山は祝福を代表し、エバル山は呪いを代表します。ヨシュア記で、ヨシュア率いるイスラエルの民が、エリコとアイの町を攻略した後にこの命令を実践していますが、実際は、山に上がるのではなくその麓にいます。

27:14 レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。27:15 「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。27:16 「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:17 「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:18 「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:19 「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:20 「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:21 「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:22 「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:23 「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:24 「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:25 「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

 イスラエルの地のほぼ真中に位置するところで、このようにして律法の言葉を宣言することによって、全イスラエルが律法の言葉によって支配されるのだということを目で見える形で表しているのです。

 そして興味深いのは、ここに出てくる掟の選択が、15節にありますが「密かに」できるものであります。偶像も自分の家の中で密かにできます。両親への侮辱も家の中でやればばれません。盲人に間違った道を教えることも、弱い者の権利をないがしらにすることも、そして性的倒錯も今の中で行われます。したがって、表ざたにならないようなものも、主の目には裸にされていることをここではっきりと示しています。ヘブル人への手紙で、著者は御言葉による光をこのように教えています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:12-13

 ところで、不思議なのはゲリジム山にも六部族がいるのですが、彼らが宣言した祝福の言葉がここには全くないことです。そして律法を書き記した石もゲリジム山ではなく、エバル山のほうに立てられています。ここに既に、律法は祝福よりも呪いに傾いていることを表しているのです。28章にはモーセが、従順であるときの祝福と不従順であるときの呪いを宣言していきますが、呪いは祝福の四倍の長さになっています。なぜでしょうか?それは、イスラエル人もアダムから罪を受け継いだ肉の弱さを持っているからです。律法は正しく、聖く、良いものですが、それを守り行なう力が私たちの内にはありません。それゆえ、不従順である時の呪いのみが律法においては実現していくのです。

 最後の宣言に注目してください。「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」ですが、ここを使徒パウロがガラテヤ書で引用しています。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』(3:10」律法が要求しているのは、全き従順です。一つ二つを選んで守れば良い、というものではありません。ですから新約時代にユダヤ人の使徒たちがいつも問題にしていたのは、「私たちでさえ守れていないのに、律法を異邦人に課してはいけない。また律法の行ないによって義と認められることではないのだ。」と言ったことです。ここに律法の限界があるのです。

3A 祝福と呪い 28
 モーセがこれから、長い説教を始めます。

1B 祝福 1−14
28:1 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。28:2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。28:3 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。28:4 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。28:5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。28:6 あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。

 すごい祝福ですね。先ほど「地のすべての国々の上にあなたを高くあげる」と神が約束してくださいましたが、確かに具体的な国民生活、また個人生活において著しい祝福があります。「町にあっても祝福され」というのは、町の中での商売でしょう。そして「野」はもちろん農地や放牧であります。人間も家畜も子沢山に恵まれ、そして女の台所の中にも違いが見えてきます。「はいるとき」というのは町をはいるときです。一日の仕事にも祝福が見えます。

28:7 主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。

 これは敵が自ら恐れ惑って、逃げてく様を描いています。

28:8 主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。28:9 あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。28:10 地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。

 物質的な繁栄だけでなく、聖なる民として霊的にも祝福されます。他の民を主なる神を認めるようになります。

28:11 主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。28:12 主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。28:13 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。28:14 あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。

 対外関係において、イスラエルが債権国になり債務国になることはないと言っています。また「かしらとなる」つまり、大国になり他国を引っ張っていくようになる、ということです。ここまでが祝福です。1節から14節までが祝福でした。15節から68節までが呪いです。

2B 呪い 15−68
1C 疫病 15−24
28:15 もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。28:16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。28:17 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。28:18 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。28:19 あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。

 先ほどの祝福がたちまち無くなってしまいます。こんなにも、主の命令の従順にすべてのことが掛かっていたのです。私たち人間は、今ある繁栄や安定がいつまでも続く、また当たり前のように思っていますが、主がお考えになればいつでもたちまち無くなります。

28:20 主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。28:21 主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。28:22 主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。28:23 またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。28:24 主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。

 疫病の呪いです。後に主は、神の箱を奪ったペリシテ人に対して腫物で打つようにさせ、それによってペリシテ人に恐慌が襲ったことが書いてあります。そのようなことが、イスラエルに降りかかるのです。さらに先ほどの祝福では、天から恵みの雨が降ることを教えていましたが、ここでは天が青銅になり、そのため地も鉄になると宣言しておられます。

2C 敵による喪失 25−37
28:25 主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。

 先ほどと全く反対の現象です。イスラエルが敵との戦いで、混乱して七つの道に逃げていくようになります。そして、祝福の時は他の国々が、イスラエルの主の名がついているので恐れましたが、ここでは主がご自分の民が不従順であるときにこれほどまでの恐ろしいことをされるのかと、かえっておののく様がここに書いてあります。

28:26 あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。

 戦いによって倒れて、猛禽によって死体が食われてしまいます。中東の人は、遺体を非常に丁重に取り扱います。猛禽に食わせるというのは、その人の尊厳を極めて踏みにじる行為です。

28:27 主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。28:28 主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。28:29 あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。

 覚えていますか、イスラエルに対して、エジプトが恐ろしい災いを受けました。体にも腫物ができました。また光がなくなったので三日間、気が狂うようになりました。このような目に今度はイスラエルが遭うことになります。

28:30 あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。28:31 あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。28:32 あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。28:33 地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。

 敵によって自分たちの財産と生活がことごとく奪われていく様子を描いています。

28:34 あなたは、目に見ることで気を狂わされる。28:35 主は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。28:36 主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。28:37 主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。

 敵国によって倒れた結果は、ついに神の約束の地から引き抜かれることであります。そして引き抜かれるだけでなく、その異国の地でイスラエルの神ではなく偶像に仕えなければならず、恐怖、物笑いの種、なぶりものとなります。

3C 害虫の災い 38−48
28:38 畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。28:39 ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。28:40 あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。28:41 息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕えられて行くからである。28:42 こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。

 敵国でなければ、このように害虫によって自分たちの産物が奪われていきます。

28:43 あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。28:44 彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。

 祝福の時は対外的には債権者となり、大国の地位を持っていましたが、今はその反対になります。そして45節からモーセは、なぜそのようになってしまうのかその理由を述べます。

28:45 これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。28:46 これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。28:47 あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、28:48 あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。

 45節の「守らないからである」という言葉、47節の「仕えようとしない」という言葉、このどちらも過去形で訳すこともできます。「守らなかったからである」「仕えようとしなかったので」となります。モーセはすでに仮定としての呪いを語っているのではありません。イスラエルが事実、不従順になっていくことを前もって預言しているのです。

4C 大国の包囲 49−57
 そして次に、究極の呪いが訪れます。大国がイスラエルの町を包囲するときの出来事です。

28:49 主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。28:50 その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、28:51 あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。

 これは、ユダの国がバビロンに倒れるときに文字通り成就しました。「わしが飛びかかるように」というのは、非常に敏捷に動いてくるということですが、バビロンがそうでした。また横暴であり、略奪も暴力的に行なっていきます。

28:52 その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、28:53 あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。28:54 あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、28:55 自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。28:56 あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、28:57 自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。

 これが事実起こりました。北イスラエルでは、首都サマリヤの町がシリヤに包囲されていたとき起こりました。そして哀歌を読みますと、バビロンに包囲されたエルサレムの中でこれが起こったことを知ることができます。子供こそが、主の祝福のもっとも大きな徴であるにも関わらず、それを自ら食べてしまうなどというおぞましいことが事実起こったのです。

5C エジプト時代への回帰 58−68
28:58 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、28:59 主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。28:60 主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。28:61 主は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。28:62 あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。28:63 かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。

 ここでモーセが宣言しているのは、「イスラエルのエジプト時代への後戻り」であります。主がイスラエルを長いこと祝福されたのと同じように、後戻りさせるように長い期間かけて災害と悪性の病気を送られます。主はイスラエルにマラの水の件からご自身を「わたしは癒す者である」と宣言されたのに、むしろあらゆる病をもたらすと言われます。そしてアブラハムに対して星の数のように子孫を増やすと約束されたのに、わずかな人数しか残らないようにされます。そして約束として土地を与えられたのに、その土地から引き抜かれます。

 全部、元の木阿弥なのです。これだけの長い期間、主がアブラハムを呼び出し、イスラエルを立ち上げられたにも関わらず、イスラエルが主に聞き従わないことで、すべてを後戻りさせるのです。

28:64 主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。28:65 これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。28:66 あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。28:67 あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。

 異国における恐怖に満ちた生活です。実にユダヤ人の歴史の中でこのことが起こってしまいました。数々の迫害と虐殺、そしてホロコーストにおいて実現しました。ここには、先ほど読みました、他の国々がそれを見て、恐怖となり、おののきとなります。主はイスラエルを祝福によっても、ご自身の偉大さを表されますが、裁きにおいてもその恐ろしさを表しなさるのです。

 ここで私たちキリスト者は、「私たちには起こらない」と思ってはなりません。イスラエルが不従順になり、そしてメシヤご自身も拒んだことによって世界離散の民になったことを見て、「彼らはそうなるべくして、そうなったのだ。」という態度を取ることは、極めて危険であることをパウロはローマ11章で語っています。「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。(19-22節)

28:68 私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。

 先ほど話しましたように、完全に後戻りしてしまったのです。エレミヤ書を読みますと、バビロン捕囚後にわずかに残っていたユダヤ人はなんと自らエジプトに下っていきました。このように、神の救いがまるでなかったのような歴史をユダヤ人は辿っていったのです。「これではユダヤ人は呪われた民ではないか?」と思われる方は続けて29章以降を読んでください。主はイスラエルを見捨てておられません。主に選ばれた民だからこそその裁きも厳しいものでしたが、神は見捨てると分かっていたら、イスラエルを初めから選ぶことはなさいませんでした。イスラエルは神に立ち返ります。

 ここで私たちが知らなければいけないのは、「律法が私たちをどこに導くのか」ということです。「死」に導きます。長い年月をかけて現れたユダヤ人の歴史は、まさに私たち個々人の歴史にもなっていきます。つまり、自分の肉の力で生きようとし、肉の働きが露わになっていく歴史です。自分の努力では、どうしようもなく救いようがないのだと悟るまでの歴史です。いつまでも悟ることができなければ、根絶やしにされる、つまり体もまた魂も滅ぼされるという歴史を辿ります。

 しかし、希望があります。先ほどガラテヤ書3章にあった律法の呪いについて引用しましたが、その後に出てくる御言葉を引用します。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13-14」キリストが身代わりに、律法にあって呪われた者となってくださいました。キリストが律法の呪いから人々を贖い出して下さいます。そして、アブラハムへの約束がことごとくなくなってしまったイスラエルですが、このキリストの贖いによってその約束がまた回復されえるのです。

 それを私たちはいつ行なうのか?ということです。いつまでも、自分の努力で律法の縄目から這い出そうとしているのか?それとも、自分がそこまで救いようのない無力な者であることを告白し、キリストへの信仰という単純な真理に戻るのか、ということです。自分で何かを救おうとしていませんか?どうかそれを失わせてください。信じるという単純な一歩を、思い煩いや世の楽しみによって複雑にすることがありませんように。キリストにあって、今、思い煩っているものを殺して、その一歩を踏み出すことができますように、お祈りします。

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